邪馬台国論争は必要なかった


  第一部

 U 諸問題の検討

 総論的な検討:『魏志倭人伝』から邪馬台国所在地をどこまで押さえられるか?
→地域を全く押さえられないと言う考古学者の見方は間違いで、ある程度には地域範囲を絞りうる。
 (→だから、考古学的資料は重要だが、それだけが問題解決の決め手だということに決してならない
@現存の『魏志倭人伝』に誤記・誤写があるか?
……写本の長い過程で、当然誤写は起こりえた(佐伯有清氏など学界の共通認識に近い)。


歴史学の範疇を超える、各種史料に合わない、具体的な「九州王朝」など、問題点が古田説には多い。古田氏が提示する高良宮座主一族〔稲員家〕の系図は、名前や歴代からいって、極めて信頼性が乏しいものである〔議論の基礎にはとても置きがたい〕。ところで、「九州王朝」を筑後の磐井の国とするのなら、そして「高良座主系図」を重視するのなら、古田氏は、なぜ邪馬台国を筑後川流域に持っていかなかったのだろうか?

 なぜ、おかしな結論になるのか? 文書史料のもつ制約の無理解、地名比定の無視、歴史の大きな流れに反する見方、考古学に対する論者の信じ込み(盲信)が根底にありすぎる、かつ、記紀など日本側の文献史料に対する不信が強すぎる。
……つまりは、端的には、基礎的な歴史・漢文の知識がなく、合理的で的確な批判精神が論者にないこと、歴史的史料的な大局観がないこと(「木を見て森を見ない」姿勢)、に通じる。
古代史とは直接関係がないが、偽書『東日流外三郡誌』の古田氏による真書主張には皆が呆然とした。ただし、従来の古代史学の様々な概念に白紙で対応したことで、明かになったこと〔『書紀』記事の再評価、「熊襲」は隼人ではないなど〕等の業績も古田氏にあって、この辺は評価できるから、古田説の全てを貶すわけではないが、シロウトないし無知を売り物にするような議論は、学問的ではない。ただし、非学究の方々の著述にも合理的で妥当なものも少なくないので、論者の学究関係の肩書きにはまったく拘らない。また、拘るべきではない

 
A誤記・誤写の個所はどこか?

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 邪馬台国か邪馬壹国か → 古田氏は、現存『三国志』に台と壹とを取り違えた例はない。両字の字体は必ずしも紛らわしいものではない。公的な歴史書として、書写の際には多くの者がチェックしたはずなので、誤記は避けられたはずだ、と主張。→これでも、古田説が正しいとは言えない。『後漢書』など多くの歴史書が「台(臺)」と記す。邪馬台と表記したからといって、畿内の大和に結びつける必要はない。『三国志』編者が尊字(貴字)・卑字を使い分けたとするのは疑問が大きい。
…… 邪馬台国で良い(森浩一氏は、「壹」は「臺」の「減筆文字」と解するが、「減筆」の使用がやや恣意的か。しかし、慶元本には俗字や略字の使用が目立つとの指摘もある〔井上幹夫氏)。『三国志』には、「臺獄」という表記や「死体を積んだ上に土をもった塚」の意で「臺」と記す例もあって、「臺」は神聖至高の文字ではない(三木太郎氏など)。中国語学の尾崎雄二郎氏も、卑字・貴字という価値判断を伴ったものではないとする(『中国語音韻史の研究』など)。
 ただし、「台与、壹与」の判別はしにくいが、総じて言うと台与のほうか。古田氏の言う『北史』『隋書』の表示する「国」なぞ、論外の話で、ほぼ同時代の『南史』刊本には明確に「倭国」と記されるから、「=倭」となる。『北史』の表記を『隋書』が受け継いだにすぎない。
 井上幹夫氏及び三木太郎氏の論考は、ともに『季刊邪馬台国』第18号(昭和58年冬号)に掲載。
 
「一大国」が朝鮮半島側で呼んでいた古代の地名とする古田氏の主張は、まるで立証になっていない。「対海国」についても同様。
……一支国、対馬国の誤記とするのが自然。他の中国正史には、一支国、対馬国とも見える。
 
「会稽東冶之東」なら意味が分かるが、「会稽東治之東」なら意味が分からない。
 "会稽東治之東" も 後漢書の "会稽東冶之東" も共に伝写誤記で、原文は「会稽之東」とみる説があり(『梁書』倭伝、『隋書』倭国伝)、記事の意味を越人との関係で説明される。会稽郡東冶県でも、建安郡東冶県でもなく、東冶は地方名(江流域)であった。
……東冶にせよ、東治にせよ、この語に重い意味を持たせるべきではないということか。倭国の都が畿内となったことが分かってからは、中国正史では、たんに「会稽の東」という表現になるから、もとは、その地域の南のほうの「東冶」のほうに重点があったものか(その場合、韓地・倭地が短里表現になっているにもかかわらず、この表示里数を陳寿が標準里〔長里〕として受けとり、東冶と倭地とを比較して推定した可能性も考えられる。だからこそ、「当在」〔あるべし〕という推測記事となっている。こうした理解が中国側にあったとしたら、それから見ても、当時の邪馬台国への方角を「東」にとることはできない。畿内説論者のように、方角の「南」をすべて「東」の誤記だとみたら、倭国の位置は帯方郡の「東南」の範囲には収まらない。関連するかなり多数の方角記事をすべて誤記とするのは平常心を欠く対応だと考えられる)。
 
卑弥呼からの最初の帯方郡遣使の時期が景初二年か景初三年か?
 景初三年の翌年の正始元年(240)帯方郡太守の使が詔書・印綬、下賜品をもって倭王に拝仮したのだから、出来事の年次的つながり、戦時情勢を考えて総合的にいうと、景初三年のほうが妥当か(この時の魏朝皇帝は第三代の廃帝斉王芳〔明帝の次の少帝〕)。
 これら重要な文書・品々が二年ほども帯方郡にそのまま保管されていたと考えるのは疑問(『北史』倭伝に、「景初年」とあり、これは「三」の字の誤記か。同書に「公孫文懿」が誅された後にという記事もある)。そもそも、帯方郡使団が倭人の道案内なしに韓半島・海路を辿って、未踏の地たる倭地の女王に会いに行けるのか?→倭からの使者(帰路)が同行して一緒に行動したとみるのが自然。
 なお、帯方郡使団が魏皇帝からの重要な文書・品々をもって倭地に渡ってきたのに、女王の都に行かなかったとか、女王(ないしそれに相当する地位の代位者)に面談しなかったなどは、使節の重大な役割の放棄となるから論外である(学究でもこんな馬鹿な議論をする者がかなりいることに驚く)。

 以上の諸点は、古田武彦氏が「共同改定」と非難する点でもあるが、これらについては、九州説の橋本増吉・井上光貞・安本美典・久保田穰などの諸氏も、畿内説の山尾幸久・白崎昭一郎・鳥越憲三郎・渡邉義浩などの諸氏も、同様に一致して現存本の誤記だと判断しており、これが歴史学研究者としての基本的判断ということである(詳細は、白崎氏の『東アジアの中の邪馬臺国』、山尾幸久氏の『新版・魏志倭人伝』を参照〔ただし、両書は古田説への批判が適切だが、自説の邪馬台国畿内説の立証は、まるでなっていないことに留意される〕。九州説をとる謝銘仁氏の把握も、倭人伝記事については上記諸学究とほぼ同様となっている。同様の立場の研究者はほかにも多くいるが、あとは省略)。学究関係では、古田説が言う「共同改定」否定の支持者はほとんど皆無のようである(もちろん、数の多さで決められる問題ではないが、中国人研究者も斥ける読み方に固執する古田氏の姿勢はいかがなものか「共同改定」だと非難しても、非専門者のひとりよがりにすぎない)。
 従って、古田説が出される以前の諸学究の議論は、その後も十分、通用するということにつながる。

 

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