(時間と古代暦についての2題の2)) |
倭地と韓地の原始暦 1
わが国の歴史問題への人々の関心は、中世の武士たちが活躍する諸戦乱関係のほうに遷りつつあるのかという時期に、わが国最古の歌集『万葉集』に由来という新元号が発表されて、関連する地・事物にも注目が集まっている。古代と中世との歴史アプローチを比べるとき、上古では時間と場所、それに関係する人物たちの的確な把握が歴史事象の解釈にあたり大きなポイントになる。こうした点で、上古史は中世史とは研究の姿勢・方向に大きな差異がある。中世史の研究者たちはあまり感じていないのかもしれないが、「時間と場所」が上古史では一義的に把握されてこなかった。これが、上古史関係の諸論争の大きな問題なのであり、それらの問題解決の基礎にある。 さて、上古代の倭地の暦は、『日本書紀』の紀年記事の分析により、同書では、五世紀中葉の第20代安康天皇の治世を境目として、少なくともその次代の雄略天皇以後は元嘉暦が使われ、前代第19代允恭天皇以前は儀鳳暦が使われて紀年表示がなされている。というのが、現在の定説とされよう(安康治世については、どちらとも判断しがたいが、一応、元嘉暦紀年のほうに入れておく)。元嘉暦、儀鳳暦がともに中国からもたらされた太陽太陰暦であり、儀鳳暦のほうが元嘉暦よりも成立が遅かった事情などから、允恭天皇以前の『書紀』紀年は、後世に造作されたものとする見方にも、大勢がなっていた。
これら中国暦の伝来より前に倭地に原始的な暦がなかったかという問題がある。これについては、『魏略』逸文に見える「その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす」という記事から、一年が春秋それぞれの年からなるという「二倍年暦」が行われたという説(管見に入った限りでは、古田武彦氏や安本美典氏などもこの立場)も出されていた。こうした倭地古暦の問題は、総じて言うと、学究筋からは無視されがちであって、元嘉暦導入より前の紀年記事はすべて後世の造作とされがちであった。
その一方で、『古事記』の崩年干支に基づき、その最初に見える崇神天皇の崩年を西暦三一八年とか同二五八年とかする説も多く出されていた。その場合は、なんらかの古暦の存在がなければ紀年の計算ができないはずなのに、それがどのような暦であったかの議論がなされてこないのは、不思議というしかない。この崩年干支が『書紀』紀年の崩年とほぼ合致するのは第27代安閑天皇以降であり、この時期より前の時期の崩年干支は信拠すべきではないとする見方も当然ある。
この倭地の原始暦問題について具体的に解明のメスを入れたのは、歴史学界とは無縁の理系学歴をもつ貝田禎造氏であり(当時は奈良県庁勤務の公務員)、それが発表されたのは『古代天皇長寿の謎−日本書紀の暦を解く−』という著作(1985年刊行)である。この書では、書紀紀年の分析により、倭地当初の古暦は四倍年暦であり、次ぎに二倍年暦、そして現在の一年がそのまま一年となる等倍暦という推移をたどったと論証、主張される。 私は、その斬新かつ合理的な論考に衝撃をうけ、人間の一代(代替わり)が生物学的に古代から現代に到るまで少しずつ長くなる傾向があるものの、総じて言えば、約25〜30年という幅のなかで安定していること、これが倭地古代氏族の多くの諸氏の系譜世代の比較検討を通じても言えるうえに、古代諸天皇の人数(即位者数、代数)とその標準的な世代数(世代配分)とにより、二元一次の回帰式をいくつか試算したところ、計算値が貝田氏の倍数年暦論を基礎とする試算値とほぼ合致すると分かり、四倍年暦の存在を提唱する貝田説の妥当性を認めざるをえなかった。この辺を若干の微調整をしたうえで、拙著『「神武東征」の原像』(2006年刊)に試算数値を取り入れた。
この書では、神武天皇の存在を認め、即位年を二世紀後葉の西暦175年で、在位期間が19年とみたが、この数値は、貝田氏の上記書では明確に示されないものの、その計算数値を延長させるとまったくの同年となる。上記に続く拙著『神功皇后と天日矛の伝承』(2008年刊)では、朝鮮半島の百済や新羅でも、倭地と同様に四倍年暦・二倍年暦という倍数年暦の時期があったと、これらの国々の諸王の系譜分析を通じて提示した。
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これ以降では、「四倍年暦」論を支持する説は、まったく現れず、そのまま消えゆく運命なのかとも感じていた。ところが、2016年6月に当時の大阪市立大学教授の谷崎俊之氏が『記・紀』の紀年記事を分析して、「倭地の原始暦は四倍年暦」だとする研究を『数学セミナー』第55号で発表された。このことを、昨年(2018年のこと)夏になって知り、私は大きな衝撃を受けた。ここでは、その概略を紹介させていただく。ちなみに、谷崎氏は、2018年3月に日本数学会のJMSJ論文賞(Journal of the Mathematical Society of Japanに掲載の卓越した論文を顕彰する賞)を受賞されており、多くの数学関係の著作がある数学の専門家である。 この問題を検討された谷崎氏自身が「驚くべき結論」と表現するのが次の結論であり、それをそのまま表示させていただく(表現中のA及び (a)(b)の内容は省略 )。 @太陰暦(註:太陽太陰暦のこと)が輸入される前の日本に、日本独自の暦が存在した(「原始暦」と名付ける)。
A原始暦は四倍年暦の太陽暦である。
B原始暦の元旦は、西暦で3 月前半、6 月前半、9 月前半、12 月前半の年4 回あった。
C成務を除くA群の天皇の没日に関しては、原始暦による原資料が存在した。『古事記』はこれを変換(a) を用いて太陰暦に直した。一方『日本書紀』は変換(b) を用いて太陰暦に直した。
私自身にあっても、数学的な細部や理論についてはよく分からない部分もあるが、要は、貝田氏提唱の「四倍年暦」論は数学的に成り立つ、と言うことである。こうした年暦に基づく数値が生物学的にも妥当であれば、あとは歴史の大きな流れのなかで、歴史的事件の登場人物や地理環境などが自然なものとして把握できるかという問題である。
これで、もし不自然なものがなければ、超長寿や超長期の在位期間などの理由で、後世の虚構とか造作とか言われ否認されてきた上古の諸天皇が、具体的な実在性を帯びるということでもある。記紀に記される名前が後世風のようだから、実在性がないという否定論は成り立たない。現実に即位して天皇の数にかぞえられても、名前が不明ないし不安定な天皇もいるからである。例えば、六世紀後半の欽明天皇の実名は、現存史料からは探索不可能である。
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上古の日本列島と関係の深い朝鮮半島や中国・東北三省にあった古代諸国家については、百済次いで高句麗が七世紀、660年代にともに滅亡したことで、しかも各々の支配層の多くが唐へ連行されたり、日本に逃れてきたりで、韓地では史料滅失が甚だしい。当地の主な歴史書は、遥かに成立が遅い12世紀中葉の『三国史記』しか残らない。このため、朝鮮半島とそれにつながる地域の歴史は、どうしても当該書に依拠して考えざるを得ない。 この書についても、新羅の金王家一族の流れを汲む編者の事情で、様々な問題点や恣意性・造作性を云々するものもあるが、編纂姿勢を伝えられるところから見て、歴史書としてこの辺にそれほど問題があるとは思われない。ただ、百済・高句麗の関係史料が殆ど滅失していたことをはじめ、編纂当時までに伝えられていた紀年表示、すなわち暦法を現行暦法そのままの形では鵜呑みできないのではないか、というのが根本の問題にある。
朝鮮半島では、『三国史記』に記載の長すぎて遡上しすぎる王暦・紀年を具体的に疑う研究者は少ないようで、疑念を挟む研究者は上古の古い方の年代記事を切り捨てる程度である。日本や中国の研究者にあっては、史料批判は若干はあるが、それでも津田博士流の造作論・切り捨て論が殆どであろう。総じて史料が乏しい上古研究が、こうした姿勢でよいものだろうか。古代人について、「創造能力の過剰評価」とでも言えそうである。これを、時代により地域により暦法が異なった結果を、そうした認識なしに編著作時の暦年と同様だと誤解して把握した結果にすぎないとみたほうが自然である。
それでは、どのような紀年修正法があるのだろうか。 歴史的事件には、多くの人々が参加しており、それら関係者の交渉・交戦や相互交流、通婚などもありうることで、また記録媒体も種々あることから、そうした総合的な突き合わせのなかで穏当なものを選んで、年代を積み上げるという方法も考えられる。現地の朝鮮半島には史料が残らなくとも、現在までに分かってきた金石文や日本や中国などに残る関係史料から、朝鮮半島の古代史を再構成するということでもある。この辺を述べ出すと長くなるので要点的なものだけ、ここでは記しておく。
個別に言うと、高句麗については、初代王たる朱蒙の中国史書での記事から見て、『三国史記』に記す建国年代が30年ほどの年代遡上に留まるが、太祖大王宮の90年超にも及ぶ長大な治世時期については疑問がかなりあって、個別系譜には種々の検討・修正を要するものもあるようだし、好太王碑文の記事から見て、同碑文当時の高句麗の紀年は現在使用される干支と一年差のある「センギョク暦」の使用も指摘される。 百済や新羅については、『三国史記』に記す建国年代が大幅に遡上されている可能性が高いとみられる。拙見では、それがともに二世紀代の中葉・後葉頃ではないかとみている。具体的には、百済では近肖古王より前代、新羅では訥祇麻立干より前代(それぞれの王の治世期間の途中から以前という可能性があるが)では、倍数年暦の使用が十分に考えられる。これは、新羅諸王の一世代の治世期間が約百年にも及ぶ長大なものである例もあったり、交流があった同時代・同世代の人々の活動期間の比較などから導かれるものでもある。
朝鮮半島の研究者はともかく、中国や日本の歴史研究者は『三国史記』記載の非生物的な年代観をどうしてそのまま無批判に受け入れるのか、と私は常々訝しく思っていた。ところが、最近、中国インターネット上の「ウィキペディア」に当たるようなHP「百度百科」には、割合合理的と思われる高句麗の王暦年代観の記事があることに気づいて、同HPを見直すようになった。当該百度百科では、百済王についても、尉仇台(後漢末年の扶余王)をまずあげて、次ぎに肖古王(在位166〜214年と記す)から歴代を始めており、この王の在位年代はともかく、二世紀中葉ないし後葉に百済の建国を認めるようでもある(新羅王歴代の治世時期については『三国史記』そのままの換算なので、残念ではあるが)。 この辺は一例であるが、『記・紀』の紀年記事も、『三国史記』のそれも、現在の暦法だけに拠って理解するのは問題が大きい。現存の史料などに限界があるなか、安易な思込みを排して、できるだけ合理的な紀年把握につとめるべきものと思われる。 (もとの文は、邪馬台国新聞第9号に掲載。2019.5)
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