上古史上のWHO問題と『魏志倭人伝』  



  日本の上古史上では、その二大座標軸として「WHEN、何時・時期」と「WHERE、何処・場所」とがあって、これらの的確な把握が歴史研究に必要だと早くに実感してきた。報道の5W1Hのなかでほかに残るものでも、WHO(誰が。「WHOM誰に」も含めて)の重要性も併せて感じてきたが、ここに来て、その重要性を更に思うことがあったので、ここに記する次第である。  


 上古史上で複数の名で現れる同一人物

 記紀などの神話・伝承や神統譜では、本来は同一神とみられる神が複数の名をもって登場することがかなり多く、別の伝承などに別神として行動することがままある。とくに少彦名神については、日本の神々のなかではおそらく最多の神名をもっているのではないかと思われるが、天照大神、大国主神でも物部氏の祖・饒速日命などでも、複数の名で各種史料に登場することは、具体的にその行動を検討すれば分かってくる。ところが、神武天皇以降のいわゆる「人代」に入ると、表記も含め名前に似通った別称を伝える者もかなりいるものの、総じて言えば、人物がほとんど特定される傾向があるから、WHOの問題(具体的に誰に当たるのかという人物特定の問題)はあまり生じない。
 そのなかで、垂仁天皇から応神天皇までの五代の天皇(垂仁、景行、成務、仲哀、応神。ただし、垂仁本人についてはそうではないのだが)とその后妃、関係する主要皇族については、大きな例外があって、戦後に倭建命・武内宿祢・神功皇后という主要人物について、実在性の否定論が強く唱えられてきた。これらの者については、史料に一人の名前で現れていそうな感じがあっても、実はその名前の背後に複数の別人者があって行動しており、これらが混同されることで、特定の人物の行動があいまいになったり、矛盾するような感じを与えたりしてきた。だから、総じて視野が狭窄であるような傾向をもつ、津田史学流の研究者から簡単に実在性を否定されてきたが、これも、ある程度やむをえなかったのかもしれない。上記五代の諸天皇の活動した時期は、おおむね西暦四世紀中葉から後葉にかけての六〇年ほどの時期に当たるから(その意味で、「謎の四世紀」という表現は嫌だが、そうした難しい要素がこの期間にあることは確かであろう)、これ以外の時期に活動する日本歴史上の人物・系譜については、WHOの問題はほとんど生じない。
 そうしたなかで、ほかの時期での例外的な人物が息長氏の祖とされるオホホト王であり、当時の命名法から見てヲホト王(皇位継承で継体天皇となる人物)という本来の位置づけから、三代遡って位置替えがなされ、継体天皇の曾祖父の大郎子と重ね合わされている。これは、七世紀頃に成立と推定される『上宮記』逸文に見える記事のなかで、既にそのようになっている。
 これら人物重複の事象が顕著なのは、皇統譜など根本系譜に大きな改変・造作がなされたことに由来していそうである。すなわち、前者のほうは、応神天皇による前王統からの大王位簒奪が垂仁〜応神天皇という世代(実際には直系相続ではないから、原型は三世代にすぎない)の系譜の改変につながり、後者の「ヲホト王、大郎子」の系譜改変は、継体天皇の大王位継承(これも、実態は王位簒奪か)とその出自系譜の嫡子化に向けての改変に因るものとみられる。これに限らず、問題となる人物の系譜について、正統化に向けての様々な造作工作のなかで、人物重複などの操作がなされる例が多い。
 
 かつて、源義経が奥州平泉で死亡したのではなく、蝦夷地に逃れ遂には遠く大陸にまで渡って蒙古のチンギス汗になったとか、源為朝の遺子が琉球に渡って初代琉球国王の舜天王になったとかいう海外にまで及ぶ伝承もあったが、古代でも、秦始皇帝から不死の秘薬を求めて海外に派遣された徐福(ないしその後裔)が神武天皇になったとかで、壮大なスケールで海外と日本列島とを結ぶ伝承あるいは構想が見られる。最近でも、満鮮地方で活動した某有名人物が日本列島に入ってきて、日本でも著名な歴史人物として活動したとの趣旨で書かれる「歴史物」がいくつかある。
 しかし、これらは歴史学とはまったく無縁のものである。こうした検討ないし研究を歴史学と勘違いしてはならないことは、均衡のとれた歴史常識をもつ人なら、まったく言うまでもない。ところが、ここでこんなことまで言わざるをえないと感じさせる「研究者」がかなり目に入ってくる事情が何故か現出している。どうして、こんな突飛なことが魅力的なのであろうか。私には、とても理解しがたいが、関係者がそれぞれ熱意をもって活動・主張するだけに、どのような説明をすればよいのかを苦慮する次第でもある。夢想は歴史学研究とは無縁のものであることを、なぜか理解しない人々がかなり多いということである(総じて言えば、「理科系」とか「新説提起」を売り物にする人々に多く見られる傾向があるから、まじめな文献検討を基礎からやり直したほうがよさそうな感じもあるものもある)。
 例えば、某コミック誌に連載の漫画『天智と天武〜新説・日本書紀〜』なども、こうした発想に基づくものがあるだけに、どうしたものかと思う次第なのである。おおかたの読者はもとが漫画あるいはフィクションだと受けとめているのだろうが、現代韓国で大ヒットした歴史ドラマの多くが史実に基づかない空想もの主体であり、高い視聴率のもとでこうした内容を韓国国民が信じ込む弊害にも通じそうな感じがある。


 『魏志倭人伝』の登場人物

 多少とも関連して言うと、『魏志倭人伝』に登場する人物について、日本側の史料に伝わる人物に比定する見方も出てきたので、併せて触れておく。これは、空想の話というレベルの話ではないことをお断りしておく。
   ※関連する記事で狗奴国のククチヒコに触れている。
 『魏志倭人伝』は三世紀前半頃の記事だから、時期の問題だけ取り上げても、明らかに崇神天皇の活動時期たる四世紀前葉頃とは異なる(場所の問題でも、『魏略』逸文や『魏志倭人伝』を普通に読めば、北九州の範囲を出ないとみられるのだが)。だから、倭人伝登場の人物について、ほとんど天皇(大王)・王族とかその主要縁者しか登場しない記紀の人物に比定することが、無理なことが分かるはずなのに、疑問な比定が行われたり、日本神話に登場する天照大神について、記紀記事を素朴に受けとめて「女神」と解し、卑弥呼とか壹與(台与)に比定されたりもした。これらも無理スジの作業であるのは、ごく当然なことである。ましてや、倭の女王国(邪馬台国)の重臣や狗奴国王あるいはその重臣が東征して畿内に入り、神武天皇になったなどの説も見られるに至っては、何をか況やという感じがする。それでも、次々に似たような妄説が出てくるのは、論者において、WHEN・WHERE・WHOの三要素についての的確な検討がなされなかった結果だと言うことになる。
 
 さて、邪馬台国側のほうで記事に名前が見える人物について、二人の女王以外では、身柄を知りうる者は皆無に近いが、帯方郡及び魏朝の都へ倭の大夫として遣使にだされた難升米については、「難+升米」で、難が地名としての那・儺すなわち奴国に由来する氏の名で、升米が個人名だとする見方がある。中国南朝に遣使をだした倭国王が「倭讃、倭済」などのように国名の「倭」がそのまま氏の名とされ、これは高句麗の王についても同様に「高l」(長寿王のこと)と記される形式であったことから考えると、ありうることかもしれない。一方で、難升米以外には、例えば副使として見える「都市牛利」については、そうした形で国や地域の名を負いそうでもなく(無理矢理考えれば、「都+市牛利」で「都」が投馬国に当たるか)、難升米と同様に考えられる者が倭人伝の記事には見えないから、この難升米に関する見方が妥当だと言えるほどの裏付けがない。あるいは、正始四年(244)に派遣された使、大夫伊聲耆は、同じように考えれば、「伊+聲耆」で「伊都国」王族出身ということになるのだろうか(そうすると、使者として名のあがる残りの一名、「掖邪狗」についても、無理に考えれば、「倭〔すなわち邪馬台国〕+伽狗」ということになるかもしれない)。
 難升米は、景初三年(239)の遣使の際、魏から率善中郎将(宮廷警固の武管長くらいの意味か)の官職を得ているが、これは次の正始四年の邪馬台国からの使者、掖邪狗らにも与えられた官職だから、さほど重視することではないかもしれないが、正始八年(248)に邪馬台国と狗奴国との交戦に関し帯方郡の塞曹掾史・張政が遣使となり倭国に渡って、難升米に対して黄幢と詔書を手渡したとあるから、倭国において長く重要な地位にいたことは確かであり、この意味でも奴国王に準ずるくらいの地位で倭の重臣であったとして特に不思議ではない。
 ところで、かりに難が奴国王族が名乗った氏だと受けとられる場合、どうして「奴国」という卑字表記になったのか不思議であるが、これが「難」なら「那・儺や灘、難波」に通じそうで、自らそう名乗っていた可能性も考えられる。難升米は朝鮮半島や大陸への遣使などで活躍するが、奴国王族が竜蛇信仰をもつ韓地から渡来の海神族の出であり、後の大和王権の時代になっても、その族裔の流れを汲む和珥氏や三輪氏の氏人が海神族の伝統を踏まえて軍事・外交で韓地に派遣された事情があって、興味深い。
 そうした早い例が和珥氏一族の塩乗津彦であって、最初に韓地に派遣されたと伝える。倭から派遣され任那の東北、三己の宰(さんこもんのみこともち) となったという。倭国から来た韓地の宰としては塩乗津彦が最初だとされ、この派遣が崇神天皇の時とも『姓氏録』(吉田連条)に伝えるが、実際には、それより数十年も遅い成務天皇の時代にあたりそうである(崇神朝の人である彦国葺の孫という塩乗津彦の世代から言っても、四世紀中葉頃となろう)。ともあれ、塩乗津彦(その海外への行動に因る通称で、別名の「松樹」君もその頭の形状に因るという)の後裔はながく韓地に残り、後には百済に属して宰に由来する「吉氏」を名乗り、百済が滅亡したときに本朝に帰化している。
 戦前には、内藤湖南の説に、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守(たぢまもり。但馬+毛理)だとする見方があるが、これが当たらないのは年代的なものも含めて言うまでもない。
 「奴国」の例から見ると、『魏志倭人伝』に記載の倭地諸国の国名は、帯方郡あるいは魏朝の官人の手による卑字への表記換えというのもありうることかもしれない。それは、同様に女王卑弥呼の漢字表記にも言えるかも知れない。現存の倭人伝が多くの報告書のとりまとめと言う性格であれば、倭地の同じ地域について、報告者によっては「難、奴」という異なる表記が各々あっても不思議ではない。
 
 こうした諸事情もあって、上古史上のWHOの問題について重要性を感じるものでもある。ここでの『魏志倭人伝』関係の人名記事の解釈は勿論、試論にすぎず、こうした見方もないわけではないという程度のものだが、ともあれ、本件問題はかなり奥行きが深そうでもある。
 
  (2015.6.19 掲上)
 

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