邪馬台国論争は必要なかった


 (第二部の2)

 

4 畿内派文献学者の直木孝次郎氏の論調を見たところ、本件の「論争を止揚して正しい解決を求めるにはどうすればよいか」という記事があった(「永遠の謎か、邪馬台国と女王卑弥呼」という論考。同氏責任編集『王権の争奪』〔1986年刊〕に所収)。
 それには、「二つの方法がある。一つは倭人伝の著者が、なぜ邪馬台国の位置を誤解したり、誇張した表現を用いたかを考え、どこを修正すればよいのかを明らかにすること、もう一つは考古学の研究成果によって…(中略)…邪馬台国の所在地として適当かを考えることである」、とされる。
 要は、@誤解論と誇張論、それにA考古学の研究成果、ということであるが、この考え方の大前提が誤っている。『魏志倭人伝』の編者は、『魏略』残簡と考え併せれば、報告資料などの誤解は殆どしていないし、行程記事には誇張がなかった場合がある(地域的短里の存在を認めて、その記述と考えれば)、ということである。

 誤解論と誇張論は、戦後の津田史学(ないし亜流)の学究が多用する安易な「造作論、反映論(実質は想像論)」に通じ(津田氏の本旨はそうではないとも思われるが、彼の結論的な考え方は結果としてこうなっている)、立証できない心情論である。併せて言うと、書写期間が長い史料には誤記・異伝が付き物であるが、これらもできるかぎり、確実なものに限定するのが妥当である。魏の帯方郡使が少なくとも二度も倭国の都に到来しているのだから、現実的な事実把握があったと考えるのが自然である。
 考古学の研究成果を用いることについては、前項で基本的なことを記したが、年代確定が確かな考古遺物に限定されるべきであり、三角縁神獣鏡の魏鏡説を用いた議論が既に破綻していることは、周知のことであろう。まるで検証されない、そして実際にはかなりの幅があるはず(適切な較正を要する)の自然科学的手法による算出年代値を一義的に用いて、古墳開始年代を繰り上げさせるという関西系考古学者の手法は、むしろ人文科学の発展を阻害するものである。
 同様に、記紀史料の利用も、極力限定的になされるべきである(積極論的な利用ではなく、マイナス論的な利用は、考古学と同様に十分、考えられるところである)。
 ともあれ、邪馬台国畿内説を合理的に、かつ、確実に根拠づけるものは、考古学分野を含め、現在まで管見に入っていない。立証のない仮説や空想論ばかり並べ立てて、自説を主張したり固執したりする姿勢は、学術研究者にあるまじきことといえよう。論者が多数とか賛同者が多くなれば、それが史実になるわけでもない。
 
 自然科学あるいは数理の文献学・歴史学から解く邪馬台国というような表題・趣旨の書も数冊出ており、これらも多く読んではいるが、邪馬台国位置問題は自然科学的な手法だけでは解決せず、かえって歴史関係の総合知識の欠如を示した結果になったことも一部に、見えている(だから、「理科系の思考」で対処するという論調では、総じて歴史関係知識の無知・無視につながる傾向が見える)。
  また、記紀成立時頃の人々の地名認識が原型史料に書かれた内容の地名と同じだという保障もない。だから、記紀の地名認識を統計的に処理して求めようとしても、それは、これらの書の成立頃の編者の認識を示すにすぎず、原型だとは必ずしも言えない。天照大神を女神だとする認識も、同様である。「三世紀の日食現象→天照大神の岩屋隠れ→卑弥呼の死と復活」、と続ける発想も、おおいに疑問がある。アジアには、「射日・招日」の神話が多く分布することを考えれば、三世紀に日食があったとしても、この現象を日本列島では現実の歴史的事件に結びつけることは無理であろう。記紀神話の混用だと批判されるのも、宜なる哉ということになる。
 
 それでは、法律専門家が関係史料を論理的に考えればどうかということにもなるが、その代表として弁護士であった久保泉氏の宇佐説が先ず知られる。しかし、その後輩的な位置にもあたる久保田穰くぼた・ゆたかがこの説を強く批判しており、ここでは詳細は省略する。
 今度は久保田氏の著作を取り上げて見れば、随所・個別には適切な判断が多く示されているものの、自然科学的アプローチとほぼ同様な傾向があり、残念ながら、奇妙な結論(大分県南部説)になっている。というのも、立論だけして歴史学的に自己の結論の検証をなんらしていないことにも因る。自説が、「倭人伝記載の地理と合致し、そうであることを拒否する理由はない」では、信念の吐露にすぎず、検証になるわけがない。所在地が「正しく解釈すれば九州の東海岸、大分あたりに行くのである」と言われても、その解釈が正しいかどうかは、考古遺跡・祭祀などの痕跡も含めて様々な検証を要するのであり、そこに前提も含め考え違いがでてくる。

 久保田氏には、総じて言えば、考古学・祭祀などの歴史関係知識にも乏しい面もあり、総合的な歴史学研究の日が浅いため、歴史の大きな流れ、歴史の大局観を重視しないところもあって(彼の説く邪馬台国東遷説ではすべての解決ができないことに留意)、本問題は多少、荷が重すぎたのかもしれない。併せて、里数記事は切り捨て、日数記事を採用した前提が先ず狂っていたということが最大の要因であろう。矛盾するうちの一方を切り捨てるという問題解決の姿勢は、まったく妥当なものであったが、そのときの選択の判断結果が誤っていたということである。それも、歴史関係知識に総じて乏しいことに起因しており、法律家として証拠資料の致命的な判断ミスをしてしまったことになる。
 拠るべき史料をその成立経緯から普通に考えていくと、成立の古い『魏略』を重視すれば、日数記事よりは一万二千余里という里数記事を採る形になるはずで、この前提としての選択誤りが久保田氏にあった(いわば証拠資料としての『魏略』を無視ないし軽視したことに起因した選択誤りであった。久保田氏の一連の著作を見ると、研究の当初から里数記事のほうを捨てるべきだと思い込んでいたともみられる。かなり長い期間、本件問題を検討してきた様子が窺われるのに、どうしてなのだろうか)。まさしく、橋本増吉氏が先に看破したことが、そのとおりとなったわけで、久保田氏は橋本著作を十分に読んでいなかったのかもしれない。考古学や祭祀・習俗関係は邪馬台国位置問題の決め手にはならないが、それらの全般的な知識や遺跡等の個別具体的な知見は総合的な判断のためには必要であるということでもある。
 古代史関係にもすぐれた指摘が多い論者だけに、本書の結論やそれに至る研究姿勢・思考過程は改善の余地があり、文献の沿革や考古学的な検証が適切にできれば修正・調整ができたはずではなかったのではないか、と惜しまれる。その辺を併せて、久保田氏の著作を評価するものでもある(最後の著作『邪馬台国と大和朝廷』では、大分南部説を更に確信するとなっているから、実際には修正不能であった。大分南部説をとる場合には、女王国の勢力圏より更に南に位置すると倭人伝に記される狗奴国を、どの地域にあてるというのだろうか。仮に、それが肥後だとすると、中間に阿蘇などの山地を挟んでおり、両者が終始、争う必要がないはずである)。

 同じく歴史非学究の村下要助氏の論旨が所在地問題を中心に拙考に近いが、卑弥呼の女王国と大和の邪馬台国とに分けて考える点など肯けない点も少なくない(その著作も前編の前半くらいの記事が評価できるが、あとの部分は疑問)。しかし、端的に高良山一帯や祇園山古墳に着目したことは高く評価できるものであり、ここにあげておく。

 最後に、本稿は論点・要旨を明確にするため、忌憚のない批判記事となっている個所もあるが、それぞれの論者の名誉など人格的なものを毀損する意図は、筆者に毛頭ない(むしろ、有効・適切な主張の論者を顕彰する気持ちが大きい)。その辺をご理解のうえ、ご寛恕いただければ、そして筆者の本意をご理解いただければ、と願うものである。上記で取り上げた方々なかには、個別に面談して直接にお話しをうかがった方々もかなりおられ、すでにご逝去された方々もかなりおられて、これら皆様を偲びつつ、だからこそ却って、心情的な推考を排し、できうる限り客観的合理的な思考となるようにつとめて、本稿を作成した次第である。適正な検証が冷静に行われ、仮説の妥当性が確かめられる必要がある。

  もう一つ感じるのは、北東アジアの歴史と史伝・習俗・祭祀に無知であったり、これも含め中国の少数民族の動向・習俗・祭祀を考慮しない研究が多すぎるということも感じる。現在でも中国に五十余の少数民族がおり、古来からの習俗を今に伝えている。上古では、この習俗への拘りが更に強かったとみられ、トーテミズムの視点からの検討は、倭地にあっても邪馬台国問題の解明には必須のものと言える(狗奴国を安易に熊襲や毛野に結びつける発想は、やめたほうがよいということでもある。奴国を形成した海神族集団への適切な考察も欠かせない)。
 中国の少数民族については、古島琴子著『中国西南の少数民族』(1987年刊)や萩原秀三郎著『稲を伝えた民族』(1987年刊)が入門知識を学ぶ手がかりになろう。

  いま、これらの問題を見直したとき、邪馬台国について新たな比定地説を出すことではなく、これまで出されてきた諸説を個別に的確に評価し、きちんと整理することが研究者に求められる。本稿の当初から繰り返して使用してきた言葉だが、「大きな歴史の流れを踏まえた大局観」が本件問題を検討するに際して重要である。具体的には、北九州では、博多湾岸部に対する筑後川流域部が大きな勢力として対峙してきた事情を踏まえて、これら両地域を押さえるため、その中間部にある大宰府に古代九州統治の中心が置かれた。そして、博多には対外応接を主とする鴻臚館が置かれたのも、往古の伊都国の役割を思わせる。
 中国や満鮮地方の上古からの歴史を通観すると、歴史の繰り返し例が多く見受けられる。だから、戦後の古代史学者が頻用した論理である「反映説」が、論理的な根拠になりえないのである。そして、殆ど例のない新説を出す無意味さも、そこにある。標題に掲げたことに通じるが、「邪馬台国論争はもはや必要ない」と最後に改めて感じるものでもある。

 当初は数枚の整理メモとして書き出したが、多数の諸書を読み込むにつれ、かなり大きな分量となってしまった。ここに来て思われるのは、『魏略』残簡がよくぞ現代まで残ったものだという感慨である。

 

 
 <備考> 

1 
本稿をネット上に掲載するのは、諸論点とその判断たる拙見は、殆どみな先人の思考・結論によるものであり、邪馬台国の所在地の拙見や、「水行陸行」記事の竄入説の示唆も、既に約15年前に邪馬台国の位置論として、『季刊/古代史の海』第17号(1999/9)や、「古樹紀之房間」で拙見として発表済みであるためであり、ここでは位置問題についての考え方の要点整理が主体だからである。先に誰が言いだした説・見解なのかは、本稿では基本的に拘らない。
 
2 出典等
 邪馬台国関係の書はきわめて多数あって、すべての典拠や諸説を網羅しがたいし(もっとも、歴史学究も含め、「トンデモ説」的な論理が多い事情もある。だから、非学究の議論も多く出てくる所以かもしれないことを学究関係者は自覚すべきと思われる。これらトンデモ説については、本稿では言及しない)、本稿は、所在地論の要点整理を目指したものであり、邪馬台国研究史の記述ではないので、本文で取り上げたなかで、戦後の主な著作著述者一人につき代表作だけ取りあげ(「など」は同著作者の本を、私が複数読んだことを示す)、順不同で一応の参考までにあげておく(すべて敬称略・五十音順で、戦前より前はあげず、学説の沿革は考慮しない。ただ、基本的には、これらだけ読めば、一応の問題判断能力がつくのではないかと思われるものでもある)。
 もちろん、これら以外にもきわめて多くの著作・論述について、刊行本・雑誌新聞・ネット記事・口頭説明などで、私としても長い期間のなかで当たってきて、ここで取り上げない考古学者関係の邪馬台国論や諸学究・非学究の方々の検討、想像論・理念論なども随分、読んできており、念のため、この辺をお断りするが(これを記しておかないと、この辺を読まないで無視あるいは記述したと受けとる傾向の方もおられるようなので。過去にもそうした経験があり、参照文献を必要最小限あげるのが妥当と考えている)、興味深い整理をする書もいくつかあるものの格別の新指摘もないので、残りの書の掲名はすべて省略させていただく。この記事をネット掲上した後も、邪馬台国関係の著作が多いが、格別の新考がないと受けとめた場合には、掲載を省略することをご寛恕願いたい。
 中国人研究者をここにあげたのは、先入観がすくなく(総じてコジツケが少なくなることに通じる)、比較的冷静に考察されていると考えた事情にもあるからである。
 ともあれ、本問題関係の多くの諸先賢各位のご教示には深く謝する次第である。


 橋本増吉著『邪馬臺国論考』(1932年刊の改訂増補版が1956年刊。これが、後に「東洋文庫」におさめられる)のほかでは、
石原道博著『訳註中国正史日本伝』(1975年刊。刻字本の写真版掲載が重要)
井上光貞著『日本国家の起源』(1960年刊)など
榎一雄著『榎一雄著作集』第八巻「邪馬台国」(1992年刊。もとは『季刊邪馬台国』に連載)など
王金林著『古代の日本』(1986年刊)など
奥野正男著『邪馬台国はここだ』(1981年刊)など
楠原佑介著『「地名学」が解いた邪馬台国』(2002年刊)など
久保田穰著『邪馬台国はどこにあったか』(1997年刊)など
斎藤道一著『邪馬台国を解く』(1997年刊)
佐伯有清著『研究史 戦後の邪馬台国』(1972年刊)など
謝銘仁著『邪馬台国 中国人はこう読む』(1983年刊。後に徳間文庫)
白崎昭一郎著『東アジアの中の邪馬臺国』(1978年刊)など
沈仁安著『倭国と東アジア』(1990年刊)など
鳥越憲三郎著『中国正史 倭人・倭国伝全釈』(2004年刊)など
半沢英一著『邪馬台国の数学と歴史学』(2011年刊)
古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(1971年刊)以降の一連の著作
三木太郎著『魏志倭人伝の世界』(1979年刊)など
村下要助著『邪馬台国は決定した』(前編が1986年刊で、その第一、二章のみ)
森浩一著『倭人伝を読みなおす』(2010年刊)など
安本美典著『邪馬台国への道』(1967年、1977年〔新考〕、1998年〔最新〕に刊)以降の一連の著作
山尾幸久著『新版・邪馬台国』(1986年刊)など
渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』(2012年刊)

 及び『季刊邪馬台国』第18号(1983年冬号)所載の諸論考のうち、第二特集の「邪馬台国のテキスト」に所収の井上幹夫、尾崎康、姚季農、尾崎雄二郎諸氏の論考、及び三木太郎氏の「『三国志』の中の「臺」の用例と字義」、安本美典氏の「古田武彦説の文献学的、心理学的検討」など。この第18号を出しただけで、『季刊邪馬台国』誌の役割を高く評価できるとも思われる。他の諸誌掲載論考は省略する。

  
(2015.3.31に掲上。その後も、若干の修補などを最近まで行ったが、論旨の変更はない)



 
<追補>

 
関係書をいろいろ手当たり次第見て書いたつもりでいたが、迂闊なことに、「水行二十日」「水行十日陸行一月」の記事を異質資料の混入として排除するという、本稿と同じ考え方の書に気づかないでいた。

  それが、片岡宏二著『邪馬台国論争の新視点』(2011年刊)である。片岡氏には、深く謝するとともに、所見に敬意を表する次第である。
 ただ、本稿と異なる点は、異質史料の混入が『梁書』関係者によるか、その成立後の混入か、という可能性を本稿では考えたが、片岡氏は、橋本増吉・喜田貞吉の言う「重ね写真説」(
九州の邪馬台国と近畿のヤマトとを混同して見たとの説)を採り、異質史料の混入者は、『三国志』の編者・陳寿その人だと考えており、この点が大きく異なる。
 拙見では、陳寿が自らこうした加筆作業をしたとは考えられず、後世の名前不明な加筆者としてしか言えない。「重ね写真説」の成立が疑問なことは先にも述べたが、「異質史料の混入」という見方の研究者が増えるのは、望ましいことでもある。

   (2015.4.22に掲上)



  <本稿についての応答>  小林滋様との応答がありましたので、次の頁に掲載します。

 

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