奥州の菊池氏の起源

(問い) 奥州特に福島県地方の菊池氏の成り立ちについて見解をお聞かせください。先日、近藤安太郎様のご著書『系図研究の基礎知識』を読みましたところ、奥州菊池氏の成り立ちについて、基本的に肥後菊池氏とは無関係と見るが、下野に来住した肥後菊池氏の系統である可能性もあり、との見解が示されてありました。樹童様はどのようにお考えでしょうか?
 一方、菊池氏には秀郷流藤原氏の系統もある、という分類を見たことがありますが、どのような系統なのでしょうか?
 
 (樹童からのお答え)

 1 これまで北関東から奥州にかけて分布する菊池(菊地)氏について、検討したことはありませんでした。それは、中世までの大族として必ずしも現れず、管見に入った系図類にも見たことがなかったからです。そのため、お答えもきわめて不十分な感を免れませんが、とりあえずの感触を記述してみました。

2 近藤安太郎氏の著書『系図研究の基礎知識』の754頁には、ご指摘のように、葛西氏の配下で陸中・江刺郡の角掛にあった武士として、菊池氏をあげ、「肥後の菊池氏との関係が推測されるが、全くかかわりはないであろう。ただ奥羽には比較的、菊池・菊地氏が多く、ことに下野国那須郡鍋掛には、肥後菊池氏の族がつとに来住したとの伝えがあり、あるいはそれかも知れない。」と記述があります。このほか、同書の1625頁には肥後の菊池氏に関して、「野州鍋掛菊池氏系図」の一部が引用されています。
  太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、さすがに関東奥羽の菊池氏について多く取り上げられており(キクチ条25〜30項)、なかでも下野鍋掛の菊池氏の系図を具体的に記載しています。これらの記事などを基礎に考えてみようと思います。

3 江戸期の下野鍋掛に本陣として菊池氏があったことは、十八世紀半ばに著された「奥州道中 増補行程記」(盛岡藩士清水秋全著)に鍋掛の「御本陣 菊池助之丞」とあることから確認されます。同家に伝える系図では、南北朝期の菊池本宗武光の子の本宗である武政(1342〜74)の次男武泰(菊池因幡、菊池郡平田館居住と伝)の子孫と称し、兄武直により平田館を押領されたため、武泰が肥後を退いて下野に行き応永年間(1394〜1428)頃宇都宮氏に属したといいます。その後、常陸の佐竹氏に属したものの、佐竹氏が慶長に出羽秋田に転封となったとき、一部は秋田に随行し、他は下野那須郡などに浪人し、久慈郡依上郷の菊池氏も一族だとします。
  しかし、この系図には疑問がきわめて多く、まず信拠できないと考えられます。肥後の菊池武政の子に武直・武泰兄弟は見えませんし、肥後から下野に来住した理由もまったく不自然だからです。太田博士が記載するように、鍋掛の菊池氏に伝わる位牌では、「元和九出羽守盛久、明暦三盛次、元禄十三盛房」とあり、また菊池家緒所記録に「菊池出羽平盛久・天正五年六月」ともあるように、姓を平氏とし、通字も「盛」とするからでもあります。
  ただ、下野鍋掛と常陸国久慈郡依上郷の菊池氏とが同族であるという所伝は、傾聴してよいと思われます。常陸には菊池という苗字が現在でもかなり多く、これはその基盤が古くからあったことを思わせます。おそらく、何らかの形で久慈郡ないし那須郡の古族の血筋ではなかったかと推されます。

4 北隣の福島県でも、磐城白河郡、岩代の安達・田村・会津の諸郡などに菊池氏が見えており、これら常陸・下野・磐城・岩代の菊池一族はみな同祖であったことも考えられます。磐城白河郡の菊池氏は、甲子温泉(現福島県西白河郡西郷村真船)の温泉別当を務めた家柄と言い、また会津地方の大沼郡野尻村の稲荷神社神職にも菊池氏があったということは、古族末裔の色彩が窺えます。甲子温泉から山を越えて南に十キロ弱進むと、那須郡の湯本温泉と温泉神社があるという事情があります。
  安達郡塩松の菊池氏については、応永己卯(1399)に肥後より下ってきた菊池掃部介を祖とすると伝えますが、この辺も疑問と考えられます。

5 岩手県では、陸中江刺郡が菊池氏分布の中心です。同郡の伊手と角掛(ともに江刺市東部)に居住の菊池氏の活動が江刺郡における南北朝時代に関する口碑にあって、角掛の菊池氏は江刺氏の重臣七家の一とされました(『奥南旧指録』)。これらは肥後の菊池氏の流れと称されますが、この所伝にも疑問があろうと考えられます。
  角掛(江刺市玉里字大松沢)の菊池氏は、応永年間(1394〜1427)に肥後の菊池武秀が流浪して来て、角掛村長鞍沢に菊池館を築いて住んだが、その子孫の武恒は羽山館に移り、三代にして豊臣氏の奥州仕置きにより帰農したと伝えられています。

  なお、菊池氏について、秀郷流藤原氏の系統という分類は管見に入っていませんが、あるいは戦国期に豊前大友氏から養嗣として入って菊池惣領となった義武が出ており、大友氏は秀郷流とも称していましたから、それを言うのかもしれません。私は、利仁流藤原氏*という肥後菊池氏の系図を見たことはありますが、これは明らかな仮冒です。
 *利仁流藤原氏の菊池氏という系図は、鈴木真年翁編『百家系図』巻10に見えており、利仁の子の叙用の子の則親(ここまでは『尊卑分脈』に挙げる。ただし、則親は吉信の子とする)に続けて、「助高(対馬守、大宰大監)−政則(大監)−則隆(大夫少監)」とするもので、併せて肥前の高木氏についても、叙用の子の文紀の子に文時−文貞と続けて、「高木祖」と記される。いずれも荒唐無稽だが、菊池氏と高木氏との同族関係は肯定されるのかもしれない。

6 (一応の結論とそれを進めた推論)
 (1) 以上に見るように、下野、岩代、陸中の菊池氏には、いずれも応永年間に先祖が肥後から下ってきたという年代的に共通な部分があることに気づきます。
  これは、南北朝内乱期、病身のため家督を譲って陸奥の各地を流浪したという伝承をもつ菊池武士とも何らかの関係がありそうにも思われます。菊池武士は、菊池武時の第十二子で、兄武重の死後に惣領となりましたが、惣領の器量がないとのことで惣領を辞して出家し、その跡を兄で庶子にあたる豊田十郎武光が継いで惣領となったものです。武士の没年は、応永八年(1401)かといわれており、年代的にほぼ符合しますが、武士の子孫は具体的には知られておりません。武士・武光の兄弟は数多くあり、菊池一族は肥後一円に多かったのですが、関東・奥羽辺りまで流れてきたとか移遷したとかいう所伝の人物は、肥後菊池氏の系図には見えません。

(2) おそらく、陸中の菊池氏も当地古族の末流で、遠い先祖は久慈郡・那須郡・白河郡辺りの山間部にいた菊池氏の先祖と同族だった可能性があります。こう考えると、その古族とは石城国造や那須国造と同族の丈部ではないかと推察されます。丈部は古代陸奥に広く分布しましたが、那須郡の温泉神社(現那須郡那須町湯本上ノ山)は那須国造が奉斎した古社で、延喜式内社にあげられており、現在の同郡内には約八十社の温泉神社を数えるといわれます。
  石城国造の領域にも式内社の温泉神社(現いわき市常磐湯本町三函)があり、那須郡の温泉神社と同様に少彦名命(これに加え、大己貴命)を祭神とします。那須国造については、皇別で大彦命後裔の阿倍氏族という系譜伝承もありますが、本来は石城国造と同族で天目一箇命(少彦名神と同神か兄弟神)の後裔とするのが妥当であり、両国造を同祖とする系図も、中田憲信編『諸系譜』巻十五に「那須直」系図としてあります。
  菊池(菊地)という苗字がなぜ那須・白河郡辺りに生じたか分かりません。おそらく地名に因るものでしょうが、現在のところ管見に入っていないからです。菊池・菊地の古訓ククチが、古語「くくもる」(内に「こもる」の意)ような形状の土地ということ(『古代地名語源辞典』)であれば、こうした形状による地が同上地域にあって、それに因った地名・苗字とするのが自然です。なお、石城国造の領域には菊多(菊田)郡という地名も見え、同国造の末裔とみられる称平姓磐城一族には菊田氏が見えると共に、同郡に因む湯坐菊多臣という姓氏を丈部継麻呂が貞観12年6月に賜ったという記事が『三代実録』に見えます。

  (03.11.9 掲上)


<saito様からの返信> 03.11.11受け

 見解を賜り大変ありがとうございます。奥州菊池氏に関する考えがだいぶ整理できてきたように思います。やはり奥州方面の菊池氏に関する既存系図は、菊池武士の諸国流浪と南北朝時代の武将の各地転戦に関連した付会であると考えるのが順当のような気がします。
 しかし、それ以前のかなり古くから菊池(菊地)の称が広まっていたことは事実と考えられ、その理由がどこにあるのか興味がもたれると思われました。


(樹童からのお応え)

 肥後の本拠地辺りでは、庶流が菊池を名乗らなかったため、殆ど菊池の苗字が見られないのに対し、北関東から奥羽にかけては菊池あるいは菊地の苗字が頗る多く、茨城県では県内の苗字のベスト10に入るほどだと聞いています。
 こうした幅広い分布は、古代から広くこの地域に勢力をもった氏族が関係するものだと推されます。どこか「菊地」という地名が見つかり、また肥後菊池には無関係の陸奥菊池の系図が見つかれば、次の考察に進めると思うのですが、……。

  (03.11.16 掲上)
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