越中国婦負郡の古社と奉斎者(試論)

     

      越中国婦負郡の古社と奉斎者
                             
 (試 論) 

                                 宝賀 寿男



 越中国では西部の射水・砺波郡に射水国造と利波臣など古代雄族の分布が知られ、同国造の一族が新川郡にも宮崎氏などの武家という形で展開したが、越中国中央東部に位置する婦負郡では古代・中世を通じ、大族が殆ど知られない。南北朝争乱期にも、この地域出身とみられる武家の活動が、『太平記』などの史料には端的には見えない。
 本稿は、木本秀樹氏の研究報告「古代後期から中世前期にみえる婦負郡社会の一齣」(『富山市の遺跡物語』、富山市教育委員会埋蔵文化センター所報 No.18所収)に示唆を得て、拙著『越と出雲の夜明け』(「先の拙著」とも表現する)で書いた「第七章 越中の白鳥伝承」への追補、整理を目的とする試論でもある。


 越中の鳥取部と婦負郡の古社

 上古の政治勢力が不明ななか、婦負郡には、古墳時代前期の重要な古墳の王塚古墳・勅使塚古墳(ともに前方後方墳)があり、六治古塚墳丘墓などの四隅突出型墳丘墓(二箇所に合計四基)や、当地域の首長に繋がる系譜の集団と考えられる千坊山遺跡の弥生集落、首長を支えた層の墓地と推測される富崎千里古墳群があって、当該地域の上古代からの重要性は無視できない。
  婦負郡の古族として、何が考えられるかというと、白鳥伝承にかかる鳥取部がまずあげられ得る。伝承に見える「六治古」なる者も、その祖先とされよう。同郡の延喜式内社も、七座のうち、白鳥神社、熊野神社、鵜坂神社がこの氏族に関係する古社なのであろう。
  白鳥を全国各地に追い求めたのが鳥取部の祖先の「山辺之大タカ鷹の異字で、左側が「帝」、右側が「鳥」という文字)」(名は「天湯河桁」とも見えるが、これは鳥取部の祖先神。「山辺」が大和の山辺郡かどうかは不明。関係があるとすれば服部郷の地か)という者とされる(『古事記』)。熊野神社は、出雲・熊野など日本列島各地にあるが、天孫族の天若日子(天活玉命〔生国魂神〕こと天照大神の子で、天津彦根命ともいう)の後裔氏族の物部氏・出雲国造(ともに天目一箇命の後裔)や鳥取部氏などにより奉斎されてきた。鳥取部氏は、少彦名神(天若日子の子で、鴨氏・服部氏などの祖でもあり、建角身命など異名が多い)の後裔にあたる。神統譜の神々には異名が多いが、越中では天活玉命が越中一宮・高瀬神社に祀られる。
  富山市宮保の熊野神社の宮司は、長く横越氏が世襲してきた。各地の「横越」苗字と同様に、白鳥を鷹で追いかけ神鏡を背にして、河川を横に越えた伝承に由来する模様である。同じ地名としては、県内では、富山市の常願寺川下流左岸に大字横越、中新川郡上市町の白岩川中流左岸にも大字横越の地がある。
  鵜坂社あたりで行われた鵜飼は、『万葉集』所収の大伴家持の歌でしられる。近隣の能登や美濃でも鵜飼の技術・習俗が伝えられ、美濃では今も長良川鵜飼が行われるが、この長良川流域にも「横越」の地名がその中流右岸にあり(現在の鵜飼が行われる地の上流部)、岐阜県美濃市の大字で残る。
  上記社のなかで、熊野神社は延喜小社ではあるが、越中国では大社が一社のみでもあり、かなりの格式・勢威があった模様で、論社がいま五つもある(@宮保のほか、A富山市婦中町友坂字熊野山〔白鳥神社の論社の一つ〕、B同市婦中町中名字北浦、C同市婦中町熊野道字古屋敷、及びD高岡関野神社〔高岡市末広町〕)。宮保の周囲の地名には、上熊野・下熊野などがあり、近くを流れる川も、往古は社前を流れて熊野川(御手洗川。神通川の支流)と呼ばれるように、付近一帯の広大な範囲が「熊野」の地であった。熊野上下村の神田の石高は五十石あり、三つの鳥居があったという。斉明天皇四年(六五八)の創建と伝えるが、創祀がもっと古かったこともありえよう。


 斯波氏重臣の二宮氏と後裔
 
  これだけの祭祀活動をした古代雄族が中世にはまったく姿を消したかというと、必ずしもそうとは言えないようである(諸国の中世武家を総覧して、近藤安太郎氏は、越中では椎名、神保、土肥などをあげるが、これらは主に東国武士の鎌倉期の支族遷住であって、越中古来の武家を殆ど記載しない。それでも、越中古来の武家が中世にはあったとみられる)。越中には古社が多く、古来、氏族系統を変えずに長く祭祀してきた社家も数多いのではないかと思われる。ところが、どの社家にも現在、古い系図史料は全く伝わらない。それでも、所伝経緯が不明ながら、利波臣姓の石黒氏の系図が現在に残っており、室町幕府三管領の一で越前守護斯波氏の重臣(六家老の一で、甲斐・朝倉などと並ぶ大身)、二宮氏も越中に起こっており、これが新川郡に居たと太田亮博士は記す。
  二宮氏は、当初は越中守護の桃井氏に属した後に、斯波氏に従った(斯波義将のとき、二宮円阿〔次郎左衛門貞光〕が属したという)。これより先、文和四年(一三五五)に主・桃井直常に代わって戦死した二宮兵庫助の名が『太平記』(巻三三)に見える。越中国内には二宮氏の足跡があまり多く残されないが、室町期には守護斯波氏のもと越中・加賀・信濃などの守護代や郡代などをつとめた大族である。次のような注目すべき内容が、『姓氏家系大辞典』や室町期の史料などに記される。
 @二宮氏が築き、居城したのが新川郡(もとは婦負郡域で、近世の所属)上熊野城であった。城は浄蓮寺及び神明社一帯に築かれたというが、 現在は神明社の裏に土塁残欠が残るのみとされる。この神明社は、族裔の野上氏(後述)が祠官家であった。
 A後に社家となった二宮氏の持宮が、森尻の神度神社(新川郡式内社で、上市川左岸、中新川郡上市町森尻に鎮座)である。同社には、逃げた白鷹を探し求める佐伯有頼に対し、森尻の権現(刀尾天神〔剣岳の地主神とされるが、本来は天手力男命ではなくて、天孫系の伊佐布魂命など鳥取部の遠祖神のことか〕)が示現したという伝承がある。森尻の南方近隣の新川郡若杉(現・上市町域で、上市駅の北側。日吉神社が鎮座し、東方近隣には熊野神社もある)が二宮氏の本貫ともいうから、この辺は本源の地から分かれた一族の流れかもしれない。「神度」は、通常カムトと読むが、度は「渡り」の意であって、横越や、鳥取部の祖が鳥を追うなか神鏡を背に川渡をしたという伝承に通じる。
  新川郡日置神社の祠官家も二宮氏というから、天孫族につながる「日置部」にも関連する。
 B室町前期の永享年間、加賀の鷹司家所領の相論に関して、二宮信濃入道が見えており(「蜷川家文書」)、戦国時代前期、応仁年間には二宮将監(安兼)・同与次(種数)が朝倉弾正左衛門尉(孝景〔敏景〕)と並んで「醍醐寺文書」に見える。文明年間でも、越前守護朝倉氏景(孝景の子)は、同じ斯波重臣の甲斐氏・二宮氏の軍勢の介入も受けており、これら重臣諸氏が越前などで相争うなど、二宮氏の活動は越中に限られたものではなかった。
 C二宮氏は戦国時代後期まで長く続いて、天正年間には、二宮氏は、飛騨高山を居城とする三木休庵(自綱〔姉小路頼綱〕のこと。斎藤道三の娘婿で、秀吉軍の飛騨進攻により没落)が越中の舟倉城(猿倉城)まで勢力を伸ばしてきたのに属して活動した(『三州志』)ともいう。この当時、二宮左衛門大夫(余五郎。名は長恒とされる)がおり、神保長職に従ったが、後に上杉謙信に従い、謙信の急死後には、織田方の神保長住の越中入部で織田方に与し、信長から本領安堵を得た。同時に、敵方の上杉氏にも通じて、上杉景勝からも安堵状を得ており、その後に斎藤利治に攻められて没落し、飛越国境の猪谷に隠棲したという。
  二宮氏の族裔は、後に野上氏に改めたといわれる。越中の野上氏は、京都下鴨神社領の倉垣・新保庄に多く見える。射水郡加茂村(射水市〔旧下村〕加茂)の加茂神社(祭神の実体は少彦名神)は倉垣庄の惣社で、社家が代々野上氏といい名族として知られ、江戸期は同村の肝煎であった。野上甲斐守の後裔と伝えられる(『姓氏家系大辞典』ノガミ条)。その起源の地は婦負郡野々上(ののうえ)(現富山市北西部の大字野々上。野上とも書く)とみられ、鵠こと白鳥に因む久々湊・久々江の南東近隣の地である。羽根神社も、野上氏の持宮であった。


 越中鳥取部の後裔とみられる諸氏

  二宮氏の苗字は、越中二宮の祠官家だったことに因むとみられるが、この「越中二宮」がどこの神社だったのか、現在では判然としない(他国と異なり、越中国では一宮は四社も称し、かつ、二宮以下が不明)。おそらく、宮保の熊野神社か鵜坂神社かがそれに当たるのではなかろうか。
  鵜坂神社は神通川西岸の富山市(旧・婦中町)鵜坂に鎮座し、近隣の羽根なども氏子地域とした。貞観九年(八六七)二月に従三位の神階を授与されたと『三代実録』に見え、これは越中では高瀬神・二上神(後者は射水神とも言い、両社ともに越中一宮を称した)に次いで、同国第三位の高位であった。婦負郡では唯一の県社である。
 先の拙著では、「婦負開拓伝承の六治古(ロクヂコ)兄弟も鳥取部一族の先祖とみられ、富山の山王(日枝神社)神官の平尾氏をはじめ、旦尾(あさお)・近尾・羽根・黒田・若林・高柳・二宮等という社家の苗字も、同じ神裔ではないかと推される」と記述した。これら苗字には「尾」や羽根という鳥関連のものが見られることに留意される(上記宮保の南隣にも「辰尾」という地がある)。ここでの苗字の二宮は、上記両古墳の東方近隣、富山市婦中町長沢新にある日枝神社(旧山王社。この祭神・大山咋神の実体も少彦名神)の祠官家であるが、これと系譜が符合するのが武家の二宮氏だとみられる。
 なお、長沢には美濃の大族土岐氏の一族が鎌倉期に入部して土岐長沢氏(あるいは、たんに長沢氏)を名乗り、南北朝期にはその活動が『太平記』に見え、次いで室町将軍家直属の奉公衆の編成を記す永享・文安の御番帳に見える。
 中世武家では同族でほかに有力な氏は見えないが、近世では、社家や豪農として鳥取部の族裔は、婦負郡を中心に新川・射水両郡にも広く繁衍した事情が、以上から窺われる。


 古代鳥取部の起源の地

 王塚・勅使塚という両古墳が前方後方墳という特定に時期に多く築造された型式をもつことから見て、これらを越中鳥取部の祖先が築造したとした場合、白鳥を追いかけての鳥取部の入部はほぼ四世紀中葉頃で、垂仁・景行・成務朝の時期とみられる。それは、幼少のとき(『書紀』に「誉津別王、是生年既卅」とあるが、二倍年暦で表記か。その場合には年齢が十五歳ほどなら、『古事記』に言う八拳髭〔長いアゴヒゲ〕をもち、出雲で肥長比売と婚しても不思議がない)、白鳥を見て初めてものを言ったと伝える誉津別命(品遅別などとも書き、応神天皇の幼少期の名)の活動時期とも符合する。成人した応神天皇が大王位についた(実態は王位簒奪)のが、西暦三九〇代初頭頃とみられるから、これとも年代的に符合する。和泉国日根郡の波太神社が鳥取氏の祖神・角凝命を主神とし、相殿に応神天皇を祀るのも、上記白鳥関連事情に基づくものではないかとみられる。
 さて、この当時、鳥取部の支族はどこから越中に移遷してきたのか。平安時代前期に成立の『姓氏録』では、鳥取氏は、右京神別及び山城神別の鳥取連、河内神別に鳥取、和泉神別に鳥取(日根郡鳥取郷か。阪南市石田の波太神社あたり)が掲載されており、なかでも河内国大県郡が本拠とみられる。同国渋川郡が本拠の大連物部守屋に仕えた捕鳥部万も、この大県郡の者であろう。
 大県郡のなかでも南部の鳥坂郷・鳥取郷あたり(大和川中流北岸の丘陵部)がその本拠で、鳥坂郷のなかにあった大阪府柏原市の高井田には、天津川田神社・宿奈川田神社(少彦根命を祀る。白坂神社)という鳥取部祖神を祀る式内社がある。とくに前社の地は鳥坂寺跡と接する。高井田には、平尾山古墳群(平尾の地名が越中の社家苗字にも通じる)や高井田古墳群など古墳時代後期の古墳が多い。鳥取郷のほうでは、青谷に式内社の金山孫神社(現・金山彦神社)があって、その北の雁多尾畑では金糞が出るというから、鳥取氏(造・連)が金属・鍛冶の技術を持ったことも知られる(この主張は、谷川健一氏が『白鳥伝説』で河内国大県郡の鳥取氏が製鉄氏族だと指摘し、山本昭氏も『謎の古代氏族 鳥取氏』で同様になされる)。
 これら一帯が鳥取氏の起源の地であったのなら、先祖が「角凝魂命の三世孫が天湯河桁命」だと、ごく初期部分しか系譜が知られないものの、少彦名神の流れで河内国若江郡の三野(御野)県主・美努連の同族に出たと推される。『姓氏録』でも、河内では委文宿祢・美努連・鳥取の順で角凝魂命の後とする氏が三氏続けてあげられ、美努連・鳥取ともに天湯川田奈命(天湯河桁命)の後と記される。御野県主神社は、柏原市の北方・八尾市上之島町南に鎮座し、角凝魂命と天湯川田奈命の二柱を祭神として祀る。なお、三野県主小根は、雄略天皇崩御直後の星川皇子の反乱に際し吉備上道臣と共に加担したが、これが失敗に終わったことで、難波の来目邑の地を大伴室屋大連に献じるなどで助命を乞うたと『書紀』に見える。
 この三野県主一族と鳥取氏が分岐して、その後まもない初期の段階で鳥取部から越中へ分れたものが出たのであろう。三野県主自体の系譜も不明だが、鳥取部の鴨神奉斎から考えると、山城の鴨県主と同祖であって、神武創業の功臣たるヤタガラス(八咫烏。建角身命は先祖の名前であることに注意)こと生玉兄日子命の後裔なのだろう。新川郡の古社(式内社、県社)の八心大市比古神社(黒部市三日市に鎮座)が三島大明神と呼ばれ、鶏が神使とされる事情から見て、摂津の三島県主とも同族だった可能性がある。『姓氏録』には右京神別に鳥取連、三島宿祢と続けて掲載されており、後者には「神魂命の六世孫建日穂命の後」と記事がある(建日穂命とは天羽雷雄命に相当するか)。
 こうして見ると、『斎部宿祢本系帳』に、天日鷲翔矢命(少彦名神のこと)の子の天羽雷雄命について、「委文宿祢・美努宿祢・鳥取部連」などの祖と見える譜註記事が妥当であった。私見では、『古代氏族系譜集成』を編纂したときに一旦はそのように考えたものの、その後、鳥取部連などについて疑問を感じてもいたが、当初の考えで良かったことになる。

 越中では、新川郡に鳥取郷(『和名抄』。比定地は不明。山本昭氏は前掲書で「上市町域で森尻を郷心とする説もある」と記しており、この森尻・若杉あたりが妥当かもしれない)、射水郡に鳥取村(射水市鳥取。白鳥伝承に関連する久々湊や鏡宮の南方近隣)があったことが知られ、婦負郡を含め、これら三郡に鳥取氏・鳥取部が古来、広く分布した。射水市(旧・射水郡小杉町)の太閤山遺跡あたりには、古墳時代から江戸時代にかけての製鉄遺跡群が知られ、中新川郡立山町の山間地、浄土山・一ノ越あたりは、鉄含有量が多い緑泥岩の埋蔵地という(『謎の古代氏族 鳥取氏』)。
 以上に見るように、越中国における鳥取部と古社などの事情から推察すると、これまで不明であった鴨県主一族の分岐過程と同族諸氏の存在が浮上してくるように思われる。
                           
  (2017.4.25 掲上)

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