入墨についての雑考   



 入墨
文身、刺青、など名称が多いが、ここでは「入墨」で表記)について、友人や研究者たちからの示唆と刺激をうけ、歴史と民族・民俗の流れから、わが国、とくに上古の倭地における入墨の事情を少し見てみました。様々な諸文献であげられている記載や整理を踏まえたものであり、個別に論拠や主張者を殆どあげないことをご寛恕ください。従って、以下の記事の整理責任は筆者樹堂にありますが、そのかなりの部分が私見独自のものではないことも、併せてお断りしておきます。


 
T上古代の倭地の入墨

 入墨は、一度入れると容易に消えない特性を持つことから、古代から現代に至るまで身分・所属などを示す個体識別の手段として用いられて来た事情にある。日本では、日本列島の原住民であった山祇族(クメール人と同系で、蝦夷やアイヌもこれと同じ種族の流れ)や、次ぎに稲作・青銅器文化をもち列島に渡来してきた海神族(タイ人や中国春秋時代の越国と同系)にも入墨の習俗が見られる。なお、紀元一世紀以降に渡来してきた天孫族や天日矛系統には、この習俗はなかった模様である。
 すなわち、
 (1) 良い意味の個体識別と護身呪術関係では、
@ 縄文時代の土偶の表面に見られる文様は、世界的に見ても古い時代の入墨を表現したものとみられており、縄文人と民族的文化的関係が深いとされる蝦夷やアイヌ民族の間に入墨文化が存在してきたことが史料に見える。女性のあごや口唇部の入墨は、アイヌでは可婚者の印となる。アイヌと同様、日本原住縄文人の流れを多くうけるとみられる沖縄地方(奄美諸島から八重山諸島)の女性にも、「ハジチ(針突)」という手の入墨の風習が伝わった。
『日本書紀』景行天皇段の記事には、東国から帰還した武内宿祢の報告として、北上川流域にあったとみられる日高見国の蝦夷の男女が髪を椎結いし文身して勇悍である事が記される(景行二七年二月条)。この報告のもとの見聞者が実際には誰であれ、四世紀中葉頃の蝦夷について入墨の記事が見られるのは興味深い。
アイヌと同系民族(種族)とみられるクメール人については、カンボジアの歴史の中で入墨の芸術が特別な位置を占めてきた。最近でも、カンボジア・タイ国境の領有権争いで、タイ軍に対峙したカンボジア軍兵士らは自国の護身の風習にならって、仏像を身に着け、魔除けの呪文を体に入墨していたと報道された。タイ・ラオス・カンボジア・ビルマといった東南アジアの地域では、小乗仏教を基にした独特の入墨文化が存在しており、とくに経文を入墨する習俗は非常に一般的なものだとされる。
 
A 続く弥生時代では、三世紀の北九州の倭人について記した『魏志倭人伝』の記事には、「男子は(身分の)大小なく、皆が黥面文身」との記述がある。黥面とは顔に入墨を施すことであり、文身とは身体に入墨を施すことであって、これが日本列島の入墨についての最初の記事とされる。
 倭の海民は好んで水中に潜り魚貝を捕らえるとされ、入墨は大魚や水鳥を避ける呪術要素であったが、後には多少とも装身の飾りにされること、倭地諸国の文身は各々が異なり、入墨の位置や大小によって社会的身分で尊卑の差を表示していたことが記される。『後漢書』東夷伝にもほぼ同様の記事があるが、これが近畿までの広義の倭地(日本列島)全体の風習であったとは考え難い。
 とくに「倭の海民」に関連するものであって、北九州の肥前・筑前の玄界灘沿岸部においての倭国への使者の見聞と考えられる。だから、山間の平野部にあったとみられる都城域の邪馬台国あたりの住民まで全てが入墨をもったとは到底、思われない。この場合の「倭」とは、狭義のもので、海神族関係民が住む肥前・筑前の沿岸部あたりを指すものとみられる。記紀の入墨関係記事(後述する)を考慮すべきであり、邪馬台国上層部を構成するツングース種族に関しては、入墨の習俗は伝えられていない。
この北九州海岸部地域の海人はタイ系の越あるいは呉の遺民の流れということも考えられるが、タイ系には上古の夏王朝以来、竜蛇信仰が顕著であったから、そうした図柄が用いられなかっただろうか。上記倭人伝は具体的な図柄について記さないが、同書には、夏の帝王・少康の子は江南の会稽(浙江省沿岸部の紹興付近)の地に封じられ、その領民は断髪(髪を短く切り)文身にして、蛟竜(水中に棲んで雲・雨に乗じて天に昇り竜になるといわれる想像上の動物だが、現実には蛇類か)の害を避けたことも見えるから、模様は蛇・竜に近いものだったのかもしれない。古代の越人も断髪文身の習俗があったとされる(王金林氏)。
ともあれ、入墨習俗の報告を都にした魏朝の使い(多くは朝鮮半島帯方郡の官人か)には倭人の珍奇な風習と映ったということであり、当時の中国本土・朝鮮半島の要地には入墨の習俗がなかったことをも意味しよう。
 
B 古墳時代になると、家畜鳥獣の飼育者という特殊な職能関係者にもあっても、入墨の風習があった。これについては、飼育している動物からの危害を避け、威嚇する意味も含めて護身的呪術的な意味を考える見方があり、そうすると、Aの亜流と位置づけられるのかもしれないが、姓氏・氏族の系統が不明である。
『日本書紀』の履中天皇五年条には、天皇が淡路島に狩猟で行幸したところ、その地のイザナギ神が、随行の河内の馬飼部の人々の目のふちの入墨の血の臭さに堪えられないと神託したために、以後は馬飼部の入墨をやめさせたという記事が見える。
古墳時代では、入墨を思わせる埴輪が多くはないが、それでも顔に入墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土する。これは、@なのかA、Bなのか不明であるが、多少廃れてきたとはいえ、入墨の風習が続いていたことがわかる。
 
 (2) 悪い意味では、犯罪者に対する刑罰として使われ、これは中国や日本列島で見られる。
C 顔や腕などに入墨を施す行為は、古代中国に存在した五刑のひとつである墨(額に入墨をする最も軽い刑)・黥(眼の周囲に入墨する刑)と呼ばれた刑罰にまで遡るが、前漢の将軍・黥布(英布)は若い頃に額に罰として入墨を施された事情から逆に自ら黥を名乗ったと伝えられる。中国では、先秦の時代から入墨は犯罪者を区別するために行われていたとされる。
 『日本書紀』にも、履中天皇元年四月条に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に対し、本来は死罰に当たるのを免じて罰として黥面をさせ、当時の人はこれを「阿曇目」と呼んだとの記事があり、雄略天皇十年十月条には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部としたとの記事がある。
 しかし、海神族の長・阿曇氏にはもともと海人の入墨の風習が伝えられてあったはずだし、家畜鳥獣の飼育者にもあってもそれは同様であったとみられるから、この両記事は、入墨の風習が次第に廃れていき、これが日本でも刑罰として用いられるようになってからの部分改変という可能性もある。
 
  以上のほか、文献に見えるところでは、古代に次の二例がある。
 『古事記』の神武天皇段に、神武天皇から三輪の大物主神の娘・伊須気余理比売への求婚の使者としてやって来た大久米命の「黥ける利目」(さけるとめ。目の周辺に入墨を施した鋭い目)を見て、伊須気余理比売が奇妙に感じたことが見える。
この記事について、古代の畿内地方には入墨の習俗が存在せず、入墨の習俗を有する地域の人々が九州からの外来の者として認識された、との主張も存在するがあるが、これは誤解である。「大久米命」とは、神武東征に随ったものの、もとは東征前から紀伊国名草郡に居た大伴連の祖・道臣命が実体であり、クメール人に通じる久米・大伴の部族は、山祇族として古来、入墨の習俗をもっていた。伊須気余理比売自身も入墨の習俗をもつ阿曇氏と同族の出であったから、入墨を知らなかったとすれば若干不思議だが、大和盆地で生まれ育った彼女の実家・磯城県主一族(大物主命の流れの三輪君同族)には、入墨をした者が既にいなかったのかもしれない。大和に侵攻した神武天皇一族にも入墨をもった者の記事が見えない。
 
 『古事記』安康天皇段の市辺忍歯王の受難の項には、その子のオケ・ヲケ兄弟(仁賢・顕宗両天皇)が山代の苅羽井で御糧を食するときに、山代の猪甘いかい)と名乗る「面黥ける老人」がその糧を奪ったことが見えており、その後日譚として、顕宗天皇段には、天皇になった顕宗はこの老人を飛鳥河の河原で斬り、その一族の膝の筋を切ったと見える。
「面黥ける老人」の名は、山代の猪甘部(山城国の猪飼部、すなわち豚飼いを職掌とする部曲)の一族の手古といい、この同族で和泉国大鳥郡に在った氏は後に猪甘部首といった(鈴木真年編『良峯源氏猪飼系図』に所収の「猪飼系図」)。猪甘部首という姓氏は『姓氏録』和泉未定雑姓にあげられており、本来は海神族の流れを汲む和邇氏(記紀や『姓氏録』では、皇別・孝安天皇の後裔とされるが、これは系譜仮冒)の出であった。この関係者の入墨の経緯は、上記A及びBに通じるとみられよう。

 
U その後の変遷など

 古代の日本における刺青の習俗が次第に廃れるのは、父母から受け継いだ五体を傷つけることを戒める儒教思想の普及によるものか。以下はあまり関心があるわけではないが、一応簡単にふれておく。
 大和朝廷の中国王朝や韓地の百済などとの通交によるとともに、六世紀中葉頃には百済から五経博士が渡来して儒教を伝え、仏教も伝来してきて、中国の刑罰制度も知られるようになり、一般人の入墨の習俗はすたれるようになった。聖徳太子の冠位十二階制により、身分や地位を冠・服の色で分け、紫・青・赤・黒などで位の高さを色で表すようになって、入墨や腕輪等の装身具で体を飾る必要がなくなったという見方もあるようだが、この辺はやや穿ちすぎではないだろうか。
 奈良時代以降の律令制の確立とともに、入墨は刑罰としてのものに変化していった。江戸時代でも、再犯を防ぐために受刑者の額や腕などに入墨をしたという。身元不明の屍として戦場にうち捨てられるおそれのあった戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に入墨したこともあったといわれる。また、ヤクザ者や遊女などにも入墨の例があった。

 現代に続くものでは、江戸の都市文化が華やかな十八世紀中ごろ以降になると、龍・般若面などの図柄、浮世絵風の図柄などを腕や背中に彫った侠客や鳶・火消し・飛脚が多く現れるようになり、徳川幕府は、風俗紊乱等の理由で、文化八年(1811)及び天保十三年(1842)に二度にわたる「彫り物御停止令」により江戸における彫り物を禁止したが、その後も入墨の技術は伝えられ、明治中頃に訪日した英国皇太子(後のジョージ五世)やロシア皇太子(後のニコライ・二世)なども、龍などの入墨をしていったというから、当時のわが国の入墨技術への世界的な高評価がうかがわれる。
 
  (2010.3.3 掲上)


 <追記>

 その後、古代の入墨関係の研究にあたったところ、管見に入ったなかでは、設楽博巳氏の論考「男子は大小となく皆黥面文身す−倭人のいでたち執筆当時は国立歴史民俗博物館考古研究部助教授。同論考は同氏編『三国志がみた倭人たち−魏志倭人伝の考古学』に所収)がもっとも優れた検討とみられるので、ここにあげておく。

 その要点の一部を紹介すると、
(1) 日本列島では、二世紀から四世紀にかけて、全国で20遺跡、29個体のものに描かれた43個の人面絵画が類例として知られる。
(2) 人面絵画の共通項は、頬から目頭を通って額に抜ける二つの向かい合う弧線、目尻からでている弧線、そして虹彩のない目である。
(3) その分布も特徴的で、岡山県の平野部と瀬戸内海をはさんだ香川県の海岸部、それと愛知県と岐阜県の境目あたりと安城市付近の濃尾平野に集中する。その間の近畿地方からは一つも出ていない(ただし、黥面埴輪としては、奈良県の笹鉾山古墳、三重県の常坊光谷古墳、和歌山県井辺八幡山古墳からそれぞれ出土があるとも記す。また、設楽氏は触れないが、摂津西部、現兵庫県東部の住吉宮町遺跡からも黥面埴輪の出土がある)。黥面の土器絵画の分布図

 同論考は、「三世紀の黥面絵画の分布のかたよりは、邪馬台国を近畿地方に置き、その東西に狗奴国と投馬国を置いて考えたときに、はじめて意味をもってくるのである」と結ぶが、この結論には異議がある。設楽氏みずからが、黥面埴輪の分布例で近畿地方にも分布がいくつかあることを示しており、黥面絵画と黥面埴輪を区別する意味が疑問であるからである。黥面絵画の分布から、邪馬台国畿内説をいうのは無理が大きい。
 ただ、倭人伝の「男子は皆、黥面文身」という記事が魏使の見聞や伝聞がもとであって、それが地域限定性があることについては、同意見である。

 (2010.3.8 掲上)

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