上杉一族の本宗

(問い)上杉氏についても本来は在京の二橋上杉氏が本宗であり、詫間上杉、犬懸上杉、山内上杉の順であり、山内上杉が単独で惣領となるのは室町時代中期以降だと思います。これについて、どう考えますか。
  (川部正武様よりの来信に関連して 03.7.12受信)
 

 (樹童からのお答え)

 「上杉氏についても本来は在京の二橋上杉氏が本宗であり、詫間上杉、犬懸上杉、山内上杉の順で」という貴見には、従いえないと考えています。その理由は、次の通りです。なお、ほかにも、在京の二橋家あるいは八条家が本来の本宗であったと見解も見た記憶があります。

 (か) 実質的な上杉家祖三郎頼重には、重顕(二橋)、頼成(千秋)、憲房(杉谷)の順で男子がありましたが、上記『上杉家譜』には、憲房について、「三男タリト雖トモ家嫡タリ武略ニ長ス足利尊氏ニ属シ政事ニ預ル播州松井荘ヲ賜ヒ又上州ニ於テ采地ヲ賜フ…(中略)…元弘三年十二月廿九日……京師合戦ノ時自殺ス」と譜註(尻付)が記されており、その長男ではないかとみられる憲顕が足利氏に属して南北朝期に華々しい活動を繰り広げるのも、憲房の家督事情を裏付けると考えられます。

 (き) 憲顕の弟として憲藤(四条〔のち犬懸〕祖。ただし、『尊卑分脈』には「兄」とし、『上杉家譜』には「弟」と記すが、年齢を考えると弟説で良いか)がいたものとみられますが、尊氏に属して二十代ないし三十代初で討死(j時期は暦応元年〔1338〕三月でよいか。『上杉家譜』の建武三年三月、21歳説もあるがやや疑問)したため、家督を継いだのはやはり山内家祖の憲顕と考えてよいと思われます。犬懸家が一時優勢となったので、この両家が室町前期の上杉本宗といえます。

憲藤戦死の時、子の朝房が四歳、その弟朝宗が二歳とされ(『上杉家譜』)、一方、『鎌倉大草紙』には各々十四歳、十二歳と記されて、ともに十歳の差異がある。朝宗が死去したのは応永廿一年(1414)とされ、『上杉家譜』では年七十六と記して1339年生と逆算されるのは少し計算が合わないが、『鎌倉大草紙』の記事だと1327年生で死去時八十八歳となり、これはやや高齢になり過ぎる感がある。憲顕の生年は1306年とされており(『鎌倉・室町人名事典』。『上杉家譜』も同じ)、憲藤はその数年〜五年ほど後に生まれたものとみるのが穏当か、と判断しておきたい。

 (く) 重顕の後の二橋家は、朝定以外殆ど現れず、孫の重氏・直藤兄弟(重藤の子)以降は系図にも見えませんので、これを本宗だという意味はなく、重顕の次男家・朝定の養子顕定の後の扇谷家が有勢となってくるのは室町中期からで、室町前期では犬懸・山内両家が「両上杉」といわれました。朝定の存在だけで、南北朝期中頃までの僅かな期間だけ見える二橋家を上杉本宗というのは疑問に思われます。

 (け) 詫間上杉の祖である重能・重兼(重行)兄弟は、宮道〔津〕入道道宏の子で上杉頼重の外孫であったことから、伯父の憲房(あるいは重顕)が養子としたものであって、家格としては下だと考えられます。

  (03.7.13掲上)

 <川部正武様よりの来信> 03.7.13・14受信

1(上記「か」に関して) なるほど・・・樹童様のお考えは、系図上の嫡流がずっと本宗だということだと思われますが、僕は役職を以って「本宗」を考えるので、役職の異動に伴い本宗も移動する、という考えです。

  であるので足利尊氏の執事を勤めた二橋朝定は、関東足利氏の執事である他の上杉氏よりも「上位」と考えます。

  確かに杉谷憲房は建武期に上杉氏の長老として最高位にいたのは確かですが、二橋重顕が既に死去していたから、という可能性を考えています(といっても兄の千秋頼成より「上位」なのは間違いないのですが)。

  次の世代で言えば、詫間重能は引付頭人であったのに対し、山内憲顕は関東廂番、関東執事であり、その後、

 (犬懸憲藤→)山内憲顕→犬懸憲将→詫間能憲+犬懸朝房→犬懸憲春→山内憲方→詫間憲孝→犬懸朝宗→山内憲定→犬懸氏憲

と関東執事(関東管領)が続くことを考えると上杉禅秀の乱以前は詫間・犬懸の方が「上位」と考えます。
  なお、上杉憲将を上杉朝房の養子かと考えていたのですが、1364年頃に関東管領と思われる上杉左近とは憲将のことかな、と思い上杉憲藤の養子と仮定しました。
  他の守護や守護代もまとめてこちらに載せております。
   http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/kensin.html

2(上記「け」に関して)詫間上杉の祖である重能・重兼(重行)兄弟は、伯父の憲房(あるいは重顕)が養子としたものであって、家格としては下かについては、

  足利家臣としての家格は、上杉頼重の男系であるかよりも足利尊氏との血縁が重要なので、詫間重能も山内憲顕も同格だと思います。

3  どっちにしろ誰が「本宗」かというのは系図で決めるか、役職で決めるかによって結論が異なり、判定基準もないので強弁しません。ただし系図にしても殆どの上杉系図は杉谷憲房・山内憲顕の子孫が作った物なので、僕は敢えて二橋、詫間、犬懸に焦点を当てたいと思っています。


 (樹童からの再お答え)

 一般論として、本宗なり家督なりを考える場合、その氏の本領や祖先祭祀をどの系統が受け継いだかという点や生母・誕生順による嫡庶関係、あるいは政治上の地位で、判断されると思われますが、南北朝期に成り上がった上杉氏においては、祖先や神社の祭祀は無縁のようであり(史料からは窺われない)、丹波の僅かな本領を離れて活動したため、端的な判断指標は見つかりません。そのため、実質的な一族内の勢力関係を考えて、また関東管領職の相続等の事情から、比較的穏当な山内惣領説をとりたいと考えます。

  貴信に見える憲将・憲春が「犬懸」ということについては、私にはよく理解できません。少なくとも、実系的には「山内」で良いと思われますが。
  また、重能が幕府の引付一番頭人に就任し、一時惣領的な位置にあったことは確かですが、暫定的な感もあり、跡継ぎとなる実子がなく(左近将監顕能という者が系図に見えるが早世か。仁和寺文書には実父重行と見える)、しかもその後は山内から入った養子能憲(これも『分脈』には重行子と見える)が続いて、どうも家系としては弱そうに感じます。
  いずれにせよ、この本宗問題について決め手がないのは、確かのようです。

  さて、ご指摘の二橋朝定については、上記『上杉家譜』には、「弾正少弼、建武四年四月廿一日足利尊氏ヨリ丹後国守護職を賜ヒ高師直ト両管領ト為リ信州御原陣ニ討死年三十三」と記されます。『鎌倉・室町人名事典』では、田代脩氏が執筆して、その妻が尊氏の姪にあたること、建武四年(1337)丹後守護、康永三年(1344)幕府の引付四番頭人となり、観応の擾乱が起きると直義方となり、北陸各地を転戦して文和元年(1352)三月九日、信濃国御原で没したこと、当時三十二歳で、病死・戦死の両説があることが記されます。
  朝定が尊氏の「執事」を勤めたとして、その期間も短く、そのときの年齢が二十代の後半くらいで、師直のような役割と異なり実質秘書役程度ではなかったかと推されます。また、朝定の跡を誰が継いだかも不明で、系図上は養子の顕定(扇谷祖)と実子の朝顕(八条祖)が見えますが、私としては、武州河越に居た養子顕定よりは在京の実子朝顕を考えたいと思います。「八条」が貞観四年太政官符案に見える八条榎小田里(乙訓郡)に由来する可能性があり、実はこの地が上杉氏の本源的な故地ではないかと考えているからです。
  また、朝定は、丹波の上杉荘に屋敷をもち、職名の弾正少弼に因んで「弾正屋敷」跡として伝えられている場所が綾部市の現地にあるとのことです。その後の上杉一族で当地に住んだ者は知られません。こうした朝定・朝顕の行動を見ると、二橋・八条流がある意味で上杉嫡流ともいえそうです。
  しかし、八条家は政治的に弱く、朝顕の跡は満朝−満定と続き、その後は持定、成定が将軍家への新年の挨拶に見えるとのことですが、永正五年(1508)に死去したといわれる成定の後は知られません。また、満定の子の定宗は、文明のころ越後に移り守護上杉房能を頼ったともいわれます。

 いまから七年ほど前に、上杉氏の起源について考察したことがあり、一応論考としてまとめたことがありました。今回、貴殿との応答を通じて、いろいろご教示を得たことを感謝しますとともに、機会がありましたら、貴見を取り入れつつ見直して、拙稿の発表も考えたいと思うようになりました。

  (03.7.19 掲上)

 <川部正武様よりの再々来信> 03.7.19受信

1 上杉憲将や憲春を犬懸氏族としていたのは、彼らが朝房や朝宗の後を継いだという記載を何かの本で見たからで、その時に越後上杉の房方らが犬懸氏族ということを考えたわけですが、その図書館が潰れたので確認できません。
  よく考えた結果、憲将は朝房よりもはるかに年長であり、養子は考えられませんが、朝房の後に憲将、憲春が関東執事になった可能性があり、それが原因かと思います。

2 上杉憲藤は憲顕より年少とは思いますが、嫡出だったのではないかと思います。
憲藤は関東管領の始めとされていて、1338年に死去とされていますが、憲顕が関東管領とされるのは1338年以降だからです。
  憲藤の母はわかりませんでした・・・。

3 上杉氏は高師直ら「郎党」や細川・仁木ら「親類」よりも家格はさらに上だったのではないでしょうか。
  僕の足利政権の理解は、「鎌倉時代以来の名門武家と高師直、京極高氏、赤松則村、仁木義長、細川一族ら成り上がり勢力との対立」という構図です。そして観応の擾乱時、上杉氏は斯波、吉良といった足利家における上位一族と同様に行動(直義派)しているからです。

4  よって上杉朝定や重能の地位は「秘書」程度のものとは思えません。
  ちなみに「詫間」重能は出自の定かではない「上杉」と違い歴とした勧修寺氏出身ですので、上杉氏の男系でないことは不利な要素ではないと思います。

5 今回いろいろ検討しているうちに出てきた疑問から

 (1) 「山内上杉家が誰から始まったのか」
  僕は何も考えずに上杉憲顕を山内初代と考えていましたが、そもそも憲顕が「山内」を号したという記載がどこにも見られませんでした。とりあえず上杉憲方あたりからかなと思いましたが、どうでしょう?すると憲顕、憲将、憲春らの家号は憲房の「椙谷」しか見当たりませんでした。

 (2) 「上杉朝宗は扇谷を号した?」
  きっかけは千坂氏を調べていて、千坂高春は「扇谷朝宗の孫」とされていたことです(姓氏家系など)。
  そして朝房・朝宗兄弟の諱は上杉朝定から来ているのでは?という疑問になり、すると朝宗が「扇谷」を号していても不思議ではありません。
  そもそも扇谷顕定は朝定の死去時に数えで2歳ですので、その間に朝宗らがいてもいいかと思いました。


 (樹童からの再々お答え)  

1 (上記2及び若干5(2)に関して) 
  憲藤の母については、私も管見に入っていませんが、異母としたら、憲顕の母よりも身分の高い家から出た可能性はあるように感じます。
  よく分からないのは、『分脈』に憲顕の上註として「猶子、舎兄也」(2行書き)と見えることです。これは、最初にあげる憲藤の舎兄という意味でしょうが、「猶子」は憲房の実子ではなかったということなのでしょうか。しかし、他の系図で、憲顕養子説は管見に入っておりません。
  ともあれ、憲房の嫡子が憲藤だとしたら、上杉嫡系は犬懸ということになります。しかも、憲藤は憲房長兄の重顕の娘を妻として朝房・朝宗兄弟を生んでいますから(「萩原家譜」等)、禅秀滅亡までは本宗ということにもなります。朝房は、詫間能憲・山内憲方の姉妹にあたる女性を妻に迎えていて、能憲等の末弟の憲栄を一時期猶子にしていたようでもあります。

2 (上記3に関して) 上杉氏の家格など
 (1) 上杉氏の鎌倉後期での足利家中の家格については、祖の頼重が、鎌倉後期の「足利氏所領奉行注文」に頭人上杉三郎入道と見える人物と同じと考えられますので、その辺などから考えますと、足利家執事職をほぼ世襲してきた高師直ら高一族とほぼ同格で、身分的には「郎党」の部類だったと考えられます。
 (2) 頼重の妹で足利家時を生んだ女子については、『尊卑分脈』に「家女房上杉蔵人重房女」と記すように、身分の比較的低い「家女房」であったことが知られるからです。
 (3) 尊氏・直義兄弟の父、足利貞氏の嫡妻は、北条一族の釈迦堂殿(金沢顕時の娘)であって、貞氏の後、一時家督を嗣ぎながら早生した高義は、この釈迦堂殿の子と考えられており(千田孝明氏「足利氏の歴史」〔『足利氏の歴史』所収、栃木県立博物館、1985年〕など参照)、私もこの説に同意するものです。従って、尊氏兄弟の母・清子も、やはり側室であったと考えられます。

  以上(1)〜(3)の事情は、上杉氏の公家勧修寺家の出自を強く疑わせるものと考えます。上杉氏は、足利家督二代の生母となって、尊氏が当主となったころには「郎党」から擬一族的な地位に身分上昇させていたと思われます。上杉憲房の妹が高越後守師泰妻となり、憲顕の妹が高土佐守師秋妻となっているのも、高氏と家格がほぼ同等であったことを示すものとみられます。観応の擾乱以降、上杉氏が直義派に属したのは、こうした地位を反映したものとみられ、同擾乱の対立の構図については、貴説とほぼ同様に考えています。

 (4) なお、鎌倉期の足利一族では、斯波(当時はまだ足利)が筆頭で、これに次いで吉良・畠山らがあり、矢田判官代義清の系統の細川・仁木〔日記〕は一族とはいえ、むしろ「郎党」的な存在であったとみられていました。この辺の原因や事情は、私もよく分かりませんが、鎌倉後期には事実としてこうだったとのことです。

 (5) 足利執事の高氏の位置づけは、かなり高かったように思われ、その史料初見は、鎌倉前期の惟重であろうと考えています。すなわち、藤原定家の『明月記』元久二年(1205)正月卅日条に、高階惟重として前日の除目で刑部丞に任じられたことが見えており、これが信頼できる史料に見える高一族の初見であろうと私はみております。高一族も足利氏に仕えつつ、朝廷の官職も持っていたことになります。

3 (上記4に関連して) 上杉重能のこと
 (1) 重能については、その行動から見て政治実権をもった存在と考えていますので、「秘書」的な役割であったとは考えません。
 (2) その具体的な出自は、父が勧修寺別当宮入道道宏(「萩原家譜」のみに宮道と記)の子とされるだけで、この入道道宏の系譜は全く不明です。当然、『尊卑分脈』の藤原姓勧修寺家一族の系譜に見えないわけですが、勧修寺のあった山科郡古来の豪族宮道朝臣氏(弥益の娘が勧修寺家祖内大臣藤原高藤の室となって、その生んだ子に醍醐天皇母・胤子や右大臣定方がいる)から出た一族とみるのが自然です。
 なお、「宮道」が系図の多くに「宮津」とも見えますので、仮にそちらが正しければ丹後の宮津に関係する可能性もあり、丹波の上杉と地理的な近隣関係にあるわけです。私は、上杉氏系図の多くに「宮津」と記されている事情から、これを信用していましたが、今回改めて見直したところ、割合信頼できる「萩原家譜」に「宮道」とあり、勧修寺の所在地等から考えて、宮道のほうが妥当とみました。

勧修寺は、真言宗山階派の大本山であり、醍醐天皇生母の菩提を弔うため、その実家宮道氏の居た山科里に設けられた寺で、高藤の子孫勧修寺家一門の氏寺となり、法親王が相次いで入寺され門跡寺院として格も高かった。
 勧修寺一門と宮道氏との関係については、例えば一門の藤原長兼の日記『三長記』建久六年(1195)八月一日条の勧修寺御八講次第に、中宮権大進宗方(長兼と同じく葉室一流)のお供のなかに尉宮道式国が見えており、鎌倉初期にも続いていたことが知られる。ただし、勧修寺別当職については不明。


  上記5(1)の山内家については、憲方が関東管領となり、初めて鎌倉山内に居館を構えたとのことで、太田亮博士『姓氏家系大辞典』では、憲方を山内初代としていますから、それに従っておきます。憲方に初めて山内と記す系図もあります。
 ただ、憲顕の系統を概括して山内としてもよいように思われます。『鎌倉大草紙』には、憲顕について、これが山内上杉の先祖だとあり、上杉憲春も鎌倉山内の自邸で自害したと記されています。

  5(2)の千坂氏については、今のところ、系譜はよく分かりません。千坂氏は、犬懸上杉と縁由のある素性のようですが、系譜的には疑問ではないかという気がします。越後守護初代となった憲顕の家老四人のなかに長尾などに次いで千坂が既に見えています。

  (03.7.21 掲上)

 <川部正武様よりの第三信> 03.7.22受信

 まずは犬懸上杉家の復権をお認めいただきありがとうございます。
それから「両上杉」「両管領」という言葉は、詫間能憲と犬懸朝房が二人で関東管領(執事)になった事が由来ではないかと思われますので、山内上杉氏は関係無いのではないでしょうか?

 上杉一族の名前について、気になることを少し書きます。

 (1) 詫間氏の通字「能」について
 重能以来顕能、能憲、能俊など詫間を号する一族は「能」字を使っています。重能以前に「能」字を使った者は見たことが無いです。
 重能が憲房の養子(猶子)なのに、「憲」や「房」を使用していないのは何故か?
(むしろ二橋重顕の養子だろうと思いますが)
というわけで宮津入道道宏の諱は「能」が使われているのではないか?と思いました。
 宮道氏(或いは勧修寺氏)の系図のなかに能を使っている人物はいないでしょうか?

 (2) 上杉朝定の「朝」字について
 二橋重顕の子や養子ら一族はほとんど皆「重」字を使います(重藤、重氏、重行、そしておそらく重能・重兼も重顕の養子でしょう)。
 なぜ朝定だけが違う名乗りなのでしょうか?
そして犬懸朝房・朝宗兄弟も憲藤の子としては変わった名乗りです。しかも朝定の法名「道禅」の「禅」は犬懸朝宗、氏憲、禅瑾らに受け継がれています。
 前に書きましたが、千坂系図の「扇谷朝宗」という記載があります。朝定は扇谷の祖とされていますが、扇谷を継いだという顕定は朝定死去時2歳でした。
 さらに朝宗の子・氏朝より子孫はなぜか「八条」を号しています。上杉朝定と朝房・朝宗兄弟(特に朝宗)には何らかの関係があったのではないか?というのが僕の疑問です。
ただし、朝房についてはどこかで但馬守護という記載を見たことがあります。丹波・丹後だったらスッキリするのに残念です。

 そもそも鎌倉時代に「朝」字を使えたのは、小山・結城一族と宇都宮一族くらいではないでしょうか。
 上杉朝定の母なり、烏帽子親に彼らとの関係があり、それ故、次男ながら足利尊氏の執事ということになったのではないかと思います。その場合、朝定は「二橋」から分出した家(八条か扇谷)の初代であり、その後は朝房・朝宗が続き、顕定や氏朝に続いたのではないかと思います(八条朝顕は言うまでもないことですが)。
                         

 (樹童からの第三答)

1 「両上杉」という言葉は、『姓氏家系大辞典』に拠りますと、時代により意味するものが異なっていたようであり、太田亮博士は、当初は犬懸・山内、室町後期には山内・扇谷、を指すように記されますが、ご指摘のような「詫間能憲と犬懸朝房」が並んで関東管領となっていたことに由来した可能性もあります。

2 名前だけで出自論・系統論はできないとも思われますが、
 (1) 詫間家の通字的なものとして南北朝〜室町前期に「能」が見えますが、割合短い期間であり、その元祖は重能ではないかと思われます。それ以前に、上杉あるいは宮道ないしは勧修寺一族に「能」を名前にもつ者が管見に入っていないからです。
 なお、私は上杉一族の勧修寺家出自を否定していますが、勧修寺一族には「憲」を名にもつ者がかなり見られます。そうした意味で、憲房には何らかの形で(例えば、母系)、勧修寺家の血が入っているのでしょうか。上杉一族の生母が不明な者が多く、この辺はなんともいい難いものです。

 (2) 朝定の名前の由来も、よく分かりません。当初、定成と名乗ったようですが、「成」は叔父の頼成、その子藤成につながるとして、「朝」の由来として近親に見える者がおりません。なんらかの形で、今川氏に関係があるのではないかとも考えていますが。なお、八条でも扇谷でも、「定」を名にもつ者がかなり見られます。 

 (3) 「重」は上杉氏本来の通字ではなかったかと私はみています。二橋重顕やその諸子に限らず、ご承知のように、「重房−頼重」親子が氏祖的な存在ですが、それ以前も「重」を用いていた可能性があります(ここでは、長くなりますので、感触だけ結論的に記しました)。
  重能は同母弟重兼とともに、重顕の養子(ないし猶子)にもなっていたようで、憲房の養猶子との関係の先後がよく分かりません。憲房の子とされる重行も、重顕の養子になっていますが、これも含め複雑な親族関係がこの辺りに見られます。

 というわけで、今回のお答えは分からないことだらけであり、実のところお答えにはなっておりません。

  (03.7.27 掲上)

 <川部正武様よりの第四信> 03.10.11受信

1 上杉氏についても本来は在京の二橋上杉氏が本宗であり、詫間上杉、犬懸上杉、山内上杉の順であり、山内上杉が単独で惣領となるのは室町時代中期以降だと思います(二橋朝定は足利尊氏の執事であり、詫間重能は引付頭人であったのに対し、そもそも上杉憲顕が山内を号した形跡はなく、かつ憲顕は関東廂番、関東執事であり、憲顕の前に犬懸憲藤が関東執事になっている)。
 
2 この件につき「室町幕府」というサイトを運営する二竜さんという方との議論を契機
に思いついたことを書きます。
 
(1) 1344年の足利尊氏・直義二頭体制下では引付方を強化した内談方という機関が置かれ、直義をトップとした政治を行われました。
内談方は三方で構成され、頭人は高師直、上杉朝定、上杉重能です。
高師直は尊氏の執事です。
上杉朝定も尊氏の執事であり、直義とも親しく、両者の仲介役を務めていました。
上杉重能は直義派の筆頭(ひょっとしたら直義の執事?)として、後に高師直と対立する人物です。
 
 (2) 足利二頭体制を支えるメンバーを考える上で参考となるのは、1345年天龍寺供養の「布衣」を務めた六名です。
 表記順は「武蔵守、弾正少弼、伊豆守、越後守、伊予権守、上杉左馬助」となっています。つまり高師直、上杉朝定、上杉重能、高師泰、高(大高)重成、上杉朝房(?)の六名です。高一族から三名、上杉一族から三名という構成になっています。
 上杉一族では二橋(八条)家の朝定、詫間家の重能、犬懸(四条)家の朝房(年齢が微妙だが)です。
 つまり椙谷(山内)家の憲顕らは関東では有力でしたが、当時の政権中枢では傍流にあったと言えます。


  (樹童からの第四答)

1 上杉憲顕が関東において活動し、畿内では活動しなかったため、天龍寺供養には名がみえないものと思われます。 (天竜寺供養への参加の意味については、まだ分析しておりません)
 
2 『太平記』巻24に天龍寺供養の件が記され、「布衣に上括して列を引。八番には高武蔵守師直・上杉弾正少弼朝貞・高越後守師泰・上杉伊豆守重能・大高伊予守重成・上杉左馬助朝房」と記されておりますので、朝房について年齢的な疑問はまだ残るのですが、これに反論できない限り、この前提で考えなければならないように思われます。
 なお、「上杉左馬助」については、朝房は年齢的に1345年では十代かあるいは十歳未満であって(両説があって判じがたい)、やや無理があるようにも思われ、二橋家の重氏(朝定の甥)という可能性はないかとも考えてみました。重氏について、「上杉家譜」では右馬頭と見えますが、『系図総覧』下巻所収の「関東管領上杉両家系図」では左馬助と記載されますので、こちらのほうが多少自然なように思われます。
 


  <川部正武様よりの第五信> 03.10.13受信

1 故に高重茂と同じく政権中枢にいなかったという証左になると思います。
2 上杉朝房については、憲藤死去時(1338)に14歳説ならば大丈夫ではないかと思い、僕も上杉家人名録を修正しました。

  (03.10.13 掲上)
 <川部正武様よりの第六信> 03.10.19受信

  我が掲示板で上杉氏に関する議論を行っているのですが、「藤原肥前守」様より興味深い投稿がありましたので、お知らせいたします。
  詫間上杉家、犬懸上杉家に対して僕と同じ様な考えなので、ご覧いただけると幸いです。元の史料は多分に小国浩寿氏の名著「鎌倉府体制と東国」から参考引用ということです。

 (引用始め)
 観応擾乱の終結後、鎌倉に留まった尊氏が最初に着手したのが守護の改替であった。中でも武蔵・伊豆・上野・相模の四国の守護に関しては、以前は高師冬の敗死を契機としてそれぞれ上杉憲将・同能憲・同憲顕・三浦高通の直義党の面々が占めていたのであり、尊氏はこの機に守護職からの旧直義党の一掃をはかった。しかし、尊氏死後に上杉憲顕は復帰し関東入部をするがその影響は守護人事に即座に表れた。まず上野は遅くとも貞治二年末には上杉憲顕が守護としての活動を開始し、相模についてはやはり旧直義党の三浦高通に改替されている。そこに上杉憲顕の強い圧力があったことは疑いない。
 武蔵においては、すでに畠山国清没落直後から、公方権力の構築を目指す足利基氏によって直接支配が試みられていたが、当時の慣例によれば武蔵国の守護は執事の兼ねるところであり、その慣例に従えば憲顕復帰後は当然憲顕が兼ねるはずであった。

 憲顕は子に恵まれ、その中で次男の能憲は一旦は当時の上杉氏の中心的存在である伯父重能の養子となる。その養父重能はといえば、憲顕の実父憲房の妹加賀局と上杉出自の勧修寺一族の宮津入道道兎との間に生まれるが、おそらく道兎の死に際して弟重兼とともに一旦は憲房の兄重顕の養子、つまり重藤・朝定・重行と義兄弟となり、その重顕の早世に伴って憲房の養子となる。その後養父憲房や義兄憲藤の死後、周囲は当然のごとく上杉氏の嫡流と見ていたらしいが、実子には恵まれなかったらしい。そこでかつての義弟重行の子顕能と共に憲顕の次男能憲は、養子として重能に迎えられる。しかし、その重能も直義党の立役者の一人として政争に敗れ死を遂げると、能憲は再び憲顕の元に戻った。

 能憲の関東管領辞任後の後継者は、当然上杉氏家督である憲方であるはずが、憲春になったことは不自然さがある。そこには、能憲―憲方と氏満―憲春との複雑な関係があったことが想定される。能憲の譲状は履行されず、管領職および家督所職としての上野国守護職は家督の憲方へは渡らず家督でない憲春の手に八年にわたって留まり、さらにそれまで管領の統括下にあった引付沙汰も氏満直轄下の引付頭人長井道広の元に移管されている。

 上杉能憲・憲春の並立
 これは管領能憲が体調不良のために執政の第一線から外れていた時であり、病床の能憲に代わって永和三年までには関東管領職の「代行行為」を始める。憲春が関東管領として幕府の正式の承認を得たのは能憲の死後であった。

 憲春は朝房と共に基氏に近侍し、旧尊氏党勢力をも抱える関係で上杉勢力の過度な勢力伸張を警戒する基氏と上杉氏との緩衝材的役割を果たした感がある。基氏にとっては、旧尊氏党勢力の反感を買いやすい上杉嫡流の憲将・能憲ではなく、朝房・憲春の方が側臣として登用しやすい存在であったといえる。

 朝房の父憲藤は憲房系と重顕系とを結ぶ役割を果たしていた。その意味で憲藤が尊氏に重用され、その遺児である朝房・朝宗兄弟にも心配りをしていたとされるのも、上杉一族における彼の位置もその大きな背景になっていたと考えられる。また、憲藤の戦死後兄弟は家臣の石河入道覚道に育てられたとも言われるが、基本的には母方の重顕系に引き取られたようで、その名から形式上では母の兄朝定の養子となった可能性が高く、後には嫡流憲顕の娘を室とすることとなる。朝房は父と同様に重顕系と憲房系の架け橋となっていたのである。特に、類似した経歴を有する重能、つまり一旦重顕系の養子を経由して一時期は嫡流に擬せられたと言われる彼の死後においては、朝房は嫡流ならずとも、それ故に上杉氏各流相互の勢力的バランスをとる鍵を握る存在となっていった。

 応安四年能憲は養父重能のために報恩寺を建立し、憲方以降は上杉嫡流の外護が義務づけられている。つまり、能憲はこれを契機とし憲方実子憲孝の養子化による能憲―憲方―憲孝という嫡流ラインの確認をし、それに伴い能憲周辺の一族への権力の一定度の分与を果たすことで、上杉一族内に潜在する確執要因を解消し勢力の再結集を図ろうとしたといえる。
 その後の憲春の活躍は、臨時的に預けたはずの上野国守護職が嫡流ラインから外れて憲春流に世襲されるおそれがあっただけでなく、上杉氏家督までこの一流に流れてしまう危険性さえあったと思われる。その意味では、永和二年譲状時は家督者の確認のみでよかったが、永和四年譲状の家督を認める時は憲春の基盤を削ぐという具体的な施策までそこに織り込まなければならない状況にまで能憲―憲方ラインが追い込まれていたということである。
 (引用終わり)

 (03.11.16 掲上)

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