薩摩の田中氏とその同族

(問い)わが家は木瓜の家紋で、先祖は薩摩から日向の都城へ来た田中氏という伝えがあり、この関係の一族の活動・系譜などを調べています。そのなかで、興国三年の文書をはじめとして伊作平氏の一族とともに田中氏の活動が見え、起源の地については現鹿児島県日置郡吹上町の和田の小字に本田中・田中前があり、『吹上郷土史』に和田八郎親純が伊作郡田中城にあったとされますので、この地から田中氏が薩南各地へ展開したのではないかとみています。
  古代隼人との関係もあるのではないかと考えていますが、これらを含めて教示して下さい。
* 『加世田郷土史』には、応永廿七年(1420)平姓別府氏が島津久豊に降伏し臣従したが、その宿老に田中周防守があったと記し、『頴娃町郷土史』には、大永二年(1522)平姓頴娃氏の一族藤原(田中)純言が伴姓肝属氏に臣従し、頴娃郡仙田村松原田に居住と記される。
 

 (樹童からのお答え)

(1) 薩摩・大隅の隼人の後裔と田中氏の関係について

  古代末期以降は、隼人の後裔と称する氏は薩隅地域からまったく姿を消しておりますが、幾つかの徴証から実系は古代の隼人後裔ではなかったかとみられる諸氏が多少あります。
  そうした姓氏としては、薩摩では、薩摩郡の大前宿祢一族(東郷在国司、祁答院郡司などの諸氏)、同伊佐郡の称大秦宿祢(実は薩摩宿祢姓か。牛屎などの諸氏)くらいです。大隅では、日下部宿祢(桑幡−大隅国正八幡宮神主、称息長宿祢姓。吉田、蒲生〔称藤原姓〕などの諸氏)、加志公(加治木−姶良郡加治木郷司、もと藤原姓と称し改大蔵朝臣姓)が考えられますが、これら薩隅の姓氏の流れをくむ苗字には、田中は管見に入っておりません。
  そのほか、かって「隼人族長の系譜」という問題を検討をしたことがあり、そこでは大隅国曽於郡の檜前部一族(税所などの諸氏)、同国肝付郡の伴部一族(肝付などの諸氏)も検討の対象として取り上げましたが、これら姓氏はおそらく肥後の葦北国造一族等の出で、隼人族とは別の出自ではなかったかとみられます。太田亮博士は『姓氏家系大辞典』タナカ条93項で、肝付氏族として大隅の名族にありとして、「田中平七」などをあげますが、具体的な系譜・出自を記さず、名乗りからすればむしろ肝付一族としては疑問に思われます。あるいは、『頴娃町郷土史』に見える田中純言の族裔にあたるのかもしれません。

(2) 薩摩の田中氏について

 貴信にも見える興国三年(1342)とみられる文書「御感綸旨所望輩注文」に見える知覧忠元手一族が、この関係では最も参考になると思われます。
  そこには、田中八郎入道道意、同九郎忠行(道意子)、同橋左衛(門)尉行純、同兵庫允忠純、同平五郎支秀(友秀か)があげられており、これら名前のつけ方、とくに通字の「忠」と「純(澄)」の差異からみて、同じ田中姓でも知覧氏・頴娃氏などと同じく伊作・阿多平氏の出とみられる者(道意・忠行親子。「支秀」もそうか?)、肥前国彼杵郡を故地とし平姓ないし藤原姓を称する彼杵一族の出とみられる者(行純・忠純)がいたことが推されます。貴家は木瓜紋でしたら、後者の流れであった可能性があります。彼杵一族は薩南で伊作平氏と通婚して、さらに養嗣子として伊作平氏の家(阿多、頴娃など)に入った者も出ています。従って、両一族が同じ田中の地に共住して、同じ田中の苗字を名乗ったものと考えられます。
  その田中の地とは、ご指摘のように、もともとは現吹上町東南部の和田(伊作荘和田村)の小字たる本田中・田中前を含む「田中」だったと考えられますが、このほか、知覧町の知覧氏や別府氏の本拠に近い、同じ知覧町域の「和田」の近くに田中があった可能性もあるのではないかとも思われます。彼杵一族から出た伊作和田八郎親純が田中城を居城としたという所伝は、現吹上町東南部の和田辺りの田中の話としても、この辺りから知覧町の和田辺りに支族が移遷し、そのときに併せて田中の地名も移したことも可能性として考えられるからです。少なくとも、知覧町の東隣にある揖宿郡喜入町喜入の小字に田中という地があります。

  彼杵一族の故地にあたる肥前の彼杵郡にも田中邑(現長崎市東部の大字田中町一帯)があり、北隣に高来郡矢上邑(同市域)があって有馬一族とみられ「純」を通字とする矢上氏が中世居たことに留意されます。建久の薩摩図田帳に加世田別府下司と見える塩田太郎光澄(後掲)の「塩田」も、肥前国藤津郡の地名であり、彼杵及び大村・有馬の一族は肥前西部に置かれた古代葛津立国造の族裔とみられます。
  また、『姓氏家系大辞典』には薩摩の田中氏が「名工を多く出せり」として、頴娃氏家乗に「工師田中土佐純員」とあると記しますが、その名前からみると、彼杵系統の田中氏であったことが考えられます。なお、薩摩には菱刈郡に田中村の地名がありますが、この地から起った氏は不明です。

 伊作平氏も称平姓の彼杵一族についても、多少は関係する系図を見てきましたが、今のところ田中氏は管見には入っていません。〔※追加記事を参照のこと〕
  参考のため、伊作平氏の前掲知覧忠元の系譜を記しておきますと、川辺平次郎大夫良道の三男頴娃三郎忠長(忠永)、その子知覧四郎忠信、さらにその子の知覧平一郎忠益(建久八年の薩摩国図田帳に「郡司忠益」と見える)・忠俊兄弟と続き、忠益の子に四郎忠家・信忠兄弟、忠家の子に忠能・忠光兄弟が見えています(『川内市史』所載の「指宿えい子氏所蔵系図」等)。この忠能と同人とみられる「法名善能」とその子の郡司忠世が鎌倉後期に見え、続いて出羽入道覚善(忠世と同人か?)の子が忠元となっています。おそらく、知覧四郎忠信の後に田中氏は位置づけられるのではないかと推されます。
  一方、藤原姓とも平姓とも見える彼杵一族の系図については、断片的なものが多く、『加世田家系譜並びに文書』(加世田不二男著)に所載の「薩摩平氏略系図」に見える彼杵三郎久澄(前掲川辺大夫良道の女婿)の三男子、すなわち塩田三郎秋純、鹿児島郡司忠純〔宣澄、信澄、重澄ともいい、阿多平権守忠景の養嗣〕、和田八郎親純の各々嫡流数世代以外はよく分かりません。そのなかで、加世田別府下司の塩田太郎光純(秋純の子)の子ともされる益山太郎兼純の子となる忠純(前掲忠純とは別人)が、知覧四郎忠信の兄・頴娃太郎忠方(忠堅)の外孫と見え、伯父忠房(忠継)の養嗣となって鹿児島郡司頴娃弥次郎と名乗っておりますから、益山太郎兼純の族裔にも田中氏が出たのではないかと推されます。益山は加世田別府内の弥勒寺領益山荘に因む苗字です。以上の伊作平氏及び彼杵一族については、宝賀会長の論考「鎮西平氏の流れ」(『旅とルーツ』誌第66号、1994/5)に概略が記されておりますので、併せてご覧下さい。

  なお、彼杵一族とその源流について、『古代氏族系図集成』修補用の氏族概覧として、現段階で一応整理している記事を以下にあげておきます。

「● 肥前国の藤津・彼杵郡は葛津立国造の領域であり、貞観時の藤津郡領葛津貞津はその嫡流か(姓は記載されないが、直姓か)。武家華族の大村氏は彼杵郡大村荘にその名を因み、藤原姓で、もとは平姓を称したが、葛津立国造の族裔とみられ室町期まではむしろ藤津荘に居た。大村一族には、今富、染石、秋月〔秋次〕、田崎、青池、武松、中尾、松原、長與〔長与〕、牧野、日宇、原、永田、村田、吉田、針尾、永岡〔長岡〕、萩尾、堀内、朝長、浅田などの諸氏。貞観時の彼杵郡領永岡藤津も同族か。藤津郡の国史見在の丹生神社祠官馬場氏も同族か。
  また、武家華族有馬氏は平安後期、平正盛に討たれた平直澄(藤津庄司平清澄の子)の族裔であるが、その一族に肥前の彼杵、塩田が出ており、これらは平姓でも、実際には葛津立国造の族裔か。この平姓有馬一族の流れが薩摩日向にもあり、伊作(阿多)平氏と縁組みを重ねてかなりの繁衍をみせ、伊作、和田、益山、小原、山沢、頴娃、小牧、矢上、長谷場、伊敷、中村、大浦などを出した。薩摩では鹿児島郡の長谷場の一族に有馬、亀川がおり、日向国諸県郡には一ノ瀬がいた(これら薩日の諸氏は肥前にも見えるものあり)。
  有馬〔有間〕氏は彼杵郡の南に隣接する高来郡に住んで藤原純友後裔とも称したが、中世文書には平姓で見え、一族の矢上・長谷場は藤原姓と称しており、これらの諸氏では通字で澄(純)を用いた。高来郡の有馬一族には、ほかに貝津、森、白川、山田、島原、深江、西郷、長崎、千々岩(千々石。日向にもあり)、鬼塚(鬼塚は日向にもあり同族とみられるが、佐々木一族溝口の後と称)。これらは大村同族か大宰帥宅牒に見える高来造の後裔か。」

 肥前の大村・有馬の一族はいずれも木瓜()紋を使用しましたが、大村氏は瓜花や瓜葉の紋も用いており、瓜葉紋を用いるのは「麾下の士で田中氏一家あるのみである」と沼田頼輔『日本紋章学』は記しております。田中氏は、上記彼杵郡に起こり藤原姓を称して大村氏に臣従しその活動が中世に見えており、やはり大村の一族だと推されます。
  この木瓜()紋に関して興味深いのは、鹿児島郡満家院の比志島邑(現鹿児島市北端部の皆与志町一帯)に起った比志島氏が同じ?紋を用いていることです。その直接の祖は上総法橋栄尊(比志島左衛門尉重賢)とされますが、その出自が不明でした。ところが、栄尊(重賢)の父を平姓志田次郎左衛門尉栄重ともいい、また塩田次男ともいいますので、中世には祖を志田三郎先生義憲(源為義三男)として源姓とも称した比志島氏の実際の出自は、彼杵一族塩田氏の流れだと推されることになります。志田の祖の栄重も、栄尊と同様に法名であったと考えられ、実名は通字の「純」を用いた可能性もあるのではなろうかとも思われます。
  鹿児島郡には、有馬一族という矢上の一族が郡司として南北朝期まで勢力を持っていたことが想起され、比志島の東南近隣の伊敷町からは長谷場一族の伊敷氏が、その東南の坂元町の催馬楽城には同じく矢上氏が、その東南近隣の清水町の東福寺城には長谷場氏が各々居住しており、これら鹿児島市域の矢上・長谷場一族は南朝に属して活動しました。

これらのほか、角川書店刊『鹿児島県姓氏家系大辞典』には、県内の多くの田中氏があげられ、その多くが姓氏・系譜不明でありますが、上記のほかに薩摩郡東郷町斧淵にあった大蔵姓の田中氏もあったと記されます。薩隅の大蔵姓には、太宰府の官人で東漢直系の大蔵朝臣の流れをくむもの(一般に「種」を通字とする)と前掲の大隅の加志公の末裔とみられるものが中世あったようですが、東郷町辺りだと前者のほうかもしれません。

  以上、現段階では、乏しい史料からいって、分かることはこの程度のものです。

  (03.6.14 掲上)


 ※追加記事

  その後に管見に入ったところでは、山口隼正氏が『惟宗姓国分氏正統系譜』(東大史料編纂所蔵)を『日本中世史論攷』(文献出版、1987年刊)で紹介していますが、同系図の中に田中氏の記事が見えます。

  具体的には、頼朝殿とほぼ同時代の人で、鹿児島郡郡司で高城郡の新田宮執印職の初めである惟宗藤内康友の娘(国分右近将監友久の姉)に「田中九郎康純妻、康佐母」と記されています。そうすると、阿多平権守忠景の養嗣となった鹿児島郡司重純(信純)と同世代であり、田中氏が鹿児島郡関係者としたら、重純の弟か長谷場鹿児島氏の一族であった可能性があるのではないかと思われます。

  (05.8.16 掲上)

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