匈奴の出自と龍トーテム     

      

           匈奴の出自と龍トーテム  


                            「大阪在住の者」様

匈奴の出自と龍トーテム

 「大阪在住の者」と名乗られる方から、「塩の神様とその源流」に関連して、標題の文が送られてきたので、関心はもっていながらも、私自身の読んだ範囲は限定されていますが、皆様への何らかのご参考にもなるものと考え、ここに掲上した次第です。



 匈奴の出自と龍トーテムの関係について、「塩の神様」論議に関連して記してみたいと思います。

 匈奴の出自について中国最古の王朝である夏の末裔であるという記述は古くから議論を呼んできました。匈奴が夏の後裔という記述に関しては、テュルク(=トルコ)・モンゴル系(いわゆる北狄)の匈奴と漢民族は民族が全くの別系統であり、同一である筈がなく、戦国時代以降の漢人の北方逃避を反映したに過ぎないとされています(林俊雄『興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明』講談社、沢田勲『匈奴』東方書店等)。
 しかし、この考え方には問題があります。それは漢民族なる種族が最初から存在していたかのように捉えています。世の民族なるものは様々な種族が混成されて形成されたものであり、漢民族もその例外ではなく、少なくとも秦の始皇帝による統一以前には漢民族なるものは存在していなかったのです。
 
 夏の出自については北方系だとされており、白川静氏も『中国の神話』で夏の出自は北狄としています。夏が匈奴と同じく北狄とすれば、後者が前者の末裔であるとする記述は全然矛盾しません。しかし、夏が北狄とする説には重要な盲点があります。それがトーテムを巡る問題です。北狄はその名が示す通りに狼や犬といった獣をトーテムとしています。他方、夏は水生生物たる龍をトーテムとしており、その系統を引く我が国の海神族も水生生物をトーテムとしています。地上の獣と水中の龍は果たして結びつくのかというのが私の長年の疑問でした。
 
 ところが、私の疑問を一気に氷解させる本が出てきました。それが2年前にご紹介した安田喜憲編『龍の文明史』八坂書房、2006/2刊)です。同書の記述は私の対龍感を一気にガラガラと崩すものでした。安田氏によりますと、龍は、その原型とされる蛇とは全くの別の生き物であり、後者は実在する生物であるのに対して、前者は人間が考え出した抽象的な生物とされています。しかも龍は水神ではなく、畑作地帯の旧満州の森の中で誕生されたとされています。太古の時代の旧満州から内モンゴルにかけては豊かな森林地帯が広がっており、そこには猪や鹿や鳥類、そして魚類といった様々な生物が生息していました。安田氏は同地に住むモンゴロイドはこれ等の生物を食料とし、これ等を組み合わせて超越的秩序としての龍の原形を約八千年前の内モンゴルで誕生させたと見做しています。この龍のプロトタイプが六千年前の遼寧省で現在に近いものとなり、さらに同地から内モンゴルにかけての六千円前の紅山文化時代に玉及び女神信仰と合体して一つの宗教体系を形成したとしています。龍が誕生した旧満州・内モンゴルは正に北狄の勢力範囲であり、狄を意味する様々な獣が合体して作られたのです。
 
 龍信仰を体系付けた紅山文化は五千七百年年前の寒冷化で崩壊して新たに小河文化が誕生します。この小河文化それを担っていた人々は西方の要素が濃いとされおり、実際に発掘調査の結果、旧満州や黄河流域にはコーカソイドが住んでいたことが確認されています。安田氏によりますと龍信仰を決定付けたのが、これらコーカソイド、即ち、西方の牧畜民との接触だとされています。安田氏は奇しくも同時期のメソポタミアでも龍が誕生したことに注目し、コーカソイドによってメソポタミアの龍が影響を与えたのではないかと指摘していますが、鳥越憲三郎氏も『古代中国と倭族』(中公新書)でコーカソイドとモンゴロイドが誕生して龍が誕生したとしています。
 
 その小河文化も四千二百年前の気候悪化で崩壊して長江流域の稲作地帯に南下して龍も南下することになります。安田氏によれば、長江には龍とは別に既に蛇・雄鶏・太陽信仰が確立されたとされ、龍は長い時間をかけてこれらの信仰と戦い、駆逐・吸収していきます。この内、蛇信仰と合体したことで龍と蛇は同一のものとされ、且つ龍は水神に進化を遂げて中国文明に発展していったとされます。他方、龍に駆逐された蛇・雄鶏・太陽は他方は雲南へ、もう他方は日本に落ちのびていったとされています。
 安田氏は夏のことについては言及していませんが、夏を建国したのが北狄から来た龍信仰を担っていた人達であることは明白です。さらに、安田氏は龍の性格について興味深い指摘をしています。先に私は龍信仰を体系付けたのは「西方の牧畜民=コーカソイド」であると書きましたが、安田氏は龍信仰を担った人々はコーカソイドとの接触で牧畜を取り入れただけではなく、その特徴である父権制度も導入され、龍は父系的文明の象徴だと見做しています。
 
 以上のことから考えれば、匈奴が夏の末裔であるという記述は別に矛盾するものではなく、むしろ当然であるとさえ思えてきます。夏を建国した人々は北狄の地から来た牧畜民であり、龍はまさにそれを体現化させた象徴に他ならなかったからです。夏が牧畜民であったことは一つの都市に定住せず、各地に移動していたことからも伺えます。
 
 夏が滅亡した後に、その末裔は故地である北狄の地、即ちモンゴル高原に帰還して牧畜を行うことになます。彼等はやがてテュルク系の種族(狄の発音はテュルクに通ずるされています)を形成しますが、それと共に龍も「退化」して犬・狼となり、この犬・狼が「北狄=テュルク系」の新たなる信仰・トーテムとされています。北狄テュルクはモンゴル高原で牧畜こそ行ったものの馬に乗ることは当初はしませんでした。乗馬の技術を最初に身に付けたのはインド=ヨーロッパ語族だとされていますが、その一派である中央アジアのサカ人によって紀元前4世紀のモンゴル高原に乗馬の技術が伝えられてとされています。
 このサカ族のサカは鹿を意味し、鹿をトーテムとしたことに由来するようです。後のモンゴル帝国の建国神話で蒼き狼と白き牝鹿が結婚してモンゴル人の祖先が誕生したとされていますが、これは鹿をトーテムとするサカ族が狼をトーテムとする北狄テュルクに乗馬技術を伝えたことで、モンゴル高原に遊牧騎馬民族が誕生したことの比喩なのかもしれません。紀元前221年に東夷の秦によって中国が統一されて、漢民族が事実上誕生しますが、ほぼ同時期に匈奴もモンゴル高原の北狄テュルクを統一します。ここに華と夷の明確な境界線が引かれ、本来は同じだった龍と狼が区分される形となったのです。

  (2010.4.23受け)


 
 <樹童の感触>
 
 これまであまり十分に竜・蛇について検討したことはありませんが、日本列島との絡みや各種族のトーテムなどでの感触をアトランダムで書いてみます。
 
@日本列島に水稲農業・青銅器文化などの弥生文明をもたらしたのが、「海神族」と呼んでもよいタイ・越民族系の種族であり、長江流域から山東半島、韓半島南部を経由して紀元前四,五世紀頃に日本列島に到来したが、竜蛇信仰をもっていた。
Aインドの蛇神・水神の「ナーガ」の類も、「竜」「竜王」などとみられ、日本列島の海神族も蛇を「長もの」として、「長」のつく地名を各地に遺した。
B海神族の先祖は、長江流域では越王勾践など越王家のもとにあったが、山東半島にあった越が滅びた頃に東に渡海して韓地に渡った一派の流れとみられる。
C『史記』の「越王勾践世家」では、その先祖が古代の帝禹の苗裔で、夏后帝少康の庶子が会稽に封じられたものと記される。越では断髪、入れ墨の風習があったと同書に見えるが、倭でも古代の水人にその傾向が見える。
D夏王朝の創始者とされる帝禹やその父の鯀は、洪水神で漁体あるいは竜形の神とされる(白川静著『中国の神話』)。夏王朝は竜を帝王の象徴として竜蛇信仰があり、帝王にまつわるものには「竜」がつくことが多かった。禹は、父の腹から生まれた竜であったとも伝える(袁珂著『中国の神話伝説』)。
Eタイ・越民族は、後にはタイ・ベトナムなど東南アジア方面に移動したものが多かったが、中国にも最大の少数民族であるチワン族など、タイ族系の少数民族が現在でもまだかなり残っており、その上古の故地は中国からはるか北方の地域だったとされる。
F『史記』の「匈奴列伝」には、その先祖は夏后氏の子孫であって、名を淳維といったと見える。春秋時代の中国の西方あるいは北方には白狼・白鹿などをトーテムとする犬戎もいたことが同書に見えるが、これが匈奴の先祖であったかどうかは不明である(トーテムなどからいったら、異なるか。北狄のトーテムが竜で、西戎のそれが狼か)。
Gツングース系の鮮卑は、秦や鳥俗氏と同祖という系譜伝承をもっていた(貊貉がツングース系で羌族や日本列島の「天孫族」、鳥トーテムにつながるか)。
H日本列島原住の「山祇族」は犬狼のトーテムをもっていた。モンゴルの先祖の犬狼伝説もこれに通じるが、犬狼トーテムは後世になって生じたものとは思われない。
 
 以上の諸事情から考えると、中国の漢民族が独自にあったわけではなく、南蛮・北狄・東夷・西戎の種族が黄河流域の中原で混淆融合して長い期間のうちに成立したという見解におおいに賛しますが、「龍が退化して犬・狼となる」という見方にはなかなか与しえないところです。この問題意識は、研究課題といたします。
  (10.5.2 掲上)



 
  <2010.5.3付けの返信>
 
 『匈奴の出自と龍トーテム』の件について誠に有難うございます。犬・狼と龍の両トーテムの関係については、前者が後者の前身の一つであり、その後、様々な獣が融合して誕生したのが龍だと個人的には考えています。
 併せて、本来のモンゴル人、即ち、モンゴル帝国を築いたチンギス・カンの一族(=ボルジギン氏族)について述懐したいと思います。
 
 よく、チンギス・カンは蒼き狼の末裔≠ニ言われていますが、系図を見ればお分かりの通りhttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/World/sub2-3.htm、蒼き狼≠フ血筋はドブン・メルゲンの代で絶えており、その妻であるアラン・ゴアが光を口から呑み込んで産まれたのがボルジギン氏の祖・ボドンチャルであり、彼こそがチンギス・カンの直接の祖先となっています。
 
 アラン・ゴアの感精神話が示しているように、モンゴル人は元来、我が国の天孫族と同じく東夷(=ツングース)に属していました。モンゴル人が東夷系であったことは記録からも伺えます。モンゴル人の原点は室韋・蒙兀部ですが、その室韋について『隋書』や『旧唐書』では大興安嶺山脈を居住としていたとしていますが、この大興安嶺山脈は感精神話を持つ東夷系の鮮卑の根拠地であった場所です。しかも、上記の記録等では、室韋は同じく東夷系の靺鞨(9世紀に渤海を建国し、その滅亡後に女直・満洲に発展して金・清を建国した)の言語を使っていたとしています。
 
 室韋の南方に遼を建国することになる契丹が割拠していましたが、両者の関係について『旧唐書』では室韋と契丹は同じ種族で、北にいたものが室韋を南にいたものが契丹を称したとされています。後のモンゴル帝国の時代に契丹人はモンゴル人の通訳として活躍しますが、これは両者が本来は同じ種族だったからこそ可能だったのです。その契丹の建国神話では、白馬に跨った青年(神人)と牛車に乗った女性(天女)が結婚して契丹人の祖先が誕生したとされており、天の神人についての記述こそあれ、犬・狼の記述はありません。
 今でこそ遊牧生活のイメージが濃いモンゴル人ですが、その本来の姿は我が国の天孫族の祖先と同じく狩猟生活を送っていたのです(東夷の生活として狩猟生活が挙げられる。狩猟は単に食べるためではなく、交易品を確保する目的があった。韋はなめす≠ニも読めるが、実際に室韋は黒貂や栗鼠の毛皮を朝貢品や交易品として用いていた。若きチンギス・カンは黒貂の毛皮をケレイトのトオリル・ハーンに献じたことで知られ、清の太祖ヌルハチも黒貂の毛皮貿易で財をなした)。
 そして建国神話も天の神人の思想と言う点で我が国の天孫族と非常に近かったのです。いわゆる日本・モンゴル同祖説≠煖ュち的外れとは言えません。少なくとも、天孫族とは同じ東夷に属しているという点で同祖でした。
 もともと、太古からモンゴル高原の遊牧民を担っていたのが本来の意味での北狄たるテュルク系の種族であり(その意味でモンゴル高原こそトルキスタン≠ニ呼ぶのが相応しい)、犬・狼トーテムも元はと言えば彼等の文化でした。ところが840年のウイグル帝国の崩壊でテュルク系種族はモンゴル高原から西方へ移動します。その後を埋め合わせる形でモンゴル人が同高原に進出し、彼等は狩猟生活から遊牧生活へと変化を遂げていきます。そして遊牧化、即ち北狄化と共に、モンゴル人にも犬・狼トーテムがもたらされるようになったのです。
 
 モンゴル高原を統一したチンギス・カンは、やがて中央アジアの地で本来の北狄で犬・狼トーテムの持ち主であったテュルクが建てたホラムズ帝国とシルクロードの覇権を巡って死闘を繰り広げることとなるのです。

 

 <樹童の感触>

 「犬・狼」と「蛇・龍」の両トーテムの関係については、私は、ともに古くから並存してあったと感じておりますが、いま、この関係の議論に資するような材料をとくに持ち合わせておりません。
 
 蒙古と匈奴について、白鳥庫吉氏の「東胡民族考」という論考がありますので、ご存知とは思いますが、関係ありそうな個所を引用してあげておきます。この見解が妥当かどうかの判断がよくできないことなのですが。
「匈奴を以てトルコ種となす従来の謬見を排斥し、この民族を形成する骨子の蒙古種たるべきを痛論せりき」
「東胡及其苗裔と称せる烏丸、鮮卑、慕容、吐谷渾、禿髪、宇文、羯、拓跋、蠕蠕、奚、契丹等の種類について、聊か確信する所あるを覚えぬ」
「其苗裔と称せし鮮卑、慕容、拓跋等の言語が匈奴と同じく多量の蒙古語を含有する事実とに依りて、之をも亦蒙古種の一民族と推察して不可なかるべし」 
 
  (10.5.9 掲上)

 その後、中国上古の徐偃王
在位は前1001〜前946という)について、興味深い話が伝えられることに気づいたので、記しておきます。
 この王には卵生神話(
高句麗の朱蒙の話しに似て、先立つ)があり、いったんは不祥として捨てられたが、鵠蒼(こくそう)という名の犬が、棄てられた卵を銜えて独孤の母に帰すので、不思議だと思いながらも之を暖めると、遂に小児となる(生まれた子は体が小さいので、その意味合いから偃と名前が付けられた)。偃は成長すると人智があって偃君に迎えられて王になった。後に犬の鵠蒼が死ぬと、角が生えて尾が九本に分かれた。実は、鵠蒼は黄龍であった、という。
 これは、犬が龍に通じるということにもつながりそうであるが、とりあえずの知見を掲載する次第です。

 (17.12.17 掲上)


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