長尾氏の一族諸氏

(問い)
 
 長尾氏の系譜についての詳しい情報、どうも有難うございました。その後、再び長尾氏について調べてみたんですけど、幾つか気になる所を見つけました。
 
1 一つ目は、宝治合戦の生き残りである長尾四郎景忠の事です。一般に宝治合戦で捕縛され配流されたのは四郎景忠だと言われていますが、資料によっては四郎景忠ではなく次郎兵衛忠景となっているのです。景忠と忠景は果たして同一人物なのか別人なのか、もし別人だったとしたら景忠は誰の息子になるのか気になります。宝治合戦で滅亡した人に長尾新左衛門尉四郎(新六定景の4男?)がいますが、景忠と忠景が別人だとしたら左衛門尉四郎が景忠の父なのかもしれません。唯、私は景忠と忠景は同一人物だったと考えていますが...。
 
2 二つ目は、南北朝期の景忠の実父である新五郎景為の系譜についてです。
 新五郎景為の系譜は二つ挙げられます。
  A.長尾為宗_景臣_景能_景為
  B.長尾定景_景茂_景能_景為
どちらの系譜も世代を考えると無理が有ると思います。やはり、樹童様が提案なされた、四郎景忠_景能_景為が一番妥当なのかもしれません。
 
3 三つ目は、書物に出てくる宇留窪長尾氏、佐貫長尾氏、伊豆長尾氏の存在です。これらの長尾氏は本当に存在したのか、仮に存在していたとするなら系譜上の位置付けはどのようになるのか気になります。
 
 如何でしょうか。御意見を頂けましたら幸いです。
 
 

 (樹童からのお答え)

1及び2について 
 次郎兵衛忠景と記されている資料を見ておりませんので、即断はできないのですが、長尾氏は宝治合戦で殆ど族滅したのではないかとみられますので、景忠と「忠景」は同一人物とみるのが自然なように思われます。
 新五郎景為の系譜については、長尾為宗の子孫があったかどうか分かりませんが、鎌倉期の『東鑑』に見える長尾一族は定景の子孫であったことから、宝治合戦で生き残った景忠の子孫に位置づけ、世代などから考えてみた結果です。
 以上は、現段階の試案・推論ですので、新資料が出てくると、まだ再考の余地があります。

3について
 お問い合わせの長尾支族については、あまり知識がなかったので、この方面に造詣の深い川部正武様に尋ねてみたところ、次のような返答でした。
(1) 宇留窪長尾氏
越後長尾氏初代の景恒か古志長尾氏初代の景春の子になる下田城主の豊景が宇留窪因幡守を名乗っていますよね。
豊景は「無双ノ強将」と呼ばれた有名人ですから、子孫を名乗る家も多いのではないでしょうか?
謙信時代の遠江守藤景もこの系統ですよね。
 
(2) 佐貫長尾氏
上総といえば鎌倉時代以降は足利氏、犬懸上杉氏が守護でしたから、それと縁のある長尾氏といえば犬懸上杉氏に仕えた千秋上杉一族の長尾兵庫助藤明、藤景、景雄が考えられますよね。
また、鎌倉大草紙で「佐貫長尾氏」とあることから考えると、犬懸禅秀の武蔵守護代を務めた千秋長尾景雄(氏春)の後にも佐貫に長尾氏が続いていたような書かれ方ですね。禅秀の乱で千秋長尾氏が滅びた後に鎌倉長尾氏か犬懸長尾氏が佐貫を得たのでしょうか? 特に「犬懸」長尾氏と言うからには禅秀の居館の地「犬懸」に住んでいたということですからね。禅秀一味の没収地を得ていてもおかしくないと思います。
 
(3) 伊豆長尾氏
伊豆ですか・・・、山内上杉氏が守護の時に関係したかもしれませんが、全くわかりません。
 
 私としても、少し調べてみたところ、次のように考えてみました。
  (1) 宇留窪長尾氏
上野国勢多郡漆窪(現富士見村)は、嘉吉年間頃から永禄末年まで長尾氏の領地であり、「前橋風土記」には「長尾大膳が居る所なり」と記され、大膳は石倉城主長尾景善の弟で、長尾大善の養子となって石倉から当地に移り大膳を襲名したと上野伝説にある(富士見村誌続編)、と『角川日本地名大辞典』に見えます。
同辞典には、天文廿三年(1554)十月六日の北条家朱印状に、「漆窪長尾源六郎一跡」と見えて、この長尾源六郎改易のあと一跡を那波氏が買得したことも記されております。また、漆窪村の字榎畑には、長享元年(1487)に漆窪城主長尾大膳長景が草創したという長桂寺があるとも記されます。
石倉城主長尾氏についても、よく分かりませんが、石倉は群馬郡石倉(現前橋市で利根川右岸)で惣社の近隣ですから、地理的にみると惣社長尾氏の一族かと推されます。『姓氏家系大辞典』ナガオ25項では、勢多郡の漆久保塁には長尾大膳が拠り、同郡八崎城には長尾左衛門尉憲景が築いたと記されます。
この漆窪城主長尾氏と川部様から教示のあった宇留窪因幡守豊景との関係は、分かりません。
 
(2) 佐貫長尾氏
『鎌倉大草紙』の「憲忠誅殺」の項に、「この頃(事件のあった享徳三年〔1454〕の頃)、管領上杉右京亮憲忠の名代として長尾左衛門入道景仲が勢威を振るっており、関東八州の中に長尾の名字の家は三家あり、上州白井の長尾、総州佐貫の長尾、越後の長尾」という記述があります。
この文脈から考えていけば、「総州佐貫」というのは誤記で、当時の長尾氏のなかの勢力を考えれば、「鎌倉→足利→館林」系統の長尾氏を考えるのが妥当ではないかと思われます。
これに加え、上総国天羽郡佐貫郷(現富津市佐貫)に佐貫城がありますが、『千葉県誌』には応仁年間(1467〜69)、上総武田氏の武田義広の創築が記されるといわれ、この辺は確かではないとしても、永正四年(1507)の鶴峯八幡宮の棟札から、この時点では武田真里谷氏の領域であったことが分かり、長尾氏の居住が確認できない事情にあるからです。
更に、上野国にも邑楽郡佐貫庄(明和村・館林市の一帯)があり、同庄の館林城には足利の長尾景長が永禄五年(1562)に入城していて、年未詳(永禄六年か?)二月廿八日の長尾景長書状に「先年戌歳、佐貫庄館林打入候」とあると『角川日本地名大辞典』に見えます。しかし、長尾景長の生没年(1463〜1528)から考えると、奇妙ですが、『長楽寺永禄日記』にも永禄八年正月四日条に「熊寿殿(長尾顕長で、長尾政景の養嗣)へも佐貫ニテ越年留守」とありますので、足利長尾氏に所縁の地が上州佐貫と考えられます。
 
(3) 伊豆長尾氏
伊豆の長尾氏については、資料で見たことがありませんので、なんとも言えませんが、上杉氏が守護の国に伊豆があり、その守護代を長尾氏が務めているので、その当事者をこう呼んだのかも知れません。基本的に、川部様と同じ見解です。

  (03.10.13 掲上)


  (川部正武様よりのコメント) 03.10.15受け

 佐貫について両論整理

@上野国説
 享徳三年に鎌倉長尾氏が滅び、以降は足利長尾氏が続きますが、この時点で(鎌倉・足利)長尾氏が館林(佐貫庄)を領有していたか?
 「足利」長尾氏というのは畏れ多いから「佐貫」長尾と言ったのか?

A上総国説
 犬懸上杉氏滅亡後に(鎌倉・犬懸)長尾氏が上総に所領を得た可能性があるのか?
 上総佐貫城主の長尾氏とは千秋長尾氏のことか、鎌倉・犬懸長尾氏のことか?

 という点が解明されないと結論は出ないと思いますが、鎌倉大草紙がわざわざ「総州」と明言していますし、これは禅秀の乱以前の千秋長尾氏の事の可能性もあるので、とりあえず誤記とは言い切れないのではないでしょうか?


 長尾三家と言う場合に足利、白井、惣社というのが後世の考え方ですが、いずれも長尾景忠の子孫と言う点で同族扱いすれば、一つにまとめられ、千秋上杉系長尾氏と越後長尾氏とで三家になるか、

 鎌倉(足利)長尾氏は白井・惣社両家とは発生過程が別(家号の点で)とも考えられるので、それに越後長尾を加えて三家という二つの可能性が考えられます。

長尾三家と言っても時代によって構成が変わると思いますので(両上杉と同じく)結
論は出しづらいですね。


  「上州佐貫」と言ったら混同がおこるかもしれません。
 そういう意味で「佐貫長尾氏」というのはなかなか興味深いテーマだと思います。

  (03.10.17掲上)

      (応答板トップへ戻る)      
  ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ