□ 島守氏と南部一族 (問い) 私たちは九戸の乱の頃、八戸直栄によって陥落し山中に逃れた島守館守備兵の末裔と言い伝えられている一族です。 先祖の主君である島守安芸について調べていたのですが、『参考諸家系図』には、代々南部家に仕えているようにあります。しかし島守安芸は九戸の乱で九戸方についたと言われていますので、少しおかしいのでは?と悩んでおります。また『聞老遺事』の「信濃守利直公岩崎御出陣人数定」には安芸の弟(あるいは息子)と言われる北湯口主膳の名があり、『参考諸家系図』にある安芸は本当にご先祖様の主君なのか、自信がなくなってきました。
掲示板を通じ、ご意見が聞ければと思います。
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(樹童からのお答え) 1 島守(嶋森)氏は、陸奥国三戸郡島守村(現青森県三戸郡南郷村大字島守)に起った氏で、同地の島守館は清和源氏南部一族の四戸氏庶流島守安芸の居城であったと伝えられます(「南部根源記」)。ご質問にもありますように、島守安芸(実名不明)はもと四戸太郎左衛門といい、天正十九年(1591)の九戸の乱の際に九戸政実方に与して、南部信直方の八戸南部氏十八代政栄に攻略されて滅亡し、館の守備兵は北方近隣の麦沢村(現同郡福地村麦沢)に落ち延びてきたと伝えられます(「南部諸城の研究」)。
一方、『参考諸家系図』三十八に所載の嶋森氏は、南部一族ではなく、異姓之二十八にあげられるもので、「本名工藤、北湯口」と記され、姓藤原で始め北湯口安芸と号した光茂から始まっております。光茂はもと稗貫氏の家臣で、その後南部信直に仕えて三戸郡嶋森村に采地を賜って、嶋森上総と号したと記されますから、同じ土地に因む苗字でも別の氏であることが分かります。
2 『参考諸家系図』の嶋森氏の記載をもう少し記しますと、初祖の光茂は、「稗貫大和守の家臣で稗貫郡北湯口村を領していたが、天正十八年(1590)稗貫氏没落の時に浪人して三戸に来て、南部信直公に仕え、三戸郡嶋森村に千石(一本に五百石)を賜り、八戸御郡代を勤めた」とあります。
その妻、花巻岩清水蔵人義因女との間に光房・光里の二男子があり(一本では、光房・光里は同一人とする)、光房は始め嶋森であったのが、信直公のとき家督となり、北湯口村に三百石を賜って命により北湯口主膳とに改め、利直公の元和二年(1616)花巻御郡代となったが、その後は不詳であると記されます。その弟とされる権右衛門光里は、始め湯口といったが、年十七のとき花巻御郡代北松斉信愛に召し出され、和賀郡二子村に五十石を領したが禄を収められ、その後、公子政直君により再び花巻に召し出され和賀郡黒岩村に五十石を賜り、重直公の慶安二年(1649)願により嶋森氏に復したと記されます。
嶋森光里の子の権右衛門光長以下も同書には記載されますが、光長から数えて七代目が嶋森佐市となっており、ここまでが記載されています。以上の系譜記事を見ますと、光房と光里との関係について、若干疑問もありますが(兄弟よりも親子としたほうが妥当なように思われます)、嶋森氏の稗貫郡出自は信頼して良さそうです。北湯口村は現在、花巻市北端部にあって、この地に湯口を名乗る氏がいたことも確認されます。『湯口村誌』によると、「蜷川日記」に天文年間稗貫氏の家臣の湯口大蔵丞という者が見えて、当地を治めていたとされます。
太田亮博士は、この湯口氏は稗貫一族だと記しますが、『参考諸家系図』の工藤一族という記事でよさそうに思われます。工藤氏は伊豆に起こり、鎌倉北条氏に従って甲斐や陸奥の岩手郡・糠部郡等に展開しました。奥州征伐後に陸奥にあった工藤一族では、岩手郡の厨川〔栗谷川〕、葛巻、田頭、煙山、飯岡、糠部郡の名久井などが知られます。甲斐工藤一族の横溝氏も、陸奥の三戸郡にありました。
3 次ぎに、清和源氏南部一族ですが、戦国期に陸奥南部の本宗となった三戸南部氏については、室町中期頃までは動向がよく知られません。むしろ室町中期頃までは八戸根城にあった八戸南部氏の活動がよく見えますが、室町後期には急速に衰え、代わりに三戸南部氏のほうが急速に台頭します。こうした事情にあってか、南部氏の系図もかなり難解であって、本宗家と雖も、『参考諸家系図』記載の系図が信用できるものとはいえません。その庶子家についても同様であり、四戸氏の系図も歴代についてほとんど裏付けがありませんし、同書記載の系図は比較的簡単で、庶流島守氏の記載もありません。
そもそも、「四戸」という苗字の起源の地自体が不明確であって、浅水村(現五戸町浅水)と名久井村(現三戸郡名川町名久井)が擬定地とされます。三戸・五戸の間に位置すること、名久井には工藤氏がいたことから考えると、浅水説のほうが妥当だと考えられますが、四戸氏の系譜についてもまた疑問があるものです。
すなわち、『参考諸家系図』には、南部氏始祖の光行四男宗朝が二戸郡四戸郷を賜り、四戸孫四郎と名乗ったと記されますが、宗朝の名は『尊卑分脈』には光行の子も含めまったく見えません。これは、九戸氏の祖とされる五郎行連も同様です。このほか、七戸氏の祖太郎三郎朝清の位置づけなど、現在通行する南部氏系図には、疑問な個所が多々あります。
これらに関連して、中田憲信編『諸系譜』巻六記載の「南部総系図」には、南部二代の実光の子の孫四郎宗光が建長二年八月に奥州糠部の地を賜って移住したとあり、その子に孫三郎宗実、さらにその子に彦三郎宗綱(又、宗経)と続けて、宗綱の子に彦五郎宗行、一戸彦太郎行朝、四戸孫四郎宗朝、九戸五郎行連という系譜をあげます。ここに見える孫三郎宗実は南部三代時実の子で、彦三郎宗綱は宗実の兄弟の実政と同人で南部五代の宗経同人ではないかと思われますが(従って、宗光、宗実、宗綱は各々養子関係か)、これらも含めて「南部総系図」はなかなか興味深いものです(ただし、こちらもあまり裏付けがあるものではない)。
四戸一族からは櫛引、中野、武田、金田一、足沢などの苗字が出ました。このなかでは櫛引氏が優勢で、島守館はその麾下にあり、北西の三戸郡櫛引城(八戸市)の櫛引将監清長と連携して、南部信直方の八戸南部氏と対抗したと伝えますから、島守氏は四戸氏のなかでも櫛引庶流ではないかと推されますが、現存する櫛引氏の系図には見えません。
島守館落城の後に麦沢に逃れた人々がすべて島守安芸の血縁関係者であったかどうかは不明ですが、先祖が島守の地から来たということで、島守を苗字としたものとみられ、小さな集落で長い間の通婚により皆同じような血が流れているのではないかと考えられます。
以上、管見に入った資料を踏まえて、ご質問に答えるように努めましたが、貴殿がご承知の事実をあまり出るものではなかったという程度となりました。
(以上)
(04.2.15 掲上) |
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