豊後の日名子一族

(問い) サッカー協会章の三本足の烏を図案化した日名子実三氏は、大分県臼杵市の出身ですが、竹腰氏同様、その由来を確かめることは不可能でした。
  日名子実三については、関連著書に先祖は熊本県日奈久(温泉)出身とありましたが、大分県内の別府周辺には古代紀氏の末裔と伝える日名子氏が多く、奈と名の違いはありますが、発音は同じなので、むしろこちらの出では?と想像しています。
  この日名子姓について、ご存知のことがあればお知らせ下さい。
 

 (樹童からのお答え)

1 日名子という苗字
   日名子は珍しい苗字で、日奈子・日奈古・日那子・雛子・日子とも書き、管見に入ったところでは豊前・豊後及び肥後だけに見られます(雛子はほぼ紀伊に限定の苗字ですが)。『姓氏家系大辞典』では肥後だけをあげ、「葦北郡日奈久邑(注:現熊本県八代市日奈久)より起こりしか」というとして、恵良惟澄申状に「日名子兄弟」の名前が見えると記します。一方、豊前・豊後のほうは豊前国築城郡日奈古(現福岡県築上郡築上町〔旧・椎田町〕日奈古)か豊後国速見郡別府辺りに起った苗字とみられます。
   ご質問の臼杵の日名子氏の系図は不明ですが、臼杵藩主家の故地美濃には見られない苗字ですので、地元の豊後かその付近の出身とみるのが自然だと考えられます。日名子実三氏(昭和二十年逝去、享年53歳)の家が何時から臼杵に居住したかは不明ですが、臼杵市には電話帳で三〇余軒の日名子姓が見られており、臼杵藩士ではなく、地元の苗字と考えられます。氏は臼杵城下の旧い家に生まれたといわれます。
 
2 日名子の系譜
   日名子氏の系譜は、古代に国東半島を領域とした国前国造の末流とみられます。具体的には、中田憲信編『諸系譜』第三三冊に「日子姓系図」が所収され、孝霊天皇その子日子刺肩別尊に始まる吉備氏族とされています。しかし、同系図は菟名手より前の人名は疑問や世代の混乱が大きく、また菟名手以降でも名前や記事等に疑問な個所がかなりあって、総じて慎重な取扱いを要するものといえます。そのような前提で、現段階での解釈を踏まえて以下の記述をなしたものです。
 
 (1) 国前国造の祖は、景行紀十二年九月条に見える国前臣祖菟名手で、景行天皇に仕え熊襲親征の時に随行して功績があり、その子の乎左自命(一に午左自命)が志賀高穴穂朝(景行の子の成務天皇の時代)に国前国造を賜ったとされます。菟名手は吉備氏族日子刺肩別命の子とされております。この辺の系譜的記述は『古事記』孝霊段、「国造本紀」に見えます。ところが、前掲「日子姓系図」には日子刺肩別命も乎左自命も見えない状況にあります。
    また、『豊後国風土記』総記の部分には、景行天皇は豊国直の祖菟名手を派遣して豊前国仲津郡中臣村で起きた慶事を報告して豊国直の姓を賜ったという説話が記されており、「国造本紀」豊国国造条には志賀高穴穂朝に宇那足尼(菟名手と同人)が国造を賜ったと記載されています。
    以上のことから、国前国造・豊国国造は同族だと伝えたことが知られますし、九州には同じ吉備氏族という葦北国造(肥後国葦北郡)がおり、三井根子命の後裔とされます。ところが、豊国国造は尾張氏族ともされ、また、国前国造、葦北国造も吉備一族とされますが、この二国造は吉備氏族として疑問も多少あり、様々な見地から十分な検討を要します。
  これら国造家は豊前宇佐の宇佐国造や火(肥)国造・大分国造の支流同族の可能性もあるようにとみられます。九州では、神武天皇の長子神八井耳命の後裔、多氏族と称する国造・諸氏が多く見られますが、これらは皆系譜仮冒で、実際には天孫系で天津彦根命後裔、宇佐国造の支流とみられます。
 結論的にいえば、吉備氏同族でよいとは考えられますが、上古から近隣の諸族と通婚・混交があったことで、様々な面で紛らわしくなっています。
 
 (2) こうした古代の事情を頭においておくと、豊国国造の領域に豊前の日名子があり、葦北国造の領域に肥後の日奈久があって、両地ともに日名子氏が起こり、また大分国造の領域の別府辺りに紀姓とも称する日名子氏が居住したことが理解されます。現在では、大分市域にも日名子の苗字が多く分布します。
    すなわち、豊後国国東半島を中心とした分布を示す紀朝臣姓と称する諸氏は、いずれも中納言紀朝臣長谷雄の族裔と称しましたが、実際には古代国前臣一族の流れの仮冒とみられるからです。大きく言って、紀継雄系と称する一族(豊後国国東郡人の溝部など)、紀諸雄系と称する一族(豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡人の上田など)の二系統があげられます。
 
 (3) 「日子姓系図」には必ずしも信頼できない部分があることを先に指摘しましたが、なかには貴重な所伝も含まれているようであり、その概要を記しておきます。
    菟名手命の後裔の黒麻呂は難波朝廷(仁徳朝)に仕えて日子臣姓を賜り、その玄孫長谷部彦(泊瀬部彦)は継体天皇朝に奉仕して日子直姓を賜った。この長谷部彦には、叔父の砥並仙人に依り仙方を伝え、豊州の処々に温泉を創るという所伝も別書にあり、肥後の日奈久温泉も想起されて興味深いものがある。
    長谷部彦の子孫は日子県主・日子郡領を世襲し、初め日子、後に日名子を苗字とした。すなわち、日子太郎次郎清国は鎌倉将軍家に仕え、その子小次郎清治は大友氏に仕えて豊後別府に住み、その子の日名子太郎左衛門尉清元は国東臣と号し大友大炊助頼泰を主として温泉奉行となり弘安年中に死去した。清元の後は、その子の「清輔(勘兵衛)−清豊(太郎左衛門)−清成(勘兵衛)−清三(勘助)−清船(官三)」と室町前期の人々まで見えており、清輔の弟又八郎清行の孫の太郎清秀は菊池氏に仕えた。
    その白鳳頃に分かれた支族の流れに国前大夫背楯があり、嘉祥元年従七位下に叙し八幡宮社務職に任じたが、その子孫には八幡宮社務職に任じた国前氏のほか、天慶年間に一族の律師慈興に随って播州明石郡忍海荘に移遷した右近太郎浄兼があって、平安中期には播磨の竹川(武川)氏系統と近江の柏木氏系統に分かれ、本系図は播磨の系統に伝えられたもので、江戸前期までの人々に及んでいる。
 
3 日名子と別府温泉
    上記の系図を見ると、日名子の主流は大友氏に仕えた別府居住の人々ということになり、その系譜が知られるとともに、貴信に示された日名子・日奈子の分布と符合することになります。その姓氏も称していた紀姓ではなく、実際には日子直姓と知られます。おそらく臼杵の日奈子氏も別府の支族と考えられます。いま日名子の苗字は、日本全国に250件ほどあり、そのうち半数ほどが大分県に居住し、なかでも大分市・別府市・臼杵市に多いとされます。
上記の温泉伝承からは、「日子」は「火の子」で、温泉の意味かもしれないとも推されます。そうすると、日子県主・日子郡領が居た地とは、もともと豊後の別府辺りの地域、速見郡朝見郷の一帯を指すことが考えられます。別府市では、いまは埋め立てられた流川の流域で別府駅前の別府温泉の旅館街がある辺り(現在の別府市元町・秋葉町一帯)が日名子と呼ばれていました。元禄七年(1694)に別府に来た貝原益軒は、『豊国紀行』を著し、「別府は石垣村の南にあり。民家百軒ばかり、民家の宅中に温泉十ヶ所あり、何れもきよし、庄屋の宅中にあるは殊にいさぎよし」「町中に川あり、東に流る、この川に温泉湧出す」と記しています。
別府の元町の近隣には秋葉神社が鎮座する秋葉町があり、秋葉神とは火の神ですから、日子は火子と同じと考えられます。また、前掲の朝見には「アタミ(熱海)」の訓が正しいという説があり、これが温泉を意味する可能性があると『古代地名語源辞典』は記しています。「日子県」をこのように考えると、日子県主の支族が国前に居ったのも自然です。速見郡の北隣が国前郡になるからです。
 『速見郡史』にあげる速見郡司としては、日子物麿(白鳳四年〔675〕頃)、日子市人(任期不明)、日子豊躬(任期不明)がおり、このうち日子物麿は前掲系図に日子県主、日子豊躬は日子郡領と見えていますが、系図では白鳳頃の人は豊躬・豊人兄弟であり、『速見郡史』には記述に錯誤が見られます。この辺は別府の日名子氏の所伝に拠ったものとみられます。「日子氏」は、奈良時代、豊前国宇佐から豊後国速見郡に下ってきて速見郡の「大領」(郡長)をつとめたといわれているようで、そこに訛伝が見られます。八世紀代には日子氏のあとの大領を、日出町豊岡の八津島神社を創祭した、「宇佐高春」が務めたようで、「宇佐高春、日名子氏に伴いて、宇佐より下る。」と城内家文書に書かれているとのことです。
 なお、築上町日奈古の近隣にも、例えば求菩提山に温泉は出ますが、別府温泉と比べて規模が違います。
 
古代では天津彦根命の子、少彦名神は温泉神とされましたが、宇佐国造はこの同族となります。別府温泉は、古来有名であり、八世紀の初めの『伊予国風土記』逸文の温泉(道後温泉)の条には、神代に宿奈毘古奈命(少彦名神のこと)が仮死状態になったことに嘆き悲しんだ大穴持命(大国主命)が、大分の速見の湯(別府温泉)を海底に管を通して道後へ運び、湯浴みさせて、蘇生させたところ、生き返った少彦名神がちょっと寝たわいと言って四股を踏んだので、その踏んだ足跡が温泉の石のなかに残っていると記されています。『豊後国風土記』速見郡にも、竈門山に泉源のある赤湯泉(血の池地獄)や玖倍理湯(くべりゆ。鉄輪にあった間歇温泉)などの記述があります。
また、鎌倉時代には、大友頼泰が元寇の役で傷を負った武士を癒すため、別府、鉄輪、浜脇などに療養所をつくったとの記録が残されているとのことです。その時に日名子氏の祖先が活躍したとすると、話は系図と符合しますし、この一族はもともと別府温泉の近隣に住んでいて温泉の知識があったものと考えられます。そして、前掲系図において、播磨の人々が豊後の事情・記事を造作できたとは思われず、本系図は何度か書き重ねられて伝えられたものではないかとみられます。
鎌倉時代からの伝統があってか、日名子氏は別府の温泉業に関与してきたようで、江戸後期の文化年間(1804〜18)においては、湯株(源泉を所有し、かつ旅籠を営業していた者)の保有者は18戸であって、そのうち府内屋太郎兵衛が日名子旅館の前身と言われています。なお、「府内」は現在の大分市の旧名で、この地にも日名子氏が多いことが想起されます。大正三年(1914)発行の『別府町史』によると、明治元年(1868)の温泉場として、別府村には會所湯(日名子益太郎邸内)など九個所があり、明治〜昭和期に別府の名旅館御三家として「日名子」が米屋・冨士屋とともにあげられました。
 
平安期になって速見郡の郡領職は他氏に譲ったものの、依然として別府に住んでいた「日子(日名子)佐美」は貞観9年(867)に別府の鶴見山(鶴見岳)が大爆発した時、活躍した人物と伝えられています。この爆発で別府の町の人家は壊滅状態になり、「泥流、海岸まで達す」といわれますが、その復旧の中心になって活躍したのが佐美で、その働きは遠くの太宰府にも聞こえ、「郡領目代」に補せられた、という所伝が別府にはあるとのことです。しかし、この所伝は前掲系図には見えず、白鳳頃の日子郡領豊躬の八世孫として左衛門大夫佐美があげられるだけで、その記事はありません。佐美の九世孫とされるのが鎌倉将軍家に仕えた太郎次郎清国ですが、この間の世代も少し多いので、系図には世代重複があるのかもしれません。
戦国時代にも日名子氏の名が時々出てくるとのことですが、明治初期になると日名子氏はいち早く「天神丸」という船を所有して廻船業の「門屋」を営み、別府からの定期航路開設に尽力したことで、月に三回の出船の別府・大阪航路が開かれました。日名子一族は旅館経営にも手を広げ、日名子旅館(日名子ホテルの前身)は別府の旅館御三家の一つになりました。明治三九年(1906)には、別府町と浜脇町が合併して新しく別府町が誕生しましたが、その初代町長を日名子太郎が務めました。昭和天皇の昭和二四年の巡幸では日名子旅館がその宿舎とされました。日名子氏の子孫は現在も各方面で活躍中であり、そのなかに前掲の彫刻家「日名子実三」もあげられています。(以上は、「故郷日出通信」というHPの「日名子氏の歴史」などを参考にさせていただきました
 
4 日名子関係の古代氏族と姓氏・苗字
  最後に日名子氏が出自した古代氏族の姓氏について、その概要を挙げておきます。
 
 九州で吉備一族の三井根子命ないし菟名手命(両者は同人か)の後裔と称する国前国造及び葦分(葦北)国造の関係姓氏があり、景行天皇の九州巡狩等に随行して各地に移遷したものか。これらは、多氏族と称する火国造などや宇佐氏族とも系譜的に密接な関係を有した。国前国造及び葦分国造の関係姓氏をあげると、次の通りであるが、後者は南方の薩隅地方に大いに展開した。所伝通り吉備一族としたら、その場合は笠臣と同族かとも思われるが、実際には火国造同族という可能性が大きい。
 
国前臣(豊後の称紀朝臣姓諸氏は紀長谷雄の族裔と称するが、実際には国前臣の流れの仮冒とみられる。溝部−豊後国国東郡人、紀継雄系と称。横手、立野、富来、長木、柳迫、速見、何松、志手、岐部、櫛来、姫島、曾根崎−溝部同族。生地、紀田−豊後国速見郡若宮四社権現神主、溝部同族。上田−豊前の宇佐神宮御馬所別当で宇佐郡上田村住人、紀諸雄系と称。永松−豊後国国東郡田原八幡神主。野原−同速見郡人。永井、長谷雄〔長谷王〕、足立、小野−上田同族で国東郡等に住。国東郡田原八幡祠官の是松、永吉も同族か。宇佐神官で下毛郡住人の藍原やその同族とみられる朝来野も紀姓で、おそらく同族。宇佐の鷹居社祠官の紀姓鷹居氏も同族か)、国前直(渡辺−豊前国上毛郡の古表八幡神社大宮司家)。
日子臣、日子直(日名子〔雛子、日奈古、日子〕−豊後国別府に居住。国前〔国崎〕−豊前の宇佐宮貫首。浅田、無佐、由布、芦原田−豊後人。武川〔竹川〕、井関、鷹尾、山嵜、森脇、桂川、鎌谷、高塚−播磨国明石郡人。柏木−江州甲賀郡柏木人。藤原姓を称する宇佐宮土器長職の高村〔高牟礼〕氏も国崎氏の同族か)。また、豊前国仲津郡の高桑臣も同族か。
 
葦北君、刑部靱負部、刑部、刑部公、日下部、日下部公、規矩連、日奉部、日奉直、日奉宿祢(横尾−肥後国益城郡人、陸奥下野筑後に分る。那賀、合志−横尾同族。竹崎−同国八代郡人、元寇時の竹崎五郎季長を出す。その同族に野中や筑後国御井郡の三井。また、肥後国玉名郡の大津山は藤原姓を称し、公家日野氏の庶流とか菊池一族合志の初期分岐という所伝もあるが、疑問もある。むしろ筑後国三池郡の日奉宿祢後裔とするのが妥当か。その一族には玉名郡の小野、関、三池、津山があり、同郡の江田も同族か)、
大伴部(出水〔和泉〕、井口、上村、朝岳、知色〔知識〕、給黎、郡山、杉〔椙〕、鯖淵−薩摩国出水郡人。高城−同国高城郡人。武光〔武満〕、高城、寄田−同州薩摩郡人。宮里、高江−同上族、称紀姓。日置、河俣、北郷、息水−薩摩国日置郡人。白坂−日向人。肝付〔肝属〕−大隅国肝付郡人で一族多く、伴朝臣姓で見える文書あるも疑問で本来は葦北国造同族か、一族は大伴氏族を参照のこと)、桧前部(水俣、佐敷、久多羅木、上野、田浦、湯浦、二見、綱木〔津奈木〕−肥後国葦北郡人。篠原、光武、萩崎、白木、牛尾、永里、薗田、中条、岩崎、楢木、桂木、広武、松本、鵜羽、大籠−薩摩国牛屎院人、篠原は日置郡中原の大汝八幡宮大宮司家にもあり。税所−肥後国球磨郡人、大隅国曽於郡の税所と同族と伝う)、他田部、白髪部、真髪部(真上部)、真髪部君(球磨郡白髪社祠官の尾方は族裔か)。また、肥後国葦北郡の家部、八代郡の高分部も同族か。『大同類聚方』には葦北郡の姫島直が見えており、実在したなら葦北国造の族か。

  (03.12.29 掲上。18.4.05追補)
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