偽書・偽作文書の問題について


                                     
樹堂

  このところ、系図も含めて偽書・偽作文書の問題を考える機会があり、そのため、自分なりの整理を考えてみることとしたい。
 
 「偽書」にも定義の仕方により広狭の範囲があって、例えば、記されている内容に問題がなくても、文書成立の来歴(成立時期の遡及、編著者の偽り、文書の権威づけ関係等々)や序文に重要な虚偽があれば、広く偽書とされるが、逆に、内容のほうに虚偽ないし作為(造作)が若干あったとしても、成立・伝来等に問題がなければ、偽書とされることは少ない。
 実際、「作為(造作)」かどうかの認定が難しい場合も、当然ある。『日本書紀』や『古事記』等について、戦後の津田史学関係者からは、自分たちの理解の及ばない部分について、簡単に「造作」という決めつけが頻発されたが、これらの殆どが誤解にすぎないものだとみられる。津田史学では、編纂当時の「天皇・朝廷などによる支配の正当化(正統化)」という目的意図が大きいとして、「造作」がよく言われるが、そうした判断が必ずしも妥当とは言えない事情もある。史実の原型が長い間の伝承のうちに転訛したこともあったろうし、記紀の編纂者たちによる誤解もあったかもしれないが、この辺は解釈の問題である。
 また、著者などを含め来歴に問題がなくても、全編が特定の虚偽事実を作り上げるを主目的とするためのものであれば、それは「偽書」とされよう。近江の佐々木一族に関する『江源武鑑』などが、その例であろう。

 注意すべきは、各「偽書」の位置付け・評価であって、「偽書」の疑いのあるもの全てを価値のない物と簡単に規定して切り捨ててはならず、掲載の記事もその個別具体的な内容に応じて、適宜取り扱わねばならないことである。偽文書や偽書の作成がなされた事情は、その当時の歴史的背景や社会情勢、個別の家・個々人の様々な事情・理由などに由来することが多いという事情もある。
 とはいえ、総論として大きな形で偽書全般を取り上げても、あまり意味がなさそうなので、ここでは系図・系譜の分野に限って考えてみることにしたい。というのは、もともと「系図・系譜」という資料を、歴史を構成する史実(ないし史実の原型)を探究・探索するための材料にしたいという見地から、私は日頃、厳密な検討を試みてきており、その検討の結果をそのまま報じたところ、偽作とか偽作個所とか判断した系図・系譜について、これらを信頼したり信じ込んでいた人々から反感をかった点もあったようであり、評判が悪いHPとの評も目にしたことがある。
 このため、偽作と言わないで、もっと穏やかな言い方もできるのではないか(そうしたほうがよいのではないか)という意向も、具体的に示されたことがあるからである。もちろん、資料の些細な誤記や多少の誇張・転訛を取り上げて、その書の全体を偽作呼ばわりをしたことはないと思っており、そこには編著者による意図的な変更がどの程度大きいのかという判断もある。

 
 これに対する私の考え方を、いまとりあえず順不同で列挙してみると、次のようなものである。
                            (以下、読み手のことを考えて、「ですます体」で表現
○「系図・家伝」については、@伝えられる家においては、その内容がどのようなものであれ、先祖伝来の貴重な文書だと思われ、その所持者にあって様々な思入れや信じ込みがあるのは、ある意味、当然だと思われます。
 それと同時に、A日本列島の古代からの歴史を構成する資料の一つとして、「系図・家伝」は国民的な公共的な資料になるかもしれません。そうした価値のないものなら別ですが、多少とも歴史的に価値がある場合には、他の家の人々から見て言えば、偽りの資料で日本各地や関係地域の歴史が構成されてはならないというのも、また当然のことではないかと思われます。
 もう一つ考えられるのは、B系図等に偽造があれば、殆どの場合に先祖(始源的な先祖にせよ、中間的な先祖にせよ)がいわば高貴なほう有名なほうに原型が変更されていると思われますが、そうすると、変更されて先祖となった彼らは虚飾の先祖たちとなり、こうした実際には血のつながりのない人々を後代の子孫たちが先祖祭祀の対象とすることになります。これは、実際の先祖たちに対して、大きな失礼だとは考えないのでしょうか。子孫の虚栄心や立身・栄達の都合で、先祖を勝手に変更するというのは、問題が大きいことだと私には思われます。だから、所持者などが先祖伝来の資料を基に、その先祖とされる者を信じ込むのは自由ですが、そこに問題がないかどうかを冷静に検討したほうがよいと思われるのです。
 
○これらA及びBの視点から考えるとき、様々な視点から伝来する系譜の偽書性の有無を、厳格に合理的に十分、検討・吟味する必要があるのではないかと思われます。科学的学問的検討にあたっては、冷静に客観的になされるべきであり、所持者一族に対して、おもねり・へつらいの気持ちが検討者にあってはならないことだと思われます。
 ただ、仮に偽作資料であっても、先に述べたように、時代と記事によっては史料価値があるものもありますので、全面的な切捨ては避けねばならず、個別の非難の対象にしてはならないものです。むしろ、長く当該資料を伝えてきたという意味を重視したいと考えます。
 
○現代に伝わる系図史料は、一般論として言えば、概ねその殆ど(数字的になかなかいえませんが、例えば九割超)が偽書ではないか、あるいは偽造の部分があるのではないかと考えられます。この場合、偽造個所はその氏・家の始源的な段階に多く現れる傾向にあります。出自を高貴に見せるという意味があるからですし、この古い時期の史料が総じて乏しいという事情もありますが、偽造個所が戦国後期から江戸初期にかけて出てくる『江源武鑑』は、ある意味、貴重なものでもあります。これは、関係者の仕官や個人の箔付けなどの立身のための事情もあったのかもしれません。これら作為上の意図も踏まえ、厳密に資料を検証する必要があるということです。
 国宝の「海部系図」も、系図をよく知らない研究者が国宝指定に向けての原動力になったもので、これは内容が古代の平安前期にとどまりますから、ほぼ全編が偽書性の濃いものを国宝指定したもので、たいへん遺憾に思われます。また、国宝「円珍系図」は真書でその歴史的価値はありますが、内容的に見ると、初期段階の系図部分には大きな疑問があります。
 総じていうと、歴史学究の方々は、端から系図資料を二次史料として取り扱い、簡単に切り捨てるか、まともに正面から十分な検討をしたことが少ないため、立派な肩書きにかかわらず、系図資料に無知な方々がかなり多くおられます。その結果、資料の良し悪しの判断ができないか、判断を誤る可能性があることにつながります。学究で系図研究の専門家というと、古代史分野に限っていえば故佐伯有清博士くらいですし、中世以降は皆無といって良いくらいです。そのくらい系図専門の学究がいない状態なのです。
 
○系譜資料の真偽を判断する要素はたくさんありますが、要は、他の信頼できる資料の裏付けがあるか、歴史の流れから見て整合性があるか、ということではないかと思われます。偽系図にあっては、大半が信頼できない人・実在性が認められない人を系図のなかに挿入することが多く、史料に裏付けがあるかどうかのチェックでかなり多数の系図の真偽が分かります。上記の国宝「海部系図」も、これに記載される人名で、史料に裏付けのある人は皆無だという事情にあります。ありえないような官位や肩書きが附記されるものもありますが、全体が偽造なのか、その問題部分だけが高貴に変更されたのかという見極めも必要です。
 もちろん、当該系図のなか全体にあっても、信頼性の高そうな内容であることも前提にあります。これら裏付け資料は、歴史そのものの資料の他に、地理資料や神祇・祭祀関係、民族・民俗関係、言語資料等々、多くありますし、それが、ときに国内資料だけに限られるものでもありません。最近、発掘が進むなかで出てくる考古資料も、検討の材料になりうるが、銘文などの記事をもつものが少ないので、どこまで利用できるかわからない面があります。
 
○系譜資料が、何時、誰によって作成され、その作成目的がどのようなものであったのかの検討も欠かせません。この辺は、よく分からないことも多いのですが、所領争いとか相続などの事情は関係資料により分かることもあります。
 
  (2011.11.10掲上)


<本HPで偽書について触れている個所> 作家有島武郎の家系

<参考:Wikipediaの「偽書」の記事

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