菟原処女の伝説と関連する諸古墳・氏族


  菟原処女の伝説と関連する諸古墳・氏族


  菟原処女の伝説

 摂津西部の菟原(うはら)郡(芦屋市から神戸市東部辺りの沿岸地域)には、古くは『万葉集』に歌われ、奈良時代から語られてきた「菟原処女(宇奈比処女。うないおとめ)」の伝説がある。その概要は、次のようなものである。
「 葦屋に菟原処女という美しい娘がいて、多くの若者から思慕され、中でも同じ郡の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ。血沼壮士、信太壮士)という二人の男が彼女を深く愛して求婚し、激しく争った。処女が悩み悲しんで、「私のために立派な男たちが争うのを見ると、求婚に応じることなどできません、いっそあの世で待ちます」と母に語り、海に入水して自ら命を絶った。茅渟壮士はその夜、彼女の夢を見て、後を追い、残された菟原壮士も負けるものかと後を追って死んだ。その親族たちは、この話しを長く語り継ごうと、娘の墓を中央にして、二人の男の墓を両側に作ったという」
 
 『万葉集』では高橋虫麻呂(巻第九、歌番1809〜1811)、田辺福麻呂(芦屋処女。巻第九、歌番1801〜1803)、大伴家持(巻第十九、歌番4211・4212)の三人が莵原処女伝説を歌い、平安時代の『大和物語』(一四七段)ではこの伝説が脚色されて、舞台が生田川となり、謡曲『求塚』(観阿弥または世阿弥の作)では女が川に投身したので男たちは刺し違えて死んだ、とされる。森鴎外はこの伝説を題材として戯曲『生田川』を書いた。関東でも下総国葛飾郡の真間(現市川市辺り)の手児奈(娘子の意)の伝説が、同様に多くの男に求婚されて自害したこととなっていて、これも高橋虫麻呂が歌(巻第九、歌番1807,1808)をよんでいる。
 いま神戸市の東灘区御影塚町の処女塚古墳を真ん中にして、西方二キロほどに灘区都通の西求女塚古墳(菟原壮士)、東方二キロ弱に東灘区住吉宮町の東求女塚古墳(茅渟壮士)があって、海岸部にほぼ一直線で並んでおり、これらが彼ら三人の墓だと伝えられる。
 菟原処女の話は伝承だから、まず史実ではなさそうであるが、それに関わる前期古墳が三基残されるというのは興味深い。古墳の規模は、現在墳形が崩れているものもあるが、西求女塚(全長九八M超)、東求女塚(全長約八〇Mと推定)、処女塚(全長約七〇M)の順とされており、神戸市東部あたりでもこれらより大きい古墳は数少ないから、この地域の豪族を葬った墓とみられる。なかでも、副葬品が殆ど知られない処女塚を除くと、東・西の求女塚は三角縁神獣鏡などの銅鏡を多量に出土したから、これらが古墳時代前期の重要な古墳であったことが分る。そこで、これら古墳が造られた時代や背景・契機を探ってみようとするものである。

 
 二 西求女塚などの築造者

 最近までの発掘調査によって、西求女塚と東求女塚の考古学的状況が次第に分かってきた。その概要としては、西求女は箸墓古墳同様のバチ形の前方後方墳にも注目され、三角縁神獣鏡七面、画文帯神獣鏡・獣帯鏡各二面 など合計十二面の銅鏡と紡錘車形石製品や各種鉄製品が出土した。三角縁神獣鏡は椿井大塚山・佐味田宝塚や福岡県の石塚山古墳、広島県の中小田一号墳などの出土鏡と同笵関係にあることが知られる。処女塚からの出土品は勾玉や壺形土器や鼓形器台くらいしか知られないが、東求女塚からは内行花文鏡・画文帯神獣鏡各一面及び三角縁神獣鏡四面、車輪石などが出土し、三角縁神獣鏡が福岡県原口古墳出土鏡と同范鏡の関係にあることが分かっている。処女塚の北方近隣にあるヘボソ塚古墳(全長約六〇Mの前方後円墳)からも、三角縁神獣鏡三面(京都府南原古墳などと同范鏡関係)・画文帯神獣鏡一面など合計六面の銅鏡や石釧・勾玉などが出土している。葦屋にも三角縁神獣鏡が出土した阿保親王古墳がある。
 問題の三古墳は、副葬品や墳形などからみて、前方後方墳二基が若干早いかほぼ同時期に築造されたとみられ(実際の築造時期はそれぞれ異なるとして、その場合には西求女塚が最古で、次が処女塚とされるようだが、あまり差がないか)、六甲山南麓の住吉川及び石屋川の河口部に近い要港(武庫港)を押さえた瀬戸内海の海上交通に影響をもつ首長の墳墓だとみる見解が多い。
 この見方は妥当だとみられ、さらに推し進めれば、西への航路としては次の播磨の室津港に近隣する揖保郡の権現山古墳群と同様、景行天皇の西征に関係があったとみられる。このほか、瀬戸内航路の要港たる備前の牛窓港や備後の鞆港付近にも、三角縁神獣鏡を出土した古墳がある。同范鏡の分布などからみて、三角縁神獣鏡が大量に出土した大和纏向の黒塚古墳と同じく、景行天皇との関係の深さを無視できない。

 
 三 津守氏などの海神族

 東求女塚の北方近隣にある住吉宮町遺跡は、弥生時代から中世にかけての複合遺跡で住吉川が形成した扇状微高地にあり、合計七二基の古墳も発見されている。そのなかで出土した埴輪には、馬形埴輪、力士や顔に入れ墨をした男という人物埴輪もあるとされ(『続日本古墳大辞典』)、住吉という地名からみても、海神族に関係があったことが窺われる。
 地名的にも、『和名抄』では兔原郡では八郷あって、後ろから「住吉郷…津守郷…葦屋郷…」という順に並んでおり、これがほぼ西から東への郷域の配置を思わせる。津守郷はまさに港津の管理者の居住地であり、海神たる住吉三神の祭祀に奉仕したのが津守連氏やその同族の阿曇連氏であった。阿曇連に「阿曇目」という入れ墨の習俗があったことは、履中紀に見える。「灘」という地名も、これら諸氏の起源の地である筑前国那珂郡(福岡市)に由来するが、当地には住吉神社(福岡市博多区住吉)という式内名神大社があり、永く阿曇連の一族が奉斎した。
 
 『日本書紀』の神功皇后摂政元年二月条には、神功皇后の韓地征討に随行した津守連の祖・田裳見宿祢に関連する話が見える。そこでは、海神の筒男(住吉)三神の和魂が「大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡」、すなわち務古水門(武庫の泊)を押さえる摂津国兔原郡住吉郷に居て(『古事記伝』『本住吉神社誌』などの説)、往来する船を監視したことが記される。この地の住吉神社は、『住吉大社神代記』にも住吉神の主要七社のうちの一つで、摂津国菟原郡の住吉社として、筑前国那珂郡の住吉社などとともにあげられる古社である。
 仁徳朝になって住吉郡墨江に港津が定められたが(仁徳記)、そのときに今の住吉大社の地(大阪市住吉区住吉町)に住吉神社が遷座し、津守氏が住吉神主となって代々奉斎したことが知られている(『姓氏家系大辞典』など)。住吉神社の旧地には、住吉宮町遺跡のなかに本住吉神社がある。同社が明治の旧県社であったものの、延喜の式内社ではなかったこともあって、上記「渟中倉の長峡」(『摂津国風土記』逸文の住吉条には「沼名椋の長岡の前」)を現在の住吉大社の地とみる説がやや多数のようであるが、神社の沿革や船舶監視の地理事情からみても、宣長説が妥当だとみられる。東北近隣の東灘区本山には式内社の保久良神社があり、こちらは神武東征の際に神戸の和田岬あたりから難波への海上先導にあたったと伝える椎根津彦(珍彦)を主神とし、その後裔の倭国造一族の倉人氏(後に大和連を賜姓)が奉斎したとみられるが、津守氏の同族の海神族であった。
 こうした氏族や祭祀・地域などの諸事情を考えると、景行天皇西征の際には、「田裳見宿祢の先代」にあたる人物(名前は水吹宿祢とも折羽足尼とも伝える)が深く関与したものとみられ、その者が西求女塚あたりの被葬者となった可能性が大きいと思われる。また、東求女塚の築造が少し遅れるとしたら、この古墳かあるいは神戸市長田区にあったという大古墳の念仏山古墳(既に消滅して詳細が不明も、一説に全長が約二〇〇Mという)が田裳見宿祢が被葬者という可能性もあろう。以上に見てきた古墳の規模や背景からしても、東・西の求女塚が菟原処女とは無縁であったことがわかる。
 ともあれ、菟原郡には東求女塚の後ではめぼしい古墳は殆ど築造されなかったようであり、これも、住吉神奉斎氏族が摂津国住吉郡のほうに遷った事情に因るものか。菟原処女のモデルになった女性がいたとしたら、こうした海神族関係者であろうとみられ、その大阪湾海上交通を通じて、遠く和泉の茅渟壮士も求婚にやってきたのであろう。神の妻たる「巫女」的な存在ではないかともみられる菟原処女が、茅渟壮士のほうに心惹かれたように『万葉集』に歌われるのも、茅渟に近い住吉郡への住吉神・津守氏の移遷を示唆するものだったのかもしれない。
 
 (2010.3.11 掲上)
 
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