塩の神様とその源流

                             宝賀 寿男


  本稿は、当初、1996年に書かれて、日本塩業研究会編『日本塩業の研究』第25集(平成9年〔1997〕3月発行)に掲載されたものであるが、それを現時点(2008年6月上旬)で見直したものであり、その間に、古代日本の種族やその祖神の系統、中国の夏王朝などについて、調査進展に応じて若干の考え方の変更もあることに注意されたい。塩・鉄などの生産技術などを通じて、日本列島が大陸・朝鮮半島から孤立した存在ではあり得ないことが分かると思われる。
 目次 としては、「はじめに、T わが国の塩神U 源流を中国に探る」と分かれる。


  はじめに
 
 富山県の勤務から帰って、わが国の塩事業全般を所管する「たばこ塩事業審議官」(当時の職名。現在は職名変更)に平成7年(1995)7月就いて以来、近代製塩と塩専売制度について種々勉強をさせていただき、それが塩専売の廃止など現行制度につながった。そのなかで、当時(当初稿執筆の平成8年春頃、そしておそらく今でも)の日本の多くの人々がもっている誤解、@現在ではわが国の製塩は化学合成でなされているとか、Aわが国に輸入される塩は殆どが岩塩ではないか、といった誤解に、私自身が陥っていたことに気づき、愕然となったものである。
 これまで様々な角度から日本古代史を研究してきた私としては、生活必需物資たる塩については、現代に限らず古代についても当然関心の対象であった。しかし、これがなかなかに難しく、塩神やその奉斎氏族について具体的な認識を得るに至らず、また、この問題について端的に解明する学説も管見に入っていなかった。従って、古代の塩については、もやもやした状況のまま最近当初稿執筆当時頃)まできていた。
 かつて富山県に在任中、親しく交際させていただいた人々のなかに、教育委員会文化課勤務の岸本雅敏氏当初稿当時は富山県埋蔵文化財センター所長)がおられた。岸本氏は専門の考古学者として古代の製塩について深い関心をもち、これまでに考古遺物などから数編の論考を発表されてきた。私もその著述物を恵贈され、これらから様々な示唆や刺激を受けてきたが、残念ながら問題の解明には至らなかった。また、平成7年秋の“御塩殿祭”にも案内をうけて(のときは急用のため参加することができず、後日参拝した)、関係資料を見るにつけ、塩の神事に興味をかきたてられつつも、やはり一種の閉塞状態にあった。
 こうした状況を打破してくれたのが、富山在住以来の研究であった。私が2年間居住した富山県は、古代越中以来、時おり歴史の脚光をあびてきたが、社寺等に古史料の保存・伝来が殆どみられず、遺憾に思っていた。それでも腰を落ちつけて、地域の地名や古伝承等に親しんでいったところ、思いがけない古代史の手がかりも見えてきた。富山県の中央部には婦負(ねい)郡という難しい訓みの地域(2005年4月までに郡内の全町村が併合されて富山市となったため消滅)があったが、この地を中心とする地域が、白鳥を追いかけて大和からやって来た鳥取部関係者により開拓されたことは、これまでの検討を通じてわかっていた。そのなかで、烏取部の祖神・少彦名神(すくなびこなのかみ)を追究していくうち、長年抱いていた疑問に答えられそうにもなってきたので、その検討結果をここに提示し、大方の批判を仰ぎたいと考える次第である。

(なお、論旨の展開上、結論のみを記し、論証過程を省略したものもかなり多いが、それは大部にすぎる記述のために因ることを付記しておきたい。本HP内の他の記事に関連するものも多く、越中の白鳥伝承については、拙稿「越の白鳥伝承と鳥追う人々」、『おおしま絵本文化』第一号(1995年8月)を参照されたい)

 
 
    T わが国の塩神
 
 代表的な塩関係神社
 わが国の塩関係の神社で代表的なものが塩竈神社であることはいうまでもない。全国に多くある塩竈神社のなかで最も尊崇を集めてきたのが、宮城県塩竈市に鎮座の塩竈神社であって、同社は国幣中社で、東北地方随一の大杜であり、鎌倉時代以降は陸奥の一ノ宮として扱われてきた。ところが、塩竈神社という名の神社で十世紀当時の式内社(律令時代の法典たる『延喜式』神名帳に記載のある官幣・国幣の神社のことで、全国に3132座あった)となっていたものは、全国で一座もなかった。とはいえ、弘仁11年(820)の『弘仁式』の主税式には、陸奥の塩竈神社の祭祀料が一万束であって全国最大級であり、平安中期、後一条天皇の寛仁元年(1017)当時には、天下の諸々の名社と並んで一代一度の奉幣の大典に預っていた。奥州全域の神社のなかでこうした取扱いをうけたのは、塩竈市の同社だけであるので、既に平安前期の時点には卓越した神格を誇っていたことがわかる。
 塩竈神社という名の神社は、昭和初期に百十数社を算えるといい(現在でも百十社超ともいう)、ほぼ全国的に分布するが、いずれも規模の小さな神社が多く、その由緒もあまり古くないか不明である。しかも神威が最も高い塩竈市の塩竈神社ですから、その近隣には、同社を奉斎する古代の有力氏族が見当たらない模様である。こうした事情が塩神問題の解明を極めて難しくしている。塩竈神社の全国分布をみると、大雑把にいえば東北地方と瀬戸内海地方に主として分布し、前者では開拓守護神としての色彩、後者では製塩神としての色彩が強いともいわれる。昭和初期の同名社の分布では、福島・香川県が最も多く17社を数え、以下では岡山(9社)、新潟・徳島(各7社)、愛知(5社)、宮城・山口(各4社)など27県にわたっていた(*1)。  
 これら塩竈神社の祭神については、現在必ずしも一定ではないが、本来、塩神たる塩(しお)土老翁(つちのおぢ)であり、同神を祭神とする塩竈神社の数も最も多い。ところが、この塩土老翁の実体が不明で諸説あり、この神の子孫と伝える古代氏族も見当たらない。そもそも平安前期の弘仁6年(815)に国家事業として編纂された『新撰姓氏録』には、掲載氏族の祖先として塩土老翁が全く掲げられていない。同書には当時の畿内(左右京・大和・摂津・河内・和泉)の有力氏族を網羅して約1180氏の系譜が記載されているにもかかわらずである。製塩技術が広く普及して製塩という職掌を預る氏族も、塩土老翁の子孫も、当時実際にいなかったのだろうか。あるいは、塩土老翁は単なる抽象神か一般神だったのだろうか。
 古代の神社については、現在いろいろな学説があるものの、本来、ある氏族がその実際の祖神を奉斎したものであり、一社ごとに具体的な奉斎氏族がいたものと考えられる。その意味で、集落や地域の産土(うぶすな)神であった中世の神社祭祀とは大きな差異があった。たとえ、祭祀対象の神が一見、自然神とか抽象神のようにみえても、本来的には具体的な祭神(その場合、殆どが祖神)とこれを祀る古代氏族がいたということである。その意味で、『延喜式』の式内社が古代の神社の代表的なものであり、こうした古社と奉斎者(氏族)の研究を通じて、わが国の古代祭祀の展開や、わが国の民族形成・古代国家形成を考えていくことができるものと思われる。
 式内社には、「塩」を冠する神社がいくつかある。まず、こうした神社をあげてみると次のものがある(その記述は主に宮地直一・佐伯有義監修『神道大辞典』による)。
@塩江神社(尾張国中島郡)−祭神は塩土大神(もと白鬚明神という)。
A塩津神社(近江国浅井郡)−塩土老翁神を主神とし、彦火火出見神・豊玉日売神を配祀する。(なお、同郡内に式内の下塩津神社もある)
B塩野神社(信濃国小県郡)−素盞嗚尊・大己貴命・少彦名命を祀り、白鳳年間に出雲の杵築大社から勧請したものと伝える。
C塩湯彦神社(出羽国平鹿郡)−祭神は明記されず、中世以降は熊野堂、近世は御嶽権現と唱えられた。各地の例から考えると、祭神は少彦名神関係か。
(なお、これらのほかに『神道大辞典』があげない式内社もあり、後述する)
 神社の祭神は時代の風潮やその変遷等により変更されることも往々見られるが、塩土老翁が古代から塩関係祭祀の対象となっていたことは、確かに認められよう。塩江神社のほか、式内社の塩道神社(丹羽郡)も鎮座する尾張国、いまの愛知県には塩竈神社が5社あって、その集中地の一つであったことも思い出される。近江・信濃・出羽の塩関係社については、これだけでは、直接の手がかりとしにくいが、塩湯彦神からは温泉神たる少彦名神も想起され、信濃の塩野神社の祭神・所伝からは、塩神とはいわゆる出雲系統の神ではなかったかとも推せられる。
 
 わが国でも僅かではあるが鹹泉・塩井があり、その地には、例えば塩沢とか塩谷という形で塩のつく地名がつけられ、塩の神様が祀られている傾向がある。
 福島県の最奥地、南会津郡只見町に塩沢(*2)という地がある。この地には塩井があって、かつては六軒の塩焼き小屋で製塩していたといわれ、同地に塩釜神社が鎮座する。同県の中通り地方にも塩沢という地があり(二本松市東北部)、昔塩池があったことに因む地名という。この地の塩沢神社(旧郷社)は機織姫命を祀っている。鈴木真年翁の『日本事物原始』には、「奥州会津米沢ノ交(アハイ)山岨ニ六十里越ト名クル処ニ井塩ヲ出スモノ大小二処アリ相去ルコト三四尺ハカリナリ」という記事もある。
 長野県の下伊那郡大鹿村の鹿塩(かしお)には、「塩つぼ」として古くから知られた塩泉が二個所あり、鹿塩の湯とともに諏訪神建御名方命が発見したという伝承がある。旧鹿塩村には諏訪明神(祭神は建御名方命)や金毘羅神社(祭神は天目一箇命)等があって、塩のつく地名も多く、鹿塩七塩といわれる。富山県でも上新川郡大沢野町(現富山市東南部)の塩の地には鹹泉の伝承があり、式内社多久比礼志(タクヒレシ)神社が鎮座し、彦火火出見命(おそらく本来の祭神は天若日子で、その訛伝とみられる)・豊玉姫命・塩土老翁が祭神として祀られている。鹿塩に関する式内社としては、近江国甲賀郡に石部鹿塩上神社(論社が湖南市石部町にある)があり、同社が石神信仰とつながっていることに留意しておきたい。大和の吉野郡にも川上鹿塩神社がある。
 
 塩土老翁という神
 塩土老翁については、塩椎神・塩筒老翁など多くの表記方法があり、記紀の神話伝承に世代(年代)を超えて登場する。具体的には、
(1) 山幸彦と海幸彦の日向三代伝承のなかにあらわれ、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣針を失って困っているとき、小船を作り海宮への行き方を教示した(記紀)、
(2) 神武天皇の東征にあたり、九州の日向で、東方に美き地があり大業をはじめるにふさわしいことを教示した(神武即位前記)、
(3) 天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降臨したとき、吾田の長屋笠狭之御碕にあって国土を奉献した事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)という神も、またの名を塩土老翁という(書紀の一書)、
と記述される。
 こうした伝承から、航海・海路に関係深い神とか潮(シホ)ツ霊(チ)(潮路を掌る神)として豊富な経験と知識をもつ老翁という性格の神としての役割を果していたことがわかる。これをふまえて、潮土老翁の本性については、(イ)「シホツチ」は「知識大都知(シリオホツチ)」の約で、「凡て物をよく知れる人」をいうとの説(本居宣長)、(ロ)底筒男・中筒男・表筒男の住吉三海神を一神とした名とか、その現人神とする説(鈴木重胤、飯田武郷)、などが唱えられている。
 しかし、こうした説でも塩土老翁の実体はあいかわらず不明のままであり、海や潮の神であるなら、海宮の王たる住吉三神(阿曇連の祖神)との関係はどうだったのかという問題もでてくる。漁業や製塩法を教えたという伝えからは、海神族系統の神とみられる。このため、別途他の観点から検討を加える必要がある。
 なお、塩土老翁が塩筒老翁とも書かれることについて、液状塩(すなわち鹹水)が筒(竹筒か)に容れられて運搬・消費されていた時代を反映して、塩に関係ある技法をもつ人物ではないかと考える広山堯道氏(*3)の見解は示唆深い。ただ、古代のわが国では北陸と東北で、土器製塩に伴う円筒形土製支脚も使用されており、筒状の土器を利用して製塩を行ったことも関係があるのかもしれない。
 
 塩竈市の塩竈神社が面する松島湾は、古代に土器製塩が活発に行われた地域であり、松島湾の島や浜には慨そ六十個所の古代製塩遺跡が分布する。この背景には、近隣(東南2キロ余に位置)の多賀城をはじめとする蝦夷対策の城柵の一連の設置に伴い、塩の需要が急増したことが考えられている。塩竈神社の東南方の七ヶ浜も、松島湾の漁撈・製塩の一大中心地であり、この地の鼻節(はなふし)神社には「国府厨印(こくふくりやいん)」と刻まれた古銅印が伝わっていて、西方8キロの多賀城におかれた陸奥国府の直轄で塩供給事業も行われていた(岸本雅敏氏(*4))。
 鼻節神社(*5)は、湾入する松島湾の南部を扼するように突出した半島の吠崎に鎮座する。同社は、『延喜式』神名帳では陸奥国宮城郡の式内名神大社として登載され、その祭神は猿田彦神(あるいは境界神たる岐神〔くなどのかみ〕で、道祖神)とされる。いま同社は近隣の塩竈神社の支配下に末社として組み込まれ、その祭事にも関係する。塩竈神社の七月の大祭(竈祭〔かまどまつり〕という)には、その末社の御霊社(塩土老翁が祭神)で祭祀用の塩を製する藻塩焼神事が行われる。この神事に使用されるホンダワラは、鼻節神社の沖で刈り採る藻刈神事を経たものとなっている。
 全国の塩釜神社(113社)の祭神とされる神について、単一神ばかりでなく複数の祭神もあって、祭神として現われる頻出度数を整理したところ、次のようなものとされる(*6)。すなわち、塩土老翁の過半(約64)を最多に、猿田彦命がこれに次ぎ(約26)、さらに武甕槌命・経津主命・味高彦根命がほぼ同数(約13)、大海津見命(約7)ということである。このうち、武甕槌・経津主二神は陸奥平定(陸奥開拓)の神とされ、この二神を案内してきてこの地に留まったという塩土老翁が本来の祭神とみられる。塩竈市の塩竈神社は塩釜六所明神とも称し、猿田彦・事勝国勝・塩土老翁・岐神・興玉命・大田命の六座の神を祀るが、これらは同体異名の神であるといわれている。その場合には、「鼻節神=塩竈神」ということにもなる。
 猿田彦神(田彦神)とは、天孫降臨の際に天孫ニニギの命を出迎えて筑紫の日向の高千穂峰に道案内した神であり、後に伊勢の五十鈴川上に鎮座したといわれる。その後裔には、伊勢の宇治土公の祖の大田命があり、興玉命は猿田彦神とも、一説に大田命ともいわれる。しかし、これらの伝承では二柱の神が猿田彦神という名前に合体されているとみられる。すなわち、@天孫を出迎えたのは海神族阿曇氏の祖の穂高見命(別名は宇都志日金拆命)であり、白髪明神や出雲の佐田大神としてもあらわれており、A宇治土公の祖は三輪氏族の事代主命であって、大国主命との関係では近親の味高彦根命とも混同されている。古代の伝承や祭神としては、猿田彦神とは普通には@であるが、Aの事代主命と考えたほうがよい場合もかなりあるようで、同神の分布は極めて広範である。このことは、事代主命の後裔氏族が極めて多く、同神を奉斎して日本列島の各地で繁衍したことを意味する。
 塩土老翁について、ここまで概観してきたところでは、まず海神族系の猿田彦神・佐田大神ないし事代主命と考えるのが妥当のようである。ただ、わが国でも隣の中国・朝鮮半島でも、例えば「共工」という神にみられるように、祖先の呼称をその後裔も同様に名乗る傾向がしぱしば見られ、時を超える存在のようにうけとられがちである。とくに天日矛・素盞嗚命・大国主命(これらの神を名乗る者はみな、それぞれ同一系統に属する)といった神々がそうした例であるが、塩土老翁もその例にもれないであろうことに留意しておきたい。
 
 事代主命の実態
 「事代主命」という神は極めて不思議な神である。記紀では、出雲の大国主命の子とされ、国譲り神話に登場して父の大国主にこの国土を天孫に奉献するのが適切であると進言した、と記される。後には、その神霊が大和の宇奈提(うなて)に祀られて皇室の守護神とされ(「出雲国造神賀詞」)、また、神功皇后の征韓の際には神徳を顕して神戸市の長田神社に祀られ、壬申の乱にあっては、高市郡大領の高市県主許梅(こめ)に神がかりして託宣させたなどとされる(『書紀』)。
 ところが、この神の名は『出雲国風土記』には全く登場せず、事代主神の活動舞台について疑問が出されてきた。そのため、古社・地名や古代氏族系譜など様々な観点から、事代主神について検討したところ、結論的にいえば、物事の知識が大きいという語義から、登場場面によっては鳥取部の祖神の少彦名神と同一神として重複することがあり、その場合には、鍛冶製鉄の神の天目一箇命とも近親であるとわかってきた。問題の『出雲国風土記』には、少彦名神は青幡佐草日子命(あおはたさくさひこ)など別の名前でも登場している。その父神は天稚彦(天津彦根命)、母は海神豊玉彦命の妹の豊玉姫という系譜をもっていた。
 少彦名神は大国主神に協力して国土経営をした神として有名であるが、医薬の神、温泉神、酒造の神(松尾大神)、粟の神でもあり、先進的な知識技能をもつ神であった。すなわち、先に掲げた本居宣長のいう「凡て物をよく知れる人」であった。また、能登の式内社宿那彦神像石(すくなひこかみかたいし)神社にみられるように石神としても著名であり、その後裔氏族は巨石・石神信仰をもっていた。少彦名神は鵝の毛皮(鷦鷯〔さざき〕の羽ともいう)を服として登場し、鳥取部の祖とされるなど、鳥類についても関係が深かった。
 その祖先はわが国天孫族の祖・五十猛命であり、素盞嗚命・八幡大神と呼ばれる神とも同神であって(天日矛とも同族)、この神のときに韓地から初めて日本列島に渡来してきた。その渡来時期は弥生時代中期ないし後期、具体的には紀元一世紀の前半ころではないかと推定される(*7)。五十猛命は伊達神・射楯神・大屋毘古命という名前でもあらわれ、『書紀』には素盞嗚尊の子と記されるが、「素盞嗚」とはこの系統の者にみられる汎称(*8)であり、天日矛(天日槍(*9))などと同様の汎称であった。
 素盞嗚命は牛頭天王・三宝荒神(竈神)ともされる。少彦名命は金剛蔵王菩薩(蔵王権現ともいう。金属神的側面)・薬師菩薩(医薬神的側面)という呼称でもあらわれ、事代主命としては恵比須神にも通じる神である。
 
 少彦名神の後裔氏族
 韓地から日本列島に渡来してきたスサノヲ神とその後裔の足跡は、地名・神社や後裔氏族の分布等を通じて、かなり詳細に知ることができる。これも要点のみ記そう。
 五十猛命は、北九州に渡来して妻神(宗像女神、瀬織津姫神)を娶り定着して、そこに天稚彦らの子孫を残し、天稚彦の一族は筑後川中流域の筑前国の上座郡(三島郷)から夜須郡にかけての地に居住した。天稚彦は「高天原」(『魏志倭人伝』に見える邪馬台国で、筑後川中・下流域を主領域とした)の王家の一員として、博多平野の海神国(奴国)との軍事交渉に派遣され、そこで海神国王の妹・豊玉姫を妻として、その間に天目一箇命・少彦名神の兄弟を得るが、派遣元の高天原に敵方との内通を疑われ殺害されてしまう。
 高天原と海神国との勢力争いはかなり長く続いたものの、最終的には高天原側の勝利となり、二世紀前葉頃の天孫・瓊瓊杵命の降臨につながる。瓊瓊杵命は高天原王家の庶子であり(嫡子は残って本国を継いだ)、派遣されて筑前国怡土郡(福岡県前原市一帯)に遷住し、この地に伊都国を建てた。この地が記紀にいわゆる「日向」(*10)であり、ここで数代(二〜三代)を経た二世紀後葉に、伊都王家の庶子の彦五瀬命・神武天皇兄弟は新天地をもとめて、畿内大和に向け東遷することになる。
 少彦名神は、その兄弟近親とともに天孫降臨に随行して筑前の海岸部にまず遷住するが、この地には落ち着かず、遠賀川流域から長門国(豊浦郡)、そこから陸路ないし海路を山陰海岸沿いに東北方向に進み、石見国の海岸部を経て出雲国の東部、安来地方に遷住する。この安来地方(旧意宇郡の東部で、のち能義郡)が少彦名神一族の出雲における一大根拠地となった。『出雲国風土記』には、意宇郡の屋代郷(安来市東部から能義郡伯太町北部〔2004年合併して現安来市のうち〕にかけての地)について、天津子命(その実体は少名彦神兄弟とみられる)が自分の鎮座しようとする社(やしろ)であるといったという地名起源伝承が記される。
 少彦名神及びその近親は、出雲では先住であった大己貴命(大穴持命)に協力して国土経営にあたった。少彦名神とその兄弟の天目一箇命の男子は数人いたようで、その子の世代からいくつかの流れにわかれて全国各地への移動がなされ、各地で繁衍した。その一族を大別していえば、次のように考えられる(少彦名神と天目一箇命は、伝承が混淆することも往々にしてあるので、両者一体的にこの稿では記す)。
(イ)出雲に残って大己貴命の後裔一族を圧倒し、出雲国造を出した系統で出雲氏族……後に土師連・菅原朝臣・大江朝臣も分岐した。
(ロ)出雲から東へ進み、伯耆・播磨を経て大阪湾沿岸部に出た系統で、a淀川を溯り、凡河内国造・山背国造の祖を分岐しながら、近江国野洲郡の三上山麓に遷住した三上氏族、b和泉、紀伊から紀ノ川を溯って大和に入り葛城地方に遷住した鴨氏族(後に葛城国造を残して、一部は山城に移住)。これに加え、c河内に入り、山越えで大和に入った物部氏族もこの同族である。
(ハ)出雲の平野部から南方の山間部に分け入り、さらに西方へ移動して石見山間部を経て安芸国に遷った系統……この系統はさらに安芸で三派に分かれ、a安芸に留まった安芸国造族、b安芸から対岸の四国の伊予に渡り讃岐を経て阿波国に遷住した阿波忌部氏族、c安芸から周防国大島郡を経て西方の佐波郡に到り、そこから九州の豊前国宇佐郡に遷住したとみられる宇佐氏族、に分類される。
 これらの流れのなかでは、さらに大きく発展した次の三流がある。
(a)武蔵・伊豆国造族((ロ)cの族)……建御名方命の系統たる諏訪神族(海神族系三輪氏族の支流)とともに神武東遷に激しく抵抗したが遂には破れ、三河・遠江を経て遠く東国の伊豆にまず逃がれた。そこで、伊豆に留まった派と、伊豆からから武蔵へ移動して関東の多くの国造を出した武蔵国造族を出し、さらに分岐して陸奥の磐城地方へ移動した石城国造族を出した。関東から陸奥にかけて大きく繁衍した流れである。
(b)三上氏族((ロ)aの族)……近江や畿内のほか、四世紀前葉の崇神朝に、近江の野洲・坂田郡あたりから東国に派遣され、倭建命東征にも協力して茨城国造など東国の多くの国造を出した流れである。
(c)宇佐氏族((ハ)cの族)……崇神朝の建緒組命の子孫からは、火()国造・筑紫国造など九州各地の有力氏族を出し、その後商は伊予・讃岐さらに播磨の国造家となり、この流れの息長氏族から出た応神天皇のとき、前王統(神武天皇の流れ)の仲哀天皇の遺児から大王位を纂奪するに至った。応神天皇の流れは、六世紀前葉の武烈天皇で断絶するものの、応神の弟の稚淳毛二俣命の後裔の継体天皇が越前から大和に入って大王位を継ぎ(実際には皇位纂奪とみられる)、現代に至っている。
 こうしてみていくと、記紀や平安初期の『新撰姓氏録』においてすら、その実態を殆どあらわさないが、少彦名神一族の後裔は日本列島で最も繁栄し広汎に分布した血脈であったといえよう。
 
 陸奥の開拓者と塩竈神社奉斎
 陸奥・出羽という北方辺疆を開拓した部族の系統は、実のところ、あまり多くない。この地域の古代国造については、『旧事本紀』の「国造本紀」等からいって、石城・染羽・浮田・伊久・白河・石背・阿尺・信夫・志太であり、これに会津や菊多を加えるかどうかで差がでるが、九ないし十一の国造が設置されたとみられる。
 これら陸奥の諸国造の系譜について、「国造本紀」では、@三上氏族の建許呂(たけころ)命の系統、A阿岐(安芸)国造同祖という天湯津彦命の後裔、B毛野氏族の賀我別王の後裔、と三通りに記されるが、実際には、海神族系の毛野氏族の浮田国造を除く他の諸国造は、全て同族であったとみられる。すなわち、@とAとは分岐時期が異なるものの、天孫族の同族同一系統ということである。
 この同一系統の氏族とは、陸奥では福島県東南部の石城国造を宗族とする一族で、天湯津彦命すなわち天目一箇命(少彦名命の近親)の後裔であった。神武東遷を契機として、信濃の諏訪地方に遷住した諏訪神族(建御名方命の流れ)とともに東遷した武蔵国造族の支族は、崇神前代までに陸奥東南部の磐城地方に還り、四世紀中葉の日本武尊の東征に随伴したことで、陸奥全域に一族が分岐繁衍した。この系統は丈部(はせつかべ)あるいは玉作部を本姓としたが、その有力者は、会津地方まで到来したという大彦命・武渟川別命父子らの阿倍臣一族との所縁・属従から、阿倍磐城臣・阿倍陸奥臣・阿倍安積臣・阿倍会津臣など、「阿倍□□臣」という形の姓氏を賜わる例が多く見られる。
 一方、毛野氏族の浮田国造の一族は吉弥侯部(きみこべ)を姓氏とし、宇多郡(福島県相馬地方)から名取郡・新田郡など奥羽の各地に展開した。この同族には吉弥侯部と号する以前の物部という姓氏を名乗るものもある。この有力者は上毛野陸奥公・上毛野名取朝臣・上毛野中村公など、「上毛野××公」という形の姓氏を賜わる例が多く見られる。
 また、日本武尊に随行した大伴武日命ら大伴連氏一族の後裔は、丸子部・靱大伴部・大田部・五百木部・白髪部等の姓氏を名乗って陸奥に居住した。その最有力姓氏は、牡鹿郡人の丸子道足が奈良時代に陸奥大国造となって賜わった道嶋宿祢氏であるが、他は大伴行方連・大伴安積連・大伴亘理連など「大伴△△連」という形の姓氏を賜わる例が多い。
 これら三系統が陸奥の古代氏族の主要なものであり、このほか新羅系渡来氏族の金氏が若干見られるものの、総じていえば、陸奥では他の系統は殆ど見られないか、あまり有力なものではなかった。なかでも、大化前代にあって丈部の系統が陸奥で最も有力で広い分布を示していた。塩竈神社が陸奥一ノ宮となった以前では、石城国造一族が奉斎したとみられる白河郡鎮座の都都古別神社(東白河郡棚倉町の棚倉及び八槻に有力論社がある)が式内名神大社であり、陸奥一ノ宮とされていた。ツツコワケは筒子別で、塩筒老翁にも通じそうである。都都古和気神社の祭神はいま味高彦根命と伝えられるが、この神が塩竈神社の祭神としてもかなり有力に掲げられることに留意される。味高彦根命は記紀では大己貴神の子とされるが、少彦名神にも縁由の深い神で、北九州から出雲へ遷住した神と考えられる。そして、諏訪神たる建御名方命の先祖神ではないかとみられる神でもある。ただし、都都古和気神社の祭神としては疑問で、現在に伝える祭神は天彦根命(少彦名神兄弟の父で天若日子)の訛伝ではなかろうか。
 陸奥に繁桁した丈部後裔の阿部□□臣の一族は、後に下半分の「□□臣」を省略して単に阿倍氏・安倍氏(あるいは冒姓して阿倍朝臣氏)を名乗るようになる。こうした関係で、東北地方には安倍・安部・阿部という姓氏や苗字の分布が多い。十一世紀後半、前九年の役で源頼義により滅ぼされた奥六郡の主、安倍頼時・貞任の一族もこの出自であり、塩竈市の塩竈神社の祠官家も最有力者は阿部(安倍)氏であった。
 同社の社人筆頭たる左宮一祢宜の安部安大夫家は同社創建に関わった社人といわれ、この地の土豪で社人のなかでは最も古い家柄といわれる。現在に伝わる系図では、十六世紀中葉ころの安大夫時光を初代として、藤原姓を称するが、これは仮冒で古代安倍氏の後裔であると太田亮博士(*11)も指摘する。この阿部氏の古い時代のことは知られないが、十四世紀中葉の観応元年(1350)9月の塩竈神社文書に「左宮祢宜安大夫時常目安状案」がある。同社には一族で別宮御太刀仮役をつとめた阿部常陸家もあった。
 こうした事情を考えると、塩竈神社の創祀は石城国造一族に出自する阿部氏の祖先によりなされたものと考えられ、祭神塩土老翁も石城国造の祖神に位置づけられよう。同社の大祭は竈祭(かまどまつり)というが、わが国の竈神は奥津彦・奥津姫の二神、あるいは三宝荒神であり、前者は大年神の子とされ、後者はスサノヲ神・五十猛神に通じるものがあって、ともにいわゆる「出雲系」(実際には天孫族系)の神々につながる。
 
 藻刈神事の意味するもの
 塩竈神社の藻刈神事という神事も示唆する点が大きい。同種の和布刈(めかり)神事が福岡県北九州市門司区の県社和布刈神社で、旧暦の大晦日から正月元旦にかけて古来行われおり、松本清張の小説「時間の習俗」で有名になっている。この神事は関門海峡の最狭部の早鞆(はやとも)の瀬戸を舞台に古習にのっとっておこなわれ、和布(ワカメ)には生命力を増進する霊力があるとされる。和布刈神社は式内社ではないが、神功皇后に関わる伝承をもつ古社であり、皇后が潮の干満を起こすため用いた満珠・干珠は、社地の北東方五、六キロの奥津島・津島(いま干珠島・満珠島で、式内忌宮神社の飛地境内)に納められたといわれる。
 和布刈神社の祭神は彦穂々出見命・草葺不合尊・豊玉比売命・宗像三女神等とされている。しかし、例によって彦穂々出見命は天若日子の訛伝であり、本来は天若日子・豊玉媛の夫婦神を祀った神社と考えられ、全国の売布(めふ)神社に通じるものがある。
 和布刈神事は、早鞆瀬戸の対岸にある長門国豊浦郡の式内名神大社・住吉荒御魂神社(下関市一ノ宮)でも同日同時刻に行われる。同社はいま住吉神社といい、住吉三神荒魂を主神に応神天皇・武内宿祢・神功皇后・建御名方命を配祀するが、長門一ノ宮たる同社は穴門国造一族によって奉斎され、その祖神天目一箇命(天若日子の子)を本来祭祀するものであった。住吉神社の祠官家は神功皇后紀に見える穴門直の祖・践立(ほむたち)の後裔であり、神田直のち賀田宿祢という姓氏で、山田・中島などを苗字とした。
 和布刈神事は出雲にもある。島根県簸川郡大社町(現出雲市の一部)の日御碕神社(*12)(出雲郡の式内社の御碕神社)の神事でもあり、同社は素盞嗚命を祭神として国幣小社に列された。その社司(検校)は素盞嗚命の五世孫という天葺根命の後裔と称する日置姓小野氏であって、明治には出雲大社の千家・北島両国造家とともに男爵を授けられた名家である。小野氏の現在に伝えられる系図は疑問が多く、その実際の系図は、天目一箇命(少彦名神近親)の後裔の出雲国造家の支流日置部臣氏に出自したとみられる。同社には、社前の天一山(あまかずやま天目一箇命に由来か)で除夜夜半に行われる社司家一子相伝の神剣奉天神事もある。
 塩竈市の塩竈神社の有力社家にも小野氏(右宮一祢宜家のほか、御神体御守役・御太刀役などをつとめた家もある)がある。平安後期の式部少輔小野朝臣有季を祖とする系譜を伝えるが、これも疑問があり、実際には左宮一祢宜阿部氏とともに少彦名神一族後裔であった可能性が大きいように思われる。おそらく、陸奥国柴田郡小野郷に起った古族の後裔であろう。前掲の阿部氏も含め、塩竈神社の祠官家には陸奥の柴田・刈田郡(両郡はもとは柴田一郡)に起源をもとめられる家が多いとみられる(詳細は別稿)。
 島根県松江市和田見町の売布神社(メフ神社。白潟大明神・橋姫大明神ともいう)も意宇郡の式内社であった。その十月の例大祭には「致斎の初日禊し、海藻を刈って社頭に復り、清火を鑽って神饌を炊ぐ」という神事が行われるという(『神道大辞典』)。同社はいま速秋津比売を主神とし、五十猛命兄妹を配祀するといわれる。速秋津比売は罪穢を祓いきよめる水戸(みなと)の神で、瀬織津比嘩(五十猛神の妻神)に通じるようでもあるが、豊玉媛と同神か、あるいは本来の豊玉媛(海神の女で、天若日子の妻)が転訛したものであろう。
 メフ神社は、尾張国中島郡では式内の売夫神社としてあげられる。中島郡には式内の塩江神社も鎮座することは先に述べたが、式内の宗形神社もあり、この地の中島県主は少彦名神後裔の鴨県主一族に出自する系譜をもっていた。
 こうしてみていくと、塩竈神社をとりまく事情は、塩土老翁がスサノヲ神・少彦名神・天目一箇命と密接に関連することを示している。豊前国門司の和布刈神社から長門国豊浦郡、さらに出雲国の出雲・意宇郡へとつながる線は、少彦名神一族の出雲への移動経路だったのである。
 石城国造の本拠地であった磐城地方をみると、塩竈神社は管見に入ってこないが、この地域には諏訪神社が多く(いわき市域で少なくとも20社はある)、塩をつけた地名も多い。また、石城国造の勢力圏であった福島県田村郡小野新町(現在は三町村合併で、小野町)には有力な塩竈神社があり、塩土老翁を祀る。その社伝によると、延暦年中の坂上田村麻呂の征夷に際し、陸前塩竈大神に祈願したところ神験が著しかったので、奉賽のため祭祀したことに創まるといわれる。
 これを額面通りうけとるよりも、私はむしろ田村郡の当社のほうが塩竈大神の起源に近いのではないか、また、丈部一族の陸奥北方への進出に際しての塩竈神祈願ではないかと考えている。福島県には東北地方で塩竈神社が最も多く、17社の塩竈神社が鎮座することも、その傍証かもしれない。古代では、スサノヲ神系統の神は蝦夷征討ばかりでなく、海外征討の守護神ともされていた。
 なお、瀬戸内海沿岸には塩竈神社が多いものの、有力な神社はなく、起源も総じて塩生産に基づいて新しいのではないかと考えられる。とはいえ、古来著名な塩産地であった讃岐の讃岐国造一族、阿波の阿波国造・阿流忌部一族等、いずれも少彦名神一族の流れをひくものであったという事情もあって(吉備の吉備臣一族は海神族系統だが)、塩土老翁奉斎の基礎も十分存在するのである。
 わが国では縄文時代末期頃ないし弥生時代初期から塩生産が行われたとみられている。そのときに、先進的な技術により塩生産を効率的に行ったのが、まず@海神族系の人々であり、次にA知識神少彦名神一族の系統の人々であり、こうした事情が故にそれぞれの祖神が塩神として奉斎されたのではあるまいか。とくにAの系統の比重が大きく、古代の製塩法である土器製塩にあっても、土器製造の職業部たる土師部(はじべ、はにしべ)を管掌したのが、出雲国造の支族の土師連であり、鴨県主の一族にも同様の職掌の西(にしのはにしべ)がいた。
 
 塩神についての一応の結論
 ここまで記してきた検討からいって、塩土老翁とは、海神族系の猿田彦神の色彩もあるものの、主に天孫族系の少彦名神(ないし近親の天目一箇命。両者は不即不離で混同する面もあるため、本稿では両者を含む扱いでの表記もある)であり、またその一族系統の神であったと結論づけてよいものと考えられる。先に記したように、少彦名神は瓊瓊杵命の天孫降臨に一族が同行しており、神武天皇の東遷に重要な役割を果す菟狭津彦命(宇佐国造の祖)も、その後裔であった。塩はそれ自体神聖視されて、魔や邪気・穢れをはらい清める力をもつと信ぜられたが、スサノオ神・牛頭天王はそうした霊力を持つ神とも、逆に行疫神ともされている。
 鳥取県八頭郡船岡町にこうした結論と符合する式内社がある。鳥取市の南方、船岡町中央部の大江川右岸の塩上に鎮座する塩野上神社がそれであり、岩積の上の本殿には日子火々出見命と塩椎神(塩上老翁命)の二座が祀られている。日子火々出見命は一般に神武天皇の祖父とされる皇祖神であるが、各地の祭祀例からいえば、天若日子(天稚彦)という本来の祭神が転訛した例が多い。この塩野上神社(塩ノ上大明神)でも同様とみられ、塩椎神は天若日子の子の少彦名神にあたることが多いから、塩関係の父子神を祀ったのが、この式内社ということになる。この地の古伝(*13)に、昔、塩ノ上の神は「ちまき」を食べる時に笹の葉で目を突き、片目が不自由になった、といわれる。「片目の神」とは鍛冶神の象徴であって、多くは天目一箇命を示唆し、この神も塩椎神に通じるのである。
 船岡の地を含む八頭郡は、古代の稲葉国造の領域であったが、稲葉国造家は彦坐命(崇神天皇兄弟と記紀に見えるが、実は海神族の出)の後裔とされ、船霊神としては猿田彦神や金毘羅神(天目一箇神・少彦名神に通ずる)などが古来考えられてきており、潮ツツ霊(シホツツチ)であった。船岡という同じ地名が、陸奥の安倍貞任一族の先祖の起源地とみられる柴田郡にあって、四保(シホ、すなわち塩のこと)ともいったことは興味深い。出雲でも船岡山という地名が大原郡にある。大原郡は地名・伝承等から安来地方と密接な関係が見られ、屋代郷という地名が両地域にあるほか、大原郡大東町大字北村にある船岡山(標高140mで、船山ともいう)については、『出雲国風土記』に阿波枳閇委奈佐比古命(アハキヘイナサヒコ。これも実体が少彦名神か)が曳いてきた船がこの山となったと記される。
 安来地方の屋代郷の南隣の母里(モリ)郷には、式内の志保美(シホミ)神社がある。同社は『風土記』に斯保弥社とあげられ、『雲陽誌』には塩見明神と記して、いま能義郡伯太町(現安来市)井尻の市中屋(いちなかや)にある志保美神社に比定されている。古代出雲では、中海が井尻のあたりまで湾入していて、江尻と呼ばれたのが後に井尻に転じたというから、志保美は塩見ないし潮見の意であることがわかる。因幡でも船岡の北方に塩見の地名がある。すなわち、岩美郡福部村(鳥取市の北東隣)の中央部を塩見川が流れており、この流域の左近村以下細川村までを塩見十二ケ村といい、中世のこの地には塩見氏が居住していた。塩見氏は丹波の中世豪族や出雲松江の松平藩重臣にもあり、志保美が塩見を指すことは間違いなかろう。
 さて、この志保美神社の祭神も、安来地方の鎮座という事情からいっても、少彦名神かその係累神であろう。この点については、千家俊信の『式社考』には師(本居宣長)の説として、忍踏(オシホミ)命の忍のオを省けるにて熊野久須毘命として記し、荒木田延経もこれを踏襲している。こうした神名の一字が抜けた神社名という論証は全く説得的ではないが、熊野久須毘命(熊野忍踏命)はスサノヲ神の気吹のなかから成り出た神とされ、少彦名神の父の天若日子(天津彦根命)の兄弟神とされること(実際には同一神か)からいって、結論的には妥当かもしれない。
 これで、管見に入った塩関係の式内社を全てとりあげたことになるが、いずれも、主に少彦名神かその係累神を祭神としていると整理することができよう。
 
 御塩殿祭の起源と関与者
 伊勢神宮(皇大神宮)の大切な年中行事となっている御塩殿祭(みしおどのさい)についても触れておく。同祭は、神宮の供物自給のため毎年10月5日、三重県度会郡二見町(現伊勢市の一部)荘の御塩殿神社で行われる。この神社の西北方の同町字西の御塩浜で夏期土用に汲みあげた鹹水を御塩汲入所に運び、御塩焼所で御塩山の松の薪により「荒塩」に焚き上げ、さらに御塩殿の一角で「堅塩(かたしお・キタシ)」として焼き固めて、御塩として奉納されてきた。この御塩堅固めが最初に行われるのに先立って、同日執り行われるのが御塩殿祭であり、御料御塩固めの安全と日本塩業の発展を祈願して、塩にゆかりの人が参集して盛大に行われている。
 その起源は、垂仁天皇の皇女・倭姫命が皇大神を奉じて二見浜に巡行した際、国神の佐見都日女(さみつひめ)が堅塩を献上したことによるものであって、その際、倭姫に随行した大若子命がこの地に御塩浜と御塩山を定めたといわれる。倭姫が伊勢に居たことは疑問があり、また大若子命も伊勢に居たことは疑問があるから、後世に作られた起源伝承であろうが、一応の参考にはなろう。なお、大若子命とは、一般に度会神主の遠祖とされ、その系譜は中臣連の同族で伊勢国造家の人とされる(後段のほうには疑問あり)。佐見都日女の素姓は国神(この土地の神)とあるだけで、あとは不明である。ところが、本稿で検討を続けるうちに、この女性についても手がかりがえられそうになってきた。
 伊勢南部の勢田川(宮川)下流の二見・浜郷の地は、古来製塩業が盛んに行われ、伊勢市北部にある大湊も、古くは塩の集散地として発達したといわれる。古代のこの地域に居住したのが宇治土公(ウヂノツチキミ)氏であり、度会郡の宇治・二見郷、すなわち勢田川下流北岸の磯町や宇治を含む伊勢市から二見町にかけて勢力をもっていた。二見浦の有名な夫婦岩の対岸にある興玉(おきたま)神社は、宇治土公の大祖・猿田彦大神を祀ったものといわれる。猿田彦神や興玉神は、塩竈神社の祭神としてもあげられることは前掲した。
 興玉神については、一説には猿田彦大神の後裔で、五十鈴の原の地主神の大田命であるともいわれる。大田命は宇治土公の祖であり、垂仁天皇廿五年に倭姫が田田上宮に坐したとき、参上して皇大神の鎮座地として五十鈴川上の地を教示したと伝えられる国神である。こうした塩と二見の地という事情からいって、佐見都日女は宇治土公の祖・大田命との関係が深いことが推される。
 『倭姫命世記』には佐美津彦・佐美津姫という対偶の形であらわれ、相参りて御塩浜御塩山を奉ったと記される。おそらく両者は夫婦であろう。名前につけられる「佐見(佐美)」とは地名で、「伊勢国二見浦なる大夫の松と云ふ大樹の生たる山が佐見の山にて今猶彼の山の麓に流るる小川を佐見河といふ」といい(『万葉集古義』)、また、「二見の浦に、佐美明神として古き神まします」(坂士仏の著といわれる『大神宮参詣記』)とも記される。佐見都日女は、皇大神宮の摂社で、二見町大字江村に鎮座する堅田神社の祭神でもある。
 宇治土公氏の一族磯部氏は、前掲の磯町一帯に居住していたとみられるが、その一族が居た志摩国答志郡伊雑郷の磯部邑(いま三重県志摩郡〔現志摩市〕磯部町一帯)には、皇大神宮別宮伊雑宮やその付属社としての佐美長神社がある。佐美長神社については、出口延経の『神名帳考証』は延喜式神名帳に掲げる粟島坐神乎多乃御子神社に比定していた。粟島神とは、少彦名神を指すことから、「佐美」がこの神に関係深い語であることが推される。また、因幡国巨濃郡の式内社に佐弥乃兵主神社(鳥取県岩美郡岩美町太田、もと佐弥屋敷という地に鎮座)があげられ、鳥取市街地の東北方十キロほどに位置している。この鎮座地は因幡国造(海神族系統で日下部同族)の領域に含まれていて、その一族が奉斎した神社と考えられる。
 以上の事情から、佐美都日女とは宇治土公の祖・大田命の近親であることは確かで、おそらく、その夫とみられる佐美津彦は大田命その人ではなかったろうか。
 宇治土公氏とは、伊勢神宮の宇治大内人(内宮大内人の上首で、祢宜に次ぐ重職であり、玉串大内人ともいう)を歴代世襲した家柄であり、遠祖の大田命が垂仁朝に玉串大内人として奉仕したと伝えられる(『大神宮諸雑事記』)。伊勢市街地南の浦田町千歳には猿田彦神社があり、もと宇治土公家の邸内に祀られていたのを明治に公認されて社殿を造営したものである。その東北ニキロほどの五十鈴川の北岸、楠部の地には大土御祖(おおつちみおや)神社があり、皇大神宮の摂社で宇治土公氏が奉斎した。『神道大辞典』では宇治土公(ウジトコー)を苗字のように扱い、元磯部姓であったが、後一条天皇の頃より宇治土公と称したと記すが、疑問がある。おそらく磯部(石部)姓の本宗が宇治土公という姓氏を称し、姓の公も含めて、そのまま苗字としたものではなかろうか。二見郷の二見氏は、宇治土公姓にして大田命の後裔と称す(「皇大神宮権祢宜家筋書」)といわれる。
 宇治土公氏の具体的な起源については、海神族系統の大和の磯城県主・三輪君の一族に出自しており、崇神朝の大田田根子の大叔父の久斯気主命について、伊勢宇治土公・石辺公・狛人野等の祖と記される系図がある。この所伝に基づくと、崇神前代に大和から伊勢に入ってきたものとみられる。もともと伊勢の地には、伊勢津彦が本拠をおいていた地であるが、これが神武東遷の際(二世紀後葉とみられる)に追われた(*14)ので、その一世紀ほどあとになって、磯城県主の一族が遷住してきたものであろう。宇治土公氏は猿田彦命の同族後裔であり、二見あたりで塩を生産していた事情もわかる。佐美都日女も、御塩殿祭に関与した皇大神宮の神官も、古代にあっては二見居住の宇治土公氏を除外しては考え難い。
 
 塩屋連と平群臣
 もう少し塩に関連する事情を附記しておくと、伊勢には奄芸郡に塩屋郷(鈴鹿市の白子町・稲生町塩屋の一帯)、その南の志摩にも英虞郡浜島邑に塩屋(志摩市浜島町東部)という地名があり、いずれの「塩屋」も塩の生産に因るものとみられる。
 古代豪族にも塩屋連氏があって、『新撰姓氏録』の河内皇別に掲げ、武内宿称の男・葛城曽都比古命の後と記される。この塩屋連が伊勢の塩屋郷に起ったとみる説(*15)は疑問があるが、この地に塩屋連の一族が居住したことは考えられ、氏の名の「塩屋」も塩を管理したという職掌に因むものであろう。塩屋連の系譜も本来は、少彦名神一族の後裔で、筑紫国造一族が東遷して瀬戸内海沿岸に発したものと考えられる。わが国では、この塩屋連以外に「塩」の語を氏の名にもっていた古代氏族は見あたらない。
 塩関係の名前をもつ者では、蘇我稲目大臣の娘で欽明天皇の妃となり用明・推古両天皇等を生んだ堅塩媛(岐多斯比売)が最も著名である。蘇我氏も武内宿祢の後裔と称する氏族であるが、実はやはり少彦名神の族裔(*16)であり、「蘇」は金属(とくに鉄)を意味する朝鮮語であった。
 塩屋連・蘇我臣とともに武内宿祢後裔系譜の一翼を担う大族に平群臣氏がある。大和北部の平群郡平群郷(いまの生駒郡平群町)一帯に本拠をおく平群氏が海の塩に関係をもつことは不思議にも思われようが、この同族と称する諸氏のなかに韓海部(からのあま)首氏がおり、摂津国に居住して『姓氏録』未定雑姓摂津にあげ、「武内宿祢の男、平群木菟宿祢の後」と記される。平群氏の始祖と伝えられる者が鳥トーテムを思わせる木菟(「みみずく」のこと)の名前をもつことに留意される。
 木菟の子、真鳥(まとり)は五世紀後半の雄略朝に大臣となり権勢をふるったが、真鳥・鮪親子ら平群一族は、太子時代の武烈天皇(実際には、その父の仁賢天皇とその弟の顕宗天皇の兄弟か)の命をうけた大伴金村連の攻撃をうけ滅ぼされた(*17)と『書紀』に記される。真鳥は死に臨んで、広く塩に呪いをかけたが、そのとき呪い忘れた角鹿(越前国敦賀郡で、いまの福井県敦賀市一帯)の塩のみが天皇の食膳に供されたという。この伝承から、平群氏が天皇用の食塩を管理していたのではないかとみる説もある。
 この説が妥当と考えられるのは、平群氏の先祖はもと筑前国に居り(早良郡には平群郷がある)、実際には少彦名神族裔の筑紫国造家から分かれた氏族であって、塩屋連とも同族だったからである。筑紫国造の支族であった岡県主(福岡県遠賀郡地方におかれた県主)の祖の熊鰐は、仲哀天皇の御幸を迎えて魚塩の地(御料の魚や塩をとる区域)を献上している(『書紀』の仲哀八年正月条)。筑紫国造家から分岐した諸氏は、後世に武内宿祢を祖とする形の系譜のなかに再編成されるが、武内宿祢の後裔と称する氏族が宮廷の食膳奉仕に関与した傾向がうかがわれる(*18)。八世紀後葉の官人、平群朝臣清麻呂は、大膳亮に任じられており、平群氏の同族という味酒(うまさけ)首氏もその職掌に因るもので、蘇我一族にも職掌に由来した御炊(みかしぎ)朝臣氏がいた。
 平群真鳥が呪い忘れた角鹿の製塩は、真鳥滅亡の五世紀末当時にあっては未だ有力でなかったものとみられる。角鹿の西隣の若狭の製塩について、五世紀後半から七世紀代にかけて律令調塩制の歴史的前提が形成されたと思われると岸本雅敏氏(*19)が述べており、若狭と越前の製塩状況がほぼ同じであれば、平群真鳥伝承と符合することになる。
 筑紫国造家の一大分流は瀬戸内沿岸を東へ進んで、針間(はりま)国造を出し、四世紀後葉には皇位纂奪者の応神天皇を出すことになる。この針間国造とみられる豊忍別命が贖罪として塩代田廿千代(はたちしろ。四十町歩)を天皇へ献上したという所伝が、『播磨国風土記』の記事(餝磨郡安相里条)に見える。この献上地はいま姫路市街地の西方の土山・今宿付近とみられている。
 塩に関する大化前代の『書紀』の記事では、ほかには(イ)枯野という官船を焼いて五百籠の塩を得たこと(応神31年8月条)、(ロ)菟餓野の鹿が射殺されて白塩を塗られるという夢をみた話(仁徳38年7月条)がある。以上にあげてきた伝承の製塩方法等からの分析については、広山堯道氏が行っており、その論稿「記・紀・風土記の塩」(*20)を参照いただきたい。
 
 スサノヲ神と日本人の形成
 現代の日本人は単一民族の後裔ではない。中国や朝鮮半島と同様、周囲から流入したいくつかの種族が長い期問のうちに混合融解して形成されたものである。そのなかでスサノヲ・少彦名神一族の系統が果たした役割には大きいものがあった。現代日本人に向っての長い期間の民族形成過程について、明確に記述することは到底不可能であるが、言語や神話等から大づかみにとらえることは何とかできそうである。それは次のようなものではなかったかと考えられる。
 日本列島の形成が一万年ほど前として、その前後から原日本人が居住していたことが考えられる。これを縄文人とか山祇(やまつみ)族と呼ぶとしたら、その主要要素は、いまのカンボジア・ビルマに住む人々(クメール族)とか中国古代の三苗とか苗族と呼ばれた人々に類似のものがみられる。とはいえ、この種族が南方から日本列島に渡来したわけではない。この種族はアジア大陸北方に本来居住していたもので、古代にあっては中国の東北地方から東中国海沿岸部、さらに中国南部にかけて広く分布し、次第に南方のほうに、居住の中心を移して、古代中国の南蛮あるいは南人と呼ばれるのものの主力を構成していたものとみられる。わが国では狩猟漁撈や焼畑農業をしていたもので、久米直とか大伴連などが後裔としてあげられる。
 次に、縄文時代の末期、紀元前四、五世紀頃に、朝鮮半島南部を経て日本列島に渡来してきた種族がいる。稲作農業を行い青銅器を使用し、航海・漁撈にすぐれた能力をもつ人々で、中国のタイ族(現代中国での主要末裔はチワン族)やタイの人々に類似する要素が大きい。この種族ももとは北アジアに居住していたようで、そこから次第に南方に移住し中国中央部でも広く分布して、古代の北狄と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられ、わが国では海積(わたつみ。綿積、海神)族と呼んでよかろう。この種族も製塩法を知っており、わが国製塩が縄文後期末に遡るといわれるのも、この「海神族」が担い手とみられる。弥生人は、この種族を中心に、先住の種族と混血して形成されたものと考えられ、新渡来者のみを「弥生人」と呼ぶのは誤解を招くおそれがある。
 三番目に、中国東北地方から朝鮮半島を経て紀元元年前後ごろに日本列島に渡来してきた種族がいる。高句麗や百済を建国した種族とも同族のようであり、スサノヲ神(五十猛神)を始祖として、天孫族と呼んでおく。この種族はもとは西北アジアに居住していたようで、そこから次第に東方に移住し中国中央部でも広く分布して、古代の西戎あるいは東夷と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。日本列島では、二世紀ごろから筑後川流域に邪馬台国の前身たる部族国家をつくり、その支族は東方に移動して二世紀後葉に大和朝廷を形成した。太陽神信仰や天崇拝、鳥トーテミズムをもち、中国の北方種族的色彩も若干あるが、ツングースの一派(古代中国の東夷にあたる)としてよさそうである。列島先住の縄文人後裔(後から来住した人々の文化を拒否し、混血も少なかった人々)や先住の弥生人などを服属させて、わが国最初の全国的規模の国家を築いた種族といえよう。四世紀後葉に皇位を纂奪した応神天皇も、この支族の出とみられる。
 ここまでが主な種族といえようが、四番目に韓地から来住したとみられるのが天日矛の一族で、日矛族と呼んでおく。その最初の渡来は二世紀前半ごろとみられる。この一族の種族・系統は不明な点が多いが、太陽神信仰もあり、天孫族に近縁とみられる。日矛族は周防や吉備などの地域開発や原始国家建設にあたったが、この支族で一旦朝鮮半島に戻って暫時留まったのち、三世紀前半ごろに再来日した部族もあり、これがいわゆる天日矛として知られるもので、最終的に但馬の出石地方に落ち着いた。

 以上の二世紀末までに渡来してきた三つ(ないし四つ)ほどの種族ないし部族が主となって融合し、今の日本人となったものとみられ、日本列島のなかでも、地域により種族混合に濃淡の差がある。もちろん、その後も絶え間なく、大陸や朝鮮半島から新しい技術・文明・祭祀などをもって人々が渡来してきた。なかでも、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての応神朝ごろの渡来の波(このときは、弓月君を中心とする秦部族や、阿智使主を中心とする東漢部族が二大要素)、五世紀後葉の雄略朝ごろの渡来の波(今来の漢人)が大きく、七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入した人々も大量であった。奈良時代にも大陸との交流を通じて人々がやって来たが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途絶えた。815年成立の『新撰姓氏録』では原則として二世紀後葉の神武朝以降に渡来した氏族を「諸蕃」に分類しているが、この系統の諸氏が畿内の有力氏族全体の三分の一を占める。このころまでに日本列島に来住した人々が、以降の一千年超の期間で融合していったのである。
 いま本稿で検討しているのがわが国塩神の主系統たる天孫族であり、その起源の地が朝鮮半島を通じて大陸にあるとみられる以上、次にこの方面に塩神の探索をする必要がある。


 〔脚注〕

(*1) 『神道大辞典』シオガマジンシャの項
(*2) 『角川日本地名大辞典 福島県』
(*3) 広山堯道「記・紀・風土記の塩」、『日本塩業の研究』第23集、平成6年9月。
(*4) 岸本雅敏「西と東の塩生産」、『古代史復元9 古代の都と村』1989年刊。
(*5) 『日本の神々12』の三崎一夫氏の記述等に拠る。
(*6) 『塩の話あれこれ』131頁、日本専売公社編、昭和45年。
(*7) 後裔の活躍年代から遡っていく方法で推計すると、こうなる。その場合、一世代を25年程度と考えて試算した。
(*8) 素盞嗚命が時代や場所を超えて活動するように見えるのは、この汎称ということに由来する。その意味で、日本列島に渡来した素盞嗚命は、具体的に五十猛命と特定したほうがよかろう。
(*9) 天日矛については、但黒;の出石に定着した者(前津彦)が最も著名であるが、その祖にあたるアカルヒコ(阿加留彦)が最初に日本列島に到来している。また、『筑前国風土記』逸文の怡土郡条には、高句麗の意呂山(おろさん)に天降りして来た日桙(迎烏)も見えており、前掲二者の祖先にあたる。
(*10) 古代の「日向」について、現在の宮崎県地方と単純にとらえることは疑問が大きい。古代でも同じような地名は各地に見られるが、『古事記』には「此の地は韓国に向ひ」と明確に位置づけがなされている。
(*11) 『姓氏家系大辞典』阿部条、183頁。
(*12) 『日本の神々7』の藪信男氏による日御碕神社についての記述等に拠る。
(*13) 「大阪歴史懇談会報」第138号(平成8年2月)の尾原隆男氏の「私の城好きの原点」
(*14) 『伊勢国風土記』逸文の伊勢国号条
(*15) 太田亮『姓氏家系大辞典』塩屋条、佐伯有義『新撰姓氏録の研究』考証篇第二の429頁等。
(*16) 蘇我氏の系譜は極めて難解であり、最近では朝鮮渡来の氏族(とくに百済の王族とか重臣の木氏の出自という氏族)であるという主張が強くなされているが、加藤謙吉氏(『蘇我氏と大和王権』)がいうように、根拠に乏しい。私は別途、武内宿祢後裔と称する氏族の検討のなかで、少彦名神族裔で建緒組命の後という結論を得ている。
(*17) 平群氏の滅亡については、『古事記』では意祁・袁祁二王子(後の仁賢・顕宗の両天皇)が平群志毘臣を滅したとあり、年代的にはこの方が妥当である。ただし、塩に呪いをかける話は『古事記』には見えない。
(*18) 前之園亮一氏は、武内宿祢後裔氏族と食膳奉仕の関係について、『日本の古代11ウヂとイエ』(中央公論社、昭和62年刊)所収の「ウヂとカバネ」で詳しく検討を加えている。私が「称」という字を冠して称武内宿祢後裔氏族とするのは、実際には武内宿祢の後裔ではない氏族が、後裔と称しているからである。
(*19) 岸本雅敏「律令制下の塩生産」、『考古学研究』154号。
(*20)広山堯道「記・紀・風土記の塩」、『日本塩業の研究』第23集。


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