初期物部氏の系譜(2)

(問い) 先の応答を受けて、質問を続けます (守屋様より、07.12.20受け)。
 
.天目一箇命につき、天御影命、天太玉命、櫛明玉命と同神であることは、判りましたが、鏡作麻気神社祭神に絡み、天津真浦(麻羅)と天目一箇命は別系統で、前者は物部鍛冶師だという大和岩雄説(「神社と古代民間祭祀」332頁)があります。
 ニギハヤヒの父祖と見てよいでしょうか。天御影命はニギハヤヒ降臨に随行の三十二神の一人に列挙されていますが。
 
.経津主神につき、勝部神社、石見物部神社の祭神をふくめ、物部氏奉斎の神であることは承知しており、世代的にも理解できるのですが、ニギハヤヒの父祖とすること及び出雲国造の祖とすることは、吾々並みの史料しか目にしていない者にとりユニーク過ぎませんか。
 
.天火明命は、記および紀一書第6.第8でニニギの兄となっているので、邪馬台国の王とみること並びにニギハヤヒを天火明命の子に位置づける考えに私は傾きます。またはニギハヤヒを天火明命と同神と考え、襲名したニギハヤヒ二世、三世がウマシマジに続くと考えてはと思います。
 或いは、紀・本文、一書第1.2.3.5.7.の通り、ニニギの子にニギハヤヒを位置づければ、先に提示の世代問題は解消されますが、これではどうでしょうか。
 
.著作『「神武東征」の原像』に掲載の「天孫族の系譜」(307頁、318頁)で、ヒコナギサがイワレヒコの兄弟とされ、前者は伊都国王統となつていますが、どういう史料に基づく判断でしょうか。


 (樹童からのお答え)

  この度のご質問・ご指摘はたいへん示唆深いものがあり、お答えに際して、何度か考え直しをしました。今後、さらに変更の余地もあるかもしれませんが、次のように考えておきます。話が香取神社の創祀問題にも及び、改めて気づかされることがあったものです。

(1a)天津真浦(麻羅)と天目一箇命との関係
 「真浦(麻羅)」は梵語に由来する俗語で男性器を意味しますが、これは形状が「目一箇」(尿道口を想起。鍛冶のときに火の色を片目で見るとか、職業病で目を損傷して鍛冶師には隻眼が多い)で鍛冶者に通じます。大和岩雄氏も思考経路が異なりますが、「「マラ」は鍛人(鍛師・鍛冶師・鍛部)と同義といえる」と記します。従って、わが国鍛冶族の元祖天目一箇命も天津真浦のひとりです。「天津真浦(麻羅)」は天目一箇命と同族か配下の鍛冶者になります。大和岩雄氏のいう「別系統」という意味が「物部系と忌部系とを別に考える」ことでは疑問が大きく(物部系と忌部系とを別系統と考えるが、両者は同族にすぎない)、同族ないし配下の関係を否定するのであれば、また疑問な見解と思われます。
 なお、『旧事本紀』天神本紀に見える「物部造等祖天津麻良」という者は、天目一箇命かその子孫とみられます。また、天神本紀に見える「天麻良」「天津真浦」「天津麻占」「天都赤麻良」などは、みな配下・従属の鍛冶者と考えられます。
 
(1b)ニギハヤヒ降臨に随行の三十二神
 『旧事本紀』天神本紀に見える随行三十二神は、世代・年代を無視したきわめて杜撰な列記であり、ニニギ降臨の随行者(天児屋根命など)や神武朝の人(天道根命)、出雲大国主神協力者(少彦名神)まで混在してあって、まったく信頼できません。伊佐布魂命なぞ、天背男命の祖父、天明玉命の曾祖父に位置づけられる神です。
 かつ、同神が少し表記を変えた形の名(天背男命と天世命〔手は乎の誤記〕など)で現れます。こうした神名の重複例もかなり多くあります。古代の有力氏族で物部遠祖と同行して畿内に来たことが確実なものはないと思われます(近縁の凡河内〔三上〕氏族には可能性があり、紀伊国造一族も可能性があろうが)。
 これらの諸事情からいって、「三十二神の随行」は、殆どすべてが後世の捏造記事であって、この部分を除去した五部人・五部造などが、実際の饒速日命に随行したものとみられます。ただ、この記事も各氏族の祖神の名を記載するという意味で、なかなか重要ではありますが。
 
(2a)古代氏族の奉斎神の意味
 古代氏族の奉斎神は、基本的にはほとんど全てがその氏族の遠祖神(ときに母系の遠祖も含まれるが)だとみられます。中臣連一族が第一に奉斎した武甕槌神も、その名が中臣連の神統譜に見えなくとも、男系の遠祖神であり、これについてはごく最近、HPのほうに掲上しましたから、参考としてご覧下さい。(武甕槌神へ)
 経津主神が物部氏の最も主要な奉斎の神であったことは明らかであり、太田亮博士は物部氏の氏神と表現します。物部氏が氏神とした石上神宮の祭神はフツヌシ神です。経津主神の最も重要な神社である香取神社の奉斎者も、香取連という物部氏族ないし物部同族でした(分岐過程は不明で、後述。なお、大和岩雄氏もほぼ同旨)。『肥前国風土記』の三根郡にも「物部経津主神」という表現が見えます。
 
(2b)経津主神の後裔と伝える氏族
 経津主神を遠祖とする氏に関しては、歴代をあげる系図を伝えるのは下総の香取連くらいです。その本拠地・香取郡が東南隣の匝瑳郡と西北隣の信太郡に挟まれており、前者の物部匝瑳連も後者の物部志太連(信太連)も共に物部小事連(懐大連の子で、仁賢〜継体朝頃の人。『続日本後紀』承和二年三月条に東夷征伐の伝承が見える)の後裔とする系譜を伝え、かつ、匝瑳郡唯一の式内社・老尾神社(匝瑳明神)の祠官家に香取連があること、香取・匝瑳両郡には玉作という郷村があることなどから、系譜不明の香取連は物部系の匝瑳連の分岐ではないかとも考えられます。
 現在に伝わる香取氏の系図(『続群書類従』等に所収)では、「経津主尊−苗益命−若経津主命−武経津主命−忌経津主命伊豆豊益命−斎事主命−神武勝命……」と続けます。この初期部分は混乱が多く、信頼性にきわめて乏しい記事ですが、それでも「フツヌシ」「伊豆」を名にもつ者(「斎事主」も「斎主」でフツヌシのこと)がいることに注目されます。なかでも、若経津主命こそ、その表記のとおり経津主神の若(息子)であって、これが饒速日命かその近い一族にあたるとみられます。ワカフツヌシノ命は『出雲国風土記』秋鹿郡大野郷及び出雲郡美談郷の条に見え、同書の出雲郡の神社のなかにあげる県社がワカフツヌシ神社と見えます。「伊豆」については、陸奥国牡鹿郡の式内社に香取伊豆乃御子神社があり、現在宮城県石巻市折浜にある伊豆神社に比定されていますので、これも無視しがたいものがあります。

 『姓氏録』では唯一、未定雑姓河内に掲げる矢作連が祖を「布都奴志乃命」とすることで、この記事が検討されます。「布都奴志乃命」は一般に経津主神に比定され、河内国若江郡の矢作氏でも経津主命十四世孫伊波別命の後と伝えます(『姓氏家系大辞典』ヤハギ条)。この河内の矢作氏の具体的な系譜は知られないのですが、矢作部の分布が東国の両総・伊豆・甲斐・相模などに多く見えます。この辺の事情を考えると、「布都奴志乃命」は安房・阿波等の忌部の祖の由布津主命(天日鷲翔矢命の孫で、神武朝の人)に比定するほうが妥当ではないかと思われます。同族の阿波忌部が阿波国阿波郡に式内社の建布都神社を奉斎したことにも通じます。
  河内の弓削連が天日鷲翔矢命(少彦名神)の後裔とされることに通じ(『姓氏録』左京・河内神別の弓削宿祢)、矢作連と弓削連とは弓矢という武器製作の職掌からみても同族とされそうですが、弓削連の始期段階の系譜も不明です。
 香取郡には矢作邑(現香取市本矢作)もあったことの事情によるものか、鈴木真年翁は、下総香取大宮司の香取氏は矢作連姓としています(『苗字尽略解』)。これが正伝だと、香取連の先祖には「伊豆」を名前のなかにもつ者も複数おり、少彦名神(その子孫の天御桙命)の後裔の伊豆国造と同族だったことになります。この場合には、矢作連も香取連も、経津主神の傍系(甥)の子孫となりますが、私は、香取連は同族である矢作部と密接な関係をもったにせよ、奉斎神の観点からは物部氏族ないし同族とみられるかと考えられます。
 その一方、「天孫本紀」には物部一族として香取連をあげないことにもかなりの気懸かりがあり、老尾神社の「老尾」がいまの鎮座地・匝瑳市生尾に通じ、祭神を朝彦命あるいは阿佐比古命(いずれにせよ、麻比古で、安房忌部の祖・大麻比古に当たるか)とすることから、原義は「生ひ麻(おひを)」とみられ、匝嵯も「狭布佐(さふさ。細い麻の義)」とみられます。しかも、老尾神社の祭神が朝彦命または苗加(なへます)命というと『下総国旧事考』に見えます。「苗加命」とは香取連の系図に見える「苗益命」に当たります。そうすると、香取連は安房忌部や矢作連と同系であって、その奉斎神は、本来の由布津主命(上記香取連系図の「忌経津主命」あるいは「□経津主命」に当たるか)が後になって入ってきた同族の物部の祖神経津主神と緊密に融合した可能性が強いと考えています。(この辺は、現存資料からは判断が難しい問題ですね。大麻比古の父は少彦名神なのだが、少彦名神の兄の経津主神が父と伝えられたことでもある)
 こうした諸事情を認識すれば、経津主神は物部一族などの遠祖神であって、世代的には饒速日命より前の時代の神ですから、饒速日命の父祖におかれることになります。
 
 この辺には香取神社の創祀問題にも入ってくるが、その創祀が社伝にいう神武朝ではなく、また志賀剛氏がいう五、六世紀頃の物部小事によるものではなく、景行朝頃の安房忌部の東国進出の時期が考えられる。安房忌部の系図「斎部宿祢本系帳」では、景行天皇の東国巡狩のときに先祖の伊津比古命が安房の浮島宮行宮で新稲を進めたとあって、この随行で東国に至り定着したとみられる。
香取神社という名の神社が香取から利根川・鬼怒川流域の柏・野田から古河・結城あたりまでの地域(とくに下総国葛飾郡を中心とする地域)に広くかつ濃密に分布する事情も、遥か古代からの勢力圏を考えたほうがよかろう。猿島郡(現坂東市、旧岩井市)下矢作には香取神社が鎮座する事情もある。
香取連の系図では、「楫取太山命−国貴太楫取命」と二代(実際には同人か)続けるのが「楫取」すなわち香取の初見であり、国貴太楫取命には「神功皇后大祭香取社」と註記するから、四世紀後半頃の成務朝(神功皇后は成務天皇〔景行の子〕の皇后であることに注意)の頃に香取社が創祀されたことが示される。国貴太楫取命の孫の位置におく者(実際には子か)も伊豆矛足命という名であって、香取連の「伊豆」との関連深さが示される。
なお、「香取」の地名は伊勢国桑名郡で天目一箇命を祭る一目連神社(多度神社の別宮で境内社)のごく近隣にも見えており、鍛冶部族に関係深い地名であったとみられる。多度の地より出た刀鍛冶が村正であり、多度神社の社法に鉄製の弓矢があると真弓常忠氏が記される(『古代の鉄と神々』)。
そうすると、「楫取」の「楫(かじ)」は、船の舵取りばかりではなく、鍛冶を意味するものかもしれない。『常陸国風土記』香島郡の記事に拠ると、鹿島神宮付近の川砂から鉄をとって鍛冶師に剣を製作させたことが見えるが、常陸と下総の国境をなす安是の湖の砂鉄は剣を造るのに適するとされる。鹿島神宮付近には鉄滓出土地が多いが、香取神社が多く分布する葛飾郡でも千葉県我孫子市の周辺には鉄滓出土地がいくつかあると窪田蔵郎氏が記述する(『鉄の考古学』)。その出土地の中学校校庭からほど近い手賀沼の北畔の小高い丘の上に香取神社(我孫子市高野山新田)があり、境内に香取神社古墳群の円墳二基が残るが、その東には全長六三Mの前方後円墳・水神山古墳もあり、手賀沼周辺では最大の古墳、かつ我孫子古墳群では最古期(五世紀前半頃)に位置付けられる。
さらに、興味深いことには、我孫子の香取神社のすぐ西傍に千勝神社があることで、話がまだ展開する。安房忌部の一族が大同年間に常陸国鹿島郡に遷住して千勝神社の祝部になり、その子孫が同郡の大洗磯前神社(式内名神大社)で少彦名神を奉斎したこと、さらに貞観年間に千勝神社を真壁郡(現在のつくば市沼畔)に奉遷したことが千勝氏系図(『百家系図稿』巻1)に見えるから、葛飾郡我孫子の千勝神社も江戸初期の創祀と伝えるものの、この一族関係者の奉斎にかかるものであろう。
こうした諸事情から、少彦名神の後裔の鳥取部造が鍛冶部族だとの指摘があるが、香取連も同様の性格が考えられる。
 
(2c)経津主神と国譲り
 出雲国造の祖が天穂日命の後裔であるという系譜はきわめて疑問が大きく(先の説明であげた論考参照)、経津主神は、天鳥船命という名前を通じて出雲国造の祖・天夷鳥命につながります(『神道大辞典』)。フツヌシ神は「布都怒志命」という名で同風土記にあらわれます。
 国譲り交渉において対象となる「葦原中国」とは、筑前海岸にあった海神族の国(奴国。王家は葦積で、これが阿曇になった)であり、現在の出雲ではありません。この辺の認識が重要な役割を果たすものと考えます。
 同様に「日向三代」の「日向」がいまの日向でなく、筑前の怡土・早良あたりとみる見解はかなり出てきていますが、「葦原中国」について出雲以外を考える説はほとんど無いようです。『出雲国風土記』には国譲り交渉伝承はまったく見えないという指摘はありますが。
 経津主神が国譲り交渉で果たした重要な役割により、筑後から筑前の遠賀川流域(この地域に物部が濃厚に分布することは、鳥越憲三郎氏が『大いなる邪馬台国』などで指摘)に物部がまず移遷し、ここを出発点として畿内などの方面に展開したものと推されます。遠賀郡には矢矧川・弓矧村(ともに現岡垣町域)があり、また高天原(邪馬台国)があった久留米市域には東部に草野町矢作(旧筑後国山本郡)、その西方約六キロには弓削(旧御井郡。北野町に上弓削、その対岸に下弓削)があって、ともに矢作・弓削の地名がそろっています。河内国の物部氏の本拠若江郡(現八尾市域)には、式内社として矢作神社、弓削神社(前者の南方約三キロに位置)がそろっています。
 ついでながら、甲斐でも、八代郡式内社の弓削神社の東北近隣に矢作(ともに市川三郷町域)の地名が見え、矢作に近隣する大字上野には式内社の表門神社(ウハト市川文殊。祭神は諸説あり、全国の同じ神社名からみて、忌部の祖・天太玉命〔布刀玉すなわち経津主神か、天目一箇命の近親〕とみられるが、智恵の神「文殊」からは少彦名神に通じる)があります。甲斐には都留・巨摩郡の郡領として矢作部連が史料に見え、巨摩郡式内社にウハト(宇波刀)神社がありますから、経津主神を奉斎する矢作部連一族が祀った神社とみられます。
 こうした状況から見ても、矢作部・弓削部が物部と近縁の同族であることがわかります。
 
(3)ニギハヤヒの父は誰か
 ニギハヤヒが神武天皇の一世代前の人と位置づければ、考えうる可能性としては、@邪馬台国王の天火明命の子、A伊都支分国王のニニギの子、B天孫族同族の天目一箇命の子、というのが主なものと思われます。これらのうち、火明命とニギハヤヒとが別神とすると、Aの可能性はまず消えます。Aでは、大和への侵攻者神武との血縁関係が近すぎるという難点もあります。
 次に、@は比較的無難です。というのは、ニギハヤヒと天火明命とが同神であるとの伝承をもち、かつ、太田亮博士などの指摘にもあるように、筑後国の御井・山本両郡あたりに物部関係の氏族・神々の分布が濃厚であって、物部氏の淵源地があること(私も同旨)、邪馬台国の中心地域が御井郡あたりの筑後川流域にあったことなどの諸事情があるからです。
 しかし、それ以上に、(イ)古代氏族の奉斎神の実態及び物部氏族の奉斎神・氏神がフツヌシであること、(ロ)古代の鍛冶部族の殆ど全てが天目一箇命後裔に出ていること(天目一箇命の兄弟の少彦名神の後裔となる鳥取部造にも鍛冶部族の色彩があるといわれる。わが国の繊維・衣服関係氏族は殆どが少彦名神の後裔という例もある)、物部氏族には鍛冶部族の性格がかなり強いこと、(ハ)物部の祖ウマシマチが神武天皇に降伏した経緯から、神武のほうが邪馬台国・伊都国の王統に近かった雰囲気が感じられること(このハは感触に過ぎませんが)、などから、Bの立場をとるようになりました。これに、先に述べた近江の勝部神社の祭神などの事情があります。
 
(4) ヒコナギサとイワレヒコとの関係
 両者が兄弟とする史料は管見に入っていません。というより、遅くとも記紀編纂までに原型を改定された系図であると考えられるため、兄弟とする系図の出現は今後ともないはずです。
 そうした状況にかかわらず、両者が兄弟とする形で記したのは、次にあげる理由からです(同書の303、304頁にもかなり説明していますので、ご覧下さい)。
@皇統と他の諸氏族(中臣連、紀伊国造、久米直、尾張連、忌部首、凡河内国造など)の神統譜の世代比較を行ったときに、ニニギ尊の天孫降臨随行者と神武朝に活動した者(随行者、服従者)との関係については、大半の氏族で「祖父−孫」という関係を示している。出雲国造家でも、天穂日命と神武朝の世代である都我利命兄弟との関係が間に二世代(後者が前者の曾孫)と伝え、他の諸氏族の世代配分とまったく同じ傾向を示す。
A 古代には、異世代婚は異例なものであり(奈良期の天武皇統を除く)、かつ、アジア大陸東北部の騎馬系民族に習俗として見える姉妹婚(江上波夫著『騎馬民族国家』を参照のこと)が日本の古代でも頻出することから、日向三代の皇統譜に見える異世代婚は、実際には姉妹婚が原型であったと考えられる。
 この@及びAから、ヒコナギサとイワレヒコとが親子から兄弟の関係におき変わるのが原型とみられることになり、玉依媛を同母とする彦五瀬命・神武兄弟が庶子であることの存在に悲観して、新天地を目指したという東征の動機につながる。ヒコナギサはホホデミ尊の嫡子であり、ニニギ尊が高天原から派遣されて王となった伊都国の王統を受け継ぎ、子孫に伝えたと考えられる。神武兄弟の長兄ヒコナギサは、東征出発時に生存していたと推され、年齢的に子孫を残しえたもので、伊都国は少なくとも三世紀中葉までは国王をもって存続した事情にある。

 (07.12.24 掲上。12.9.25若干補正)
 
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