邪馬台国についてのその他諸問題と検討の感触総括

 

  邪馬台国についてのその他諸問題と検討の感触総括

                                                        

  ここまで邪馬台国に関係する諸問題を検討してきて、本文に必ずしも十分に書き込んでいなかったいくつかの問題について、ここに簡潔に書き留めておくことにする。

  個別の諸問題
 
(1) 『魏志倭人伝』に見える地名・人名の訓み方など
 同書には、倭地・韓地などの地名や倭人関係者の人名が多く見えるが、これらをどのように訓むかにより、その具体的な比定の地名・人物に差異が生じるので、この辺について考えの整理を簡単にしておきたい。
 これら固有名詞について、誰(どこの地の人々)が名づけたのかという問題があり、最終的に記録に残し表記したのが帯方郡関係者であった(この過程で適宜、卑字を用いて表記替えしたことも考えられるが)としても、原音・原表記が先ず倭人側にあったことは疑いない(帯方郡使が行かない地についても記述がある故)。その場合、当時の倭人が漢字を知らなかった、使用しなかったと考えるのは、大きな無理がある。奴国をつくった海神族も、邪馬台国の支配層であった天孫族も、ともに大陸から朝鮮半島南部を経由して日本列島に渡来してきており、そのなかには知識階級人もあって当然、当時は一部識者が漢字も知っていた。しかも、彼らの渡来が何集団かあったにせよ、それらが紀元一世紀代までに渡来してきたことを考えると、固有名詞の表記が古い発音に拠るものであったとみられる。
 こうした関係で言うと、言語学者で神戸市外国語大学教授であった長田夏樹氏の著『邪馬台国の言語』(一九七九年刊。なお、二〇一〇年に「新稿」が頭について改訂版が刊行される)がある。それに拠ると、倭人伝の「洛陽音とその訓」が同書に掲載されるが、例えば、末盧(マツラ)・奴()はともかく、対馬(トマ、トモ)、一支(ユツキ、ユキ)、伊都(ウタ、イタ)などを見ると、「洛陽音の訓」を当時の倭人がそのまま採用していたとは思われない。ちなみに、邪馬台(ヤマド、ヨモド)、狗奴(コナ)、卑弥呼(ヒムカ、ヒミカ)、狗古智卑狗(コカチヒコ)などの訓みも、必ずしも「洛陽音」とは思われない。
 わが国の漢字訓みで最古とされるのが「呉音」であり、総じて言えば、「漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音であって、いつから導入されたものかは明確ではない。雑多なものを含むため、様々な経路での導入が想定される」、という。だから、倭地の倭人が漢字を音とともに固有名詞に用いていたとすれば、とりあえずはこの呉音を主体に考えておくのが無難なところではなかろうか。ただ、奴国の「奴」の訓みは、呉音ではヌ、漢音ではドとされ、上記のように洛陽音では「ナ」とされるから、統一的にどのような音といえるのかが、判じがたい。
 安本美典氏の著『卑弥呼は日本語を話したか』(一九九一年刊)でも、当時の人名・地名について考察するが、当時の音・訓みについて、どれかに特定できるものとはなっていない。

 だから、訓みがはっきりしない漢字の固有名詞比定は慎重にする必要があるが、例えば「狗古智卑狗」については呉音で「ククチヒク」とされるというから、音の近い「鞠智・菊池+彦」に当てても(水野祐氏などの説)、あながち誤りとは言えなさそうである。「鞠・菊」の古い訓みが「クク」であったことは、『和名抄』の例に限らず、ほかにも確実にあげられる。 
   ※女王国側の外交使節として見える人名については別記

 また、倭地の「狗奴」や韓地の「狗邪韓国」の「狗」の地名は、これを主構成する種族が焼畑農業を行い犬狼信仰(火神祭祀、月神や月星への祭祀にもつながる)をもつことに由来したとみられ、そうした祭祀をもたない女王国側で敵国を嘲って言ったのかもしれないが、「狗古智卑狗」の例からして、狗奴国側でも、この祭祀を誇りにして自ら名乗ったのかもしれない。いずれにせよ、帯方郡人が名づけたものではないものを含むことが、このことでも分かる。
 古代の隼人が「狗吠」(くはい。元日・即位・大嘗祭などに、宮門を守る隼人が犬の遠吠えをまねた声を発したこと)をしたことは、よく知られ、記紀にも見える。
 
(2) 古代の入れ墨とその分布
 古代倭地にあって、入れ墨は海辺に住む海神族と山地に住む山祇族の双方の習俗にあった。それが記紀のほうにも具体的に見えて、海神族の代表たる阿曇連でも、山祇族の代表たる大伴・久米氏族の祖たる道臣命(大久米命)について記される。
 古代の入れ墨には二種があって、大林太良氏の言う「入れ墨他界観」の分布圏は、ほとんどが焼畑農耕地帯と重なり、竜の文身の「水中害防止観」の圏域よりはるかに広い、古い習俗のようである、との指摘を日高旺氏が『黒潮の文化誌』でも述べる。焼畑農耕地帯に住むのが山祇種族(隼人、蝦夷につながる)であり、他方、水中害防止観の圏域に住むのが海神種族であって、同じ「入れ墨」という形態をとるからといって、これらを同一視してはならないことは言うまでもない。 
 なお、詳しくは拙考「入墨についての雑考」を参照されたい。
 
 今後、適宜、追加点を記載することもあります。
 


  検討後の感触総括
 
 邪馬台国に関する問題がこれまでなかなか解決されないままできたことについて、私見・感触を最後に改めて順不同であげておきたい。

○ まず、基本文献を的確に取り扱ってこなかったという事情もあげられる。これは、考古学者に限った話ではない。要は、一般論でいうと、歴史文献が長い書写期間をもった場合に、その過程で多くの異本が生じ、誤記・誤写や記事の訛伝・増補・削除がこれまで随分起きてきたのだが、このことを認識しない議論が多すぎるということである。従って、現存本の記事・内容をただただそのまま文字面を信頼するのでは、歴史学の検討とは言えないということでもある。本来、親鸞の写本研究をしてきたという古田武彦氏が、現存の『魏志倭人伝』を信頼しすぎて、多くの研究者の誤字・誤記の認定を「共同改定」と批判するのは、偽文書を多くの文書を取り扱ってきた歴史学研究の基本を知らない言動と言わざるをえない。
 
○ 文献の記事を自らの思込みで「信念的」に把握して、それについての検証・裏付けをしないまま、自説を展開(かつ、他説を批判)していくという姿勢の方々も少なからず見受けられる。繰り返しになるが、著名な学究といえどもおかしな把握はある。
 そして、結論先取りの議論も多く、個別の発掘・発見をセンセーショナルに報道するマスコミの姿勢にも問題が多かった。一部の考古学者がこうしたマスコミを利用してきたことも否めない。基本文献を踏まえ、冷静に合理的、総合的に検討すべきものがそのように取り扱われなかったということになる。そこに、思想的な先入観・予断もあったのかもしれないが、自己の認識・知識に合わないとしてさほどの具体的な検討なしに、重要な史料や検討材料が切り捨てられてきた。津田史学の流れを汲む研究者に、悪意がなかったとしたら、広く東北アジアの歴史・習俗・伝承なども含めて総合的に検討する姿勢(及び、その前提の知識も)が欠如していたことは認められよう。
 
○ 邪馬台国に関する議論が長引いてきた理由や立論・反対論のなかには、歴史の基本知識の無知、歴史検討作業の理解の欠如を「武器」にしているようなものがあり(勿論、当事者にはそうした認識があるとは思われないので、客観的に判断した場合ということでもあるが)、これでは問題解決につながるはずがない。倭人伝の行程記事は、帯方郡使の具体的な出張の報告書に拠るということを基礎に考えて、均衡のとれた総合的な大局観で具体的に見ていくことが必要である。
 邪馬台国問題についての書には、自然科学系(理系)の発想・視点ということを売り物にするものもあるが、その場合、往々にして、歴史知識の欠如やバランスの取れた歴史観の欠如を示すような論述が見られがちのは残念なことである。
 
○ ここまでにも書いてきたように、わが国の古代史研究のなかで邪馬台国問題は、もっとも長い歴史をもつ課題の一つであり、きわめて多くの研究参加者がこれまでにおられて、記事の文脈・語義等について詳細な検討がなされ、様々な説が提出・展開されてきた。だから、格別な新説がこれから出てくることは、特別な新資料の出現がないかぎり、無理な話である。ここまで記してきた拙見も、すべてについて先人研究者がいて、そうした見解を整理し、適宜統合したものであることは、本文中にも触れてきた。長年、この関係の検討・業績を見守ってきて、できるだけ総合的合理的に考えたいと思ったものの結果である。
  そうした意味でも、今更画期的な新説など、出てくる余地はまずないと言えよう。新所見が浮かんだとしても、それが珍説・奇説ないし突飛な思付きにすぎないのではないかというチェックが是非とも必要だということにもつながる。ましてや、そうした珍奇な自説に固執してはならない。
 
○ そして、最後の判断となるのは、当時の歴史情勢のなかで現実的な諸点を踏まえて、様々な面で的確・適切なバランスの取れた見方が必要だということであり、それが大きな長い歴史のなかでどのように組み合わされて最終的に体系化されるのかということだ、と私には思われる(邪馬台本国の東遷なぞ、いかに観念的な思考なのか、朝鮮半島南部に倭が軍事的に登場する四世紀後葉より遥か昔に日本列島大半が一つの政治統合体であったことなぞ、いかにあり得ないことなのか〔その場合、列島各地に中小政治権力の分立・並立にならざるをえない〕を理解できない人は、古今東西の政治力学・軍事感覚をしっかり学び直したほうがよいのではないかと思われるところである)。
 
○ ここまで殆ど触れなかったが、倭人伝の各史料や語義についての三木太郎氏の丁寧な研究『魏志倭人伝の世界』『倭人伝の用語の研究』などはたいへん重要なものであり、誠実な研究姿勢を見せてきた白崎昭一郎氏の研究も議論や検討に際して参考になる(だからといって、その所説が妥当かというと決してそうわけではなく、彼が著作『東アジアの中の邪馬臺台国』の最後に記した結論としての諸点の半分ほどに対して、私見では反対である)。これまでの研究の歩みを考えつつ、付記しておきたい。

 これまでの様々なご教示・示唆などの学恩をうけた皆様に深く感謝申し上げ、この関係の文をとりあえず終えておくこととします。
 
  (2015.6.4 掲上)

 
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