明智光秀の系譜T要約版)の続き〕

  光秀系譜に関して留意すべき系図2点

 光秀系譜再考をネットに掲上してほぼ直後に、届いていた家研協会誌『家系研究』第70号を開いたところ、安居隆行氏の論考「清和土岐源氏 明智光秀系図の謎」が目にとまり、それを読んだところ良い示唆を与えられたので、ここに取り上げ、深謝しつつ、以下の記事を書くものです。
 当該論考では、明智光秀系図として次の二つの系図(ともに東大史料編纂所のデータベースで閲覧可能)を取り上げ、光秀とその諸子について主に記されており、先に述べた拙見ととくに矛盾するものではない。むしろ拙見を補強してもらえるように思われるので、その辺の事情を系図を紹介しつつ、併せて書きたい。実のところ、この二系図は、私はかつて見ていたが、そのときは私の知識や問題意識が乏しかったせいか、その系図の意義を認識しないできており、安居論考によりご教示を受けたことを申し添えておく。

@『鈴木叢書』三(巻之十三)に所収の「明智系図」
 安居氏の記事では、数多い明智系図のなかで、これが最古のものだとされる。寛永八年(1631)六月に光秀の遺子玄琳(京都妙心寺塔頭の瑞松庵に居た)が六五歳のときに、光秀の五十回忌で(死去が1582年)、親族の喜多村弥平兵衛に与えたと記事があるが、奥書にはこれを明治三年(1870)九月に紀伊国熊野の鈴木真年が書き写したとある。系図の末尾には、光秀の子のなかに「僧 玄琳 洛東妙心寺住塔頭」が見え、また、伊賀国柘植城主喜多村出羽守保光の娘が光秀の妾として末子内治麻呂を生んだと見える。
 この系図は、源頼光の子の頼国から始まり、土岐一族を経て伯耆守頼貞の子に「土岐九郎頼基(早世。「伯耆守」と記すが、これは頼忠の譜註)、光賢(太郎三郎。実は甥)、頼忠(実は甥で、船木頼重の子)」の三人をあげ、頼基の子の彦九郎頼重(法名浄栄)から土岐明智の号が始まるとする。この家に伝わる古文書の内容も併せて系図に記載されており、系図自体は、光秀父以降の部分を除くと、沼田藩主家譜にほぼ同様である。
 彦九郎頼重の弟に頼高(下野守、入道浄皎)・頼助(頼高の譲りを受く。美濃守、入道不存)をあげるも、子の世代以降は頼重の子の十郎頼篤の後裔で系図が続けられる。ただ、頼篤の次の代の国篤については、「イナシ」(一説に無し)という付記があって留意される。

 頼弘の記事には、土岐明智兵部少輔頼定と同名兵庫入道(イニ兵庫頭入道)玄宣との相論があったとして、明応四年(1495)三月付の文書も記される。当該文書に関しては、『宮城家系図』では、頼弘子息の兵庫頭頼典と兵部少輔頼定との相論だと記す文書も記されるが、これは何らかの誤解に基づく改ざんである。「兵庫頭」とは頼典ではなくて、入道玄宣であった。こうした事情があるから、『宮城家系図』も信頼できないところがあるが、おそらくは頼典の位置づけ(これを先祖においた系図の作成の都合上)に因るものか。
 頼典は、頼定の孫で、頼尚の長子であり、頼尚の記事には、頼典が不孝につき次子の彦九郎頼明に所領を譲ると見える。そして、頼典には「イ此子孫ヲ不引」と記して、一説にその子孫がないことを言いながらも、子に玄蕃頭光隆以下を記している。一方、頼明には子の彦九郎定明をあげ、「イ此子孫 菅沼藤蔵、后山城守」としてこの系統を終える。
 以上の諸事情から、光隆以下の系が後世の混入であることを示唆するとともに、鈴木真年が一つの系図だけではなく、他の系図と校合しながら「明智系図」を筆記した事情が窺われる。なお、この系図には、光秀の弟に筒井順慶や三宅左馬助をあげるのは、位置づけが明らかにおかしい。

A『土佐諸家系図』巻十九に所収の「明智系図」
 清和天皇に始まる系図で、土岐頼康の子に「頼兼、頼雄、頼忠」をあげるが、「子」は弟の誤りで、系線の引き誤りである。頼兼について、「明智下野守美濃国明智ニ住故名字トス。二郎下野入道」とあり、その後は歴代が記されず、次ぎにその七代として「光継十兵衛尉、光廉長閑斎入道」の兄弟をあげ、その子に「光綱(早世)、光安(明智兵庫助入道宗宿。その子に左馬助光春)、光久(明智次右衛門。その子に治右衛門光忠)」をあげ、光綱の子に光秀を記す(内容は、『系図纂要』所収の「土岐系図」明智部分に割合、類似するが、『纂要』には光廉が見られないなど、若干の差違がある)。
 この系図では、明智初代を頼兼として、「頼重……頼典」という沼田藩主家の先祖をあげないところに特色があり、「頼兼の七代」が光継で、その子が光安とするが、これは、『宮城家系図』が光安の記事に「先祖、明智下野守頼兼、康永元年壬午(1342)三月、初開城而、在住以来、光安迄、歴代九世」とあげるのとほぼ符合する(上記の「七代」が、「七代目」ではなく、「七世孫」の意味だと符合)。おそらく、明智歴代は、「頼兼、頼重、頼隆、頼秀、頼高、光、光重、光継、光安」の九代ということになるのだろう。

 なお、長閑斎光廉は、『宮城家系図』では光安の弟に置いている。長閑斎の娘は光秀の養女となり、左馬助光春と再婚(最初は荒木村重の嫡男・村次に嫁)したようである(光秀の実女ではない可能性)。長閑斎には三宅とも見えるから、左馬助秀満の何らか所縁の者なのであろう。
 また、この明智系図では、諸書に光秀生年を享禄元年(1528)で享年55とするが、享禄四年(1531)、従って享年は52だとしており、光秀の子女が1569年以降に生まれている模様の事情(上記の玄琳が1568年生で、鈴木叢書「明智系図」では長男に置かれるが、庶子だった故か)から推すると、この光秀の享禄四年生という説は妥当なのかも知れない。光秀の嫡男とされる光慶(十兵衛。鈴木叢書の安古丸に相当か)は、天正十年(1582)に死んだ時に十四歳だと伝えるから、光秀の生年はあまり遡らせないほうが無難ではなかろうか。

 〔一応の総括〕
 このように見ていくと、意外なことに、光秀の家系が明智本宗になるという結果になる。光安、光秀と二度、この家が亡びたことで、明智正系が伝えられなかったものであろう。江戸初期の僧玄琳のときには、頼兼と光継との中間歴代が既に失われていた。沼田藩主家の系統が明智本宗であったのなら、その家臣団にもっと土岐・明智の一族関係者があってもしかるべきようにも思われるし、この系統の祖先の通称が室町幕府の奉公衆に見えない事情も無視できない。「十兵衛」の通称も含めて、系図検討は総合的になされるべきものであろう。 

 
  (20.11.03掲上)


 
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