邪馬台国論争は必要なかった


 V 結論及び余論

 結論及び余論の基本要点:松本清張のような推理小説の大家も含め、これまで極めて多数の歴史研究者・愛好者が挑んでも謎が解けなかったのは、『魏志倭人伝』の全ての記事を活かそうと思ったからと思われる。書写期間の長い文書史料について、そのような取扱いがそもそも矛盾するといえよう。
 何が原典必須の記事かどうかの確認が必要……その判断材料が『魏略』残簡部分である。

 「水行陸行」記事の部分だけが、長い筆写期間や筆写過程のなかでの「竄入ないし記事改変」だと見れば、これを除く残りの『魏志倭人伝』の記事は基本的にすべて整合的となる(橋本博士も、水行陸行記事が唯一、九州の地において説明困難な記事として認められるとする)。
 『魏略』の残簡記事に見えない「投馬国」が『魏志倭人伝』の原文にあったかどうかも不明であって、あるいはこの国名も『梁書』の成立以降に竄入されたのかもしれないので、邪馬台国への行程を考える場合には投馬国を抜いておくのが穏当か(『三国志』以降では初めて「投馬国」が現れる『梁書』にあっては、方位は従前書の踏襲で問題はあるものの、敢えて言えば、畿内摂津への途中寄港地として吉備の鞆津あたりが比定されるか。瀬戸内海の航路が開けていないで、畿内が九州を押さえうるはずがない……畿内の最初の開拓者は海神族の一派で、奴国王族たる阿曇族の同族の三輪族)。

 西晋時代の古写本で新疆省トルファンの土中から出土したものと現存本とを比べると、十文字部分と六文字部分が無いのが古写本であり、この両部分を古写本の欠本とする見方もあったが、銭大マ説を踏まえて考えれば、「古本の文は蓋し陳寿の原文の儘にして、今本の文は後人の付加せるものならん」と昭和六年九月付けで武居綾蔵氏が記している(東洋文庫蔵の複写の解説。出典は上記に同じ)。これだけ大きい後人の文章付加の例が現にある。
 なお、従来の邪馬台国論争では、倭人伝の行程は倭都まで行った帯方郡使の梯儁や張政が報告者との前提であったが、里程報告者と異なる日程報告者が別にいるとの見方もある。しかし、一貫しての里程報告があったからこそ、全行程合計の里数が出るはず。郡からの使節の梯儁や張政、とくに初めて倭地に渡った梯儁使節団が倭地の地理を具体的に報告するのが任務として自然であったはずである。この報告を『三国志』などの編者が無視するはずがない。行程記事を陳寿などの造作・誇張とする説は、説得力が弱い想像論である。
 不弥国は原文にあったとみられるが、音が似ているとして「宇美」(現糟屋郡宇美町一帯)に多く比定される。遠賀川中流域の穂波郡穂波郷(現・飯塚市域)も、音に基づく比定とされるが、ともに行程地理からいうと無理ではなかろうか。当地は海津ではなく、おそらくは、もっと内陸部の太宰府市域あたりだったか(太宰府付近説は古くは白鳥庫吉・太田亮にあり、近年でも谷川健一・楠原佑介・菊池秀夫氏などにある。楠原氏は、長田夏樹氏の説く「洛陽古音」を踏まえ、近隣の宝満山から考えて比定する。なお、倭地についての報告者が帯方郡の官人であり、倭人からの伝聞表記も考えられる以上、「洛陽古音」が当時の倭地の人名・地名の表記にすべて妥当するかは疑問も残る。ちなみに、長田氏は、不弥国について、「ホム、ホミ」と表示する)。
 
 地点がほぼ確定できる伊都国現・糸島市域から約千五百里倭地短里かの範囲内の北九州の地域に邪馬台国が存在した。これは『魏略』の残簡記事からも同様に言える。
 伊都国は玄界灘沿岸部にあって、この地域の統治の中心だった(大率〔女王国の役職とみるのが自然〕の所在地及び郡使の常駐地。戸数も太宰府天満宮所蔵の『翰苑』所引の『魏略』にある「万余戸」のほうが正しいか。ともあれ、倭地諸国の戸数は総じて過大のように思われる〔郡使が戸数測定をできたとは思われず、倭人からの伝聞がある以上、すべてが実数と受けとるのは疑問であり、倭地諸国のなかでの比較数とするのが穏当なところか〕。仮に各々が実数の十倍ほどであったのなら、伊都の戸数実数が千余戸だったかのかもしれないが。当時の倭の一戸の人数は、中国に比してかなり少ないという見方もあり、この辺の実態は不明)。
  だから、邪馬台国はそのかなり離れた南方(大率が女王国都から少し離れており、国都が肥後・豊後より北方に存在ということ)にあって、大河流域部ないし山間部にあったとみられる。江上波夫氏も、九州北部の後背地だと示唆する(大林太良氏も『邪馬台国』で、習俗・祭祀等から検討しつつ、北九州の「港市の後背地」とみる)。この範囲で、当時の諸事情を踏まえて適切な地を考えていくことが必要となる。『魏志倭人伝』で分かるのは、この辺までである。

筑後では、筑後川により形成された筑後平野部の農業生産力が高く、古代からの聖地で交通の要衝は、筑後一宮の高良大社、高良山の一帯であった。この地に、景行天皇が九州巡狩の時に高羅行宮を設けた(『風土記』)。筑紫国造磐井君の本拠でもあって、後の筑後国府も置かれた。当地にはついては、北九州に分布する神籠石遺跡の中心的な位置づけもある。

 管見に入った御井・山本郡あたりとみる説久留米市域説)の主張者(以下は敬称略)……地域をやや広義に受けとめ(筑後山門説の広域論は除外)、非学究まで含めると、植村清二、榎一雄(両者は御井郡説)及び谷川健一(『白鳥伝説』に三井郡説。水行を御笠川・宝満川の航行とする)のほか、拙考(御井・山本郡説)、村下要助(久留米市の高良山を中心とする筑後川南岸地域に卑弥呼の女王国が所在という説)、福島雅彦(耳納山地北麓説)、阿部秀雄・山村正夫(ともに筑後川流域)、石田幹之助(筑後川下流説)、片岡宏二(筑後川中流域南岸から下流域にかけての一帯。広域的にに「筑紫平野」〔大掴みに言えば、主に筑後川流域〕と見ており、八女市の室岡・岩崎遺跡群あたりに重心があるかもしれないが)など。高島忠平氏も、吉野ヶ里遺跡よりは都としては御井郡のニュアンスがあるのかもしれないが。このほか、ネット上にはいくつか見られ(「暗号「山上憶良」」など)、久留米の地元にもこの見方の主張者がおられそうだが、この辺は氏名不詳。

 御井・山本郡近隣の説まで参考にあげておくと、筑後川北岸から吉野ヶ里など佐賀県平野部にかけての比定説(奥野正男、武光誠、楠原佑介、藤沢偉作。辻直樹説は背振山地の南側説)もある。山門説ないしは山門郡とその背後の八女を含む広域(現・みやま市・八女市・筑後市域あたり)という説が九州説のなかでは最も多いが(新井白石以降、橋本増吉、井上光貞、森浩一、田中卓等々で、あとは掲名を省略。いまは八女説のほうが多くなっているか)、この地域一帯は地理的にやや狭いことで、当時の生産力に問題があることに加え、室岡遺跡群などあるが、それでも考古遺跡や地名の音韻学的などで疑問があろう。八女津媛伝承と八女津媛神社もあるが、祭祀的にも目立ったものがないから、積極的な根拠が皆無に近い。
 八女丘陵上には、五、六世紀の古墳が群集して八女古墳群と呼ばれ、北九州では最大規模の前方後円墳たる岩戸山古墳(筑紫磐井君の墳墓に比定する説が強い)やその祖父くらいにあたる者の石人山古墳などがあるのも、論者には魅力があるのであろうが、この古墳群築造の時代には、古墳は奥津城として本拠地から少し離れて築造される傾向があり、筑紫国造の本拠も、磐井君の決戦が行われた北方の御井郡にあった。だから、八女が邪馬台国領域に含まれたとしても、本拠は御井郡のほうとなろう。普通に考えれば、明治の中頃に上妻・下妻両郡等を併せて八女郡とされたから、「投馬国」が原典に何らかの形であったとすれば、この地域に当たるものか(上妻・下妻は上八女・下八女の略記としたら、必ずしも地名がつながらないかもしれないのだが)。

 なお、九州説のなかでは、宇佐説も根強いが、行程記事から見て筑前海岸部から離れすぎだし、交通的にも途中地国名の記事がないなどの疑問が残り、宇佐が当時の九州全体の政治的中心であったことの裏付けにも乏しい。宇佐の開発は北九州のなかではかなり遅い時期とみられる(周防方面からの勢力が及んで、その開発によるものか。日向・大隅等の開発は宇佐よりも更に遅れ、主に宇佐国造一族によるものとされるから、更に疑問が大きくなる。原始国家を構成した勢力・種族を考えても、南九州説はきわめて無理がある)。神武朝に起源を有する宇佐国造家との関係も、邪馬台国関係者にはまったく見えない事情がある。邪馬台国の肥後北部(肥後国山門郡など)説も古くからかなり多くあるが、考古遺物の出土・分布から見ても、肥後の大半(すくなくとも肥後南部)は狗奴国の主領域とみられ、近すぎて無理がある。

 併せて言うと、当時、畿内には大和王権の萌芽段階の原始国家があったが、これが列島内で二国家並存というほどの勢力規模だったとは到底みられない(各々の勢力圏はまるで接触・接近がないという程度。中国の王金林氏などに二王国並存説もあるが、畿内のほうは九州に対比できる勢力規模ではないということ。三世紀中葉当時、畿内のほうが北九州より生産力が高かったとみる説もあるが、両地の鉄出土状況や当時の地形などの比較から見て疑問が大きい。ともあれ、複数の政治勢力圏が併存して当時の日本列島のなかにあったとすれば、考古学的知見だけで邪馬台国の所在地判断ができないことは、益々明確になる。こうした認識が考古学関係者に殆どないのは不思議である。邪馬台国段階の三世紀には、大和も吉備・出雲・筑紫など、原始的な地域王国の一つにすぎず、それらが競合しながら続き五世紀中頃の雄略朝前後に大和を中心にまとまる、という国家形成史観を描いて、門脇禎二氏は晩年に大和説から九州説に転向したとされるが、この「地域王国論」は畿内の巨大古墳の存在などから見て、正しいのは前半だけで、後半は間違っている)。
 
 狗奴国は、その有力者がククチヒコ(訓みは「狗古智卑狗=菊池彦」か)であった事情や犬狼信仰これ故に「狗奴」の呼称が生じた「狗」は現代中国語で、普通に「犬」を言う語)、九州の綱引祭事の分布旧暦8月15日夜になされる十五夜綱引は熊本より南方地域に多く、仲秋の名月を愛でてなされ、月信仰・犬狼信仰に通じる。これに対し、熊本より北方では小正月綱引がなされる)などから見て、主に肥後国を本拠とした倭種の国家とみられる。
 日本列島古来の住民、山祇族が主体であり(邪馬台国が中心の女王国連合諸国とは人種構成がかなり異なる)、この種族が後の隼人につながる可能性はあるが、狗奴国は「熊襲」ではない長田氏は、「狗奴」の洛陽古音として、「コナ」と表示しており、「卑狗」が「ヒコ=彦」なら、これもコナに通じるから、クナ国と訓むのは控えたほうがよいのかもしれない)。その王の「ヒミクコ(卑弥弓呼)」が卑弥呼の跡の倭国王になったとは考えられないし、邪馬台国が狗奴国により滅亡されたことも考えられないし、具体的な資料もない。邪馬台国は、卑弥呼の死後では四世紀前葉頃までに分裂して衰えていき、その残滓勢力(これが所謂「熊襲」であり、津田説以来、誤解されてきた)は四世紀中葉に大和王権により討滅された。
 ちなみに「蛇鈕」をつけた奴国王金印は、竜蛇信仰をもつ海神族の族長にふさわしく(同じく蛇鈕をもつ金印の雲南省東部の「〔テン〕王」も「百越」系、すなわちタイ種族系の王であろう。考古遺物に竜蛇信仰を思わせるものがある)、これを「委奴国」として「イト国」を考えるのは疑問である。狗邪韓国も、後の金官伽耶につながるとすれば、北辰信仰をもつ金官王家(後の金海金氏)の系統から見て、犬狼信仰ももっていたものか。
 
 「邪馬台国東遷説」は根拠のない夢想事で、邪馬台国本国の移遷は史実ではない(神武や物部部族などの天孫族の支族・支流の東遷とは異なる)。
 これは、東アジア(漢土、満鮮蒙、日本列島)の上古からの歴史を見れば分かること。「本国は滅ぼされない限り原地に残り、支族支流が遷居した」というのが各地の例の基本であった。未知の地に向けて、国を挙げて本国そのものが移遷する必然性はまったくないし、それだけに政治的に危険性が大きい。どうして、こんな常識的なことが主張者には分からないのだろうか。この辺が不思議でならない。おそらく、観念的に歴史的事件を考えているからではなかろうか。
 「朝鮮半島においても、高句麗や百済でも遷都は珍しくなかった」と森浩一氏は言うが、飛んでもない勘違いの議論である。高句麗の場合は兄弟で大分裂だし(平壌への宮都移遷は、距離が長くても、その領域内での移動ということ)、百済はいったん滅亡して、それから南方の別地のほうに再建だから、宋王朝(北宋)と同じケースであった。なぜか邪馬台国九州説論者には東遷説支持者が根強いというほど、古くからかなり多く見られるが、こうした実態的に根拠のないことも併せて主張するから、九州説の信頼度を貶めている(本国そのものが移遷しないでも、支族の動きで考古学的影響などが他の地域に及ぶことだって、ありうること)。※拙考の邪馬台国東遷説の否定論の詳細

 これまで、「邪馬台国東遷=神武東征」説とみられて、皇国史観批判の対象にもされてきた(もっとも、「皇国史観」の理解も論者により差異があるようで、この史観に対する批判的態度は必要だが、批判内容がすべて正しいわけでもないし、基礎となる記紀記事の把握にも誤解が多く見られることに留意)。しかし、最初に書いたように、邪馬台国東遷は決して神武東征ではない。両者の概念はまったくの別物であることをよく整理した上で、論じることが必要である。

 ちなみに、卑弥呼についても、天照大神や神功皇后、倭迹迹日百襲姫命とはまったくの別人であるのに、いまだ「卑弥呼=天照大神」説などこれら女性に比定する見方がかなりあることに驚く。そもそも、天照大神は女性神ではなかった。卑弥呼は記紀に見える人物ではなかった。東アジアはもちろん、世界中でも太陽神は男性神であって、その例外はきわめて少ない模様である。
   ※天照大神が女性神ではなかったことの説明
 
 正始八年(西暦247年)に倭地に行った帯方郡使の張政らが新女王台与による送還で同郡に戻ったのは、何時か?
 この送還が晋の起居注に言う「武帝の泰始二年(266年)」のことで、満19年もの長期間、張政が倭地に居たとの見方(森浩一氏)もあるが、きわめて不自然(山尾幸久氏も、張政はあきらかに王都に滞在し、在倭が数年に及んだことは推測できるが、滞在期間は不明だと記す。男王擁立後の内乱が長く続いたとは考えられない。ちなみに、謝銘仁氏は正始八年の同年中に郡使が帰還したとみており、帰還年時を記さない以上、その可能性も大きい)。
 普通に考えれば、新女王の擁立で張政の任務は終えたのだから、その王権安定を見計らって(安定策を適宜、講じたうえで)、遠からずの時期に帰国したのではないかとみられる。鳥越憲三郎氏も、新女王の安全を確認して、即位の一、二年後に帰ることにしたとみてよかろうとする(久保田穣氏もほぼ同旨)。卑弥呼死後の混乱で「千余人」が死ぬほどの大乱でも、あっさり収まることもある。

 そもそも、郡使送還が晋朝になってからのことだとすると、晋の時期までの記事を『三国志』に書き入れるのは、「魏志」倭人伝に反する。だから、魏朝(265年に滅亡)の時代のうちに、遅くとも250年代初め頃までに、具体的な年次を示さない倭からの遣使があったとされよう。渡邉義浩氏は、『冊府元亀』(巻九六八外臣部 朝貢第一)の記事により、上記の謝銘仁氏と同じ年の正始八年に帰還したとし、「卑弥呼の死去から始まった倭国の混乱は、比較的早く収束したのであろう」とみる(西晋への交替直後になされた倭の遣使も、整った政治が行われていた証とみる。ただし、『冊府元亀』の記事には引用元が不明とも記す)。とすれば、その郡使送還までの期間内に墳墓築造が完了され、それを郡使に実見されたからこそ記事になった卑弥呼の冢(墳墓)が約150Mという巨大なものではないことにもつながる(しかも、いわゆる箸墓古墳の規模は、その倍の全長278Mもある。牽強付会もいいところ)。

 なお、張政が帯方郡太守に出世して張撫夷(「帯方太守張撫夷」に名が遺る)と改名したとみる(森浩一氏)のは判じがたいが、やや無理がありそうでもあり、可能性もないわけでもなく、この辺は留保する。


   更に第二部の「邪馬台国論争は必要がなかった」に続きます。

 

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