古樹紀之房間

    時間と古代暦についての2題


  古代史関係の論考・著作を見ていくと、時間・暦の把握に根本原因があるのではないかと思わせるものが多々ある。そこで、先に全邪馬連の会誌に掲載された拙論(宝賀寿男名義)をベースに若干の修補を加えたもの2編を、ここに掲載する
 

 
     時間と暦の話



                            
 

 あまりにも当たり前のことだが、その辺から先ず書き出すと、「歴史」は多くの人々が参加して起きた諸事件の様々な流れとその組合せから構成されるから、その元となる個別の事件をそれぞれ的確に具体的に把握する必要性がある。ニュース報道や情報伝達のため、特定の事件の内容を具体的に伝えるため、いわゆる「5W1H」という事件報道の六要素が押さえられることが基本になる。それが、@いつ(時間)、Aどこで(場所)、B誰が(人。行動主体のこと)、C何を、Dどのように、行ったか、Eその理由は何故か、ということであり、犯罪事件なら、犯人と目される者やその被害者を具体的に特定して、検察官がこれを起訴状に明確に記さねばならない。このとき、5W1Hに若干補強されて、F誰に対して(Whom)、G被害はどれほどか(How much)、などの要素が加わるから、それが6何の法則とも「8何の法則」とも言われる。
 歴史関係の検討・議論にあっても、それが現実に起きたものならば、当然これら諸要素の的確な把握が必要になる。いわゆる「歴史の謎」とみられてきた問題については、たいへん残念なことに、こうした基本的な諸要素の理解・把握が疑問なものが多々ある。歴史専門の学究が関与してもそうしたことが多い。これでは、問題の「謎」が解決されるはずがない。

 上記の諸要素のなかでも特に重要なのが、「時間・場所・人」という三要素である。戦後のわが国古代史学の主流となった津田博士とその影響を強く受けた史学にあっては、総じて言うと、史料に書かれた記事について、あまりにも素朴な理解・対応の姿勢のもとで、とくに「時間・場所」を大きく誤解して把握する傾向にあった。その結果、漢字伝来時期の誤解も併せて、応神天皇ないし仁徳天皇より前の時期を記す『古事記』『日本書紀』(以下は「記紀」と総称する)の記事は、史実ではなく、後世の記紀編者による造作だという判断をして切り捨ててきた傾向につながる。8世紀前半頃のわが国の史官や政治家は、自家・自氏に都合のよい歴史を後になって勝手に造りあげたという見方(いわゆる「造作論」で、「反映説」にもつながる)である。これは、自らの「誤解」をなんら認識せずに、その罪を「記紀」の編纂者・関与者に記事の責任を転嫁させるものにすぎない(ひいては「皇国史観」という見方にもつながる)。戦後も長くなって七十年余も経ち、様々な学問や考古学など科学技術も進歩したのだから、もっと冷静で合理的な歴史研究が求められる時期に来ている。
 
 場所などの地理概念について簡単に触れておくと、例えば、記紀に「日向」「出雲」「熊襲」と書かれたら、それが即、八世紀代以降の日向国、出雲国として捉え、熊襲を「球磨+囎唹」とみて(そもそも、こんな地理把握が当時あったのか)、これが肥後南部以南の南九州に原住の民による勢力集団とみるような見方は、極めて非科学的だということである。これは、記紀編纂期の頃の一般的な地理概念としても、記紀の元になる史料が書かれた時期にあっても同様な地理概念だったのかという問題である。
 地名は変遷、移動することがままあり、具体的な地理概念も時代に応じて変化する。同じような地名はあちこちにかなりある。だから、多くの資料にあたり、個別に具体的な事件や活動をもとに総合的に把握しようとしない場合には、誤解は往々にして生ずる。要は、視野狭窄で思込み・予断の大きい姿勢では、誤解に導かれることが多い可能性がある。
 先にあげた地名について言うと、後の日向国は、『書紀』においてですら、景行天皇の九州巡狩のときに命名されたと見えるくらいだから、そして、韓国に向かい合うという位置にもないから、それより遥か以前の事件の舞台となる「日向」とは、北九州の筑前海岸部になければならない。「出雲」を治めた大己貴命、大国主命には混同されがちな複数の者がおり、高天原に対峙したとされる「出雲」の現実の地とは、「葦原中国」たる福岡平野の那珂川下流域であった。天降りまでの高天原神話は、現実の出雲国(島根県)を舞台とする『出雲国風土記』にはいっさい出てこない。これは、当該神話が後に造作されたものということではなく、往古の原態の地が出雲国ではなかったということにすぎない。このほかでも、奈良時代人の認識が史実原型から大きく変わっている例はかなりある。ここでは触れないが、人についての「異人同名、同名異人」(「人」は「神」でもある)の問題がある。

 「熊襲」について、様々な習俗やトーテミズムの異なる「隼人」と同一視する津田博士等の見方は疑問であり、記紀や風土記などの各種記事から総合的・具体的に考えると、「熊襲」とは北九州にあった邪馬台国関係者の残滓勢力というのが実態である(こうした指摘も既にいくつかある)。記紀の記事を簡単に否定するものだから、『書紀』ですら崇神天皇の王権が支配する版図のなかに入れていない九州までを含めた畿内と一元的な古代国家の存在を日本列島に考えて、それが朝鮮半島・中国本土と通交するという「邪馬台国畿内説」が大手を振って唱えられる。
 津田亜流史学の視野狭窄性について先に触れたが、生身の人間が天上から降りてくることは不合理である。だから、「天孫降臨」はありえないことであり、非科学的な造作だという見方にもつながるが、当然、記紀編纂時の人々だって、人間が物理的に空から降ってくると思ったはずがなかろう。古くから、そのように伝えてきていたと記しただけのことである。考慮の視野を朝鮮半島から北東アジアまで拡げれば、上古諸国の始祖王について天上からの降臨伝承は多くある。そして、これらのいずれもが「自然界の天空」そのものから先祖が来たのではなく、太陽神信仰や鳥トーテミズムなどもあって、むしろ先祖の居た故地を「天上」とか「天」と表現しただけの話しである。視野・思考の範囲を狭く考えて、自分の理解が及ばないものを切り捨てることの危険性がよく分かる。

 
 

 さて、本題の時間について述べると、戦後の古代史学では、応神天皇より前の諸天皇については、異常に長い享年、治世時期の記事がもとで、人間として非合理なことだと考えられ、切り捨てられてきた。これは、記紀に記された紀年記事を「現在の暦」と同じものだと早合点して下した判断にすぎない。中国の例にかぎらず、暦・年号と度量衡の方法は治世権者の大きな権限とされて、地域と時代により多くの基準が様々にあった。月・太陽の動きや季節変化が基において暦が造られるとはいえ、日本列島において、上古からのいつの時代でも同じ暦が使われたという保証はまったくない。
 やや意味が不明であるが、倭地では春秋で年を数えるという記事が、『魏略』逸文にあり、現実に雄略天皇の時代頃からは中国から百済を経て伝えられた元嘉暦が使用されたことが確かめられている。それより前の『書紀』の記事が儀鳳暦(元嘉暦より後の暦法)に基づいて編纂されたとみられているが、その場合でも、当時の日本列島に原始的な暦法がまったくなかったとも言い切れない。記紀に見える伝承から見ても、「二倍年暦」など倍数年暦法による年齢表示ではないかとみられる記事も記紀にある。

 古代の中国各地や朝鮮半島を含む北東アジア地域の動きを見ても、様々な暦法があった。平勢隆郎氏の著『『史記』二二〇〇年の虚実』などを見れば、戦国時代に雄国それぞれに一年の始まりすら相当に異なる暦が使われたと分かる。だから、時代・地域を通じて一つの暦法、一つの干支のみを考えるのはたいへん無理なことである。高句麗では、中国の古い暦法である「??暦」(センギョク暦)が使われたとの説(友田吉之助氏など)があり、これは、中国の干支紀年法と比べ総じて一年の差があるとされるから、有名な好太王碑文の干支紀年を中国の干支紀年法に基づく年に安易に換算、比定することは問題が大きい。
 戦後の古代史学界では、記紀の紀年が現在の暦と同様に考える場合には、過剰な年代遡上になるとみられてきており、この見方自体は問題がない。けれども、これが、後世に勝手に造作された根拠のない数字かというと、神武天皇の即位時期を遥か昔に遡らせるなどの目的に基づく編者の造作と考えるよりも、むしろ異なる暦法による紀年表示だとみたほうが自然である。『書紀』等の年代を七世紀代頃で考えてみると、同じ事件を記すものでも、一年ないし二年ほどの差異でほぼ同様に重複して現れるものがかなりある。聖徳太子の生没年、阿倍比羅夫の蝦夷遠征や白村江合戦の年代などがそうであり、このころでも複数の暦・紀年法が中央の朝廷内でも並立していたらしいと窺わせる。だから、年紀記事については、予断をもって安易に考えないことが重要である。

 日本列島古来の暦法が、帰納的に考えて、例えば二倍年暦とか四倍年暦とかいう暦年法ではないかともみられている。これは、貝田禎造氏が『天皇長寿の謎』などで説かれるが(帰納的に算出されるから、基本的な考え方はほぼ妥当と考えられるが、彼が算出する年代計算値がみな、妥当だということではない)、「二倍年暦」の存在を認める研究者は少しだがおられる。とはいえ、古代史学界のいわゆる学究たちは、文献的根拠がないとして、こうした倍数年暦法の存在を認める姿勢がまるで見られない。
 しかし、「自然界のなかの生物」として人間を考えれば、現代では寿命がかなり長くなってきたとはいえ、古代では総じて四、五十代で人々が死去した傾向がある。それを遥かに越える長大な享年をもつ者については、他の資料から実在性が認めたほうが自然な場合には、年暦のなんらかの倍数法で紀年や年齢の表示がなされていたと受けとらざるをえない。その場合にありうるのが、遠い上古では四倍年暦もあったが、それが二倍年暦に次第に変わり、更にいまの一年は一年という紀年法にかわってきたとみることであり、これが論暦的に見て無理がない。今となっては年代探索が不可能だとか、安易に造作だと決めつけるのではなく、現存の様々な資料から総合的に原型の紀年を探るほうが有意義である(もちろん、これも仮定値ではあるが、全体が整合的であれば、合理性が高まるものとなろう)。

 
 

 
上古史の年代・暦の検討に際して、端的に言いたいのは次の点である。
 日本の史料では、雄略天皇治世期頃より前の時期では、紀年が長く伸びているが(二倍年暦及び四倍年暦の使用が記事にはあることを意味する)、十二世紀中葉頃に成立の朝鮮半島の歴史書について紀年が長く伸びていること(同様に倍数年暦の使用を示唆)をまったく無視する検討が、日本及び韓国・中国でもきわめて多い。高句麗では数十年程度の年代遡上であるが(ただし、センギョク暦の使用を考慮のこと)、百済及び新羅では各々の始祖王について、それが一、二百年ほどにもなる(併せて言うと、中国では、戦国時代以降はあまり問題なさそうだが、春秋時代以前の西周等の時期については、紀年の長伸びがあるようで、年代の疑問もある。中国では「夏商周断代工程 」という国家的なプロジェクトが行われた結果、殷周革命の時期を紀元前1046年とされた事情があるが、これら年代数値が必ずしも信頼できるとは言いがたい)。
 各種の史料の記事は、事件発生時の認識、次ぎに当該史料成立時の編纂者の認識、という二重のフィルターで覆われている。だから、記紀成立時の認識についての把握が正しくとも、それが、史実原型の把握にほど遠いことがある。このことは、紀年はもちろん場所・人名(神名)などすべてに当てはまることなのだから、上記の六ないし八の要素に留意して、十分な資料検討につとめなければならない。これをいつも認識する次第である。
 
                もとの文は、邪馬台国新聞第5号に掲載。2017.5

    これに関連する「倭地と韓地の原始暦」も併せてご覧下さい。
 
 (2021.01.21に掲上)

 
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