邪馬台国論争は必要なかった  1

   
     邪馬台国論争は必要なかった
       −邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ−
                    宝賀 寿男

  本稿は、当初は簡単なレジメ風のものを考えていたのですが、多くの書・論考を読み込み、それに応じて書き込んでいくうちに、次第に長いものとなってしまいました。そのため、本稿を読まれる方々は、表題のテーマに関心が強い場合は、「T はじめに」を読まれた後に、第二部のほうに飛んでいただいても結構です。所在地論に関心が大きい場合には、このまま順に読み進めてください。書いた当人としては、読む順番はともかく、両方をきちんと読んで記事の趣旨を把握していただくのが良いのですが、その辺はご随意にということです。

 
 T はじめに

 前言:俗に「信じる者は救われる」というが、上古史研究にあっては、先ず信じる者は救われない。信じると、考察にバランスの取れた冷静さと合理性を欠くと言うことである。
 だから、古田武彦氏のように徹頭徹尾、陳寿を信じるという姿勢は、編者の陳寿は万能の神ではない(西晋では治書侍御史〔検察秘書官的な役割〕で、著作郎の官歴もあるが、陳寿の『三国志』自体も元は私撰にすぎない。その魏志の東夷伝倭人条も、普通に読めば雑然としている感がある。当時の古典の全てに通じていたわけでもない)のだから、信念はかえって合理的解決の妨げとなる。
 白崎昭一郎氏のように全て同時代史料である文典と考古学資料に拠って考える(『東アジアの中の邪馬臺国』)と言っても、文典で基本となるべきものは、魏に仕えた魚豢の私撰『魏略』残簡しかないし(『魏志倭人伝』がそれだけで完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写により伝えられた期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。もちろん、『魏略』が『三国志』より先行して成立したことは確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い事情にある)、考古学諸資料も魏朝当時の物は殆ど確定できない(考古遺物の利用については、必ず年代などの評価・判断の問題が生じるので、客観的な資料だとは決して言えないことに留意)のだから、これでは判断材料として極めて乏しいと言わざるをえない。考古学への手放しの依存は問題が大きいし、その学問が解明できる限界にも留意されるべきである。
 要は、これまでの議論には、学究・非学究を問わず、多くの論者からの主観論や想像論、信念論が多すぎる。この問題に対する重要視と熱心さはよいとして、冷静さを欠き、信念のもとで議論を続けるのは問題が大きい。これが問題解決の大きな妨げということである。(以下は、枚数節約と簡潔さを考慮して、かなりの部分を、基本的にはレジメ的に記載するので、ご寛恕をお願いしたい
 
 大前提
@なるべく素直に自然に、歴史の大きな流れのなかで記事を考えていくことが必要(地理的に不自然な当てはめはダメ。無理なコジツケはしてはならない。そのまま素朴に記事を受けとめるということではないことに注意)。通常のバランスがとれた社会感覚をもって、記事の文意を考える(当時にあって、無理な航路・路程などはとらない)。当時の日本列島には、広域王権が唯一存在したとは思い込まないこと。
A一見、精緻そうな論理が正しいわけではなく、当時の具体的な情勢を踏まえた歴史的な大局観をもって、的確な論理で総合的に考える。
B古代人に現代人と同じ感覚・知識・技能を期待するほうが無理な面がある。
C『三国志』編者の陳寿も、全ての記録・文書を理解して編述できるわけではない(蜀出身の編者の行動・判断の限界、編纂スタッフの乏しさ)→編者が全能ではない以上、これまでの多種多様な文書(報告書・記録など)の寄集めとならざるをえない部分も必ずやあるはず。
D主観的な推測はなるべく排除するのがよい(思入れや信念が過剰にならないように留意。勝手な想像論を展開しないことが肝要。「陰陽五行説」とか、ある種の理念を基礎に書かれたという証明不能な心理的推測は避ける。記紀把握の造作説にも同様につながるが、総じて立証不能な推測にすぎない)。
E不合理そうな内容も、安易な切捨てを避け、記事の本意を追求する姿勢でいく(寄せ集めの史料を基に編纂すれば、矛盾する個所も出てこないとも限らない)。
Fある程度の幅がある概念を、無理に厳格な解釈をしない(方位、距離などの理解においての姿勢)。
G考古学的見地も取り入れつつも(繰り返しになるが、考古学資料にも評価・判断の問題が多くあることに十分留意)、この知見・判断を優先とせず、総合的に検討する。追試検証がこれまで全く行われていない自然科学的手法で算出された年代数値には依存しない(なんらかの較正が必要な場合もかなりあるなど、これも、データ操作などに評価・判断という大問題がある。この辺を基礎とする古墳築造開始年代の繰上げは疑問大。考古学者は、もっと自分の頭と手を使って他人の説や結論・数値を具体的に検証したうえで立論することが強く望まれる)。考古学への過剰依存は、この学問の限界を超えており、疑問が大きい。
H文書史料の成立・伝来の過程まで総合的に考慮する。写本に誤記や追補記事はつきもの。行程記事は、現実に倭地に出張した帯方郡使の報告書に基づくものであったとみられるが、全てがそうかどうかは不明である。
I原文が漢文なのだから、教養ある中国人が普通に読んで、読みとれる内容を基本に考える。
J当時の倭地の習俗・祭祀・産物(鉄や絹など)・動植物などの記事も考慮する。ただし、これが決定的な判断要素になるわけではないことにも留意。
K地名の長期保存性も考慮する(末盧国、伊都国、奴国については、現存地名との符合も尊重。ただし、記紀成立時頃の地名認識が原型〔原事件発生当時の地名〕と同じかどうかは別問題)。古い地名は、それなりの歴史的価値を有するもので軽視してはならないが(森浩一氏)、倭地諸国の個別の具体的比定が意味あるものとは必ずしも思われない。卑弥呼など個別人名の比定も殆ど同様。固有名詞の訓みは、当時の倭地の漢字の音に拠ることが多いと思うが、正確にはわからない(どちらかというと、古音の「呉音」に近いか)。
L東夷伝はもちろん、『三国志』のみならず、中国正史の全体(とくに『後漢書』〜『新唐書』の合計十一正史)のなかで考える。その他、朝鮮半島などの関係史料も含め、東アジア全体の総合的視点からの検討も当然必要。

 要は、「邪馬台国」という語が基本文献『魏志倭人伝』において一個所しか見えない以上当該文献を主体にして具体的総合的に考察することが必要であるこのことを強調する見解は、これまでも多くある)。学究でも、基本文献をきちんと読んでいない方々がかなり多く見られ(読んでいても平気で記事を無視する方々も多い)、これがつまらない論争が永く続く要因になっている。
  なお、記紀も本来は参考になる面がないでもないが、恣意的な解釈に流れるおそれが強くあり、論者によっては反発もあるから、基本的には利用しないで対応するのが無難な線。

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