天鳥船神の実体

          香取神たる経津主神に関連して       
        
                                           宝賀 寿男
   

  守屋様の物部氏族研究に関連して有益な示唆を受け、経津主神について検討を進めるうち、様々な点で興味深いことが浮上してきたので、これらを私なりの観点から検討してみたのが、次の稿である。
 とりあえずの検討結果であるから、問題点は多々あろうが、これを叩き台として考えていければと思う次第です。読者のご批判を受けて、さらに整理していきたいと考えます。



 天鳥船神とはどのような神か
天鳥船神とは、『古事記』神代段に見え、葦原中国との国譲り交渉に際して、高天原の代表としての建御雷之男神に副えて派遣された神である。この交渉に当たった神の名については、記・紀や紀の一書、『古語拾遺』『旧事本紀』『出雲国造神賀詞』とそれぞれに所伝が異なるが、要は@武甕槌神と、A経津主神ないし天鳥船神、天之夷鳥命という二神が関与し、それが並立ないしどちらかが主で他が副という関係に集約される。『出雲国造神賀詞』では、出雲国造の祖・天之夷鳥命に布都怒主命を副えてとあるが、この場合には布都怒主命は武甕槌神と同神という見方に因るものであろう。
このようにみると、経津主神、天鳥船神、天之夷鳥命の三神はみな同神と考えられる。『神道大辞典』も、建比良鳥命が出雲国造の祖で、天夷鳥命・武三熊大人らが皆同一神であって、「天鳥船神とも同一神なるべく」と記している。
 
 天鳥船神を祀る神社と浮島宮
ところで、天鳥船は天鴿船(はとぶね)、熊野諸手船とも同じで、天鳥船命は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)と同じとされる。鳥石楠船命を祭神として祀るのが、神崎神社千葉県香取郡神崎町神崎本宿)、隅田川神社(東京都墨田区堤通。もと浮島宮という)や、常陸の石船神社(茨城県東茨城郡城里町。常陸国那珂郡の式内社)などである。
この石船神社は那珂川の支流・岩船川沿いに鎮座し、兜石と呼ばれる巨岩が神体とされるが、近隣に粟・阿波山という地名が見える。河内の岩船神社の祭神、饒速日命は天鳥船に乗って現在の大阪市に天下ったとされる神話伝承もあり、全国各地の多くの石船(磐船、岩船)神社が物部一族により奉斎されたことに留意される。
かつ、天鳥船神を祀る神社が全国で少ないうえ、利根川下流域から常陸国那珂郡にかけての地域に集まる事情にある。那珂郡には阿波郷の地名も見えるが、このあたりには、少彦名神・天日鷲翔矢命の後裔で安房忌部の同族たる衣服氏族の倭文連・長幡部一族が繁衍し、静大社や鷲子山上神社などを奉斎した。倭文連・長幡部一族はその近隣の久慈郡にも拡がったが、久慈郡を領域としたのが物部氏族の久自国造であり、その祖も景行巡狩に関与した(後述)。久慈郡には狭竹物部も居た。
 
隅田川神社は古くは浮島宮などと呼ばれた。浮島宮は、景行天皇の東国巡狩の際の行宮であって、『高橋氏文』では安房(正確には「上総国の安房の浮島宮」)、『常陸国風土記』では常陸国南部の信太郡の浮島(現稲敷市桜川地区、旧桜川村に所属)にあったと記される。具体的な比定地としては、そこから葛飾野に狩に出たといい、しかも安房国説(伴信友)の浮島のほうは平群郡の勝山海岸の西方沖に浮かぶ小島(現安房郡鋸南町)にすぎず、行宮の所在地としては疑問が大きいから、『風土記』の所伝のほうに妥当性がある(更に後述)。そのいずれにせよ、安房忌部の祖がこの地で奉仕したと伝える。
安房忌部の関係か、信太郡では浮島の南西方近隣には阿波崎・阿波津・阿波(いずれもに現稲敷市域。前二者は旧東村、阿波は旧桜川村)という地名も見える。阿波にある大杉神社は、関東・東北地方に分布する大杉神社の総本社であり、祭神は倭大物主神で水上交通の神とされるが、祭神のほうはおそらく訛伝であろう。この神社名に通じる杉山神社が、式内社をはじめとして武蔵の南西部に多く分布し、杉などの木種をわが国に伝えた五十猛神(天孫族の始祖)を主祭神として安房忌部の支族が奉斎した事情があるからである。水上交通の神とは舵取りすなわち香取に通じ、鳥船神に通じる点に留意される。大杉の神の信仰は、「あんば信仰」ともいわれるが、悪魔ばらえの神として、常総から陸奥の太平洋沿岸方面に拡がりを見せるから、この点でも香取神を想起させるものがある。経津主神らが悪神の天津甕星(別名、天香香背男)を制圧した神とされる(『書紀』の一書)、からである。
大杉神社の鎮座地の阿波については、もう少し調べると更に興味深い事実が浮上する。すなわち、『常陸国風土記』には安婆(あば)の島とするが、上古には半島状地形が島状の様子を呈していたため、その呼称があるとされる。この一帯はかつて菟上の国(海上国)という上古の東総地方にあった国域に含まれたが(後の下総及び上総の海上郡はその一部)、大杉神社の巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれて、常総内湾の交通標識の役割を果たし、この地域の信仰の対象であった。
阿波は、浮島の西南近隣に位置するから、浮島もやはり海上国域に入り、従って景行当時の浮島は常陸ではなく、「総」の一部であったことになる。ということは、『高橋氏文』の表現「上総国の安房の浮島宮」は、正しくは「総国の安房(阿波)という地の浮島宮」であって、安房は国名ではなかった。安房国は古くは上総国に属し、奈良時代になって分離したから、「上総国の安房」と書かれたとみる説は誤りと分かる。そして、浮島宮が『常陸国風土記』編纂当時は常陸にあったとする記事が正しいことも明確になる。
信太郡は利根川を挟んで香取郡の北西隣に位置し、この地を領域としたのが、物部志太連である。その先祖が孝徳朝に小山上物部河内らと『風土記』に見え、筑波・茨城郡から割いて建郡したとされるから、彼らが郡領になったとみられる。常陸の風土記に唯一、フツ大神が信太郡に見えるのも、当地の物部一族が奉斎した故であろう。
物部一族といえば、浮島宮で景行天皇に対し食膳奉仕したのが膳臣(後に高橋朝臣)及び膳大伴部(『姓氏録』左京皇別)の祖・磐鹿六雁命であるが、『高橋氏文』の記事に若湯坐連の祖・物部意富売布連と豊日連の親子も見え、豊日連は忌火の鑽(き)り起こしをしたと見える(忌火の神とは、大八島竈神と一体の宮中の内膳司にあった竈の神であり、斎戒して鑽り出された新火を忌火という)。この親子は上記の久自国造の祖であるとともに、後裔においては、景行巡狩に先祖が膳部職として奉仕したということで、代々膳大伴部を職掌として宮廷に供奉し、これに因む大部造姓を負った。
大部造の一族は常陸国内で久慈郡のほか、筑波・茨城・信太の諸郡に分かれたが、信太郡では中家郷(『和名抄』の地名配置からみて、浮島の近在とみられる)にあり、その子孫から『三代実録』に見える遠江介従五位下の大部造氏良を出した。筑波郡の郡領を世襲した大部造は後に有道宿祢姓となり、武蔵北部に繁衍した児玉党諸氏となった。
ここまで見てきた物部や衣服氏族の常陸における分布を見ると、『書紀』『風土記』や『高橋氏文』などに見える景行天皇の東国巡狩は整合性をもった伝承であることが分かり、その史実性は否定できない。
 
 東国の麻・衣服関係の地名と神社
利根川下流域の両総・安房あたりから武蔵・下野にかけての地域には、フサ()、麻生(常陸国行方郡)、結城(木綿キで、木綿を作るカヂの生える地)等々の麻・衣服関係の地名が多く見える。麻生は、『常陸風土記』行方郡条に見える古い地名(現行方市)であり、大麻神社が鎮座する。現在の祭神は天太玉命とも、武甕槌神・経津主神などともするが、おそらく安房忌部の祖・大麻比古命(天日鷲命の子)が本来の祭神ではなかろうか。
麻・衣服関係の地名と共に、麻植神たる天日鷲翔矢命を祭神とする神社が上記地域には多く分布する。安房の下立松原神社 (白浜町)、下総国葛飾郡や下野国都賀郡の鷲宮神社や多くの鷲神社・大鳥神社・大鷲神社がそうした神社としてあげられる(現在、「大鳥・大鷲」を名乗る神社の祭神が日本武尊とされるものがあるが、これは後世の訛伝)。
鷲神社でいえば、酉の市で知られる台東区浅草や、千葉県市原市今津朝山、香取市(旧佐倉市)先崎、稲敷市鳩崎などあるが、今津山は麻穀の播殖で良質の麻の産地だったと伝える。香取連の先祖に苗益(苗加。ともに「なえます」と訓)という名前(称号)が見えるのも、麻の苗を殖やすという意味になろう。
 
 鷲宮神社と香取の神
関東各地の鷲神社の本社とされるが、葛飾郡の鷲宮神社埼玉県北葛飾郡鷲宮町。利根川中流域西岸)であり、同社は香取郡の神崎神社を本宮として、別宮の関係があるという。いま鷲宮神社の祭神にあげる武夷鳥命は、神崎神社の祭神天鳥船命と同一神とされる。この神崎神社は、もとは香取神社の末社であり、香取市先崎の鷲神社は香取神宮の西方近隣に鎮座する。香取市大戸にある大戸神社は、清宮秀堅が『下総国旧事考』で「大戸ノ社ト云ハ、天の鳥船ノ荒魂ナルベシ」と指摘しており、鳥船神は船の舵取りにも通じる香取の神にふさわしい。
香取神社の真東約十キロで利根川対岸には、天鳥船神を祭神とする息栖神社が位置する。その鎮座の息栖(現在の訓はイキス。茨城県神栖市、旧鹿島郡神栖町)の地は、古くはオキスの津()と呼ばれたところである。同社は、その北方に位置する鹿島神宮の摂社であるが、鹿島・香取・息栖で東国三社と呼ばれた。『延喜式』では式外の神社ではあるが、国史見在であって『三代実録』(仁和元年三月条)所載の「於岐都説神」に比定される。
天鳥船神は、全国でも下総の香取に関係ある地域に集中して見られることに留意される。
 
5 (結論)
 このように、様々に関連しながら廻り廻って、天日鷲命は天鳥船神、ひいては経津主神につながる。神統譜での位置づけでいえば、天日鷲命(とその系統)は経津主神(すなわち、天太玉命とその系統)に従属していて、その弟にあたるが、経津主神が天鳥船神で、物部祖神であり、出雲国造祖神でもあると考えられる。天日鷲命のほうは、阿波・安房などの忌部や弓削連、そして矢作連や香取連の祖に位置づけられる。
 これを記紀にあらわれる分かり易い神名でいえば、兄が天目一箇命で、弟が少彦名神である。「経津主」も剣の名に使われるから普通名詞に近く、一人に特定すれば天目一箇命になるが、その兄弟一族や後裔も武神一族として、名前の一部に「フツヌシ」を共通する称をもった可能性がある。これは、香取連の系譜が示唆するし、安房忌部の系譜に見える少彦名神の孫の「由フツヌシ」も示唆するところである。

 これらの神々は天孫族系であって、その関係地には、鍛冶・衣服関係や巨石信仰・鳥トーテミズムが顕著に見られる。わが国の神々は先祖として奉斎する氏族・部族により名前を異にして伝えるから、それら神々を体系化する神統譜の原型探索は困難をきわめるが、祭祀・地名・職掌や習俗などから、神統譜と氏族の流れを適切に整理しないと上古史の研究は意味をなさなくなることに留意しておきたい。
 歴史学界で応神天皇より前の上古史がこれまで切り捨てられてきたのも、関係する学究らが神統譜関係の適切な把握ができなかった(理解できなかった)という事情に起因する。
 
 (07.12.27掲上)
   

 関連して、 初期物部氏の系図 (1) 及び初期物部氏の系図 (2) をご覧下さい。
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