(第三部) 第二部までを2015年3月末に掲上し、その後、1か月くらいのうちに、何人かと話をし、また更に関係の書物をいくつか読み込んで、もうすこし書き足したほうが拙論の趣旨がご理解されるかもしれない、こうした見方もあるし、それらに対する同意・反対考え方もあるとの立場で、第三部を書き込んでみました。 小林滋様はそうした代表であり、ここでの表現が必ずしも適切ではない場合は整理した当方に責任があるとともに、ご意見いただいた皆様に深く感謝いたします。 <小林滋様との応答>
下記のような応答が主にありましたので、先に掲載したものとの多少の重複を顧みずに記しておきます。その指摘・疑問等に対して、拙見を対比上、青文字で記しています。 (小林滋様。以下同じ) 冒頭で「枚数節約と簡潔さを考慮して、かなりの部分を、基本的にはレジメ的に記載」と述べておられ、記述が簡潔でありながらカッコ書きが随分と挿入されてもいて、初学者としては入り込みづらかったので、下記要約をこしらえながら読み進みましたが、そうしてみると全体的には論旨が明快なことがわかり、ほぼ納得がいきました。
→(拙見。以下同じ) 最初は簡単に本件問題を整理しようと思ったのですが、諸説の説明や疑問点なども多少書き込んだほうが分かり易いとも思い直し、結局、表現がごちゃごちゃになりました。両方立てようと思うと難しいですね。それだけ、この関係では問題点が多いということなのでしょうが。
ここで、ごく初歩的な質問をします。
□「『梁書』の成立以降に「水行陸行」記事が『魏志倭人伝』に竄入(混入)された」のであり、「この時期は、遣隋使がなされてから後で、隋からは文林カの裴世清の到来も現実にあったのだから、大和王権の存在・位置が明確に中国側に知られていた」と述べられます。そうだとすると、「不弥より投馬まで水行二十日、投馬より邪馬台まで水行十日陸行一月という記事」は、『梁書』が書かれた当時の「大和王権」までの日程として読むべきでしょうか、あるいは、日程に関する当時の情報を昔の倭国の記述に適当に入れ込んだものとみるべきでしょうか?
→『梁書』が629年(貞観3年)に成立しており、梁(502年〜557年まで統治)の時代の交通事情ではなく、現実には隋朝に裴世清が行って来た報告書を基にして書かれたものではないだろうか、と思われます(だから、北九州の邪馬台国と畿内の大和王権が混同され、同一視されている。両国が明確に別物だと区別して考えられるようになったのは、『旧唐書』〔945年成立〕になってからとみられます)。 おそらく、不弥国とか投馬国とかの記事は、もとの『魏志倭人伝』にはあり、その記事のなかに7世紀において現実に列島内を移動した行程を織り込んだものではなかろうか。その場合、「陸行一月」と言う記事は、これまでも言われてきた「陸行一日」の誤記と思われます。倭大王への接見待機の日時を入れても、港についてから一か月も旅行が必要な場所は、畿内にない。この場合、日本海側に使者が来る港を考えるのは、おかしな辻褄合わせ、コジツケである。こうした社会的なバランス感覚のない歴史研究者が多いのには驚きます。瀬戸内海航路を支配下においてコントロールできないで、畿内と北九州の2地域の統治・支配など、できるはずがないし、このことは、橋本増吉氏も同様な指摘をしています。瀬戸内海航路は重要だと思われ、天日矛や神武天皇も(彼らの存在・活動を否定する見方が多いのですが、論理不全です)、この行路を使って九州から畿内に行ったと伝えます(もっとも、これら先駆者が全行程を航海で移動したかは若干不明な点もあります)。 『旧唐書』では、東夷伝の中に、日本列島について、「倭国伝」と「日本国伝」の二つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」とあり、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本が倭国を併合した、と記述されている。これは、「倭国」が北九州の旧来からの国で、「日本国」のほうが畿内王権という見方である。「倭国」ないし「倭地」という表現は、本来、北九州の福岡市あたり(とくにその沿岸部の那珂川流域が主体か)を指したものではなかろうか、と思われます。 「倭人」も含めて、「倭」という語には弥生時代をつくった海神族、タイ系の種族の要素があるように思われます。 □もう少し言うと、ネットで該当箇所を見ると、魏志倭人伝と梁書倭伝の記述は次のようです。 『魏志』倭人伝:「南至投馬國 水行二十曰 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳? 可七萬餘戸」
『梁書』倭伝:「又南水行二十日 至投馬國 又南水行十日 陸行一月日 至祁馬臺國 即倭王所居」
比べると、なんだか梁書の記述が随分と簡略なように思われます。
これについて、Wikipediaでは、「史料的価値は『宋書』より低いと見られる」とされ、「先行する倭に関係する記述を適宜に採録したものである」とされています。
塚田敬章氏のこのサイトの記事では、梁書倭伝の「旅程は魏志を要約しながら引用したもの」とされています。
また、このサイトの記事でも、「『梁書』諸夷伝・倭の条をもほとんど『倭人伝』からの写しであ」り、「しかも、滅茶苦茶といえるほどに誤字・脱字・錯誤が目立つ。伝の末尾につけ足し的に置かれた倭の条を任されて、先史だけを頼りに書いたであろう編纂スタッフのデキの悪さもまた、他よりも頭二つほど抜きん出ている」と述べられます。
こうしたネット記事は、もとより十分な研究の裏付けがなされているものではないように思われ、必ずしも信頼出来る議論ではないものと思われます。
それでも、ネット諸氏が言うように『梁書』の記述が「魏志倭人伝」からの写しであるとすると、そしてさらに貴説を取り入れた場合には、『梁書』の作成者はかなり簡略に「魏志倭人伝」を写したにもかかわらず、作成当時得られた情報を新たに付加した上で記述し直し、さらにその記述が元の「魏志倭人伝」のほうにも竄入された、という実に複雑な過程をたどったことになります。
これでは酷くオカシイですから、やはり二つの説は並び立たないのでしょう(注)。
ただ、小生には、貴見は十分に魅力的ながら、なぜ・どうやって「『梁書』の成立以降に「水行陸行」記事が『魏志倭人伝』に竄入された」のか、に関する説明を今少し付け加えていただくと、読者としてもより一層納得がいくのではないかと思うのですが。
→『梁書』が記載対象とする時代には、日本列島と中国南朝との現実の往来がなかったとみられます。 倭五王の最後の記事が梁王朝成立の西暦502年4月にあり、梁の武帝が、王朝樹立に伴い、「倭王武」を征東大将軍に進号する(『梁書』武帝紀)、と見えますが、この時には倭からの遣使はなく、梁という新王朝樹立宣伝のための叙官にすぎず、「倭王武」の当時の存在も確認されるものではない、というのが一般の解釈となっています。
こうした断交状況にあって、倭国の記事が基本的に簡素なのは当たり前で、充実するはずがありません。梁朝の前の宋朝では、その遣使が倭地に来たことが『書紀』雄略14年条(「呉国からの使」とある)に見えますが(倭五王が九州にいたとか「九州王朝説」は、この意味でも成立不能)、『宋書』には倭王接見とその地理行程が記されていないので、この報告がどのような内容だったのかは分かりませんし、この往来事件内容が梁朝へ伝えられたかどうかも不明です。
ところで、「水行陸行」記事が何故、『梁書』に竄入したかは、推測するほかありませんが、@倭国についての記事があまり多くないことから、『梁書』編者が最新の倭国の知識を織り込んだ可能性、A『梁書』成立後に、誰かが記事を竄入させたが、その当時は既に畿内に倭国の王権の中心があったから、そうした内容の記事となったという可能性、のいずれかではないでしょうか。この辺は判断が難しいのですが、私は@の可能性もあると感じています。
『三国志』が成立してから、十二世紀になるまでに長い筆写期間があったということは、その期間がブラックボックス状態であって、なんとでも考えられるし、なんら関係記録が残らない事情もあるからです。その間に、原典の書がまるで改変あるいは誤記なしに、成立当時のまま伝えられたと考えるのは、希望的盲信にすぎないと私には思われます。
□貴見では、橋本博士の「重ね写真説」は成立困難だとされています。ただ、そうだとしても、橋本博士がそうしたこと(「魏志の編著に当って、この知識が少からず禍いし、その頭脳を昏乱せしめたものではあるまいかとも考えられる」)を述べた背景としては、なぜそんな余計な「水行陸行」記事が記載されるに至ったかの説明が是非必要だと考えたからではないかと、推察されるところです。何かしらご教示いただければ、と思われます。 →橋本博士にあっても、なんらかの説明が必要だと考えられてのことかと思われます。ただ、彼はまじめに考えて記紀の紀年の研究をし、それを通じて上古の天皇の治世年代の把握に努めており、その関係の研究が当該著作にかなりのボリュームで見られます。畿内にあった崇神天皇の年代が『魏志倭人伝』成立の時期に近づけば近づくほど、「重ね写真説」のてこ入れないし裏付けになると考えたと思われます。 これまでの混入説を見ると、橋本博士や片岡宏二氏は、現実に畿内にあったとみた「重ね写真説」であり、森浩一氏のほうは、女王台与の代に邪馬台国東遷があって、その後に「晋朝へ遣使したときにもたらされた新しい情報を陳寿が倭人伝の編述に際して挿入したと考える」と記しています。
しかし、繰り返しますが、「邪馬台国東遷」はまったくの夢想です(しかも、短期間での本国東遷など、きわめて無理な話)。卑弥呼・台与の女王時代に畿内にあった勢力はまだ小さくて、晋朝に知られるような存在のものではありません。片岡氏は、東渡海千余里の倭人勢力を畿内王権とみますが、倭人伝の短里的な距離表示で言うと、「千余里」で畿内まで到達することは無理な話であって、四国西部とか周防あたりの勢力とするのが妥当です。 □「文献解釈」それも「陳寿の書いた倭人伝の解釈」を行いたい、特に「「水行十日陸行1月」をきちんと解釈する。これが一番肝心の記述であり、無視できない」と言われるような検討姿勢の場合には、古田武彦氏の「徹頭徹尾、陳寿を信じるという姿勢」から一歩も踏み出してはいないように思われます。そういう方からすると、貴論考は「別の世界」のものとなってしまい、同じ土俵で議論できなくなってしまうのかもしれません。 ただ、「陳寿の書いた矛盾を避けるのは「南を東に読み替える」解釈方法と同レベルになると思います」と述べられるのは、魏志倭人伝の記事の問題点を梁書由来として消去したとしても、今度は、一般にあまり信頼性が置かれていないような感じのする『梁書』に問題を移し替えたことになってしまい、十分に解決したようには思えないという意味合いのようにも思われます。
その点からも、『梁書』倭伝についての貴見を今少し書き込まれたらいかがでしょうか?
→@『梁書』の記事が信頼できないとして、その後の七世紀代頃(660年以前といわれる)に書き写された『翰苑』に記載の『魏略』の記事に拠ることもあるのですが、ここには行程記事が簡単であって、投馬国・邪馬台国への行程は不記載であり、『太平御覧』(977〜983年頃の成立)の当該記事には既に「水行陸行」の記事が入っており、それよりも遡る時期の『梁書』の記事を問題にせざるをえなくなるというのが現状です(だから、『梁書』に積極的な意義を認めたのではなく、結果的に同書の問題に落ち着かざるをえないということです。もうすこし、この辺の積極的な材料がほしいのはその通りだと思われます)。 なお、「南を東に読み替える」解釈方法と同レベルになるとみるのは、疑問としておかしいと思われます。 というのは、倭人伝の記事で「南を東に読み替える」のが3個所(@投馬国行き、A邪馬台国行き、B狗奴国への方向〔『魏略』でも共通〕)もあり、これらに対応して、「女王国より以北」という記事も2個所(@戸数・道里の略載可能、A一大率を置き、諸国を検察)もあるので、これら全ての方位を読み替えるのは極めて無理があります。更には、「女王国の東、渡海千余里で、また別の倭種の国がある」という記事もあるので、これは方位変更しても理解不能となることもあって、私は、レベルがまったく違う話だと考えています。
A邪馬台国所在の比定地を、大分県より更に南の宮崎県にもっていく説が、これまでもいくつか見られます。 宮崎説には、林屋友次郎・尾崎雄二郎などの諸説があるようです。神武天皇の出生・東征出発の地とされ、巨大古墳などの遺跡や遺物も残る「日向」との関連がありそうですが、東征出発の地については、北九州の筑前の怡土郡あたりとするのが、大きな歴史の流れなどからいって自然です(南九州は歴史の流れに合わない)。
『魏志倭人伝』に記載の邪馬台国の戸数・7万余戸には、これが比例的な誇張があるとしても、奴国などの比較から考えても、かなり無理な数字ではないかとみられます(邪馬台国連合の数値だとする見方もあるようですが、宮崎平野と福岡平野の古代での比較を考えると無理感が強まる)。 更に、狗奴国への方向が「南」とありますが、宮崎平野に邪馬台国を置くと、狗奴国を薩・隅に置いても「方位」として無理なように思われます。そもそも、薩・隅がまとまって国家を形成し、その近隣の大国と抗争したことを窺わせるものは、上古以来まったくありません。古来からの住民、隼人の墓制が統一されていないこと(その墓制が3つほどに大別される)がそれを裏付けます。これらの難点があって、宮崎県説は取り得ないものと考えられます(ほぼ同様な難点が大分県説にもあるし、大分県勢力と宮崎県勢力とが各々まとまって、お互いが争った例も古来、ありません。県境あたりの地理を考えると、普段争う必要があることすら、疑問に思われる)。 すなわち、結論としてのその説を具体的な歴史の大きな流れのなかで実例を踏まえての検証をしていないとみられます。そのため、古田武彦氏や久保田穰氏と同じ結果になっていると思われます。これを、検証して、結局、これら比定地説がやはり有効妥当な結論ではないとなると、もはや『魏志倭人伝』の現在に伝わる記事には矛盾があると認めざるをえないということになり、そのため、再度、振り出しに戻って、新たな別の判断や比定地検討が迫られるということになると思われます。こうした繰り返しを何度も重ねた結果、邪馬台国への行程記事には、どこかに矛盾があると判断せざるをえなくなったということです。
(注)なお、このサイトの記事で調べてみると、「梁書」以前の「晋書」や「宋書」、「南斉書」は、「倭人、在帶方東南大海中、依山島爲國」とか、「倭國、在高驪東南大海中、世修貢職」、「倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王」となっていて、なんだか総じて「後漢書」の「倭、在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國」を踏襲しているように見えます(「梁書」以降の「隋書」でも「倭國、在百濟新羅東南、水陸三千里」とされ、他のものでも同じような傾向が続くように思われます)。
そうだとしたら、ネットで言われる引き写し説については、素人見には、どうして『梁書』だけが「魏志倭人伝」を引き写したのか、よく理解できないところです。
ここは、貴見で言うように、作成当時得られた情報を新たに付加したものと考えた方が良さそうに思われます。でも『梁書』の記述は、なぜかその後は引き継がれなかったように思われます。
『梁書』は実にふしぎな書物なのですね。
→『梁書』の記事は、次の『北史』倭伝(7世紀後半に成立)に引き継がれていますが、現実に中国からの使節が倭国にやって来た隋朝の歴史書『隋書』では、別の行程記事(竹斯国・秦王国を経由地とする行程)に変わっていますから、その後は『梁書』の記事が消えています。
(拙見のまとめ) 最後に、多少の補足を入れて、まとめをしておくと、邪馬台国勢力がその地域に数百年、存続したとしたら、かなりの神威をもつ神社が邪馬台国該当地域に鎮座して不思議がないが、高良大社や宇佐神宮という名神大社はともかく、奥八女(八女市北矢部)の式外、八女津媛神社くらいだととても物足らないし、朝倉市域だと式内社に麻良布神社・美奈宜神社があるものの、さほどの伝承を伝えない(後者が神功皇后の熊襲平定が創祀とする程度)。 こうした祭祀面を、比定に際して無視できないのではなかろうか。祭祀面や関連する習俗面での考慮も必要となり、総合的な考察の必要性を感じる。 防備・管理体制の面から、片岡宏二氏の研究を踏まえて言うと、「北部九州高地性集落ネットワーク」のなかで考えられる。 すなわち、筑紫平野の縁辺部監視集落として、背振山地の東縁部のA点、三国の鼻遺跡(小郡市津古)が平野北側縁辺部の監視集落として機能し、次に、山門遺跡群を見下ろすC点、三船山遺跡(みやま市瀬高町本吉)は有明海の広い範囲を見渡せる遠隔地監視も兼ねた監視用高地性集落であって、この両地を南北に結ぶ中間の地B点(久留米市御井町の吉見岳〔標高157M〕付近か。その西麓の虚空蔵堂付近まで神籠石が続く。吉見岳には高良山から尾根が続き、中世の山城もあって、高良山座主の在城もあった)にも同様の機能をもつ遺跡が推定される、と片岡氏が言う(『邪馬台国論争の新視点』)。 たしかに、A点の近隣には津古生掛古墳や基山神籠石(佐賀県三養郡基山町南部の園部の小字に「皮篭石」の地名が残り、皮篭石古墳群がある)・基肆城(同、基山町小倉)、C点の北方近隣には女山神籠石(みやま市瀬高町大草)、Bあたりにも高良山神籠石・高良大社があって、各々の要地たる所以が知られるから、中心のB地点の最重要性が浮かび上がり、この地こそ邪馬台国枢要域を指すものとみられる(ここまでの記述は、片岡氏にない)。 これが、上古代であっても、国家ないし連合国家たる所以ではないかと思われるが、国家機能維持という観点からの邪馬台国検討は、ほとんど管見に入っていない。 なお、こうした諸事情をみると、高良山を中心とする「神籠石」が七世紀代の朝鮮式山城だと規定するのは問題が大きいとみられ、厳密な考古資料の考証からきたものではなかったとしても、明治・大正期の久米邦武・喜田貞吉の着眼ないし見方のほうを評価したいと考える。
いろいろ邪馬台国を考えてきて、これに関わる諸問題については、やはり歴史の大きな流れを基礎にして総合的に考察する必要性を痛感する次第でもあります。 【小林滋様の要約】 @第1部について 「学究関係では、古田説が言う「共同改定」否定の支持者はほとんど皆無」であって、「古田説が出される以前の諸学究の議論は、その後も十分、通用する」。その場合、「これまで極めて多数の歴史研究者・愛好者が挑んでも謎が解けなかったのは、『魏志倭人伝』の全ての記事を活かそうと思ったから」。
従って、「何が原典に必須の記事かどうかの確認が必要」であり、その場合には、「「水行陸行」記事の部分だけが、長い筆写期間や筆写過程のなかでの「竄入ないし記事改変」だと見れば、これを除く残りの『魏志倭人伝』の記事は基本的にすべて整合的となる」。
すなわち、「地点がほぼ確定できる伊都国から約千五百里の範囲内の北九州の地域に邪馬台国が存在した」のであり、「邪馬台国はそのかなり離れた南方にあって、大河流域ないし山間部にあったとみられる」が、「『魏志倭人伝』で分かるのは、この辺までである」。
なお、九州説の中には、八女説や大分県の宇佐説などが根強いが、様々の問題があり、筆者としては、祭祀・遺跡やその後の政治中心地などの理由から、「御井・山本郡説」を採る。
さらに、「邪馬台国は、卑弥呼の死後では四世紀前葉頃までに分裂して衰え、その残滓勢力は四世紀中葉に大和王権により討滅された」のであり、また「「邪馬台国東遷説」は根拠のない夢想事で、邪馬台国本国の移遷は史実ではない」。
A第2部について
「中国人研究者が『魏志倭人伝』を読むという関係であるが、本文で名を挙げた謝銘仁・王金林・沈仁安という台湾系・大陸系の日本歴史専門の中国人学者は皆、同記事を読む限り、邪馬台国は北九州ないし九州にあったと判じている」。
ただ、「これら中国人研究者は、日本の具体的な様々な古代地理事情などを知らないこともあって、学問的に慎重な立場から、具体的な邪馬台国比定地についての言及が総じて乏しい事情もある。そこで、実際の地理や諸事情に即して、所在地比定をするのは日本人研究者の役割と言うことにもなる」
その場合、「現在までに発表された邪馬台国位置論について、そのなかでのベストな著述を敢えて選ぼうとした場合、私は、橋本増吉氏の著作『邪馬臺国論考』をあげさせていただく」。同書では、「主として里数記事を採り、日程記事を排することを以て正当と信ずるのである」と記されている。
ただし、橋本博士は「重ね写真説」を採っているが、それは「崇神朝の時期把握が誤りだったことに由来する」ものである。すなわち、橋本博士の「崇神朝の時期把握が遡上しすぎであり」、「「重ね写真説」は成立困難」である。
従って、「いま、考えうる可能性としては、『梁書』の成立以降に「水行陸行」記事が『魏志倭人伝』に竄入されたということだけである。これが論理的にあらゆる可能性を潰してきた結果である」。
「こうして見ていくと、邪馬台国の所在地論争は適切な手順さえ採られて検討されていれば、本来は論争の必要がなかったということにもなる」。
なお、「考古学から邪馬台国位置問題を解決することは、考古学の能力を超えているとの指摘も橋本博士にはある」が、考古学の研究成果を用いることについては、「年代確定がたしかな考古遺物に限定されるべきであり、三角縁神獣鏡を用いた議論が既に破綻していることは、周知のことであろう」。
また、「自然科学あるいは数理歴史学から解く邪馬台国というような表題・趣旨の書も数冊でており、これらも読んではいるが、邪馬台国位置問題は自然科学的な手法だけでは解決せず、かえって歴史関係の総合知識の欠如を示した結果も一部、見えている」。
(2015.4.25 掲上。その後も、若干の追補・説明の加筆があります)
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