邪馬台国論争は必要なかった


 個別論的な検討

B具体的な地理として、倭人伝のどこに問題があるか?

a
 方位に誤りがあることは、太陽の昇り方などからして、考え難い。せいぜい、帯方郡使の渡航・滞在の季節による太陽の出る地点の若干幅(前後45度の範囲内)の変動か。真夏の季節だと、日の出が時計と逆回り(左回り)に45度ほどズレることにもなる。
 「水行陸行」記事の「南」に対応して、「女王国以北」という表現も倭人伝に二度出ている事情もある。当時の倭地に関する編者の方向認識は一貫しているといえよう。狗奴国との関係でも、この南北の方位が関係することに留意。
 むかしの京大派の畿内論者が方位の誤りをいうが、疑問が大きい。『梁書』まで倭地の方位は一貫して同じ記事である。それが変更したのは、現実に使者が日本列島に来た『隋書』からである。

里数表示から突然に日数表示に変わる「水行陸行」の部分が問題か里数計算記事に鑑みると、この部分に問題がある可能性がある。『魏略』にも、『後漢書』にも、「水行陸行」と日数表示がないので、この辺が新しい表現だと分かる。
 その後の『晋書』『宋書』『南斉書』にもなく、初めて『梁書』(梁〔502〜557年〕の歴史書で、629年成立だから、このときは畿内王権となっていた)の「倭伝」になって出てきた記事を、後になって『魏志』倭人伝にも混入させたものか。『梁書』でも、帯方郡から一万二千余里と数値は変わっていないし、帯方郡は既にないのにこの地名がまだ使われている(『梁書』には、邪馬臺国・一支国の表記もある)。「一万二千余里」は『魏略』以来の数値であったから、陳寿には動かし難いものである。この数値が「西晋の公式見解」だとする渡邉義浩氏の見方も裏付けのない推測である。
 北九州沿岸での西回り航路はまず考え難い。東大派の九州論者が「陸行一月」を「陸行一日」と読み替えるのも疑問。そもそも、「水行陸行」の記事が原典にあったのかを問題にすべき。「水行20日と水行10日・陸行1月」と「女王国まで一万二千余里」は二律背反の記述となっている。

 <その解法案>
森浩一氏自体が、「水行陸行」の記事が後に挿入されたものとみる『倭人伝を読みなおす』。投馬国と邪馬台国の戸数について推量の「可」を用いて、他の諸国と表現が違う
それなら、投馬国を日向の妻地方に比定する必要はない。森氏が編者陳寿による記事追加とみるのは疑問であり、陳寿が台与遣使のときの新情報として邪馬台国東遷を知ってから挿れたというが、陳寿がそんな事情を知るはずがないし、そもそも邪馬台国東遷なぞ無かった(喜田貞吉・大和岩雄氏らの「二つの邪馬台国」説もまったくの想像論)。渡邉義浩氏も、陳寿が自己の世界観により記述したと推測するが、具体的根拠のない観念論、想像論である。
 いずれも、「水行陸行」が最も不自然な記事だとみることは評価できるが(ともあれ、「なぜ距離表記が突然日程表記に変ったのか」という疑問が当然生じるのだが、こうした疑問や文法変化の必然性について、古文の文法の面から回答できた人は現在まで一人もいないとされる)。

※1
 九州論者の安本美典氏は、この問題によほど苦悶したようで、『邪馬台国への道』という同じ名の書を1967年、1977年(新考)、1998年(最新)と三回出して、その都度、内容を変え、最後の「最新版」ではこの問題を全く説明せず、投馬国の比定地すら明らかにしない。ちなみに、「当初版」では不弥国以降の行路分岐説で投馬国を日向の宮崎平野の妻説、「新考版」では大和朝廷との「重ね写真説」をとって投馬国を筑後国上妻郡下妻郡かと記している。いずれも、邪馬台国が甘木だとする説から言うと論理的な不自然さを免れない。いわゆる「重ね写真説」は、橋本増吉氏の言うところとされるが、三世紀後半の段階で畿内大和の王権が中国に知られていたという証拠が無く、成立しがたい。
※2 二律背反の解消のため、「水行陸行」の部分全てを、投馬国にも含めて帯方郡からの計算とみる案(奥野正男氏など)も言われるが、すくなくとも投馬国についてはありえないこと。
 
c 『三国志』東夷伝の韓地・倭人の里数は、漢土(魏朝)の一里が約434Mとすると、それが現実の5,6倍ほどの里数となっており、漢土の里数表示とは明らかに異なる短い距離を表示していた。
  誇張論・理念論……西方の大月氏国(後のクシャーナ朝)との対抗上とか、司馬氏の顕彰などの理由で、遠距離が必要だったと主観的・理念的に言っても、その推測の裏付けがないし、それがなぜ比例的に一定の倍率となるのかの説明ができない。しかも、倭地諸国への距離数を直線式で合計すると、一万二千余里の範囲で路程記事の里数がおさまっている。もとに先行する私撰の史書や使節団からの多くの報告書があって、大勢の関係者があるなか、偽りで誇大な理念論(「建前の数字」)で韓伝・倭人伝の記事が書かれたとは考え難い(橋本増吉氏は、故意に里程を誇張することは、事実上困難だとみる)。『魏志倭人伝』などが私撰から始まっていることから見ても、理念論で考える(政治的な意図で文意を考える)のは主観的すぎる。北京大学前教授の沈仁安氏も、道里・戸数の誇張論をきっぱり否定する。
  時代別里数論……古田氏の魏・晋朝全体の短里採用説は、『三国志』記事の実例からも否定される。半沢氏の魏・明帝時代のごく短期間の短里採用説は、根拠薄弱で取りえないし、そうした記録もない。
  地域別里数論……朝鮮半島・倭地には、地域限定の短里があったと考えざるをえない(白鳥庫吉・藤田元春氏等の韓・倭地短里説は、客観的に妥当するとみて、『三国志』には標準里・短里記事が混在しているとみざるをえない)。
 ただし、この「短里」が、いつどこで生じたかは不明(高句麗のセンギョク暦採用例や春秋時代の中国の地域ごとに異なる暦の採用状況から考えると、尺度についても、地域独自性が中国の辺縁部に残存していた可能性がある。それが、上古代の周王朝の里数かどうかは不明で、周王朝短里説は証明ができているとは言いがたいし、この数値は中国本土でも採用されていない。『周髀算経』〔周代に淵源をもち三世紀前葉の後漢末頃までに成立とみられている古代天文算術書〕は、周代短里を根拠づけるとは言いがたい)。
『三国志』には中国本土の標準里(長里)とは異なる短里で韓・倭の地が表示されて、両者が混在していた。これが地域限定にせよ、制度としての短里であれば、標準里との関係は一定の比率があったとみられる。関係記事の里数報告者は、帯方郡の官人(倭人からの伝聞も含む)となる。女王国の東方千余里に別の倭種の国があるとか、「倭地の周旋が五千余里」というのは、倭人が計測した以外は考えられない。「虚妄の数字」とするには、全体的に距離比率などの辻褄が合いすぎる。

 
C卑弥呼の墳墓の径「百余歩」は短里か長里か?

 墳墓の規模・里数の報告者が帯方郡の官人(おそらく張政らの使節団)だとすると、倭地の全てが短里で表されていたことになる(実際の報告に基づく場合には、虚数説とか誇張説は根拠が無く、ありえない。他の尺度と異なる「人間の歩幅」とみるのは一貫性を欠くので、疑問)。その場合の当該墳墓の規模の実測が径で約25〜30Mというのは、楽浪・帯方の郡大守の墳墓規模と比べても穏当であり(帯方郡太守張撫夷の墓・方墳の規模を辺で五Mほど小さくしたくらいで、高さもほぼ同じ)、これが大きい墓だと報告がなされている。
 魏の薄葬令や最近発見の曹操墓の実例にも合う。長里として算える場合には、径145Mほどの円形墓となるが、これは疑問で、そうした条件に合う墳墓は日本列島には存在しない(今、日本最大の円墳とされるのが埼玉古墳群の丸墓山古墳で直径105M)。卑弥呼の墳墓の記事をもって、当時は古墳時代に入っていたとみるのは、そもそも不自然である(思込みが強すぎる)。日本の考古学者の多くは、宗主国魏の薄葬令や当時の楽浪・帯方郡の墳墓実例を無視するが、こうした思考は疑問が大きい。
 卑弥呼の墓が当時の感覚としては巨大で、殉葬者が百余人もいたということは、それらを許すような死に方と政治情勢だったことを示す(森浩一氏は、自死を強いられたと推測するが、「以と已」は同義だから、卑弥呼が既に死んだとしてしか解されないし、死因は不明ということ。上田正昭氏が、正始六年〔245〕に難升米に対し黄幢を賜与したのは既に卑弥呼が死んだか老衰が著しいことを言うが、これが妥当か)。通常は、これまでの卑弥呼の居地付近に墳墓築造されたとみるのが自然だとされよう(伊都国常駐の帯方郡使の指示で卑弥呼が死んだのだから、伊都国に墳墓があるとみる見方は、想像論のやり過ぎである)。

 <参考> 福岡県久留米市御井町の祇園山墳丘墓約23Mほどの方墳とする見方があるが、二段重ね構造をもち、底部では東西が約30Mと延びて楕円形となるから、形は単純ではない。頂上に箱式石棺、周囲に殉葬跡らしきものがある)。畿内説の考古学者、石野博信氏も、「ツクシに卑弥呼がいたとすれば」、同墓が有力候補になってくるかもしれないと記す(『邪馬台国時代のツクシとヤマト』、2006年刊)。祇園山の墳裾から出た甕棺の時期が報告書では狐塚二式とされ、それは西新式(卑弥呼時代の土器とされる)に併行するといわれる。
   ※卑弥呼の墳墓についての詳論は 卑弥呼の冢      祇園山墳丘墓の説明   その測量図

 
D女王国の東方、渡海千余里にある倭種の国の存在と比定地

 北九州説だから、この地理描写が成り立つ。「倭種の国」は、短里でいうと、周防か伊予かの位置だが、周防の佐波(娑婆。山口県防府市域)あたりにあった国を対象としたか。
 倭人出身で新羅第四代の王、昔氏王家の祖・脱解王は三世紀前半頃の人と推され(『三国史記』の記す年代は、そのままでは古さが過剰に遡上で出ており、適宜、紀年記事を換算することが要されることに留意)、佐波の出身とみられる(故地の丹後説は歴史の流れから見てもありえない)。『三国史記』には「倭国の東北一千里の位置にある多婆那国」と見え、「那・羅」は「国、地域」の義であり、「多婆=佐波(娑婆)」と解される(この場合の「倭国」とは、古い時期の意味で、光武帝遣使の王や倭国王帥升を出した奴国、福岡平野あたりの地域か)。『魏志倭人伝』と『三国史記』とで記事が相通じるとしたら、「短里法」は当時の倭人により用いられたことも分かる。

 
E行程記事は直線式(連続式、順次式)か斜行式(分散式、放射式)か?

 とくに断りがない限り、連続式以外には読みとれないというのが中国人の一般的な読み方。伊都国分岐説、不弥国分岐説、あるいは古田氏のような部分分岐説は、通常の漢文読み方としては妥当しない。そもそも、「到」「至」の使い分けに格別の意味はない(魏志倭人伝の内容とほぼ同様で、引き写しともみられる『梁書』では、使い分けはされていない。謝銘仁氏は、『三国志』に頻用の同義異字のなかに、「以と已」「至と到」などをあげる)。
 なお、順次式に読めば、邪馬台国は南方海上に落ちてしまうから、放射式を採用すると言うのでは、論理が逆転している(榎一雄氏も、放射式は通常の読み方ではないと自覚しているが、地理的に納めるために、これを採るという言い方もする)。読めないものは、読めないということである。伊都国から水行で邪馬台国へ行くという路程認識がまず誤っている。「水行すれば十日、陸行すれば一月」という記事把握も間違いである。

 
F帯方郡使の朝鮮半島南部(韓地)の陸行はあったか?

 陸行の記事がない以上、航路にはそれなりの危険性があっても、基本的には水行だけで帯方郡から狗邪韓国に行ったと考えざるをえない(『魏略』逸文にも、「従帯方至倭、循海岸水行、歴韓国、至拘邪韓国七千里」とだけ見える)。もちろん、倭地内の対馬・壱岐の島内陸行なんてバカげた行程もありえないし、行路が不自然・不必要である。
 なお、狗邪韓国については、潮流の方向や郡から七千余里という位置などを考えてか、慶尚南道でも昌原市鎮海区とか統営市(巨済島の近隣)などの金海の西方地域を考えるものもあるが、多数派の言う伽耶南部の中心地、金海一帯とする説でよい。『魏志韓伝』に見える弁辰狗邪国であり、洛東江の河口に位置して弁辰諸国のうち最も有力であった(李丙Z著『韓国古代史』)。あとは、金海一帯から、どのような航路を渡航先の対馬向けてとるかの問題にすぎない。これは倭地諸国の位置を考える意味でも、同様になろう。
 当地が「倭の北岸」と記されていても、これが倭国の領域にはならない。

 
G末盧国から伊都国への行程は陸行か?

 『魏略』残簡には、「東南五里、至伊都国」と記され、「五東里」は「五百里」の誤記として、「陸行」の文字は見えないから、編者による挿入も考えられ、使者の持つ運搬貨物の重量も考えると、主要メンバーは、船で伊都国の港津に行ったことが自然だと考えられる(白崎・奥野・久保田氏に同意。里数記事のなかで「陸行」の文字が見えるのはこの個所のみで、他の陸行の記事と同様な時期に竄入されたものか)。その場合、末盧国の都(桜馬場遺跡付近か)には立ち寄らず、呼子港辺りから伊都の港へ直行したとみられ、方角も「東南」という表現がほぼ妥当する。

 
H『三国志』の現存本で何を典拠にするのか?

 どちらも、参考にするという程度でよいのではないか。
 紹興本も紹煕本(慶元本という表記が正しいといわれる)も共に十二世紀の南宋の刊本であって、ともに誤記がある(紹煕本のもとが十一世紀初頭の北宋の国子監本だとしても、これが現存せず、確認できないし、長い書写期間に変わりがない)。両者の倭人伝の差異8個所のうち、2ないし3:5くらいで後者のほうが妥当な模様だが、両方とも間違いとみられる個所もある。漢土が南北朝時代、五胡十六国時代の混乱を経て、さらに統一王朝の宋朝(北宋)が女真族の金に敗れていったん滅び、華北を失って大きく南遷を余儀なくされた大混乱期の後の南宋において、正確な正史の原本がそのまま伝わっていたと考えるほうが無理な話。文典のなかで最古の成立である『魏略』残簡(逸文)しか、基礎とすべきものはない。
 その他にも多くの問題点は残るが、所在地検討に必須とは思われないので、省略する。


   次の頁へ     本稿のトップへ