美濃の竹腰氏とその系譜

(問い) サッカーの日本代表を長く務めた竹腰重丸氏は、大分県臼杵市の出身です。現地でも調査しましたが、臼杵藩士については幕末の名簿しかなく、その由来を確かめることは不可能でした。
 竹腰重丸氏については、藩士に竹腰姓は一家しかなく、臼杵藩主の稲葉家が美濃出身なので、大垣城主を務め、一族が尾張藩付家老になった美濃の竹腰氏の出では?と想像していますが、何の証拠もありません。竹腰姓について、ご存知のことがあればお知らせ下さい。
 

 (樹童からのお答え)

 竹腰氏は地名に因る苗字とみられますが、この地名については、同訓の竹越は武蔵・相模などに見えるものの、竹腰は日本全国を見ても尾張国中島郡竹腰(現稲沢市竹腰)しか管見に入っておりません。一方、竹腰を名乗る一族は殆どが美濃国内に見えており、羽栗郡竹鼻城(現羽島市竹鼻)、同郡柳津城(現羽島郡柳津町)、本巣郡唯越城(現瑞穂市〔もと本巣郡穂積町〕只越)、各務郡岩田城(現岐阜市岩田)などに拠ったことが資料から知られます。このうち、羽栗郡竹鼻城には応仁年中に竹腰伊豆守が居住していたと伝えますから、居住所伝のなかでは資料に見える最古となります。
   竹鼻・柳津・只越の三個所は比較的近い地域に纏まっており、南の竹鼻からその北北西にあたる只越まで約十キロの距離であり、また竹鼻からその東南に約十キロ行けば竹腰の地となりますから、この一族は尾張の竹腰に起り、美濃国竹鼻に拠点を置いて同国内に発展したことが推定されます。竹鼻と竹腰とは、語感が似ているような気がします。
 
 江戸時代の尾張藩徳川家の御付家老として竹腰氏がおり、藩祖義直公の異父兄竹腰小伝次(山城守)正信を祖として美濃国安八郡今尾(現海津郡平田町今尾)に三万石を領して藩政を見ており、慶応四年正月には大名諸侯となり、明治になって男爵に列しました。
   その系譜は、近江の佐々木一族大原支流と称しており、佐々木本宗の近江守信綱の長男太郎重綱が近江国坂田郡大原郷に因んで大原(小原とも書く)を名乗り、その八世孫伊予守綱高の次男が竹腰七郎左衛門尉重綱であって、この者が竹腰氏の祖と伝えます。重綱以降は、その子の重直−重時−光昌(重昌、正時)−正信と続く系図を伝えますが、この系図にはいくつか疑問があります。それらを列挙しつつ、竹腰氏の系譜について検討を加えてみますと、次のようなものです。
 
 (1) 竹腰姓の初祖とされる重綱には、尾張竹腰に居住した事績が知られません。重綱は近江大原の領主とも伝え、また同人とその弟・彦五郎尚綱は各務郡岩田城に居て、後に安八郡大垣の城主となったと伝えます。大垣築城の城主については、重綱が最初とも尚綱が最初ともいい、また宮川吉左衛門尉安定が築いたなど諸説あります。とりあえず、明応九年(1500)に竹腰彦五郎尚綱が牛屋郷に築いたという所伝に拠ることとしますが、竹腰氏で確実な大垣城主は重吉(重直)です。
     『徳川諸家系譜』「柳営婦女伝」にある竹腰氏の記述は「先祖江州竹腰村の人にして、佐々木の庶流と云い伝う。中興竹腰七郎重綱、斎藤山城守道三に仕え、のち剃髪して道鎮と改め、濃州大垣城主なり」とみえ、重綱−重吉(正安)−重時−正時−正信という家系を記述しますが、こうした所伝は実際とは微妙に異なって伝えているようです。
     なお、竹腰重綱が出たという近江の大原氏については、その系図が室町後期にはあまり詳しくものはなく、この辺からは重綱の系図の是非は分かりません。前掲の伊予守綱高の兄成信の子が政重といい、その養嗣に六角高頼(1462生〜1520没)の子の高保(次郎高盛。1548没)が入って、以降はその子高方(1541年没)、その養嗣高定(1547生〜1620没。六角義賢の子で、次郎左衛門賢永)と続きますから、大原氏の重綱が実在したとしたら、その年代がほぼ推定されます。
     これらの事情から、竹腰重綱・尚綱兄弟は土岐頼芸・斎藤道三の頃の十六世紀前半の人とみられます。ところが、前掲したように、既に応仁の頃には竹腰伊豆守という者がいたと伝えますから、この辺に年代的な矛盾があります。
 
 (2) 重綱・尚綱兄弟の次の世代に当たるのが、「新撰美濃志」安八郡大垣城条に見える竹越摂津守重吉入道道塵(道鎮、道珍、道椿とも書く)であり、天文十七年(1548)から永禄二年(1559)まで大垣に在城したと同書に伝えます。それ以前に、竹腰摂津守重直が六万石のどを領有して大垣に在城し、天文十三年(1544)に織田信秀が攻め落としたとも伝えます。このように、重吉は重直ともいい、重綱の子で、尚綱の跡継ぎであって、美濃国守となった斎藤義龍の重臣として、道三と義龍とが争った弘治二年(1556)の長良川合戦では義龍側で討死しています。
     重直の跡は、叔父に当たる者という(実際には一族で従兄弟くらいか。案ずるに尚綱の子か)成吉尚光が継いで竹腰摂津守と名乗り、羽栗郡柳津城主で斎藤氏の重臣でした。竹腰尚光は斎藤義龍・龍興親子に仕え、安藤守就・氏家卜全・日根野弘就らとの連署状が多い人物ですが、生没年不詳です。この尚光が西美濃十八人将の一人、竹腰摂津守守久に当たるとみられます。重吉(重直)には吉保という子があったようで、この者は天正九年(1581)に没したと伝えますが、重直の子に重時という者が実際にいたかどうかは確認できません。
     また、尚光の子としては、竹鼻城主竹腰伊豆守尚隆が知られ、同人が美濃国守斎藤家没落時の当主とみられます。この竹鼻辺りが竹腰氏の戦国期の本拠とみられることは前述したとおりです。竹鼻には八剣(はっけん)神社があり、これは熱田神宮にも同名(やつるぎ)社がありますが、和邇氏族や尾張氏族など海神族の祖神八千矛神を祀る神社です。竹腰の五キロほど北東の稲沢市赤池町にも八剣神社が鎮座しています。このほか、旧羽島郡には八剣神社が多く、岐南町下印食や羽島市桑原町八神に同名社が鎮座しています。
 
 (3) 竹腰山城守正信は初め正次のち正徳、さらに正信と名を改めており、その父は定右衛門正時といい、その父祖を正安とも伝えますから、同じ竹腰氏でも、「正」を通字としていて、竹腰本宗とは別系統ではなかったかとみられます。重吉の別名を正安、重昌の別名を正時とするのは、二つの系統を合一化した結果ではないでしょうか。世代的に考えても、重綱から正信(1591生〜1645没)までは一世代多いように思われます。また、一説に正信の父とされる竹腰助九郎光昌は名前や年代からみると、摂津守尚光の子か弟におかれる可能性があります。正信の父が重昌(重正)という名前とされるのも、いずれも「昌(正)」に着目して系譜附合された可能性があります。
 
 (4) 竹腰氏の姓について、「柳営婦女伝」には注として竹腰正安は金森族にて土岐の源氏なりとも記し、また一説に「正安は斎藤家族なり。梅鉢内は金森家紋なり」という異説も掲げています。このように、藤姓とも源姓ともいわれて、姓氏は不明であり、梅鉢紋と一族が中島・羽栗・安八郡などに分布した点などを考慮すると、竹腰氏は美濃・尾張に古代繁衍した和邇氏族の末流ではなかったかと推されます。
 
 (5) これに関連して、家紋学の大著・沼田頼輔『日本紋章学』では、『塩尻』を引いて同書に、竹腰氏が「宇多源氏の出で、その家紋に梅鉢を用いたが、のち菅原氏に改めた」とあることを記しています。沼田博士は、戦国時代において天満宮の信仰が最盛だったのは美濃であり、この国に起った前田・堀・金森・竹腰・深尾などの諸氏がいずれも他姓から出て、のちに菅原氏に改めたのは、系譜学上もっとも注意しなければならない現象ととらえており、『土岐累代記』の記事から美濃の斎藤氏が氏神として天満宮を崇拝し梅鉢紋を用いたことも挙げております。これら家紋関係の記事で、上記(4)の説明がほぼできそうです。
斎藤氏や前田・堀などの諸氏は利仁流藤原氏と称しておりますが、その実際の系譜が古代和邇氏族の流れを汲んだものであったことは既に本HPの別項で記しています。金森は土岐氏族と称していますが、これも疑問な事情があります。竹腰と同じく近江佐々木一族の出と称した深尾氏については、同氏が真野氏から出たといい、真野氏は平安後期に佐々木宗家から分かれた系譜(秀義の叔父五郎大夫行範を祖とする)を持っていますから、佐々木一族といっても同日に論じることはできないようです。
こうして見ると、結論的には竹腰氏の系譜が佐々木一族の出だという系譜や戦国期になって初めて生じた苗字ということには大きな疑問があり、総合的に考えて濃尾の古族の流れとするのが自然だといえそうです。
 
 竹腰重丸氏の出た家が臼杵藩士であった場合には、臼杵藩主の稲葉家が稲葉一鉄の子孫であり、もともと美濃出身なので、大垣城主を務め、一族が尾張藩付家老になった美濃の竹腰氏と同族であったことが推されます。この辺は貴見と通じるものと考えられます。ただ、臼杵藩士竹腰氏の家格・禄高あるいは歴代の名前などについて、私には不明なため、上記の竹腰本宗や尾張藩付家老の家とはどのような関係にあったかはまったく不明です。竹腰氏が濃尾古族の末裔であれば、この地方にかなり分布していたことになりますが、おそらく重綱以前に分かれた支流ではないでしょうか。

  (03.12.29 掲上)
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