邪馬台国論争は必要なかった


  第二部

 
 W 邪馬台国論争は必要なかった補足説明及び更なる余論

 前項までの記事で、邪馬台国の位置論については結論まで記した。ここで終えても、書きたいことは既に書いたから良いのだが、もう少し広い周囲的なものも含めて、多少の補足を入れつつ、関係する余論を書き足しておきたい。とくに言いたいことは、これまで長く続いてきたとみられている邪馬台国論争など、もともと必要なかったということである。つまり、問題の要点をきちんと把握し、適切な前提を置いて論理的合理的に考えを積み重ねていけば、論争など生じる余地がなかったものだと。

 まず、中国人研究者が『魏志倭人伝』を読むという関係であるが、本文で名を挙げた謝銘仁・王金林・沈仁安という台湾系・大陸系の日本歴史専門の中国人学者は皆、同記事を読む限り、邪馬台国は北九州ないし九州にあったと判じている。
 元北京大学教授の沈仁安氏によると、大陸系の古代史学者は殆ど全てといってよいくらい、同じ立場ということである。現在の中国関係者でも、ごく一部に考古学論や生産力論などを基礎にして、畿内論者がいるとのことではあるが、その基礎には遺跡・遺物の評価・判断の問題があるのだから、教養ある中国人が『魏志倭人伝』を文献史料として普通に読むと、邪馬台国の所在地は九州だということになる
畿内論者の議論は、国際的にはまるで通用しないということにもなる。このことは銘記されるべきである。漢文の読み方は如何様にも読みとれるのだとみるのは、漢文の誤解である。畿内説の論理が破綻していることを、非学究ながら東大法学部を出て長くマスコミ界活動した斎藤道一氏が『邪馬台国を解く』で厳しく指摘しており、久保田穰氏も多少異なる論調ながら畿内説を強く批判する。山本武夫氏は、邪馬台国の時代は「小氷期」で、この飢餓の世紀に農業養蚕が無事行われ、三〇近い部族国家を統率した大国が畿内の山間高冷地に存在し得たかと指摘するから、生産力では畿内のほうが大きかったとは思われない。歴史の流れで考えても、『魏志東夷伝』に拠れば、当時の朝鮮半島では多くの小国が分立しており、日本列島ではその主要部一括しておさえる統一王権が先に存在していたことには無理がある)。

 これら中国人研究者は、日本の具体的な様々な古代地理事情などを知らないこともあって、学問的に慎重な立場から、具体的な邪馬台国比定地についての言及が総じて乏しい事情もある。そこで、実際の地理や諸事情に即して、所在地比定をするのは日本人研究者の役割と言うことにもなる。
 私は、これまで五十年弱、本件問題に関心をもって検討し続けてきており、かつ、北京に二年間滞在し中国語の使用経験も多少あるところで、まことに僭越ながら、これまでの日本人の邪馬台国研究について拙見を記させていただく。今回、『魏志倭人伝』を含む中国・朝鮮半島の極めて多くの関係資料を、刊行本にして延べ五,六十冊以上も短期間、集中的に読ませていただき(もちろん、その殆どが再読、再三読以上であるが)、書棚のあちこちから関係書を引っ張り出して見たところ、ある特定の研究者三人ほどの書が各々二,三十冊ほどないしそれ以上もあることに気づき、我ながら驚いた次第である(なお、これだけ読み込んでも、結論から言えば、これら三人ほどの研究者の所説・結論には、いずれも賛同できなかった次第である)。
 
 これまでの経験なども踏まえて、現在までに発表された邪馬台国位置論について、そのなかでのベストな著述を敢えて選ぼうとした場合、私は、橋本増吉氏の著作『邪馬臺国論考』をあげさせていただく。これは、研究に取りかかる認識、研究過程及び結論などを総合的に評価したうえでのものである。もちろん、この著作だけで、複雑な邪馬台国問題をすべて解決できるわけではないが(特に具体的な結論の地は異なるのだが)、極めて重大な手がかりや示唆を与えてくれる書であり、もう一歩、その考え方や研究を進めれば、適当な断案に近づく可能性が大きいという意味でのベスト賞評価ということである。

 この『邪馬臺国論考』という書自体は、当初は1932年に『東洋史上より観たる日本上古史研究  第一』として刊行されたが、その増補改訂版が1956年に『東洋史上より見たる日本上古史研究』の第一篇「邪馬臺国論考」として刊行され、それが1997年に「平凡社東洋文庫版」に収められて(解説が佐伯有清氏)、利用しやすくなっている。著者の橋本増吉博士(生没が18801956)は、東京帝大支那史学科を卒業し、慶應大学教授や東洋大学学長をつとめた。上記『日本上古史研究』の増補改訂版が出てほどなく逝去されたから、これは畢生の大著といってよいが、『支那古代暦法史研究』という著もある。
 さて、同書の問題認識は、不弥国から邪馬台国までの里程は、「郡よりの総里程が明記されているのであるから、当然一千三百余里なることは、明らかであるに拘わらず、何故かそれを里程では記さないで、日程で記されており、不弥より投馬まで水行二十日、投馬より邪馬台まで水行十日陸行一月という記事になっていることである」とし、「邪馬台国問題の難点は実にここに存するのである」と記される。その後に続けて、「何故に九州の地だけでは、どうしても解釈困難な、かの日程記事が挿入されたのであろうか。その難問を解明することが、この問題解決の要点であり、この要点を忘却しては、その他の点に如何なる解釈を試みるも、この問題は解決されないであろう」と看破する。さらに、「魏略の本文には、不弥国より邪馬台国に至る「水行二十日」、「水行十日、陸行一月、」なる行程記事は存在しなかったものであるとすれば、この疑問は容易に解釈せられ得る」とまで記している。こうした橋本博士の基本認識が、その後の邪馬台国問題研究者に持続されなかったことが誠に悔やまれる。

 橋本博士の結論部分の基礎は、日程記事と里数記事の関係を考えるものであるが、陳寿の活動期間(生没が233〜297年)が崇神朝(在位263〜318年と博士はみる)あるいは景行天皇の時代にかかっていて、「陳寿在世の時代に我が大和朝廷の威名が、少なくとも九州北辺にまで知られた事は恐らく疑いなきところであろうと推考せらるるのである。……魏志の編著に当って、この知識が少からず禍いし、その頭脳を昏乱せしめたものではあるまいかとも考えられるのである」とし、『魏略』の編者の「魚豢についても亦同様の事が考えられ得るのである」と推測する。これら諸事情があって、「編者の思想上に混雑を来し、九州より大和に至る日程を以て、不弥より邪馬台に至る日程と誤認し、為めにその不弥より投馬・邪馬台に至る里数記事を棄て、その誤認せる九州より大和への日程記事を以て之に代えただけに過ぎないものである」と考えている。だから、「主として里数記事を採り、日程記事を排することを以て正当と信ずるのである」とする。
 これが、卑弥呼の邪馬台国と崇神朝あるいは景行朝の大和朝廷との並立の見方で、いわゆる「重ね写真説」ともいわれるものである。戦後の古代史学は、津田史学の影響がきわめて強く、応神朝よりまえの歴史をすべて切り捨ててきたから、こうした発想は出てきようがない。しかし、応神天皇に先立つ畿内の巨大古墳の存在からいって、それ以前の記紀切捨ては無茶な話であるから、当時、二つの王権が並立していたと認識していれば、その場合、「重ね写真説」は成り立ちうる。
 とはいえ、橋本博士の応神朝の時期把握がほとんど的確であっても(結論部分の少し前の紀年論で説かれ、在位が西暦390〜411年とみる)、崇神朝の時期把握が遡上しすぎであり(拙見では、四世紀前葉の後半とみる。記の崩年干支は信頼できない。大和王権の発展時期を早く見過ぎる傾向が橋本氏にはある)、四世紀の後半ないし後葉より前の時期では、大和王権の存在が中国の王朝に伝えられたことは考え難い。だから、陳寿にも魚豢にも知られるはずがなかったとするのが自然である。先にも述べたが、晋朝への266年の遣使の前に邪馬台国の東遷があったはずもない(そもそも本国の東遷自体が史実ではない)ので、この結果、「重ね写真説」は成立困難となる。

 そうすると、『魏志倭人伝』を整合的に考えようとした場合には、「水行陸行」記事が唯一、邪魔な存在となり、これを除去して考えざるをえない。つまり、当該記事は後世の竄入とみるわけである。そもそも、この記事は『魏略』逸文には見えないし、『魏志』以外で最初に見えるのは629年に成立とされる『梁書』になってからである。この時期は、遣隋使がなされてから後で、隋からは文林カの裴世清の畿内到来も現実にあったのだから、大和王権の存在・位置が明確に中国側に知られていた。倭の五王の時期は、中国南朝に倭から遣使をしていても、中国からの使者の到来が現実になければ大和王権の位置が伝わらなかったことになる。
 いま、考えうる可能性としては、『梁書』の成立以降に「水行陸行」記事が『魏志倭人伝』に竄入されたということだけである(「水行」が内陸の河川を行くことだと解する見方もあるが、韓地水行の記事や『梁書』の記事との整合性から言って、かなり無理があろう。「陸行」でも貨物運搬に河川を使ったことは、考えられるが)。これが論理的にあらゆる可能性を潰してきた結果であるが、橋本博士の論がここまで及ばなかったのは、崇神朝の時期把握が誤りだったことに由来する(博士は、わが国の上古紀年の確定が本件問題の解決に最も重要なる関係を有すると自覚していたが、その紀年確定の認識にはズレがあり、かつ、その後の古代史学者は紀年確定のための努力をしなかった事情にさえある)。中国新疆省出土の『三国志』残簡も、認識になかったものか。
 これら障碍さえ乗り越えれば、論理的には本結論は導き出しうるということである。戦後の古代史研究者がそうした見解に到達しなかったのは、応神朝より前の時期についての津田史学の影響による記紀等の史料切り捨て論に起因する。
 こうして見ていくと、邪馬台国の所在地論争は適切な手順さえ採られて検討されていれば(大和王権の実態把握が的確であれば)、本来は論争の必要がなかったということにもなる。今までにこの論争には、学究・非学究や諸外国の研究者などを含めて異常なほど多くの参加者があったが、関係書多数を読み比べると、非学究の論述のほうでもバランスの取れた検討を重ねたものもあることにも留意される。中国の研究者からも、記紀の切捨て論について疑問の声があがっている。この辺を踏まえつつ、冷静に総合的に考えていくことが必要である。複雑で精緻そうな議論をいくら行っても、結論がかえって混乱する場合も多いのである。
 
 橋本博士の「重ね写真説」の論理はともかく、「竄入説」でも、日数記事の切捨てという点では実質的に同じだから、具体的な比定地については、拙考とあまり変わらない。
 橋本氏の説は山門郡説と分類されることが多いが、「筑後川及び之れと併流する諸川の流域を包括せる有明海沿岸の大平野」と記しており、これなら筑後川下流域説としたほうがよさそうである。これは、明治中頃に御井・山本両郡が筑後川北岸部の御原郡も併せて三井郡となったあたりの西南側にあたる。橋本博士は、高良山の山上列石だけがもとから神籠石と呼ばれた事情も重視し、山門郡女山や雷山・鹿毛馬にもこれと同種の山城式列石址(形式は伽羅諸国の山城と全く同様)があり、邪馬台国女王の居処は「城柵厳設」と記されると言及する(村下要助氏にも同様の論調。佐伯有清氏は、解説のなかで、現今では「神籠石系山城」は六、七世紀代にまで時代が下がるものと考えられているから、邪馬台国研究には無関係だと記すが、北九州の朝鮮式山城と「神籠石系山城」とは、考古学的に見ても構築上からも同断すべきものではないから、佐伯有清氏の誤解である。、「神籠石系山城」については、築造時期の史料的裏付けもあるわけではない。女山神籠石は、南方の狗奴国への備えだったか)。
   北九州の神籠石の分布図
 
 考古学から邪馬台国位置問題を解決することは、考古学の能力を超えているとの指摘も橋本博士にはある。
 すなわち、「当面の問題の如き、短期間の一定年代に関する史実の断定に対しては、比較的その効果少きものであり、之れのみによって、或る断案を下さんとする如きは、その学問の本来の性質を忘却し、その能力を過大視するものといわなければならない」というものである(そのうえで、考古学的研究の成果も、一見大和説に有利なようでも、実は却って九州説に有利な点が多く、ことに墓制〔棺あって槨なし〕、鉄鏃・矛や山城式列石は九州説を支持すると記す。これは、現在でも変わらず、自然科学的手法と称する年輪年代法や炭素14年代測定法に気づく算定値は検証のできない仮定年代値にすぎない)。
 三角縁神獣鏡論を展開して畿内説の支柱ともなった小林行雄氏ですら、邪馬台国の存在は、「あくまで文献上から真理を論ずべき問題であって、考古学的に云々しうることではない」と早くに記している(『古墳時代の研究』1961年刊)。考古学者に畿内説論者が多いことは周知であり、九州においてですら、邪馬台国九州説を支持する考古学者は殆どいませんよ、との言を私は現に聞いたこともある。しかし、その辺は学問で分る限界がどこまでかという問題も含み、多数の学者の信念だけで、史実原態を探究できるわけではない(畿内派考古学者の活動への批判は、中島信文氏の『露見せり「邪馬台国」』〔2013年刊〕に詳しい)。
 考古学がモノに即した展開をするのなら、無闇に想像論を展開する姿勢や、自らの学問がなしうる限界を認識しない姿勢はいかがなものかと思われる。モノを踏まえてであっても、出土の地・状況が不明な遺物は、ほとんど信拠に値しないが、最近も中国の洛陽付近で出土したという経緯不明な「三角縁神獣鏡がマスコミに登場している。


   続く


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