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研究生活裏話:半生を振り返って


2022年7月1日(随時更新)
奥田安弘


本サイトの趣旨〕〔誕生から大学入学まで〕〔神戸大学の学部生活
神戸大学の大学院生活〕〔ドイツ滞在中の生活〕〔香川大学在職中の生活
スイス滞在中の生活〕〔北大在職スタートの生活〕〔北大在職残りの生活


本サイトの趣旨

2015年に高杉教授の招きで、同志社大学において講演し、その原稿を「国際私法および周辺分野の研究を振り返って」同志社法学67巻8号として掲載したことがある。
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016353

しかし、その後7年間にも様々なことがあり、来年の退職を迎えるにあたって、講演会では話さなかった裏話を記録に残しておきたいと思うようになった。話の流れで一部重複することもあるが、より赤裸々に自分の半生を振り返ることにする。

同志社法学の講演録以外に、私のサイトの関連ページも参照して頂きたい。
紹介:http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/curriculum_vitae.html
著作一覧:http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/chosaku_ichiran.html

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誕生から大学入学まで(1953年~1972年)

私が生まれたのは、平和条約発効の翌年である。まだ日本が貧しかった頃であり、我が家の生活も楽ではなかった。それでも、本の値段は、今とは比べ物にならないくらい安く、子どもの時に与えられた年齢相応の本は、よく読んだ。受験を気にすることもなく、単に読み漁ったという感じである。色々な塾にも通わせられたが、幸か不幸か長続きせず、一芸に秀でることはなかった。

12歳の頃、尼崎から川西の田舎町に引っ越し、小学校の最終学年から中学校にかけては、学校に馴染まなかった。当時は、学校の図書室から毎日1冊SF小説を借り出して読んでいた。授業の休み時間も、一人教室に残って本を読んでいたら、担任の教師が来て「外に出ろ」と言われたが、無視していた。

中学を卒業する頃、近所に新しい高校が出来たので、同級生は、大部分がそこに入学したが、私は、片道2時間かけて、電車とバスを乗り継ぎ、県立伊丹高校に通い始めた。1902年に旧制中学として創立された名門校であったが、私の入学後の1971年に総合選抜制度が再開され、凋落したそうである。

当時の普通の高校生と同様に、3年生になった頃から、大学入試に備えた丸暗記の勉強に励むようになった。要するに意味も十分に理解しないまま、単に参考書を暗記するだけの「門前の小僧」であり、授業中は、いつも居眠りをして、教師から睨まれていた。

当時の大学入試は、まだ共通一次試験(1976年開始)の前であったので、一発勝負であり、私立大学の入試は、3科目くらいであったと思うが、国立大学の入試は、文系でも英語・国語(現国・古文・漢文)・社会2科目だけでなく、数学と理科各1科目を含むハードなものであった。その中で古文に惹かれた私は、文学部への進学を希望したが、親が文系なら法学部へ行けというので、神戸大学法学部に進学した。

当時は、インターネットもなく、大学の教員スタッフや授業内容なども知らず、単に偏差値で選んだにすぎない。第二外国語についても、高校の先輩に電話で相談して、ドイツ語を選択するという主体性のなさであった。しかし、結果的には、良い選択であったと思う。

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神戸大学の学部生活(1972年~1976年)

神戸大学では、司法試験(旧司法試験)に挑む学生は、あまりいなかったが、大学入試の延長のように、入学後すぐに司法試験の勉強を始めた。当時は、まだ教養部があり、1・2年生は、一般教養の授業しか受けることができなかったので、向江璋悦『法曹を志す人々へ』(法学書院)で紹介されていた基本書、すなわち清宮四郎・宮沢俊義『憲法Ⅰ・Ⅱ』(有斐閣法律学全集)、我妻栄『民法講義』(岩波書店)、団藤重光『刑法要綱』(創文社)、石井照久『商法』(勁草書房)、兼子一『民事訴訟法』(弘文堂)を読んだ。当時は司法試験予備校などなく、神戸大学で司法試験を目指す者は、一人で勉強するしかなかった。もちろん大学入試と異なり、丸暗記というわけにはいかず、別にノートを作っていた。

(注)これに対し、向江璋悦氏は、中央大学在学中の1934年に真法会を創設し、司法試験合格後は、検察官・弁護士を歴任しながら、その司法試験勉強会を率いて、神様のような存在であった。

必修科目の基本書を読み終えた後、選択科目として読んだのが江川英文『国際私法』(有斐閣全書)であった。私が入学した1972年時点では、折茂豊教授の『国際私法(各論)』(有斐閣法律学全集)は出版されていたが、池原季雄教授の同じシリーズの『国際私法(総論)』は、翌年(1973年)の出版であり、司法試験ガイドとしては、有斐閣全書のほうを勧めざるを得なかったのであろう。しかし、私は、これを読んで、司法試験ではなく、大学院進学に方向転換してしまった。短答式の問題集まで買って、準備をしていたのに、結局、短答式さえ受験しなかった。

(注)旧司法試験では、短答式試験と論文式試験が別々に行われ、前者は5月に実施されるが、後者は7月に実施されていた。

当時の神戸大学法学部では、専門課程進級時に選んだゼミは、二年間の履修が原則であり(そのため、先輩学生によるガイダンスが開催されていた)、しかも必修科目であったので、国際私法のゼミを履修しようとしたところ、担当教員が在学研究のため不在となり、窪田宏先生の海商法・保険法を選んだ。ただ国際私法の教員が帰国した後に、その講義を受けたところ、私の期待した現行法の解釈論ではなく、外国の研究者の学説を紹介する内容であったので、結局、受講を中止して、期末試験は受けなかった。

(注)戦前は、海商法・保険法の研究が盛んであり、私の学生時代にも、まだ立派な体系書や研究書が何冊も出版されていた。しかし、当時すでに海商法4単位・保険法4単位という科目構成を採る大学は少なく、その後、会社法が主流となり、今は神戸大学のカリキュラムでも、「海商法」「保険法」という科目名は見当たらない。

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■神戸大学の大学院生活(1976年~1981年)

大学院進学についても、引き続き窪田先生に受け入れをお願いしたが、正直申し上げれば、その経緯は、よく覚えていない。同志社法学では、「国際私法は、ポストが少ないので、商法を選んだほうがよい」と言われたことを挙げたが、本当のところは、学部の単位さえ取らなかった私を国際私法の教員が拒んだからであった。

当時の大学院入試は、修士課程(博士前期課程)でも、二か国語が必要とされていたが、私は、英語さえ怪しいもので、ましてやドイツ語は散々な出来であった。民法はまずまずだったようであるが、肝心の海商法の答案が論点を外しており、口述試験で訂正させてもらった。窪田先生は、私を合格させるのに苦労して下さったようであり、現在の私があるのは、ひとえに先生のお蔭である。

その窪田先生のもとで、ドイツ語・フランス語・イタリア語の指導を受けたことは、同志社法学に書いたとおりであるが、それだけで語学が上達するはずもなく、当時広く普及していたカセットテープを何度も聴き、かつその内容を解説した参考書を何度も読み返していた。さらにドイツ語については、ネイティブの先生に習うため、神戸日独協会のドイツ語講座に通った。

修士論文のほうは、まだ国際私法に未練があり、いわゆる海事国際私法の分野に属する至上約款(Paramount Clause)というテーマを窪田先生から与えて頂き、イギリスの判例集や学術書をコピーして、読み漁っていた。その際も、窪田先生の教えでカードを多数作り、それを机の上に広げて、論文の構想を練るノートの作成作業を続けた。

(注)窪田先生は、文化人類学者の川喜田二郎教授が発案したKJ法にヒントを得たということであったので、その『発想法―創造性開発のために』(中公新書)を購入して読み、法律の研究に応用した。何事も創意工夫が必要で、他人のアイデアがそのまま使えるわけではない。

当時の大学院生は、自分たちでお金を出し合って刊行していた『六甲台論集』に掲載するしかなく、大学紀要である『神戸法学雑誌』への掲載は認められていなかった。大学院生室も、大部屋を仕切って、机が一つ与えられ、隣の談話室には、鉄格子がはめ込まれていたので、まさに「ロイヤー(牢屋)」に相応しいと自分たちで卑下する有様であった。ただし、最近は、大学院生の論文が『神戸法学雑誌』に掲載されるようになり、翻訳などの資料以外は、大学院生の論文しか掲載されない号も見られるようになった。少し複雑な気分である。

『六甲台論集』では、掲載スペースが限られていたが、200字詰め原稿用紙にペンで書いた「至上約款の至上性」という論文を2回連載することができたのは、窪田先生の指導の賜物と思っている。ただし、テーマが海事国際私法の分野に属するためか、あるいはイギリス国際私法の説明が不十分であったせいか、窪田先生からは、「分かりづらい」という評価を受けることになってしまった。それでも、博士課程(博士後期課程)への進学を認めて頂き、その頃には、ドイツ語もある程度読めるようになっていたので、「ドイツにおける至上約款の至上性」を再び六甲台論集に掲載した。

窪田先生がなぜ私の受け入れて下さったのかは、もはや確かめようもなく、今もってよく分からない。ただ私のことを変人だと思っていたことは確かであり、ある大学のポストに候補者として名前を挙げて頂いた際に、先方が人柄の良い人を希望すると言ったところ、「人格は保証できない」と返事され、結局、その人事は潰れてしまった。

とはいえ、香川大学に法学部が新設されることになり、窪田先生が私を国際取引法のポストに推薦して下さったので、有難く研究者生活を始めることができることになった。そして、大学院生の身分のままでは、新設学部の設置審を通らないので、博士(後期)課程3年の7月末に中退し、8月から形だけ神戸大学助手にしてもらった。「形だけ」というのは、研究室も与えられず、実質上は大学院生のままであるが、助手の給与をもらって、期末試験の監督程度の仕事はしたということである。

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■ドイツ滞在中の生活(1981年6月~1982年9月)

私にとって幸運であったのは、博士(後期)課程2年目にロベルト・ホイザーさんが日本初のDAAD講師として赴任したことである。ホイザーさんは、ハイデルベルクのマックスプランク外国公法・国際法研究所の研究員(中国法・日本法担当、その後ケルン大学教授)であり、大阪大学や大阪市立大学でも授業を担当したが、神戸大学の外国人宿舎(六甲台の立派な一軒家)に住んでいた。

私は、博士(後期)課程1年目からDAAD(ドイツ学術交流会)の留学生試験を受けており、ドイツ留学を目指していることを知ったホイザーさんは、神戸大学の正規の授業とは別に、毎週自宅で個人レッスンをしてくれた。ホイザーさんの本来の専門は、公法であったが、RIW (Recht der Internationalen Wirtschaft)の編集委員を務めていたこともあり、日本の商法の判例をドイツ語で説明する訓練をしてくれた。

博士(後期)課程3年目のDAADの試験では、ホイザーさんも審査委員を務め、日本人の審査委員(東大法学部教授)を説得してくれて、何とか合格にこぎつけることができた。ただし、同じ年には、東大法学部助手2名も合格しており、彼らと比べて、私のドイツ語が劣ることは、後でホイザーさんから散々言われた。

DAADからは、4か月間の語学研修が義務づけられ、香川大学赴任後に授業もしないまま、6月からリューネブルクで2か月、マンハイムで2か月の間、ゲーテ協会に通った。リューネブルクでは、中級コースの最終試験に合格したとはいえ、成績優秀とは言えなかった。案の定、マンハイムでは、上級コースに入ったものの、授業についていけず、ホームステイ先がゲーテ協会の隣のアパートであったにもかかわらず、登校拒否になってしまった。そして、一人でドイツ語の参考書を読み漁る生活を続けた。10月にハンブルク大学で面接を受けたところ、再び外国人向けの語学研修を受けるよう言われたが、少し通っただけで止めてしまった。

最初は、大学の図書室で資料集めをしつつ、受け入れ先のシュミット教授の講義に出席していたが、それでは物足りなくなり、ちょうどマックスプランク外国私法国際私法研究所長のドロープニック教授が上級者向けゼミナールを開いていたので、それを傍聴させてもらうとともに、研究所の図書室に席をもらった。今とは異なり、当時の研究所図書室は閑散としており、ちょうど冬に向かうところであったので、アメリカ人の留学生と私の二人しかいなかった。また研究所のスタッフ(研究員や図書担当者など)は、外国人だからといって、ゆっくり話してくれることなどなかったので、精神的に疲れてしまった。

結果的に、最後のほうは、大学のゲストハウスに籠り切りとなり、クロポラー教授の『国際統一法』、シューリッヒ教授の『抵触法と実質法』、ノイハウス教授の『国際私法の基礎理論』などの本、研究所でコピーした大量の雑誌論文や国際会議の議事録などを読む日々を過ごしていた。かくして、ドイツ語は、以前より読めるようになったが、会話は、あまり上達しないまま終わった。

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■香川大学在職中の生活(1981年~1988年)

ドイツ留学から戻った私は、国際取引法の授業を始めたが、すぐに疑問に思ったのは、法学部なのに、なぜ国際私法という科目がないのかであった。今でも、国際私法と国際取引法が混同されるのは、日常茶飯事であるが、研究生活のスタートから、この違いを教授会で力説することになった。その解決策は、よく覚えていないが、澤木敬郎先生の『国際私法入門』(有斐閣双書)を教科書として指定し、「国際取引法」の授業では、国際財産法の授業をして、隔年で「国際私法」を開講し、国際家族法の授業をしていたように思う。

研究のほうは、マックスプランク外国私法国際私法研究所のRabels Zeitschriftは入れてもらったが、いかんせん研究費が少なすぎたので、冊子体のIndex to Legal Periodicals およびIndex to Foreign Legal Periodicalsを頼りに、論文を探して、他大学からコピーを取り寄せていた。そのため、図書館の担当者とは、すっかり顔馴染みになった。

ハンブルク滞在中に「国際海上物品運送法の統一と国際私法の関係」というテーマで研究を進めて、帰国後に国際私法学会でデビュー報告をさせてもらったが、それは、大学院生時代の至上約款の延長にすぎなかった。その後は、自分でテーマを探す必要があり、「船主責任制限の準拠法」、「統一私法と国際私法の関係」、「海運同盟に対する米国政府規制の域外適用」を香川法学に掲載し、さらに「国内裁判所における統一法条約の解釈」を国際法外交雑誌に掲載した。

これらの論文は、一つは海事国際私法、もう一つは実質法の統一と国際私法の関係というテーマで研究を発展させようとしたものである。また毎年1本は、きちんとした論文を公表するというノルマを自分に課していた結果でもある。当時は、200字詰め原稿用紙にペンで書いていた時代であり、研究室にエアコンなどなく、時に汗で原稿を滲ませながらも、原稿の執筆に勤しんでいた。大学院時代と同様に、カードを作って、それを机の上に広げ、論文の構想を練るためのノートを作成するという方法を取っていた。

(注)論文の抜き刷りは、もちろん窪田先生に送っていたが、ある時、「君の書いたものは、よく分からない」という葉書が届いたので、それ以降は、抜き刷りを送るのを止めてしまった。その他の形でも交流がなくなってしまったのは、今でも悔やんでいる。

学会報告をしたとはいえ、当時の私は、国際私法の研究者として認めてもらえず、関西の国際私法研究会には参加していたが、ジュリストの渉外判例研究や判例百選などへの執筆機会は与えてもらえなかった。その理由は、研究テーマが国際私法プロパーの領域から外れていたからかもしれないし、私の経歴がいわゆるエリートコースではなかったからかもしれない。しかし、今では、窪田先生の教えどおり、他の人がやらない研究を黙々と続けて、良かったと思っている。

(注)これに対し、最近は、若い研究者で判例評釈を多数執筆する者がいるが、あまり感心しない。なかには、「科研費の研究成果」と書く者もいて驚いている。かつて在日朝鮮人・中国人の属人法について、あき場準一先生が判例評釈で実効的国籍論を主張され、それを採用した下級審判例も、幾つか現れたが、これは稀有な例である。

ただ大学の研究環境は、あまり良好とは言えなかったので、4~5年を経過した頃に、ちょうど国連国際商取引法委員会(UNCITRAL)から北大に戻っていた曽野和明教授が国際私法の担当教員を探しているのを聞きつけ、私のほうから採用をお願いした。曽野教授も、私が国際私法プロパーの領域から外れた研究をしていたことに関心を持っていたようであり、教授会を通してもらうことができた。

(注)ただし、正直言えば、私は三番手であった。私より若く、より国際取引法に近い二人がそれぞれ大学院から別の大学に就職が決まったところであり、就職から5年以上を経過していた私がちょうど採用時期に適していたということのようであった。曽野教授の構想では、国際取引法関連のポストを複数設けるつもりであったが、それは叶わなかった。

なお、些末なことではあるが、世間は、大学教員が裕福だと思っているのには閉口した。国立大学であり、しかも助教授の給料は、同じ年齢の会社員を下回っていたかもしれず、少なくとも裕福ではあり得ない。それは、後に札幌に移ってから、一段と身に染みて感じた。

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■スイス滞在中の生活(1988年5月~1989年4月)

研究環境への不満は、同時に、在外研究の機会を再び得たいと思わせるようになり、色々調べたところ、学術振興会の長期派遣の対象国にスイスが含まれているのを見つけた。ただし、過去の採用例によれば、理系または芸術系が多く、法律分野では前例がなかったので、諦めかけていたところ、ある学会が香川大学で開催され、学術振興会の審査委員を務める先生が来られることを知った。その先生に直接会ったわけでないが、香川大学の先輩教授が口利きをしてくれたお蔭で、1年の派遣研究員に採用してもらった。

ちょうど北大への転出が決まっていたが、またしても授業をすることなく、5月上旬にスイスへ旅立った。受入れをお願いしたオーバーベック教授は、フリブール大学を退職し、スイス比較法研究所の所長になったというので、ローザンヌの研究所を訪ねたところ、「自分の後任として、フォールケン教授が赴任したから、フリブールに行け」というのである。事前にやり取りした手紙には、そんなことが書かれていなかったので、不満ではあったが、週に1回は、研究所も訪問してよいという約束で、フリブール大学を訪ねた。

あとで聞いたところによれば、オーバーベック教授は、私のことをフランス語会話が全くできないと思い込んでいたようであるが、フリブールも、ドイツ語とフランス語の両方が公用語であるとはいえ、街中で買物をするのさえ、フランス語しか通じなかった。フランス語は、独学とはいえ、神戸大学時代からフランス語のカセットテープを聴いて、日常会話の勉強もしていたので、日常生活は何とかなり、改めて語学学校に通うことはしなかった。

(注)ただし、ローザンヌ(ボー州)とフリブール州とでは、カントン(州)が異なるため、大変な目に遭った。入国の際の書類では、ローザンヌに住む予定になっていたので、フリブールの居住許可がなかなか下りず、半年以上かかってしまった。それは、帰国の数か月前のことであった。そして、チューリッヒ空港から帰国する際には、書類をチェックした係官が顔色を変え、「本来は、半年以内に居住許可を取ることが条件となっているのに、それを過ぎているから、不法滞在だ、トットと出ていけ」と怒鳴って、釈明の機会さえ与えられなかった。入国後に居住地を変えることが如何に危ないことか、今後海外滞在を予定している人は、注意して頂きたい。

フリブール大学では、小さな研究室を与えられて、大学の図書室で資料を集めたり、週に1回はローザンヌの研究所に通ったりして、資料集めに明け暮れた。ちょうどスイスの連邦国際私法が成立した頃であり、多数の著書・論文が公表され、立法資料も山のようにあった。それらは、大部分がドイツ語またはフランス語であったので、両方の資料を読み漁って、論文の構想を練っていた。当時は、ようやくワープロ専用機が出始めた頃であったが、いかんせんディスプレイが1行だけであったので、ノートに原稿の下書きをした後に、タイプライターのようにワープロ専用機に入力し、携帯用プリンターで打ち出しては、加筆修正をするという作業を続けていた。

(注)その頃には、もうカードを作るという作業はしていなかったが、手書きでノートは作っていた。さらにパソコンになってからも、最初は、パソコンでまず論文の構想に関するノートを作り、それをプリントアウトして、原稿の執筆をしていたが、徐々にノートをやめて、資料を机の周りに広げて、原稿を執筆するようになった。しかし、これは、かつてカードやノートを作る作業をした経験があったからであり、若い人がいきなりパソコンで原稿を書いて、推敲も十分にしないようでは、評価に値する論文など出来るはずがない。
私家版法律論文執筆要領
http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/law_articles_writing.html

同志社法学にも書いたとおり、溜池良夫先生から「北大で国際私法のポストに就くのであれば、国際家族法を研究しろ」と言われていたので、スイス国際私法の法典化の必要性・属人法の決定基準・一般例外条項という三つの問題を取り上げ、「スイス国際私法典における若干の基本的諸問題」を帰国後に北大法学論集に2回連載し、教授昇任を認めてもらった。

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■北大在職スタートの生活(1988年~1994年)

私が教授に昇任したのは、36歳の時であり、世間一般の相場では早すぎるように思われるが、北大法学部の教員は、東大出身者が多く、学部卒業後すぐに助手となり、10年の助教授期間を経て、それまでに一定の研究業績(論文)があれば、35歳で教授に昇任するという「東大基準」を当てはめたものであった。しかし、教授に昇任したとはいえ、給与は、助教授のままであるので、寒冷地手当や都市手当があるとはいえ、札幌での生活は苦しかった。

神戸大学の出身者は、民訴法の福永有利教授と私だけであった。福永教授は、すでに大家であったから、周りから尊敬されていたが、私は、「どこの馬の骨か分からない」という扱いであり、しかも国際私法は、基礎法講座に属していたので、肩身の狭い思いをした(その後、国際私法は民事法講座に属することになったそうである)。

北大法学部の特徴としては、さらに「図書の共有」ということがある。すなわち、大学の研究費だけでなく、科研などの外部資金で購入した図書も、すべて図書館に所蔵するという決まりであり、私たちは、3か月ごとに、借り出した図書の更新手続のため、カートに積み込んで、図書カウンターを往復していた。ところが、2000年頃からは、主に東大出身者で新規に採用された人たちが消耗品として図書を購入して、自分の研究室に置くようになったので、この「図書の共有」という理念は、今はもう存在しないのかもしれない。

(注)図書の共有は、北大法学部創設当時の教員が研究費に苦労した経験に由来すると聞いている。当時の教員が幅広い研究をしていたことも反映しているのであろう。しかし、そのため自分の研究室に備える本は、和書・洋書を問わず、少ない給料から捻出したポケット・マネーで購入するしかなく、かつ出版される図書の増加や専門分化を反映して、時代に合わなくなっていた。

私は、スイス国際私法については、家族法の分野も研究したが、その後は、「国際私法立法における条約の受容」、「アメリカ抵触法におけるジュリスディクションの概念」、「わが国への直接郵便送達に関する米国判例の展開」、「わが国の判例における契約準拠法の決定」というように、従来の研究を発展させる方向で論文を書いていた。ただし、Neuere Entwicklungen des Staatsangehörigkeitsprinzips im Japanischen IPRという家族法分野のドイツ語論文を書いたのは、フォールケン教授の助手を務めていたカウフマンさん(中国法専攻、現スイス法務省)が深圳での1年滞在の後、北大助手として1年滞在していたことによる。

その頃には、判例評釈などの仕事も、徐々に入るようになっていたが、1年に1本という論文公表のペースは守っていた。『国際取引法の理論』という論文集を出した経緯については、『国際私法と隣接法分野の研究・続編』(2022年9月出版予定)の解題を参照して頂きたい。「北大法学部叢書」ではなかった理由も、そこに詳しく書いた。

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■北大在職残りの生活(1994年~2004年)

同志社法学に書いたとおり、大きな転機は国籍裁判であった。それまでとは異なり、意見書など様々な仕事の依頼をきっかけとして、論文を書くようになった。「国籍法2条3号について」、「認知による国籍取得に関する比較法的考察」、「国境を越えた子どもの移動と戸籍」、「国際人権法における国籍取得権」、「本国法主義と未承認国家の国籍法」、「渉外家事事件と子どもの権利条約」、「外国における扶養料取立システムの構築」、The United Nations Convention on the Rights of the Child and Japan's International Family Law including Nationality Lawなどであり、さらに意見書をそのまま掲載したものとして、「認知による国籍取得と戸籍実務」、「国籍法における非嫡出子差別の合憲性」がある。

(注)英語論文は、日弁連の子どもの権利委員会から、国籍などについて、政府レポートに対するカウンターレポートとその英語訳を依頼されたのがきっかけとなっている。英文チェックについては、北大に任期付き外国人助教授として在籍していたケント・アンダーソンさん(現ニューキャッスル大学副学長)にお願いした。彼とは、その後も、様々な仕事を共にし、また私が中央大学に移ってからは、彼の指導を受けたトレバー・ライアンさん(現キャンベラ大学教授)が留学生として来ていたので、同じく様々な仕事を一緒にした

これらの論文も、国際私法プロパーの分野から外れたテーマを取り上げるという点では、それ以前と共通する面がある。『国籍法と国際親子法』を出版した経緯については、『国際私法と隣接法分野の研究・続編』(2022年9月出版予定)の解題を参照して頂きたい。「北大法学研究科叢書」ではなかった理由も、そこに詳しく書いた。

さらに、戦後補償裁判の意見書を依頼されたことがきっかけとなって、論文を公表したり、学会や学会関係者から依頼を受けた原稿があったりして、国籍法関係の論文と併せれば、1年に1本というわけにはいかなくなった。前者としては、「国家賠償責任の準拠法に関する覚書」、「国家賠償責任と法律不遡及の原則」があり、さらに意見書をそのまま掲載したものとして、「戦後補償裁判とサヴィニーの国際私法理論」がある。後者としては、「私法分野における組織的国際協力」、「国際化と消費者」、「船荷証券統一条約と国際私法との関係」などがある。

WINDOWS95が発売され、それまでのワープロ専用機からパソコンを使うようになったこと、航空運賃が徐々にリーゾナブルになってきたこと、年齢に応じて給与がそれなりになってきたことにより、2000年から、前期に3か月の海外滞在を再開し、授業は後期に集めることにした。それは、上記のとおり、北大での息苦しさから逃れるためでもあった。

ドイツに2回、スイスに1回訪問したが、法科大学院制度が発足されるのをきっかけに、東京などに移籍できないかと思い、かつて1988年のスイス滞在中にローザンヌでしばしばお会いした山内惟介教授に電話をして、中央大学法科大学院で国際私法担当教員として採用して頂いた。まだ北大の定年まで10年以上あったので、山内教授も驚かれたと思うが、何よりも北大法学部では、他大学の法科大学院への移籍第1号ということで、裏切り者扱いされた。しかし、なぜ私が移籍を希望したのか、その理由を少しは察して頂きたかったと思っている。

ただ北大では、一定以上の教歴がある場合に、早く退職しても、55歳に達した後に、名誉教授の称号を付与することになっており、2009年4月に名誉教授の称号を頂いたことは有難かった。とくに図書館のデータベースにアクセスする権限は、他の国立大学でも名誉教授に認めている例が見られるが、来年春以降の研究生活にとって、大きな支えになるであろう。

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