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研究生活裏話:半生を振り返って【その2】


奥田安弘


中央大学在職中の生活〕〔海外との関係〕〔法科大学院教育の変遷
脱ゆとりの弊害〕〔法科大学院に対する誤解〕〔分野の選択
退職を早めた理由〕〔退職後の生活



中央大学在職中の生活(2004年~現在)

中央大学に移籍を決めた理由は様々ある。そのうちの一つは、本の出版である。「北大法学部叢書」や「北大法学研究科叢書」という制度がありながら、それらを使わせてもらえなかった私は、中央大学で本を出版できることに大きな期待を寄せた。比較法研究所の叢書シリーズである。
https://www.chuo-u.ac.jp/research/institutes/comparative_law/publication/book_series/

『国際取引法の理論』や『国籍法と国際親子法』に収録しなかった論文を集め、600頁の『国際私法と隣接法分野の研究』を研究叢書として出版した時は、リベンジを果たした気分であった。詳しくは、『国際私法と隣接法分野の研究・続編』(2022年9月出版予定)の解題を参照して頂きたい。

また資料叢書のシリーズがあり、他の所員はあまり利用していなかったが、『国際私法・国籍法・家族法資料集』(編訳)、『国籍法・国際家族法の裁判意見書集』を出版した。とくに後者を出版したのには、訳がある。

『国籍法と国際親子法』は、それまでの意見書において、国籍法の違憲性を主張し続けていたが、もはや勝訴は無理だと思って出版したものであった。ところが、その後、最高裁大法廷で国籍法3条を違憲無効とする判決を得ることができたので、他の裁判の意見書を含めて出版することを思い付いた。

初めて最高裁で勝訴したアンデレちゃん事件では、比較法研究の成果をまとめた論文を代理人弁護士経由で裁判所に提出しただけであったが、それ以降は、比較法や国際人権法に関する論文以外に、国側の主張に直接反論する意見書を提出し続けていた。なぜなら、外国法はもとより国際条約も、日本の裁判所を説得するには、不十分であったからである。

たしかに、憲法は、私の専門外であるが、逆に憲法の研究者にとって、国籍法は専門外であり、国籍裁判の代理人弁護士も、私以外に憲法の専門家に意見書を依頼しようとしなかったので、私が違憲論を主張するしかなかった。ただし、国籍法3条については、違憲無効の判決を得ることができたが、他の規定については、現行法の枠内で可能な解釈を探るしかない。

(注)拙著『家族と国籍』は、主に立法論として、国籍法改正の必要性を主張しているが、これを誤解して、憲法訴訟が提起されることがあるので、本の改訂を検討している。もちろん、他にも改訂したい箇所は多数ある。

さらに翻訳叢書として、奥田安弘/マルティン・シャウアー編『中東欧地域における私法の根源と近年の変革』を出版した。この翻訳書は、自分が編者となって、外国で出版した本を単独で訳すという意味では、少し珍しいケースかもしれないが、同志社法学には、書かなかった裏話がある。

中央大学に移った後も、3月や9月の休講期間中に、ハンブルクのマックスプランク研究所などを訪れていたが、その際に、あるグルジア人から「日本に行きたい」という猛烈なアタックを受けた。そこで、比較法研究所の外国人研究者招聘制度を利用して、法科大学院で開催した講演録がゴッチャ・ギオルギゼ「グルジアにおける宗教と法」である(ただし、この講演録は、本に収録しなかった)。

その後も、ハンブルクの研究所で知り合った人たちを招聘して、講演会を開催し、ラヨシュ・ベーカーシュ「遅れてきた私法法典化―新しいハンガリー民法典」、タチアナ・ヨシポビッチ「EU法の諸原則と国内私法の発展―加盟申請国としてのクロアチア」を公表したが、マルティン・シャウアー「オーストリア一般民法典200年―古い立法との共生」、ギオルギ・ツェルツヴァーゼ「19世紀以前のグルジア法の歴史」という二回の講演会を開催した頃から、元の原稿(ドイツ語)を集めて、本を出版したいという想いが芽生えてきた。

ちょうど2011年の東日本大震災により、招聘が困難となったこと、私が立て続けに外国人研究者招聘制度を利用することに批判が出てきたことなどから、日本での講演会は諦めて、バシャク・バイサル「1926年以降のトルコの近代化における西欧法の継受―特にスイス民法典の継受」、ゲルガーナ・コザロヴァ「ブルガリア法における非占有担保権―担保権取引に関するモデル法および他の東欧EU加盟国法を参考とした体制転換国の動産担保権の形成」をメールで送ってもらった。

さらに、同僚の伊藤知義教授の紹介で、渋谷謙次郎「日本における東欧法研究」を寄稿してもらったが、逆に日本語原稿をドイツ語に翻訳するため、マーク・デルナウアーさんの協力を得た。デルナウアーさんは、ハンブルクの研究所でバウム教授の助手をし、その後、中央大学法学部で日本の民法担当教員として在籍していた(その後、教授に昇任した)。

出版については、シャウアー教授の紹介により、ウィーンの出版社に引き受けてもらったが、経費の一部負担が必要であるため、翻訳書を出版し、その印税を充てるという綱渡りをした。Geschichtliche Wurzeln und Reformen in mittel- und osteuropäischen Privatrechtsordnungenという本のタイトルは、ベーカーシュ教授から頂いた案をそのまま採用した。

(注)その前年にも、『日本の刑事裁判用語解説―英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語』(共編著)を出版しているが、これも、バウム教授の『日本法雑誌』の増刊号として、Glossary of Japanese Criminal Procedure: English, German, French and Spanishを出版するにあたり、経費の一部負担が必要となり、日本での販売権を譲渡するという形で、明石書店にお願いした。各用語の見出し以外は、ほとんど日本語がないので、「売れるはずがない」と思われていたが(大判100数ページの本に本体8000円という値段であった)、初刷りの300部は売り切れて、さらに300部を増し刷りするという予想外の成功を収めた。

60歳を過ぎた頃から、自分の研究をまとめたいという気持ちが芽生え始め、法科大学院の授業で配布していた自家製の教材(プリント)をもとに、『国際家族法』および『国際財産法』という2冊の本の出版を計画した。出版元は、これまで啓蒙書を始め、様々な本の出版を引き受けてもらっていた明石書店にお願いした。5回の改訂を重ねた『外国人の法律相談チェックマニュアル』、『韓国国籍法の逐条解説』(共著)などの形で、先方の希望に沿っていたからこそ、我儘を聞いてもらえたのであろう。

『国際家族法』は、改訂版も出版したが、2016年には、当時の民主党代表が二重国籍者であるにもかかわらず、国籍選択をしていないというバッシングを受ける事件が世間を騒がせ、私も、メディアに駆り出される羽目になった。そこで、翌年に有斐閣の了解を得て、『家族と国籍』の実質上の改訂版を明石書店から出版した。さらにJ・N・ノリエド『フィリピン家族法』(共訳)は、原著者が亡くなったまま放置していたが、その後、フィリピンの判例を検索するサイトが出来たこと、現地から注釈書を取り寄せることが可能となったことから、『フィリピン家族法の逐条解説』を書き下ろした。

この間にも、裁判の意見書や養子縁組あっせん法の立法作業への関与をきっかけとして、若干の論文を公表しており、さらに英語やドイツ語で書いた論文や日本の法令の英訳があったので、これらを大幅に加筆修正して、今年の秋には、『国際私法と隣接法分野の研究・続編』を比較法研究所叢書として出版する予定である。これが在職中最後の本となるであろう。

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海外との関係

上記以外にも、海外(とくにヨーロッパ)との関係を結ぶ出来事が様々あった。たとえば、北大在籍中に、日仏憲法シンポジウムがあり、そこに参加していたフィリップ・カーン教授が『国際法雑誌』(Journal du Droit international、パリ)の編集責任者を務めており、中村睦男教授に「誰か日本の国際私法の判例回顧(chronique)を書ける者がいないか」と尋ねたそうである。

(注)雑誌のタイトルは、Journal du Droit internationalであるが、私たちの業界では、創設者の名にちなんで、Clunetとして知られている。

私は、そこに立ち会ったわけではないが、後日、中村教授が私の研究室に来て、引き受けてみないかという。たまたまフランス人の留学生がいたこともあり、国際私法の各分野の判例をフランス語で紹介する原稿を送ったところ(当時は郵送であった)、いつの間にかClunetの主要寄稿者(principaux collaborateurs)の中に、私の名前が掲載されるようになった。その後も、判例回顧をもう1本、さらに国際私法改正に関する論文(契約・不法行為準拠法)および通則法のフランス語訳を掲載したことがある。

また1999年にフォールケン教授がサルセビッチ教授と一緒に『国際私法年報』(Yearbook of Private International Law、スイス比較法研究所)を創刊した際には、諮問委員(Member of Advisory Board)にならないかという誘いがあり、それを引き受けた。2001年には、戦後補償の特集を企画し、当時まだハンブルクのマックスプランク研究所の研究員であったフォン・ハインさん(現・フライブルク大学教授)およびアンダーソン教授と一緒に論文を掲載し、フォールケン教授が編集責任者を退いた後も、様々な寄稿を続けている。

(注)その後、ローザンヌ大学のボノーミ教授およびジュネーブ大学のロマーノ教授が編集責任者を引き継いだが、私は、彼らがスイス比較法研究所の研究員であった頃に親交があり、両名とも招聘したことがある。さらに、スイス比較法研究所のプレッテリ研究員も、編集責任者に加わり、彼女とは、メールのやり取り程度であるが、スイスの『国際私法年報』は、編集責任者が3名ともイタリア人である。

さらに2015年には、バウム教授から『日本法雑誌』(Zeitschrift für Japanisches Recht / Journal of Japanese Law)の編集委員(Mitglied des Redaktionsbeirates / Member of Editorial Board)への就任を要請され、それを引き受けた。この雑誌には、それ以前から、ドイツ語や英語の原稿をよく掲載してもらっている。また、マックスプランク研究所の日本法図書については、有斐閣の江草忠敬会長のご厚意により、2003年から私が選書をして、有斐閣が先方の発注した図書(他の出版社の図書を含む)を実費で送るというプロジェクトを続けている。
http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/gaikokuho/project_yuhikaku_MPI.html

単に海外の大学や研究所を訪問したり、シンポジウムに参加したりすることを国際交流と勘違いしている人を見かけるが、私たち法律研究者にとっては、やはり活字が大事であろう。会話能力と読解能力や執筆能力は全く異なる。

外国法に関する論文を読んでも、本当に元の資料には、そんなことが書いてあるのかと疑うことがある。普通は、二番煎じになるのが嫌で、すでに他の人が引用した文献を読むことは少ないが、直接郵便送達に関する米国判例を網羅的に調べたのは、そのような理由である。またスイス法をテーマにする以上、最低限でもドイツ語とフランス語、できればイタリア語もできるのが望ましいが、ドイツ語しかできない人がスイス国際私法の草案を翻訳したのを読んで、「これはおかしい」と思って、自分で訳したところ、ドイツ語さえも誤訳が多いのにあきれ果て、さらにフランス語やイタリア語の条文との違いを明らかにした翻訳を公表したことがある。

国際私法を専門とするからには、英独仏の3か国語が読めるのは当然のことであり、それは、山田鐐一先生や溜池良夫先生の本、さらに池原先生・折茂先生・江川先生の本などを読めば明らかである。しかし、最近は、英語だけで足りると思っている人が増えてきているのは、残念なことである。

読むだけでなく、書く力も必要であろう。これは、日本法の概説的な説明ができれば足りるのではない。海外の研究者にも関心を持ってもらえるように、オリジナリティとフィージビリティの両方を兼ね備えている必要がある。日常会話や海外のシンポジウムで報告できるからといって、論理的な思考能力がなければ、執筆能力は疑わしい。さらに一般的な説明や情報提供は出来るが、本当に深い議論ができるのかという問題がある。本当に信用してもらえるのか、本当に関心を持ってもらえるのか、それらを目指してこそ、海外との交流の意味がある。

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法科大学院教育の変遷

国籍裁判から始まり、国際家族法や国際財産法の様々な裁判の意見書を依頼された経験から、法科大学院教育に対する関心は、他の研究者より強かった。これも、中央大学に移籍を決めた理由の一つである。

法科大学院発足当初は、旧司法試験の合格率の低さから諦めていた者、長年旧司法試験に挑みながらも合格に至らなかった者などが集まり、活気に溢れていた。国際私法については、財産法分野の大改正である通則法の制定が間近に迫っていたが、履修条件として、山田鐐一先生の『国際私法〔第3版〕』を授業開始までに通読していることを求めたにもかかわらず、熱心な学生がやって来た。

ただ通則法の制定後も、同じ履修条件を定めていたところ、やがて履修者がゼロとなり、最寄駅近くを歩いていたところ、ある学生が「国際私法を履修したいのに、あんな条件では履修できない」と大声で話しているのが聞こえた。おそらく私の顔さえ知らなかったのであろう。

そこでやむを得ず、自家製の教材(プリント)を作成し、授業で配布し始めたが、今度は、期末試験でそれを丸写しする学生が出始めた。事例問題であるから、事案の解決を書くべきところ、教材の丸写しであるから、もちろん低い評価とならざるを得なかった。

ゼミ(テーマ演習)は、サブタイトルを「実践国際私法」とし、具体的な事案(課題)について、週末に文書を作成し、あらかじめ私あてにワードファイルで提出するよう求めた。そして、ゼミの時間では、①学生による報告(板書を含む)と学生同士の議論をさせ、②それが堂々巡りになって、進展がなくなったら、私の質問に答えさせ、③それも答えに窮するようになったら、学生の議論の矛盾点を指摘した。事案は一つであるが、課題は、平均して3つないし4つあるので、3~4時間かかり、最後に学生の作成した文書の技術的問題点をコメントし、添削した文書を渡していた。正規の授業時間は、50分×2コマであるから、それをはるかに超えるが、7週程度で打ち切っていた。

初期の頃は、講義を履修した学生に対して、ゼミの履修を強く勧めていたが、大学が必修科目を増やしたり、必修科目の延長と思われるものを選択科目として設けたり、特殊講義として比較的容易に科目の新設を認めたりしたので(私も、一時期は入管法の特殊講義をしていた)、国際私法の講義を履修しても、ゼミは履修しないという学生が増えていった。

やがてゼミを履修する学生がいても、一人だけのため、学生同士の議論ができなくなり、さらに他の学生からは、「ゼミを受けていたら、司法試験に合格できない」と言われたりした。結果的には、私のゼミを履修した学生が合格し、ゼミを時間の無駄と言っていた学生が不合格になったりしたが、法科大学院全体でも、ゼミの履修者は減る傾向にあるので、もはやゼミによる訓練は不可能になったと見てよいであろう。

法科大学院生の変化は、図書室の利用状況にも表れている。初期の頃は、授業で指示された参考書を求めて、図書室で調べ物をしたり、コピーをしたりする学生がいたが、徐々に自習室代わりに利用する学生が増えていった。ある時、私が本の原稿に引用した戸籍先例をチェックするために、民事月報を大量に閲覧室の机に山積みしていたところ、向かいに教材を置きっぱなしにしていた学生が戻ってきて、迷惑そうな顔をした挙句、30分もしないうちに、教材をそのままにして、出て行ってしまった。その後、コロナ感染予防のため、閲覧室の利用を制限したところ、誰も図書室には出入りしなくなり、制限を解除しても、学生はあまり戻って来ず、今は、アルバイト1名~2名のみを留守番代わりに置いているようである。

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脱ゆとりの弊害

最初の10年と残りの10年とでは、学生がずいぶん変わってしまったと感じていたところ、ふとしたきっかけで、大学入学前の学校教育における「ゆとり教育」と「脱ゆとり教育」の変遷を調べてみた。「ゆとり教育」は、2002年の学習指導要領の改訂によって導入され、2011年の再改訂によって「脱ゆとり教育」に変更されたが、その結果、子どもの読解力が急落したことを知った。まさに私の実感とピッタリである。これでは法科大学院教育の小手先の改革などしても、とても改善は望めないなと思った。
https://www.gymboglobal.jp/column/029
https://gentosha-go.com/articles/-/24653

脱ゆとり教育は、何が困るかと言えば、ともかく学生が自分で本を探して読むことをしなくなった。授業で指示された教材を読むか、予備校などのアンチョコを読むくらいであり、他の本を読む余裕などないのである。法科大学院でも、ともかく基本科目ばかり授業を増やして、必修にするので、とくに2年生は、選択科目を履修する余裕などない。それでテーマ演習(ゼミ)や研究特論(リサーチペーパーの執筆)の履修者が減ったと嘆いても、自業自得である。こんな法科大学院に未来は見えてこない。

脱ゆとりは、研究にも及んでいる。最近は、科学研究費の申請が半ば強制されているためか、大人数で本を出版する例が増えている。しかし、それは理系の発想である。法律の研究は、結局のところ、単著で評価されるのであり、それを忘れてはならない。その作業は、他人からは見えない研究室(あるいは自宅の書斎)でなされるので、世間一般からは、「大学の先生は、授業が少なくて楽ですね」と言われたりする。しかし、単著の出版がいかに苦しいものであるのかは、同業者であれば、誰でも知っているのであるから、そのような世間の評価は気にすることなく、あくまでも研究者の良心に従うべきであろう。

ところが、脱ゆとりの弊害は、教員のノルマ全体に及んでいる。担当授業数は増える一方であるし、無駄な会議(しかも長時間)や事務手続(提出書類)も増えている。それで研究時間を確保しようとしても、数年に1度与えられるかどうか分からないサバティカルを待つしかないのであれば、それまでの間は、どうすれば良いのであろうか。一方で、教員のほうも、苦しい研究をするよりも、大学のノルマをこなしている方が楽だと思っているのではないか、と自問自答すべきであろう。

(注)世間の評価という意味では、他にも誤解がある。本の出版である。あらゆる分野について、出版不況が言われているなかで、法律書の出版がどれだけ大変であるのかは、容易に想像できるであろう。私の経験上、最近は、一般向けの本でも1500部、学術書に至っては、700部が限度である。印税は出なかったり、仮に出たとしても、献本の費用(本体価格+送料)と相殺されたり、場合によっては、献本のために自腹を切ることもある。学術振興会などの出版助成では、印税なしが条件とされている。中央大学から本を出す場合は、この点も例外であるが、比較法研究叢書としての条件を満たす必要があるから、どんな本でも出せるわけではない。論文の公表は、認証評価などとの関係では、最低限のノルマがあるが、本の出版まで求められているわけではない。研究者としての良心に従っているとしか言いようがない。


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法科大学院に対する誤解

誤解を招くといけないので、補足しておけば、私は、同じく2004年に独立行政法人となった国立大学に残るよりは、法科大学院への移籍が正解であったと思っている。北大に残った場合は、法学部の授業と法科大学院の授業の両方を負担させられ、63歳になったら、特任教授の身分となって給与が半額、さらに65歳になったら、完全に退職と聞いている。これに対し、中央大学では、私は法科大学院の授業のみを負担し(他には学部の授業などを負担している人もいるが)、70歳になった後の年度末が定年とされていた。他にも違いは色々あるが、この差は大きい。

それでも、法科大学院のイメージは、研究者の間では、あまり芳しくないようであり、それは、私が後任人事に苦労したことからも分かるであろう。現に本法科大学院でも、本当は学部に戻りたい人がかなりいると聞く。それは、法科大学院教育が予備校のようだという誤解によるのであろう。これが第1の誤解である。私は、むしろ予備校とは異なる法科大学院独自の授業をするべきであると思っている。将来法律の専門職に就かない学生を教えるより、法曹を目指す学生を教えるほうにやりがいを感じていた。なお、多摩の研究者養成大学院の授業を兼任することは可能であるから、研究者養成の途が完全に閉ざされているわけではない。

第2の誤解は、これまでに法科大学院が多く廃止されてきたことから、法科大学院の教員になっても、いずれ廃止されるのではないかという点にある。たしかに法科大学院の創設当初は、既存の法学部のある大学はもとより、これまで法学部のなかった大学でも、法科大学院を設ける例があり、まさに乱立状態であった。それは、むしろ国の責任であったと言える。しかし、法科大学院を廃止するかどうかは、その大学の歴史にある。明治期には、東京帝国大学以外に、「五大法律学校」と呼ばれたものがあり、現在の早稲田大学・中央大学・明治大学・法政大学に加え、初期は専修大学、後期は日本大学が含まれていた。これらの大学は、法科大学院を廃止していない。私は、法科大学院制度が続く限り、この「五大法律学校」は、法科大学院を廃止しないであろうと見ている。
五大法律学校については、
http://tohyama.cool.coocan.jp/daigaku_houritsu.html

第3の誤解は、法科大学院の教員は、学部よりも負担が重いという点にある。たしかに、法科大学院では、とくに司法試験科目の場合に、学生を合格させる責任があり、学部よりも一層綿密に授業準備をする必要がある。しかし、本法科大学院の場合は、50分授業を学部の90分授業とカウントし、学生および教員双方の負担を軽減している。法科大学院の授業だけを負担している限りでは、それほど負担が重いとは言えないであろう。大学内においても、学部と法科大学院とでは、全く別の組織であり、よく学部において聞かれれる長時間の会議は、法科大学院では無縁である。現に基本科目においても、現職の弁護士が専任教員として勤務できるくらいであるから、負担が重いということはあり得ない。

ただ学部と同様に、法科大学院においても、Faculty Developmentと称して、授業方法の講習会を開いたり、学生に授業評価アンケートを実施したりするのは、正直言えば疑問である。これらは、アメリカの制度を導入したようであるが、まず前者について言えば、実質的に基本科目のための講習会であり、私の専門とする国際私法のような選択科目は、たとえ司法試験科目であっても、対象外とされている。また後者について言えば、学生が教員の授業を正当に評価できるくらいであれば、そもそも授業を受ける必要がないのであり、はたしてその評価が妥当であるのかに疑問がある。現にオーストラリアでも、同様の授業評価アンケートが実施されており、優秀な研究者が学生に対し厳しい授業を行ったことにより、退職に追い込まれたという話を聞いたことがある。法科大学院制度自体がアメリカをモデルにしたようであり、大陸法系の日本に馴染むのか、疑問があるが、このように何もかもアメリカの真似をする教育行政には、未来が見えてこない。

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分野の選択

以上のとおり、私は、研究生活の初期は、国際私法のうち、財産法分野の研究に取り組み、基礎研究として、他の人があまりやらないような実質法の統一との関係やいわゆる域外適用と呼ばれる問題の見直しに取り組んできた。

ところが、北大に移籍して数年後、あることがきっかけとなり、国籍裁判に関わるようになり、それに関連して、国際家族法や渉外戸籍法の研究に一時のめり込んでいた。その際には、比較法研究を行うだけでなく、やはり他の人があまりやらないような戸籍実務の研究にも取り組んだ。

ある香川大学の卒業生は、後に神戸大学の大学院に進学し、某地方の国立大学で会社法の専任教員として勤めているが、ある時、「奥田先生が最初から国籍法を研究していたら、自分もそれを専門にしたかもしれない」と告げられた。しかし、それでは、私はおそらく香川大学に就職できていなかったであろうし、北大に移籍することもできなかったであろう。

今でも、国際私法ではなく、国際取引法で採用される者が多いのは、やはり大学の意向として、そちらのほうが必要だと考えているからであろう。しかし、私の経験上、学生は、むしろ国際家族法のほうが身近であり、関心を持ちやすいので、札幌学院や新潟大学で非常勤に呼ばれた際には、国際家族法だけを取り上げていた。法科大学院では、逆に学生は、家族法の勉強が不十分であることを知っているので、国際私法2(家族法)は敬遠して、国際私法1(財産法)しか受講しない者も多かった。

私が中央大学に移籍できたのは、国際裁判などに追われながらも、財産法分野の研究を続づけていたからであると思う。実際のところ、国際私法の研究者は、財産法と家族法の両方について研究し、その証として、論文を公表することが求められており、法科大学院の教員であれば、なおさらであろう。

法科大学院の学生や修了生でも、国籍裁判のような社会的意義のある裁判に弁護士として取り組みたいという者がいるが、それだけでは、弁護士業を続けることはできない。私の経験上、世間的には、あたかも外国人問題を中心に活動しているかのようににみえる弁護士であっても、実際にそれに費やす時間は、ごく一部であり、ましてや収入の大部分は、むしろ他の業務によるものである(場合によっては、持ち出しになることさえある)。なかには、一時期だけそういう裁判をするが、それを続けていたら、弁護士業ができなくなるので、期間を区切る人もいる。

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退職を早めた理由

中央大学では、満70歳になった後の年度末が定年であるから、本来は、2023年度末に退職の予定であったが、1年早く2022年度末に退職することにした。「みなし定年」とのことで、退職金については、不利益はないそうであるが、もちろん1年分の給与はなくなる。退職を1年早めた理由は、以下のとおり様々ある。

① 骨折
直接のきっかけは、昨年夏の骨折事故である。手首が最も重症であったが、他にも骨折した箇所があり、とてもあと2年は持たないと思った。
骨折の記録
http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/kossetsu_kiroku.html

昨年6月に『フィリピン家族法の逐条解説』を出版したが、ある事情から、次の『国際私法と隣接法分野の研究・続編』の仕事に取り掛かることができず、今思えば、ほとんどノイローゼ状態になっていたのかもしれない。

② 法科大学院の変貌
司法試験受験者の減少を反映して、今年から5年一貫教育(いわゆる3+2)が始まり、来年からは、在学中受験が可能となる。加えて「法科大学院教育の変遷」に書いたとおり、学生の質が全く変わってしまった。正直申し上げれば、北大から移籍した当時の法科大学院教育への情熱は、もはや私にはない。後任の方には、申し訳ないが、研究時間は、おそらく学部よりも確保できると思うので、そちらで頑張ってほしいと願っている。

(注)中央大学では、コロナを機に、多くの会議がオンラインで開催されるようになった。もともと法科大学院の教授会は、月に1回、水曜の午前10時から始まり、午後1時からは、授業の始まる教員もいるので、多くは12時前に終了し、早いときは11時頃に終了することがある。多摩の法学部は、金曜の午後に教授会を開催するので、他の大学と同様に、終了時間が遅いと聞いている。

③ キャンパスの移転
2023年度には、本法科大学院が駿河台キャンパスに移転する。もし定年まで在籍するとしたら、その1年間のために研究室の引越しをして、さらに1年後には、再び退職に伴う引越しをしなければならない。最初は覚悟をしていたが、骨折の後遺症もあり、とてもその元気はない。奇しくも、2024年3月定年予定の残り2名(学部から法科大学院への転籍者)も、一人は中央大学の理事長職に専念するため、もう一人は私学共済の理事長に就任するため、早期退職の途を選んだので、結局、2023年度末の退職者はいなくなった。

(注)中央大学では、2023年度に法学部も多摩キャンパスから茗荷谷キャンパス(文京区)に移転する予定である。そこで調べたところ、キャンパスを郊外から都心に移す例は、近年増えていることが分かった。
http://www.networknews.jp/index.php/Guide/Select/archives/4
https://www.kenbiya.com/ar/ns/jiji/purchase_know_how/5797.html
前述の香川大学の卒業生も、現在勤務している本務校が移転するため、遠距離通勤になるそうである。キャンパスの移転で生活が変わるのは、自分だけではないということで、我慢するしかないのであろう。

④ 後任人事
本法科大学院では、司法試験科目の担当者は、後任(専任教員)を決めなければ、退職できないことになっている。私も、当初は、2023年度末の退職を目指して、後任人事を進めようとしたが、難航していた。昨年夏に骨折をした当時は、そのような悩みも抱えていた。しかし、定年を1年早めることにして、ある人に後任をお願いしたところ、快諾頂き、無事に教授会を通してもらった。

⑤主夫業の負担
『国際家族法〔第2版〕』を執筆していた2019年頃から、妻に代わって主夫業をするようになった。最初の頃は、総菜を買ってくるなど、何とか負担を軽くするように工夫していたが、朝食や昼食はともかく、夕食は、それでは物足りなくなり、次第に買物や調理の時間が長くなっていった。骨折直後も、総菜中心となっていたが、ある程度左手が使えるようになったら、以前よりもさらに凝るようになった。だからといって、退職する程のことはないだろうと思うし、まさに主婦業を兼ねている女性研究者に叱られそうだが、「時間の余裕がなくなったな」と感じたり、「馴染みの店にも、ほとんど行けなくなったな」と感じるようになったのは、事実である。

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退職後の生活

来年春に退職したからといって、私の生活が大きく変わるわけではない。以前は、授業のない日も、毎日研究室に行って(時には週末も)、原稿の執筆に追われていたが、今は、授業さえも「オンラインのみ」であり、授業期間中は、たまに週末に研究室に行って、用事を済ませるくらいである。夏休みなどの休講期間に入ったら、今の法科大学院生は、大学に出てこなくなるので、その頃には、平日も研究室に行っている。

オンラインとはいえ、授業や月1回の教授会がなくなることくらいが違いであろうか。中央大学の研究費で購入した本のうち、とくに必要なものは、なるべく自宅に持ち帰ろうと考えている。継続使用が認められているからである。前述のとおり、北大名誉教授として、北大図書館のデータベースを利用することは可能である。それによって、日本の判例や一部の文献は、カバーすることができる。英語文献も入手することができるが、残念ながら、ドイツ語やフランス語の文献は、中央大学のデータベースにしか入っておらず、退職後は、比較法研究所などを訪問して、そこのPCを使わせてもらうしかない。時々は、中央大学の図書館で雑誌のチェックなどをすることになるであろう。

追記(2023年3月8日)
その後、中央大学でも名誉教授の称号を頂ける予定となり、かつ中央大学図書館のデータベースの利用も可能になると聞いたので、今後の研究にとっては、大変なメリットになることが期待される。

(注)欧米の図書は、今はGoogle Booksで検索・閲覧が可能となっている。かなり昔の本も、アクセスできるようであるから、ハンブルクのマックスプランク研究所の常連のなかには、休講期間中の訪問を取り止めてしまった人がいる。日本の大学紀要のリポジトリも、とくに国立大学では、遡及入力をしている例が見られ、欧米の雑誌も、目次くらいは、出版元のサイトで閲覧できるものがある。
執筆・校正・出版
http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/shippitsu_youryou.html
「和雑誌チェックリスト」「洋雑誌チェックリスト」

手首の執刀医によれば、この年齢であれほどの粉砕骨折をしたのであるから、可動域が完全に戻るのは不可能であり、良くても10~20%程度の制限は仕方ないそうである。ただ毎日1時間のトレーニングを続けた結果、リハビリ期間中に落ちた筋力は、かなり回復してきた。骨折前も、いわゆる筋肉質ではないから、大したことはないが、論文集の再校ゲラを待つ間に、こんな雑文を書く位であるから、原稿の執筆には支障ないであろう。

今気になっているのは、『家族と国籍』、『国際家族法』、『国際財産法』の三冊の改訂である。後二著は、あまり売れていないので、明石書店に申し訳なく思っているが、退職を機に、思い切ったリニューアルを考えている。『家族と国籍』を改訂する理由は、前述のとおりであるが、こちらも大幅なリニューアルを考えている。

私の研究生活は、様々な人との出会い、様々な人のご助力に支えられ、今後もお世話になることが多いであろう。昨年夏の骨折の際には、もはや研究生活は終わりかと思ったが、様々な人のご支援により、ここまで回復できたのであるから、その御恩に報いるため、微力ながら、今後も精進を重ねていきたい。

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