狗奴国の実態─邪馬台国時代の中・南部九州

 

    狗奴国の実態─邪馬台国時代の中・南部九州


                                           宝賀 寿男



 はじめに

 邪馬台国が、『魏志倭人伝』に路程記事による限り、南九州にあるとは到底、思われなかったので、しかも南九州にあるはずの狗奴国の記事もさほど多くないので、私の観念のなかでは南九州という地域が邪馬台国問題を考えるに際し、疎かになっていた感は否めない。しかし、私と面識のあった方々のなかで何人かが南九州、とくに東南部の日向とか豊後南部を女王の居る地として考えようかという方もおられるので、また、狗奴国の問題もあるので、九州の中部・南部の上古史を検討してみたところ、興味深い点も種々、でてきており、これを整理したものである。その結果、狗奴国を主に取り上げることにもなったので、主題も変更した次第である。
 これまでの議論を見ても、邪馬台国に絡めて南九州や中部九州を取り上げた論考・研究書はあまり多くはなく、管見に入ったところでは、森浩一氏の「クマソの考古学」(『倭人・クマソ・天皇』1994年刊)や、ふたかみ史遊会(石野博信氏企画)の『邪馬台国時代のクニグニ 南九州』(2014年刊。本郷泰道・村上恭通氏などの論考を所収)、菊池秀夫氏の『邪馬台国と狗奴国と鉄』(2010年刊)など、肥後関係では井上辰雄氏の『火の国』(1970年刊)、くらいのようであり、これらに熊襲・隼人、古代肥後の関係書などを踏まえて、本件を考えてみたい。

 
 基本的概括的な前提

 予め『魏志倭人伝』を踏まえて、大凡のメドをつけておきたい。そのための整理であり、これが本稿の前提条件ともなる。
@ 同書記事には、「郡(帯方郡)より女王国に至るに万二千余里」とあり、この記事は『魏略』逸文にも併せて見えるから、大前提としてよい(「女王国」が邪馬台〔女王の都〕の別称であることはいうまでもない、と三木太郎氏『倭人伝の用語の研究』で記すとおり)。
  その間の路程で、「帯方郡→狗邪韓国→対馬国→一支国→末盧国→伊都国」が各々「七千余里+千余里+千余里(『魏略』逸文には距離は見えず)+千余里+五百里」と記されるから、郡から末盧国まで一万里(従って、残るは約二千里)、伊都国まで一万五百里(従って、残るは約千五百里)となる。末盧・伊都の比定地はほぼ定まって異説が少ないから、各々から約二千里、約千五百里の地点に女王の都する地があったわけである。これらの距離は、同書の韓地・倭地についての記事に特有の尺度(いわゆる「短里」とされる)で測られるとするのが自然である。そうすると、女王の都は筑後・肥後の境界(筑肥山地)から豊前北部にかけての線くらいまでの範囲に収まるし、これに多少の幅を見ても肥後北部から豊前・豊後の境界にかけての線の範囲とになる(従って、これら範囲から大きくはずれた本州などに女王の都邑地を求めることは、まず成り立たない)。こうした地理把握は、邪馬台国畿内説をとる学究からは、なぜか無視されがちである。

A 女王の都の南方境界外に狗奴国があり、この国は女王国に属せず、女王国と常に争っていて、相攻撃していたというから、両国の版図・境界がほぼ接していたとみられる。狗奴国側の大官(ないし属国の長)に狗古智卑狗があったとされ、「狗古智」が肥後北部の「菊池」地方にあたるとみるのが自然だとしたら、女王国に軍事的に対抗しうる国・勢力圏の規模として、狗奴国の版図ないし勢力圏を一応、肥後一国くらいにみてよかろう。

B 「狗奴国」の訓みは不明であり(この国家を構成する主種族が犬狼信仰を持つ故に名づけられた可能性が大きいので、コウナ国あるいはコナ国とするほうが訓みとして自然か)、頭からクヌ国あるいはクナ国と訓んで「クマソ(熊襲)」に結びつけるのは疑問が大きい。熊襲は、津田博士がいう「球磨+囎唹(曽於)」といった語呂合わせで考えるべきではなく、隼人とも種族的に別物であるから両者を同一視で思い込むべきではない。「狗奴国」の主領域の把握にあたっては、津田博士のいう熊襲の先入観に囚われてはならないということでもある。

 
 九州の南北を分断する境界線

 三世紀前半の九州では、南北に女王国圏と狗奴国圏が分かれて抗争があったとしたら、どのような形で両者の境界線ができていたのだろうか。
 これについては、森浩一氏は上掲論考で興味深い説を提示する。それが鬼界カルデラの約六三〇〇年前(放射性炭素年代測定法による年代値一に七三〇〇年前ともいう)に起きた大爆発(日本における完新世=縄文時代の最大の噴火)に起因するというものである。その位置は、鹿児島県の大隅半島・薩摩半島の南方の海中で、現在の硫黄島(鬼界ケ島)・竹島(この両島に黒島を入れて、鹿児島県鹿児島郡三島村)を含む海域一帯とされる。折しも、新岳での爆発的な噴火で火山活動が活発になって全島民が二〇一五年五月末に避難した口永良部島は、鬼界カルデラの南南西約三〇キロにあたる。
 このカルデラで起きた大爆発の火山灰は、偏西風にのって遠くは東北地方南部まで到達したが、主として南九州に広範に落ちており、火山灰(アカホヤ」と呼ばれる)が濃厚に降ったところ(アカホヤ火山灰の厚さ二〇センチ以上)とそうでないところの境界線に着目する。この線が、大分県の中津辺りから南西に延びて日田盆地から熊本市北西、さらに島原半島東部をかすめて天草に及んでいる。ちなみに、火山灰の厚さ三〇センチ以上で境界線の場合を見るとしたら、大分県の佐伯辺りから南西に延びて熊本県の宇土半島南方の八代辺りに及ぶものとなる(熊本県内の主要河川も絡めて言うと、北から見て、境界線A、白川、緑川、境界線B の順となる)。

  アカホヤ火山灰の地域図
  

 アカホヤが濃厚に影響を与えた地域では、稲作にあまり適さず、主に畑作が行われ、弥生時代で邪馬台国と同時代頃(弥生時代後期から古墳時代初め頃)とみられる免田式土器が分布したが(それゆえ、森浩一氏などからクマソないし隼人の土器ともいわれ、佐古和枝氏は狗奴国の象徴ともみる)、一方、影響の少なかった九州の西北地方(福岡県・佐賀県、島原半島)では稲作が発達した。
 この両地域にそれぞれあったのが、弥生時代後期の女王国連合圏と狗奴国連合圏だとみることにもつながる。西北地方は、『魏志倭人伝』に書かれる弥生時代の絹織物の出土分布が見られる地域でもある、と森氏は指摘する。稲作を日本列島に伝えた海神族(博多平野の奴国などを構成した種族で、中国江南から来て海洋技術や漁撈に長じた。入れ墨の習俗ももつ)も、その種族分布は九州西北地方にとどまって、南九州には殆ど及ばないから妥当な指摘と言えよう。
  ※入れ墨については、「入墨についての雑考」を参照。
 実は、地理学的に言うと、上記の境界線は、「臼杵─八代構造線」と呼ばれる構造線とほぼ一致しており、これから南が南九州と呼ばれるが、その北方側に別府と島原とを結ぶ地溝帯(「別府─島原地溝帯」)がある。東の別府湾から由布鶴見火山群・九重火山群・阿蘇山・熊本を経て西の島原半島に続く、東西一五〇キロ・幅二〇〜三〇キロに及ぶ巨大な大地の裂け目で、多くの火山や活断層が分布する。その地溝帯の北方が北九州といわれ、両線のちょうど真ん中に阿蘇山が位置する。この地溝帯は、ちょっとズレがあるが、上記の境界線にほぼ相応するともいえよう。判断が難しいが、筑後と肥後との境界や「菊池彦」などを考慮して、一応、「別府─島原地溝帯」ないしアカホヤ境界線Aが、当時の両勢力圏の境界とみておく。大分県別府の鶴見岳−阿蘇山−長崎県島原半島の雲仙岳とつづく火山地帯の南北で、異なる習俗・祭祀の連合国家圏があったとみると分かり易い。

 もちろん、自然環境や地理風土がただちに上古代の政治圏に結びつくわけではないが、熊本県の場合には以下に見る遺跡・遺物や綱引祭事などの習俗とも、ほぼ対応するといってよさそうである。
 ちなみに、黛弘道氏は、その著「古代学入門」で臼杵─八代構造線のほうを重視する見方を示している。弥生式土器の分布に着目して、同線の南側を免田式土器に代表させ、北側を須玖式土器福岡市須玖遺跡を中心に弥生中期頃から分布)に代表させて、青銅器・鉄器を含む金属器文化が栄えた(一方、南はまだ石器段階)とみる。ただ、こうした傾向は、弥生後末期には鉄器の急速な普及で多少とも変更していたのではなかろうか。黛氏も、同構造線の北側の緑川(熊本市の南、益城郡を流れる)を、須玖式土器と免田式土器を分ける大体の境界線とみている。

 
 弥生後期の熊本県の考古遺跡・遺物から見る勢力圏

 弥生後期の九州の考古遺物を見ると、阿蘇に源を発し宇土半島の北方に河口をもつ白川のあたりを境に様相を異とするとされ、これも境界線にほぼ相応する。九州北部に由来する成人用甕棺墓や青銅器の分布も、境界線AないしBの北方に多いとされる。
 この時期の熊本県の土器様相については、菊池川流域に九州北部の影響をうけた野部田式土器(玉名市天水町野部田の地名に因る)が主にあり、白川ないし緑川の流域より南には免田式土器(重孤文土器)が濃く分布して、肥後は南北で異質の文化圏を形成していた。もうすこし言うと、免田式土器は、阿蘇谷から白川・緑川流域や宇土半島基部の南側の八代海沿岸・人吉盆地など熊本県(九五カ所の出土地)を中心に、薩摩半島など中・南九州の西部地域に主に分布するが、福岡県(八女市)・佐賀県(鳥栖市・武雄市)などでも若干は見られるので、両勢力圏は抗争ばかりではなく、多少の交流もあった、と分布が示唆する。佐賀県の脊振山系南麓、二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町)からも免田式土器や小型倭製鏡・貝釧などの出土があり、甕棺からは内行花文鏡二面も出る(この辺も含め、内行花文鏡は弥生後末期の遺跡から出ている)。

 白川の源たる阿蘇谷の考古遺物も特徴的である。九州北部との関連を示す青銅器などの出土も豊富であり、後期後半になると鉄器を出土する集落が密集する域とされ、大量の鉄器と鍛治炉が出土した。阿蘇の鉄生産の様相は九州北部とは異なり、鉄鏃の出土が目立ち、材料も舶載素材のみではなく、同地で豊富に産出する褐鉄鉱を使って鉄器を製造した可能性が高いのではないかとされる。弥生後期の九州北部の勢力圏に対抗しうる勢力は、同時代の九州にあっては阿蘇地域をバックとするか密接に協力する勢力しかなかったといえそうである。
 阿蘇の下山西遺跡では免田式土器が竪穴の中央部に祭祀的な姿で出土する。弥生期の墓に供える形の発見例(上益城郡御船町の南原A地点遺跡、同郡山都町の稲生原遺跡)などから、この土器は祭祀土器だと推定させる。村上恭通氏も、祭祀的な使用が卓越したとみる。北薩摩地方から熊本県の人吉盆地では、隼人の墓制「地下式板石積石室墓」から免田式土器の変化した土器が出土している。
 さて、上記両線の中間地帯の阿蘇山西側が中九州と呼ばれ、殆どが熊本県が属しているので、同県の主要弥生遺跡を見ると、宇土半島基部辺りからその北方の沿海平野部に多数が分布する。免田式土器の命名は、これが大量に発見された本目遺跡が球磨川上流の人吉盆地東側の球磨郡あさぎり町免田本目(旧免田町域)にあって、その地名に因るが、これと関連があるとしても、狗奴国の中心は、南方の球磨郡ではなく、宇土半島基部から北方にかけての平野部(熊本県中央部)にあったとみるのが良さそうである。
 また、阿蘇を中心地域とみるには山間部にすぎて、九州北部勢力圏に常々対抗する必要性が感じられない(ましてや、豊後の高添遺跡を中心とする大野川流域や、日向の川床遺跡を中心とする一ツ瀬川流域では、遠隔地すぎて、肥後と軍事連合体ができたとは考えがたい。これら豊後や日向あたりの勢力は、女王国圏とは言えず、狗奴国圏とも言いがたいが、後者とほぼ同質的な要素があったとみられる)。ちなみに、古代の火国造家は、先祖が宇佐に出て、阿蘇に入り、そこから肥後の平野部に出て肥後全域を掌握して宇土半島基部に根拠をおいている(拙著『息長氏』を参照)。肥後国府も当初は託麻郡に置かれ、その後に飽田郡(ともに熊本市域)に遷ったから、この辺り一帯が肥後全体の主要地であった。
 
 については、菊池秀夫氏は、鉄器の普及が弥生末期には九州北部(福岡県)から中部(熊本県・大分県)に急速に拡がり、そして中部が北部を凌駕するほどまでになるとみている。この時期の九州中部の鉄器急増は狗奴国の出現を意味するともみる(上掲書)。「凌駕」とまではともかく、この頃に九州北部に肩をならべる勢いにあったといえよう。ちなみに、弥生末期の前頃までは、畿内でも日向でも鉄器の出土数は微々たるものであり(川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』や寺沢薫著『日本の歴史2 王権誕生』など)、これら地域に政治的大勢力が出現したとは考えがたい。菊池氏も、鉄製武器の出土状況から狗奴国を考えると、邪馬台国が畿内説であれ九州説であれ、「九州中部あたりに存在していたと考えるほうが妥当だ」と結論する。
 具体的な鉄器遺跡等で言うと、熊本県では弥生後期後半から終末期にかけて鉄鏃の増加が目立つ。その出土遺跡は、熊本県玉名郡・菊池郡、山鹿市・阿蘇郡など、主に福岡・熊本県境の山間部に多い。代表的な遺跡として、山鹿市の方保田(かとうだ)東原遺跡、菊池郡大津町の西弥護免遺跡、さらに阿蘇市のほうでは池田・古園遺跡、狩尾湯ノ口遺跡(併せて狩尾遺跡群といい、近隣に鉄鉱山がある)や下扇原遺跡・下山西遺跡があげられ、これら遺跡からはいずれも多数の鉄鏃を主として鉄器百点超が出土する。
 これら遺跡のある山地県境は、三世紀頃も、邪馬台国と狗奴国との国境地帯に近く、この一帯に鉄鏃を集中させるような軍事的緊張が続いたとの想定を、奥野正男氏の見解(奥野氏の『鉄の古代史1 弥生時代』)を踏まえ、菊池氏は記している。阿蘇のほうは鉱産地に近いという事情もあろう。

 現在の福岡県と熊本県の県境に跨るのが筑肥山地であり、その東側延長は大分県に及び、矢部川と菊池川の分水嶺をなしている。この山地が弥生後末期でも、二大勢力圏の境界線となっていたとみられる。境界線の南方では、弥生後期に福岡県同様に玉名郡を中心に環濠集落が営まれている。

  ※『熊本県の歴史』所載の「弥生時代後期後半の主な鍛冶遺構の分布」
  

 上掲のうち、菊池川中流沿岸の台地上に方保田東原遺跡がある。鉄鍛冶遺物が多く出て長く存続した環濠の大集落遺跡であり、多数の土器のほか、鉄鏃・刀子・手鎌・鉄斧・ヤリガンナなどの鉄製品、巴形銅器・銅鏃・小型製鏡などの銅製品がある。菊池川流域には弥生期の青銅器分布が多く、この盟主的存在が同遺跡であった。その西方近隣には鍛冶遺構四基を出す諏訪原遺跡(玉名郡和水町諏訪原)があり、方保田遺跡の五キロほど東には古代山城の鞠智城もあって、この辺りがおそらく狗古智卑狗の本拠ではなかったろうか。この菊池川流域は、女王国連合圏に対峙する狗奴国連合圏の最前線という評価となろう(菊池氏に同旨)。

 
 狗奴国の中枢地

 肥後において、北部の菊池・山鹿・玉名の諸郡や山間地の阿蘇郡を除いて、狗奴国の都城があった地域を考えてみる。とくに宇土半島基部の北方にある白川流域の平野・台地部に注目される。それは、免田式土器の北側の集中分布地域が、阿蘇谷から白川・緑川両流域にかけての一帯にあるからである。村上恭通氏は、熊本独自の鉄鏃とされる「二段逆刺の無茎鉄鏃」の分布の中心も、白川・緑川両流域にあるとする。
 その地域のなかには鉄器工房跡が発掘された西弥護免遺跡が、四重の環濠を持つ大環濠集落でもあるからであって、この辺を先ず見ていく。この集落遺跡は弥生前期からつづくもので、阿蘇山の西側約二〇キロ、菊池郡大津町大津の西弥護免にある。白川の中流北岸で、熊本空港の北方近隣に位置しており、弥生中期の甕棺や銅鏡(小型倭製内行花文鏡)一面も出た。この遺跡の鉄器出土は弥生時代で九州随一とされ、武器類件数が一三三、鉄器総件数が五八一を数え、二百軒超の住居址があり、鍛冶滓を出した(菊池氏前掲書)。
 緑川流域でも、上益城郡嘉島町北甘木の二子塚遺跡で、二六七基の竪穴住居遺構が検出され、環濠内も含め二五〇点もの鉄製品や二基の鍛冶遺構が出た。内行花文鏡の可能性ある破片も出ており、弥生V期の遺跡とされる。位置は、西弥護免の西南方で、熊本市街地から見れば東南近隣にあたる。二子塚遺跡の南西近隣で今は熊本市域となる、南区城南町(旧下益城郡)宮地の新御堂遺跡からは、巴銅器・王莽銭(大泉五十)や鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鉄鏃なども出た。この城南町では免田式土器が多数見つかっており、出土数や文様のバリエーションから見ても、熊本平野の南端部の緑川流域が分布の中心地ではないかと村上恭通氏はみている(「二・三世紀の南九州における鉄の普及」など)。

 鉄器や鍛冶遺構、あるいは免田式土器という分布の観点からは、これら遺跡が評価されるが、北方の筑後川流域に都城があったのではないかとみられる女王国連合では、この流域に多数の鉄器を出す遺跡が知られないことから考えると、狗奴国の国都のほうでも係争地から少し離れていた場合にはさほどの鉄器遺跡・鍛冶遺構である必要はないことになろう。その意味で、熊本市内の大集落遺跡を考えてみる必要がある。
 市域には、北側に五丁中原遺跡(北区貢町・和泉町)、鶴羽田・戸坂遺跡(北区鶴羽田町)もあるが、もっとも留意されるのは熊本市街地の東北方に位置する山尻遺跡群であり、旧遺跡名で言うと山尻遺跡・石原亀ノ甲遺跡・下南部地蔵墓碑などを含め、東区弓削町山尻などの一帯にある。弥生時代を中心とした大集落で、白川中流の南岸に位置し(熊本空港の西北西近隣)、西弥護免からも遠くない。当地からは、弥生期の小型倭製鏡(内行花文鏡。銘文なしの破片)も出た。菊池氏も、狗奴国の中心は、位置や生産力から推して白川流域の勢力だったとみる(山尻遺跡群について上掲書は触れないから、具体的な中心地は若干違うか)。

 なお、狗奴国が中国・朝鮮半島と交易するためには、有明海から出ることが必要になるが、その場合、有明海を含む航路の確保は重要課題だったとみる見方もあり、邪馬台国との戦いはこの制海権をかけた戦いでもあったという見方につながる。しかし、有明海といっても外洋に出る航路は島原半島南方を回るだけの話にすぎず、六世紀代頃の人吉盆地の才園古墳球磨郡あさぎり町永才)から出た中国南朝の金メッキの神獣鏡や、新羅の古墳出土の轡の鏡板と類似する物を根拠にして、韓地や中国南朝との通交をクマソがしていたとみるのは飛躍がある。同墳出土品には馬具などもあり、これらが何時、誰によって当地にもたらされたのかの問題でもある。もともと山地原住で航海技術に優れたとは思えない種族が遠く海外とまで単独で通交していたとみるのは早計ではなかろうか。クマソの名義や免田式土器・上記金メッキ鏡に引きずられて、クマソや狗奴国の本拠を肥後南部の人吉盆地を含む球磨郡までもっていく見方は疑問が大きい。

 
 一応の総括─少しずつ浮かび上がる狗奴国の歴史像

 かりに狗奴国圏や主要地が以上に見るようなものである場合、敵対する女王国圏の都が肥後国境に近い地域に置かれたとみることには大きな不自然さを感じる。その意味でも、筑後国南限に近い山門郡やその周辺に女王国都を考えるのには疑問が大きい。山門郡の南、筑後南端部の三毛郡(大牟田市あたり)は免田式土器の出土もあるなどで、どちらの勢力圏か判別しがたい面があるも、羽山台遺跡から多数の甕棺墓が出たことや、潜塚古墳の箱形石棺などをみると、北側の筑後圏においてよさそうではあるが。
 以上、『邪馬台国時代のクニグニ 南九州』という著作に刺激・示唆を受けて、最近までの考古学の成果を踏まえつつ九州の中部・南部の弥生時代後末期を考えてきたが、菊池氏などの上掲書にも多くの教示を受けて、随分さまざまなことが分かってきたと改めて認識し、先学の研究に深謝する。『魏志倭人伝』に数行しか記載のない狗奴国の実態が少しずつ見えてきたのかもしれない。
 その場合、狗奴国が遅れた未開の国ではなく、弥生時代に相応する文化・技術や生産力をもっていたとするほうが妥当であろう。だからこそ、女王国圏と長く抗争できた基盤があったということである。既に菊池氏が、「狗奴国を証明することにより、邪馬台国を証明することも可能となった」と指摘し、「九州北部の勢力が女王国連合、九州中部の勢力が狗奴国と考えられる」と記すが、具体的な結論地域が拙見と多少違ったとしても、この言説がほぼ当てはまることも、併せて実感する。

 最後に、狗奴国の行く末について感触を付記しておくと、九州北部にあった邪馬台国残滓勢力ともども、畿内の大和王権の勢力が伸張するなか討滅・吸収されたことも考えられるが、その前の四世紀前葉に火国造の祖・建緒組命が阿蘇から肥後平野部に進出するなか狗奴国残滓勢力が滅ぼされたのではなかろうか。
 邪馬台国本国の畿内への東遷はありえないし、神武東征というのも出発地・筑前海岸部(日向ではないことに留意)の伊都支分国の王族庶子が大和盆地に討ち入ったものだから(拙著『「神武東征」の原像』を参照)、これ以外の想定はまず考え難いところである。狗奴国系や山祇種族の習俗である月神祭祀(星宿信仰につながる)や犬狼信仰がわが国上古代の主流にならず、太陽神祭祀や鳥トーテミズムが古代大王家に強く見られたことを想起する必要もあろう。
 ちなみに、『風土記』の記事では、崇神朝に肥後国益城郡の朝来名峰に土蜘蛛の打サル・頚サル(サルは)の二人が居り賊衆百八十余人を率いて、「皇命」に従わなかったので、討滅されたとある。「朝来名峰」とは、熊本県上益城郡益城町福原の南部の朝来山(標高465M)かとされており、二子塚遺跡の東北東近隣に位置する(熊本空港の南方近隣)。この「土蜘蛛」と号される人々が狗奴国末裔かということでもある(この場合、狗奴国の中心として、緑川流域の益城郡のほうに留意される)。朝来名峰の西方で、二子塚遺跡の西北近隣の熊本市東区には、建緒組命を本来の主祭神とする健軍神社がある。筑後一宮の高良大社で正月に行われた犬の舞の行事にも留意される〔註〕
 古墳時代前期になると、熊本県域でも鉄器をもつ集落がほとんど見られなくなると村上恭通氏も言うが、この辺が狗奴国勢力の終焉といえるのではなかろうか。
  
〔註〕 中世末期成立という高良大社文書『高良記』には、正月十五日に降人の頭として本朝の御門の守りとなり犬の面をつけ犬の舞を舞う行事が今も高良大社で続いていると記され、この役割をつとめたのが祠官の百済氏であったとされる。高良社祠官の百済氏は百済滅亡後の七世紀後半に来朝した百済王一族の後裔という系譜を伝えるから、犬狼トーテミズムから見て、本来は新羅王家か狗奴国王家ないし隼人族長たる者(その族裔)がつとめた役割ではなかろうか。その場合、建緒組命の流れを汲む筑紫国造・火国造の同族たる物部君・日下部君により、高良大社が主に奉斎された事情を考えると、薩隅の隼人族長よりは、狗奴国王家のほうの族裔が本来の任にあったとみられる可能性もある。全国の高良社で武内宿祢が祀られるのも後世の祭神転訛と考えられるから、韓地の新羅王が降人の頭とされるのも疑問がある。
  星宿信仰につながる妙見信仰は、金官伽耶から渡来で同王家の後裔たる周防の大内氏が長く守護神として保持したことで有名だが、中世には百済・聖明王の後と称した。日本三大妙見とされる一つが、肥後国八代郡(肥伊郷も郡域)の八代妙見宮(現・八代神社で八代市妙見町に鎮座)であり、上古狗奴国の領域に残る。その縁起などに拠ると、むかし漢土の白木山神が白鳳期に渡来してきて先ず八代郡白木山に仮座し、益城郡小熊野郷を経て八代郡横嶽(上宮の地)に鎮座し、白木社とも称して郡中の総社として、また下益城・芦北も併せた三郡地域の一の宮として崇められたという。社説には、百済聖明王の霊を祀るというから、ここでも百済と新羅との混同がある。熊本市域にも妙見信仰が多く見られるともいわれ、この辺も上古以来の伝統であったのかもしれない。
 
  (2015.6.1 掲上。その後、6.14や2016.4下旬などでも多少の修補あり


  〔続く〕  阿蘇山と狗奴国地域圏 
  
        邪馬台国についてのその他諸問題と検討の感触総括  

  
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