明智光秀の系譜T要約版

          
                                  宝賀 寿男

 本稿は、16年前に書いた旧稿を見直して、それを先に修補版として掲上したが、種々考えてみるとそれに飽き足らないものがあり、2020年秋になって更に再考し、新規に書き下ろしたものである。とはいえ、旧稿が全て悪いわけでもないので、かなり修補したうえ、「詳細版」として、本稿を補充する意味をもたせた。
  時間とご関心のある方は、併せてお読み下さい。


 はじめに
 土岐氏を含め、いわゆる「美濃源氏」と呼ばれる一族諸氏の祖系や同族関係を検討するうち、必然的に土岐明智氏と光秀についての系譜検討を再びすることになった。本稿は、その過程で出て来た考えを整理し、かつて検討した内容を含めた最近までの検討の要約版である。
 NHKの大河ドラマで取り上げられると、それに関連してか、これまで知られなかった新資料が出てくることが多いが、光秀についてはそうした事情はあまりないようだから、学界筋では出自・系譜が不明だという位置づけは変わらない。それでも、先学たちの様々な検討を併せ系図学的に考察を加えて考えると、なんとか祖先の系譜を探り得るようなこともあって、ここに記す次第である。標題も、本来は「明智十兵衛光秀の系譜」としたかったが、検索の便宜を考えて「十兵衛」を消したものである。本稿の主眼は、この「十兵衛」(十兵衛尉)や「兵庫、下野守、美濃守」などの通称にあることを最初にあげておきたい。
 また、要約版ということで、ここでは結論を端的に記すものも多いが、その辺の事情の詳細は、「明智光秀の系譜T(詳細版)」をご覧いただきたい。

 土岐氏と明智氏の関係系図についての見方
 土岐氏一族は美濃とその周辺に繁衍して分出した支族諸氏は百余の多数にのぼるとされる。とはいえ、その祖系が果たして清和源氏の出自かどうか確かめがたい面があり、一族の活動も鎌倉初期から見えるが、同後期になるまで史料に見えず、鎌倉中期での具体的な活動はよく分からない。鎌倉後期になって、いわゆる北条宗方の乱(嘉元の乱)に絡み蜂屋氏の祖とされる土岐定親(隠岐孫太郎)が討死したくらいで、あとは一族の倒幕行動、そして南北朝動乱期の「桔梗一揆」の大活躍があって、美濃のほぼ全域に一族の確固たる地盤が築かれた。
 ところで、土岐氏の系図については、室町中期頃に整理・追加されたとみられる国史大系本『尊卑分脈』所載の土岐関係の系図部分とその系統に属するような『諸家系図纂』(そして『続群書類従』)に所載の系図内容の影響力が強すぎて、異本がきわめて少ない事情にある。ところが、その国史大系本系図がどうもそのまま信拠し難い事情がいくつかある。これは、土岐氏の初期段階の系図を検討するなかで生じた重要な認識である。支族の明智氏の系図についても、幕藩大名(上野沼田藩主家)の土岐氏が残ったことで『土岐氏家譜』(東大史料編纂所蔵。ここでは「沼田家譜」という。東大史料編纂所蔵『諸家系図』巻十六所収の「土岐系図」も同系本)や『土岐文書』として伝えられるが、この系統の家がいったん没落したなど信頼しかねる事情もあって、これも光秀の系図探索に関しては史料が不足するし、土岐藩主家の史料も過剰評価ができないことに留意される。
 いま、このほか管見に入ったところでは、『明智氏一族宮城家相伝系図書』(ここでは「宮城家系図」という)があり、徳山ひさ家に伝える『土岐家伝大系図』や内務省地理局地誌課原蔵の『依田・山名・土岐系図』などもあるが、それぞれ難点がないでもない。土岐一族の考慮すべき系図としては、清和源氏の系図集の古態を伝えていそうな『古系図集』と長楽寺本『源氏系図』などがある。ここで、土岐一族の初期段階の系図検討をするなか「宮城家系図」の重要性を認識したところでもあり、これら土岐一族の系図などを含めて検討をしてみたい。
 かつて、國學院大教授であった高柳光寿氏の著書(吉川弘文館人物叢書『明智光秀』。1958年刊))により、悪書とまで評価された「宮城家系図」であるが、光秀研究の原点ともいわれる高柳見解には、そのほかの点を含め疑問を感じざるをえないこともあり、国史大系本『尊卑分脈』とは異伝を伝えるものについて評価し直す必要があると強く感じる。ただ、「宮城家系図」もいくつか難点を抱えており、個別箇所毎に是非を検討する必要があることは言うまでもない。

 明智氏の発生と活動事績
 光秀の出身かとされる土岐明智氏の発生地は、可児郡明智(可児市広見・瀬田あたり)であって、恵那郡明智(恵那市明智町)ではない。後者は、室町期の奉公衆に見える遠山明智氏の地であり、この氏は藤原北家利仁流加藤一族の流れを汲んだもので、この肝腎な点で既に高柳見解は間違っている。江戸時代に上野沼田藩主となった土岐家は、土岐明智氏の流れとされ、同家に伝来のいわゆる「土岐文書」は、光秀以前の明智氏の動向を知る上で不可欠な史料とされている。
 この沼田家譜において、土岐明智氏の元祖は土岐頼貞の九男土岐九郎頼基で、その子・頼重が初めて明智氏を名乗ったとされる。『尊卑分脈』や『続群書類従』巻128所収の「明智系図」も、いずれも頼重のところに「明智ヲ号ス」などと書かれる。観応二年(一三五一)正月卅日付の足利尊氏自筆書状(「土岐家文書」)には、宛名に「阿けちひこ九郎」と見える。これが、土岐九郎頼基の子・彦九郎頼重(頼貞の孫)のことであり、頼重あたりの時から可児郡明智(岐阜県可児市瀬田長山あたり)に拠り明智を苗字としたと分る。
 その一方、頼重の従兄の頼兼(頼康〔頼宗〕の次弟)も明智次郎(明智下野入道)と号して『太平記』に見えるなど、明智氏の系図にも諸伝がある。『尊卑分脈』には頼兼の名は見えないが、土岐氏の系図には見えるものもある。『太平記』では頼兼の名が出る前に明智兵庫助が見えており、これは『宮城家系図』に拠ると頼兼にあたる。『太平記』に「長山遠江守」と見える者が、頼重の父の九郎頼基に当たるとの見方もあるが、別伝もあって(「長山遠江守」が山県郡伊志良住人との記事も見え、これが事実なら「遠江守」のほうは山県氏一族か)、「九郎頼基」ではないようである。
 『美濃国諸旧記』では、頼宗二男を明智次郎・長山下野守頼兼入道善柱と号し、可児郡明智郷の長山に一城を築き明智家の元祖なり(巻一)、と見える。俗書の『明智軍記』でも、「明智氏の家系は土岐氏庶流の明智頼兼の後胤」とあり、『宮城家系図』では、同じ観応二年二月に頼重が従兄の頼兼の猶子となり明智姫郷などを継ぎ、土岐彦九郎頼重宛の将軍家下文があると記される。徳山ひさ家蔵本『土岐家伝大系図』にも、頼兼が頼宗の子にあげられて、「明智十郎次郎、号下野入道」とあり、子に明智十郎頼言があげられる(この頼言は字が似る頼重の誤記か)。
 頼重は、その父の頼基が早世などの事情があれば、従兄の猶子となったことも考えられ、明智の始祖は明智次郎頼兼とするのが妥当と考えられる(沼田藩主家の先祖はいったん没落しており、「土岐家文書」がそのまま信頼できるかは疑問も残る)。明智彦九郎頼重が観応年間に明智関係の地を領したことは諸伝に共通する。

 頼重の跡を継いだのが弟の彦十郎頼隆である(『尊卑分脈』には頼澄と記すが、ほかに頼高とも見えるから、「澄」は「隆」の誤記であろう。「澄、隆」は相互に誤用されがち)。その跡を甥の十郎頼篤が継いで明智氏がつながるようだが、これが明智本宗かどうかは確認できない。この辺の記事も『尊卑分脈』(国史大系本)や「沼田家譜」には疑問や簡略記載があって、これらの書が明智氏の家督相続や系図の原態を伝えたものとは言い難い。ただ、こうした明智家督の「彦十郎、十郎」が光秀の通称「十兵衛」につながるとみられる。
 頼篤の後に沼田藩主家が出たとされ、「沼田家譜」や『土岐家伝大系図』では、頼篤の子の「国篤―頼秋―頼秀―頼弘―頼定―頼尚」と続くとされるが、この歴代がすべて親子相続だと世代数が多すぎて疑問があり、文書史料や『宮城家系図』の記事などにより、世代や親子関係を確かめる必要がある。
 頼尚は長子の頼典が不孝などの理由で義絶し、その弟の次男彦九郎頼明を後嗣としたが、その子の定明のときに斎藤道三の親子争いのなか没落し、その子の定政は母方の三河の菅沼氏に養われ、当初、菅沼藤蔵を名乗ったが、徳川家康に仕えて立身し、後に土岐山城守となった。義絶された頼典の後に光秀が出たとするのが『続群書類従』所収の「明智系図」であり、当該系図では「頼典―光隆―光秀」とされるが、この辺には不自然さが感じられる。光秀の叔父が明智兵庫助光安が当主であったとき、斎藤道三と義龍との争いのなか道三方の明智城も攻められて、光安などの一族は多くが戦死したとされる。『宮城家系図』でも、この系図は同じだが、頼典と兵庫頭光継とが同人とされ、生年などで矛盾する記事があるから、本来は別の二人を統合したことが考えられる。

 答えを解く鍵─可児郡明智荘に二系統あった明智氏
 以上のように見てきても、道三方について没落した彦九郎定明家と兵庫助光安家との関係が不明であるが、この辺については、谷口研語氏が『美濃・土岐一族』で記される光秀の系譜検討が有益な示唆を与えてくれる。その辺を踏まえて、次を記しておく。

 現存史料に見えるところでは、明智民部少輔頼重の所領は、文和四年(一三五五)に下野入道(頼高、法名浄皎)に譲られ、その後、貞治五年(一三六六)及び永徳三年(一三八三)の将軍家安堵状で、尾張国海東荘、美濃国妻木郷内笠原半分などや多芸郡内春木郷などが安堵対象とされる。次ぎに、明徳元年(一三九〇)に土岐明智氏王丸(十郎頼篤)の本領安堵がなされ、応永六年(一三九九)には明智十郎頼篤の所領たる多芸郡多芸嶋郷など(土岐下野入道跡)に対する島田氏の濫妨を禁止せよとの命令が土岐美濃入道(頼助か)に出された。次の国篤は応永三四年(一四二七)に置文を残し、同年六月には土岐長寿丸(頼秋)の所領妻木郷などが安堵された。
 室町期に明智氏は将軍の奉公衆(室町幕府の直属軍)となり、十五世紀代の文安・長享・東山の番帳に一族の名が見える。すなわち、『文安年中御番帳』には外様衆として土岐明智中務少輔、『長享番帳』の四番に土岐明智兵庫助・土岐明智左馬助政宣の二名、『東山番帳』にも土岐明智兵庫頭を確認できる。
 くだって、明応四年(一四九五)三月の幕府奉行人連署奉書によると、明智頼定と明智兵庫入道玄宣とが相論を行い、知行地の折半で和与(示談)したが、このとき沼田藩主家の祖先と、別系統の奉公衆に見える兵庫入道の系統が明智荘にあったと分る。文亀二年(一五〇二)の頼尚譲状では、沼田藩主家の祖先・頼尚の所領が、土岐郡内の妻木村・笠原村と駄知・細野両村の半分に縮小されていた。この譲状では、嫡子の兵部少輔頼典が不孝を重ねるなどの事情で義絶され、所領は累代の文書を添えて全て彦九郎頼明に譲ると記される。
 ここに見るように、沼田藩主家の祖先系統の所領には、明智荘に該当する土地は見られない。このことから、谷口氏は、「この家系は土岐明智氏のなかでも、ある一つの家系にすぎず、別に明智荘を伝領した家系があったことも推測される」と記される。

 まことに妥当な指摘であり、そのもう一つの家系がむしろ明智本宗家であって、奉公衆をつとめ兵庫入道から兵庫助光安につながるものだと考えられる。こうした勢力をもつ家だからこそ、斎藤道三が妻を迎えた背景にあったのだろう。谷口氏は、「あるいは可児郡明智荘を伝領した土岐明智氏惣領家の人であったかもしれない」とも言い、私もこれに同意する。
 光秀の祖先は、父から義絶された兵部少輔頼典ではなかったということであり、『尊卑分脈』に附載書込された前田家本がどこに出典を得たのか知らないが、貴重な所伝を残したものである。この系統の祖とされる「彦六頼秀」の位置づけは難解だが、『尊卑分脈』に見える頼重の子のほか、「十兵衛(=十郎兵衛)」や「美濃」の通称から考えると、その父が「彦十郎頼高」とか「美濃守頼助」という可能性もある。
 十三代将軍義輝に仕えていた人々「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」には、ここに「明智」が出てくるが、その名が不明でも光秀に当てられることはありえよう。「足軽衆」とは、単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいという見方がある(この格下げは、美濃明智氏の滅亡が背景にあったか)。永禄十二年(一五六九)には、義昭の仮御所であった本圀寺に攻めてきた三好三人衆と戦ったなかに光秀が出ている。『信長公記』に「明智十兵衛」の名が見えて、これが良質な史料に名を現わす初めてだとされる。光秀の傘下に伊勢与三郎貞興、松田太郎左衛門、諏訪飛騨守など室町幕府旧臣たちが多かったのも、その祖系故なのだろう。

 光秀妻の実家や家臣団諸氏
 光秀の正妻・煕子が、明智一族が明らかな妻木氏の出であったことは疑いなく、さらには「妻木」と名乗った妹(義妹か)が信長の側室だったという史料も言われる。その家臣たちの諸氏が多く明智一族関係者だというのも、『宮城家系図』がその系譜を示している(その裏付けが乏しい面もあるが)。重臣(五家老)のなかの明智左馬助光春が、実は三宅弥平次が本姓で光秀の女婿となって明智を名乗ったにすぎないとも言われるが、三宅氏も明智一族から出たと『宮城家系図』に見える。明智左馬助秀満、明智次右衛門光忠は、『宮城家系図』が言う従弟ではなかったとしても、明智一族の出であったとみられ(明智次右衛門が土岐高山氏の出ともいう)、藤田伝五、溝尾庄兵衛(三沢昌兵衛秀次などとも書く)も少し遠い明智一族の出かとみられ、斎藤利三は守護代斎藤一族で、その兄弟は土岐一族の石谷氏を継いでいた事情は無視しがたい。
 このほか、明智一族衆として、明智出羽・左近允兄弟(『兼見卿記』)や明智半左衛門、明智孫十郎らもあげられる。「明智」を名乗る者が、本来は別氏で光秀から名乗りを許された者もいた事情もあろうが、なかに実際の一族もかなりあったのであろう。『美濃国諸旧記』巻十一には、「明智の一家にして、隠岐・溝尾・奥田・三宅・藤田・肥田・池田・柿田・妻木などと申して、数代血脈の一門多くして、皆ことごとく嫡家光秀に属し」て山崎合戦で亡びたと記して、明智一族十家をあげる(可児郡池田城主の条)。隠岐は、土岐一族の祖たる隠岐守光定の後裔となろう。
 立入宗継の覚書『立入左京亮入道隆佐記』に、天正七年(一五七九)の丹波平定に関して、「美濃國住人ときの随分衆也 明智十兵衛尉 其後従上様被仰出 惟任日向守になる 名誉之大将也」と記されるのは、理由があったとみられる。
 光秀の父の名については、諸伝あるが、早世した故であろうし、光綱、光隆は同一人なのであろう。さほど、重視すべき問題とは思われない。進士信周の子とか若狭国小浜の鍛冶師の子という説は、取るに足らないように思われる。こうした他氏の出であったら、斎藤利三などの重臣や明智一族諸氏が光秀に従うとは思われない。

 光秀が外様衆の土岐明智氏を出自とすることについて、たしかな裏付け史料が現存しないものの、妻の身分・系譜や重臣たちや傘下の諸氏を見ると、これが傍証されると思われる。秀吉の家臣団はもちろん、柴田勝家の家臣団と比べてもなんら見劣りせず、むしろ優るものであろう。
 これまで多くの俗説に惑わされてきてボンヤリとしてしかなかった光秀の系譜について、思いがけない形で明らかになったと思われるが、これも、真野信治氏による清和源氏の系図研究と、谷口研語氏による明智関係文献の研究に因るところが大きく、深く感謝申し上げたい。

  最後に、光秀の推定系図(試案)をあげておく。

 


  (追記)光秀系譜に関して留意すべき系図2点
        本稿の記述を補強補充する内容の系図について説明していますので、併せてお読み下さい。
 
  (20.11.02掲上)


 
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