『巨大古墳と古代王統譜』の紹介と説明 宝賀 寿男
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私が大学に入学した昭和四〇年は、ちょうど今から四〇年前になるが、その年の春に刊行されてベストセラーになり古代史ブームを引き起こした書が、井上光貞博士の『神話から歴史へ』(中央公論社の「日本の歴史1」)であった。時間的に余裕のできた私は、これを貪り読んで、日本古代史と古墳について興味を掻き立てられた記憶が強い。同書の考古学関係記述は、当時まだ若く、新進気鋭の考古学者であった森浩一氏の大きな助力で出来上がったとされているが、森氏の中公新書『古墳の発掘』も井上博士の上記著書の二か月遅れで刊行され、この両書は私の古墳知識の手ほどきともなった。 井上博士の記述では、「古墳の研究でいちばん困るのは、その古墳に葬られている人がだれだかわからないことである」(上記書303頁)とされており、私の古墳被葬者に対する問題意識もここに始まったわけである。
ところが、古墳被葬者関係の検討にはいろいろ難しい問題がある。まず、主要な古墳だけ取り上げても、その名前自体が一般の人には覚えにくいうえに、特定の被葬者と結び付くような古墳の呼び方はやめようという問題提起があって、一つの古墳が複数の呼び方をもつようになり、さらに古墳の名前が覚えにくくなった。この名前に関する問題提起は、森浩一氏が主になしたようであり、これは至極妥当なことでもあってその後の学界の古墳表記の大勢となったものの、その反面効果として、よほど古墳研究に熱心にならない限り、古墳関係の記述がますます分かり難くなったことも否めない。また、銅鏡など副葬品や埴輪、土器などの出土品も専門的・技術的であって、これまたわかりにくい。また、文献史学でも、戦後は津田博士の学説が風靡しすぎて、応神天皇より前の天皇(大王)たちは実在性を否定され、古墳と被葬者とのつながりが断たれた模様もあった。
ということで、考古学関係の基礎知識を着実に貯え、古代関係文献の検討を進めながらも、古墳に対する私の興味と関心は、かなり長い間空回りのままであった。この間、全国の古墳・遺跡の調査・発掘が進み、様々な副葬品関係の研究も進んでいた。
私の関心を強く呼び起こしたのが、一九九七年の『季刊考古学』第五八号に掲載された甘粕健新潟大学名誉教授の論考「天皇陵古墳の実年代」であった。この論考に大いに触発・鼓舞されて、九十年代末頃に考古学関係の主要な諸書・資料を何度も読み返し、古墳体系の全体像がつかめるようになってきたと感じられた。その基礎として重要な認識を与えてくれたのが上田宏範氏による古墳の型式分類であり、茂木雅博氏の概念整理であって、これらの考え方なしには拙著『巨大古墳と古代王統譜』の存立がなかったといっても過言ではない。その後も繰り返し試行錯誤と検討を重ね、これまでの五,六年の成果が本書だと考えており、多くの有益な教示・示唆をいただいた皆様に深く感謝する次第である。
肝腎の本書の概要に触れておくと、次のようなものである。
大きな問題意識としては、現在までの考古学知見の大幅な増加は古墳体系の研究の進展に結びついているのか十分に再検討する必要がある、ということである。私の検討結果では、年輪年代法や三角縁神獣鏡魏鏡説などに基づく古墳築造年代(及び弥生時代)の引上げとか邪馬台国畿内説には大きな疑問がある。
ましてや、邪馬台国畿内説の観点から考古学的あるいは歴史的な結論を導くという手法は、論理の逆立ちである。また、近時多数説のように言われる応神陵及び仁徳陵の現治定が誤りだとみる見解は、古代史の大きな流れを無視するものであって、これが古墳体系を大きく揺るがしているとみられる。記紀を時間・場所という二大軸のもとで多角度から合理的に分析し、それを踏まえて論理的に古墳被葬者の検討を進めていくと、日本列島の主要古墳の被葬者は殆ど無理なく比定できるのではないかと考えられ、その具体的な比定案を本書で提示してみたものである。 本書の検討過程では、関連して天皇家(崇神、景行、反正などの諸天皇や倭迹迹日百襲姫命の位置づけ)や古代氏族(とくに地方の吉備氏、毛野氏)の系譜、あるいは伊勢神宮の起源について、これまで文献的にはよく探索しえなかった知見・示唆も得られたので、併せて記述している。
文献古代史学と考古学の分野ではそれぞれ専門化が進行しているが、却ってそれ故に、その学究・大家の見解が決定的とはいえない事情にある。古代史を自分の手と眼と頭で考えていくための材料として、本書を活用していただけたら、著者としてこれに優る喜びはない。
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