神武天皇の原像            
 
 (狗奴国に関連して)                                   

      阿蘇山と狗奴国地域圏

                                       宝賀寿男
 

 本稿は、全国邪馬国連絡協議会の会報第3号(2016.5.20)に掲載されたものを基礎に若干の補訂をしています。狗奴国関係の問題を見直してみて、追補的な記事も必要かと考えたり、その後の感触変化も踏まえたものです。本HPの 狗奴国の実態 と多少重なる部分もあります。 


 一 上古日本の大噴火とその影響

 九州の阿蘇山は、『後漢書』〜『隋書』『新唐書』あたりまでの中国正史に出てくる唯一の日本の山である。『隋書』倭国伝(及び『北史』倭伝)には、「阿蘇山有り。その石、故無くして火起り天に接するもので、俗では以て異となし、因って祷祭を行う」と見える。中国本土や朝鮮半島には火山がないから、常時活発に火を噴く活動を続ける阿蘇山は、大陸からやって来た人々には驚異で、「山島に依って国邑をつくる」という日本国土の特徴的なものとして受けとられたとみられる。
 この阿蘇山は、外輪山と中央火口丘群たる中岳などの阿蘇五岳最高峰は1592Mの高岳)などから成り、外輪山は南北23Km、東西18Kmに及び、世界最大級の面積380平方キロの広大なカルデラ地形をなす。洪積世の中・後期、今から約二七万年前から九万年前に大規模な噴火が四回もあり、そのなかで四回目の約九万年前の大噴火が著しい。そのときの火山灰は北海道や朝鮮半島まで達し、大量の火山灰や火山礫を噴出し、広範囲に火砕流を到達させて、それらが溶結凝灰岩などで残る。火口周辺には、火砕流台地と巨大な窪地(カルデラ)が形成された。その後も噴火を続けており、西暦553年からの噴火記録が残る。

    
      〔阿蘇神社や阿蘇市街地から南方を望む〕

 水がたまった阿蘇のカルデラ湖には巨大ナマズ()が主で居り湖水をせき止めていたのを、阿蘇氏の始祖神健磐竜命が、太刀で切り捨て、湖水は流れ去って大地となったといい、この鯰が流れ着いた地が現在の熊本県上益城郡嘉島町の鯰という地名になる、と伝える。

 次の九州での大きな噴火は鹿児島湾北部(湾奥)であって、桜島を含む姶良カルデラとされるが、これが三万年弱ほど前(約二万九千年前から二万六千年前)と推定されている。直径約20Kmの大きな窪地を構成するカルデラである。現在の日本列島や日本海がいつ形成されたかの経過は不明な面もあるが、約一万二千年前には宗谷海峡ができて分離したとされるから、その頃から大陸と切り離されて現在の列島の形になったのかもしれない。
 更に、約七三〇〇年前ないし約六三〇〇年前とされる「鬼界カルデラの大噴火」である。このときの位置は、大隅・薩摩両半島の南方の東シナ海の海中で、現在の硫黄島(鬼界ケ島)・竹島(鹿児島県鹿児島郡三島村の村域)を含む海域一帯とされ、火山灰(「アカホヤ」)は遠くは東北地方南部まで到達した。主として、九州の中部・南部に広範に落ちており、火山灰が濃厚に降ったところ(火山灰の厚さ20センチ以上の地域)とそこまで行かないところの「境界線A」に着目する。この線が、大分県北部の中津辺りから南西に延びて日田盆地から熊本市北西方、さらに島原半島東部をかすめて天草に及ぶ。ちなみに、アカホヤの厚さ30センチ以上の地域ということで、「境界線B」(九州中部と南部に分ける「臼杵─八代構造線」とほぼ合致)を見るとしたら、大分県南部の佐伯辺りから南西に延びて熊本県の宇土半島南方の八代辺りに及ぶ線の南側となる(以上は、『新編 火山灰アトラス』2003年)。これを、熊本県の熊本平野の主要河川も絡めて北から言うと、境界線A、阿蘇山から流れ出る白川及び支流の黒川、次ぎに緑川、境界線Bという順になる。これだと、境界線二つで九州が三分割されることとなるが、別途、九州北部と九州中部とを分ける境界に「松山−伊万里構造線」を考える見方もある。
 上記の両境界線A・Bの中間域が火山密集地帯で、阿蘇山が中心に位置する。西南日本内帯に続く九州北部の筑紫山系と、同外帯に続く九州の南部山系とが、中間部に噴出した阿蘇・九重等多くの火山の帯によって陸続きになった地帯といわれる。主な火山では、東から別府温泉に関係する鶴見岳、阿蘇山、更に島原半島の雲仙岳と東西に一連で続き、「別府─島原地溝帯」という呼び方もなされる。この地溝帯が、九州を北九州と中・南部九州とに大きく二分することにもなる。
 上古に現実に起きた上記三つの大噴火や近畿地方以西での火山活動も考えると、様々な意味で、日本列島のなかでも九州はとくに火山王国といえよう。日本列島にいつからどのように日本人の先祖が住みついたかは不明だが、犬の骨の貝塚からの出土例(神奈川県横須賀市の夏島貝塚や愛知県の先苅貝塚)などから見て、約九千年前には既に住民が居たとしたら、このとき原住のいわゆる「縄文人」が鬼界カルデラの大噴火をなんらかの形で体験したのであろう。日本の歴史が大陸文化の入口として北九州地方に多くのことが始まるとしても、その始源期には大かれ少なかれ、列島原住の遠い先祖たちの生活が火山との関わりをもっていた。
 総じて言えば、アカホヤが濃厚に降って影響を与えた九州南方地域では、山岳地形が多く、稲作にあまり適さず、主に畑作や狩猟が行われ、一方、影響の比較的少なかった九州西北部地方(福岡県・佐賀県あたり)では、平野部に恵まれリアス式地形の沿岸部もあって、大陸方面から到来の稲作農耕や漁撈が発達した。この両地域にそれぞれ在ったのが、弥生時代後期の女王国連合圏と狗奴国地域圏という二つの政治圏だとみることにつながる。

 弥生時代後期から古墳時代初め頃で、邪馬台国とほぼ同時代から若干後ろの頃の期間には、九州の中・南部地域では免田式土器(重弧紋長頸壺(ちょうけいこ)が広く分布した。それゆえ、森浩一氏などから、これがクマソないし隼人の土器ともいわれ、佐古和枝氏は狗奴国の象徴だともみる。『新熊本市史 通史編第一巻』(1998年刊)でも、「当時の政治勢力の違いを意味するもので、狗奴国の位置を考える手掛かりになるかもしれない」と記述する(佐藤伸二氏の執筆)。この辺は、ほぼ妥当な見方ではないかと言えよう。
 
 ともあれ、往古から火山列島たる日本列島の地域形成に関し、火山が大きな影響を与えてきた。この辺に着目して、〔付論〕を以下に多少書き添えておく。
 ロシアからの亡命貴族アレクサンドル・ワノフスキー(Alexander Vannovsky。生没が1874〜1967年、享年94歳)には、著書『火山と太陽』(1941年に初稿完成、戦後の1955年に出版)があり、これをを読んでみても良いかもしれない。彼は、ロシア革命の進行中にこの運動に挫折を感じて日本に永住し、早稲田大学でロシア文学の講師として長く教鞭をとった。そのなかで、日本の火山を調査して精力的に尋ね歩き、併せて、『古事記』研究をしたことで、その神話の新解釈が示される。火山の女神イザナミ、スサノオの火山的性格などわが国の創世神話・建国神話における火山にまつわる検討がなされた。
 この紹介は、桃山堂編『火山と日本の神話−亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』でなされており、一読をお薦めする。同書は、ワノフスキー研究を含め、神話研究と地質学の二つのルートから火山列島から出てきた日本神話の謎を探っており、その源流が火山の王国・九州で生まれたと主張する本でもある。
 ワノフスキーは、戦前の戸上駒之助教授の指摘を引き、「有史以前の日本のことを闡明するのには、古代アジアを研究することが必要である」「神代史は日本民族の歴史に外ならず」と言い、宣長以降の国学者はアジア大陸もアジア諸民族の言語・考古遺物も知らなかったから誤謬に陥ったと指摘する(この辺は、戦後の津田史学の流れの研究者にもあてはまるか)。そして、日本の最も精力的な火山たる阿蘇山に着眼し、「火山に対する印象−これが神話創造の発展に大きな役割を演じる要素となったのである。阿蘇火山は、日本の生んだ子供である、古事記神話の揺籃である。」と結んでいる。
 ただ、日本の神話は世界の神話と比べ特異な点もあり、すべてが神話・虚構の世界かという問題があって、そのなかに史実の原型ないしその片割れが残るとしたら、火山との関係だけで神話や史実が解決できる問題でもない。他の史書『日本書紀』などをどう取り扱うのかという問題もある。だから、日本神話の発生・組成要因の一つの手がかりを探るという意味で、火山という自然・地理的な要素も入れて、広くアジア史の視点で総合的に考えることが必要ではないかという警告だと思われる。そして、原住日本人が倭地に住んでいた「鬼界カルデラ」の大爆発は、最後のものだけに九州地方の大気・地質など(それに関連する歴史活動)に対して大きな影響を与えたのであった(これが、放射性炭素年代測定法の算出値にも関わることは言うまでもないのに、なぜか無視されがちである)。

 
 二 上古九州の主な地域区分─隼人と熊襲との違い

 さて、九州こと筑紫島は「身一つにして、面が四つあり」で、面ごとに名がつけられた。これが、『古事記』などの書に見え、筑紫国の白日別、豊国の豊日別という名は異説がないが、残り二つには『古事記』と『旧事本紀』陰陽本紀とで差異があり、結論では、肥国が建日別、日向国が豊久士比泥別とするのが呼称原型として妥当だとみられる。なお、『古事記』は日向国(この場合、薩・隅も含む)の替わりに熊曽国をあげて建日別とし、肥国を建日日向豊久士比泥別というきわめて複雑な名前とするが、歴史的経緯や地理範囲などから見ても、これが疑問だということでもある。
 南九州の上古の住民が「隼人」と呼ばれたことは、とくに異伝・異説を見ない。ところが、この隼人の原義と熊襲との関係については、諸論がある。現在でも、熊襲とは、肥後南部の球磨郡のクマと大隅国曽於郡のソオを併せた呼称「クマソ(熊襲)」とみる説が極めて多い。こうした津田左右吉博士の誤解とそれに基づくものが学究のなかにも多く残り、問題解決の大きな妨げとなっている。こんな現代用語風の命名みたいなツギハギ略称が、古代に実際に行われたのだろうか(『筑前国風土記』などでは、「球磨囎唹」と表記される例もあるが、後世の当て字であろう)。当該地域の習俗・墓制などを無視し、いい加減な語呂合わせで種族・地理の名称を比定することに疑問をもたない感覚が信じがたい。
 しかも、この「隼人=熊襲」というのが、『魏志倭人伝』に見える「狗奴国」とも同体だと言うに到っては、これが学究の頭脳、思考方法なのかと疑わせる。津田博士の思考は戦前段階の狭い知識水準と歴史資料に基づくため、やむを得ない面もあるが、北東アジアの習俗・祭祀・伝承をまるで考慮せず、日本にあっても、古代の神祇・習俗、原始種族やそのトーテムを考慮しなかった。だから、平気で鳥類の隼と獣の熊・狗(すなわち犬)とをゴッチャ煮で見ることに、まるで疑問をもたなかった。原始種族の代表的なトーテムがこんな形で一緒になることなど、世界上古代のどこにもありえない。
 長くなるから、ここでは簡単に結論だけをあげておく。「隼人」とは、この種族がもつ犬の声で吠える風習に因る「吠人(はいと)」の転訛表記にすぎず、熊を祖系の一つとして祭祀対象とする種族(天孫族系統など)とは別種族であった。要は、熊襲は隼人ではなかった。これは、辻直樹氏(『上古の復元』1989年刊)や古田武彦氏などが主張する卓見であり、他にもいくらか論者がいるが掲名しない。こうした見方は、記紀や風土記など関係文献を丁寧に検討し、上古代の習俗を認識すれば導かれることである。

 「狗奴国」とは、犬狼の祭祀・習俗をもつ住民(列島原住のいわゆる「縄文人」たる山祇種族)の国だから、これは、犬吠えの習俗が史料に見える「吠人、すなわち隼人」の種族につながることは問題ない。その高官まで「狗古智卑狗」と「狗」の文字が入るが(一支国の官「卑狗」もなんらかの意味があるか)、一方、邪馬台国の高官の名に「伊支、弥升、弥獲支」、女王国に属する「投国、斯国、弥国」と「馬」が付くのが多いことと好対照である(『魏志倭人伝』には「その地に牛、馬なし」との記事があるが、少なくとも「馬」については疑問かとみる。弥生時代くらいの遺跡から馬骨が出土したとされる)。『魏志倭人伝』には、もう一つ「狗」の文字が入る国があり、それは倭の北岸とされる韓地の狗邪韓国である。この地は、伽耶の金官伽耶国にあたる(とくに異論はない)。この金官王家は新羅王家の金氏(慶州金氏)と同族と称され、後の金海金氏や日本に来て周防の中世大族大内氏につながる。新羅には月神祭祀があり、関係する妙見信仰を大内氏が永く保持したことは名高い。
 この辺は、言語感覚の問題であり、文字の遊びと解してはならない。縄文人の流れは、古代の久米氏やモン・クメール種族にもつながるが、これら「クメ」は動物の「熊」とは異なる。「狗奴」が当時、どのように発音されたかは確認しがたいが、それが「クナ」と発音されたとしても、動物の熊にはつながらない。
 隼人の墓制は、盛土の高塚式の墳丘墓という大和王権の墓制に対して逆であった。すなわち、地面に竪穴を掘って、埋葬施設を地下に持つ特徴があった。こうした墓制などから見て、隼人の主居住地域・勢力圏は、肥後南部の球磨川流域から日向中央部の一ツ瀬川流域へ(概ね人吉から西都へ)と結んだ線からほぼ南側とみられている(上村俊雄氏「墓制からみた隼人世界」。『新版古代の日本第3巻 九州・沖縄』所収)。九州の先史・原史時代の地域区分図でも、筑前・筑後及び肥前東部の「北部九州」、肥後の平野部の「中部九州」、薩・隅及び日向南部の「南部九州」という形で、地域のまとまりをみる見方も示され、この「南部九州」とも隼人墓制は整合する(下條信行氏「九州古代史の特色」〔同じく上記書に所収〕。ほかに東北部九州〔豊前〕・東部九州〔豊後〕・西北部九州〔肥前西部〕の地域区分もあげられるが、上記三地域のほか、東部九州〔豊後・日向北部〕を加える四区分もある)。

 こうして見ていくと、九州主要部は主に三分割して地域圏を考え、「北部九州」、及び「中部九州」、「南部九州」として、その上古社会をみるのが妥当である。そして、概括的に言えば、「北部九州」は邪馬台国連合圏、「南部九州」は隼人圏として、残る「中部九州」が狗奴国に関係する地域圏だとみられる。南部九州と中部九州とが列島原住たる縄文人の伝統・習俗をもって近い関係にあったことは、太陰暦八月十五日の満月の夜に行われた「十五夜綱引き」が熊本以南で沖縄までの地域にあったこととも示される。
 そのうえで、考えられるのは、中部九州の地域は、隣接する西北部九州の弥生文化の影響も受けつつも、縄文人・山祇種族の伝統・習俗も保持したが故に、邪馬台国連合圏と争ったので、その王・卑弥弓呼は卑弥呼と素より和せずという状態にあったものか(王の名「弓呼」は、射弓に優れた山祇種族に出たことに由来したか)。両勢力がかなり拮抗していたのなら、かなりの文化・軍事技術も備えていたのだろう。これが、どの程度の勢力圏(版図)をもったのかも、ここで問題となる。

 
 三 考古遺物から見る中部九州の上古史

 ここで、上記の「中部九州」の主地域たる熊本県の上古史を考古遺物から見ていこう。
 概略を記すと、弥生時代も後期後半から終末期にかけては、阿蘇北外輪山内側の黒川流域や熊本平野の白川流域および菊池川流域からも製鉄・鍛冶の遺構がいくつか発見された。そこでは、鉄鏃や槍鉋、農具の鋤鍬先や鎌・鉄斧、棒状などの鉄片なども見つかる。なかでも、玉名郡和水(なごみ)町の諏訪原遺跡から鍛冶工房遺構が四基も出ており、上益城郡嘉島町の二子塚遺跡からも二基など、製鉄・鍛冶の顕著な痕跡が出土した。2002年段階では、弥生時代の鉄器の出土数は、熊本県は福岡県をむしろ凌いでおり(数は1890点:1740点)、奈良県では十数点と少ないという統計があり、別の集計では福岡県が熊本県を若干上回る程度ともいう(川越哲志氏など)。これら諸事情から、鉄器の使用では熊本地方は北九州に殆ど遅れていない、と総括される(上記の『新熊本市史』)。
 倭人伝にも見える「鉄鏃」の出土遺跡は、熊本県の玉名郡・菊池郡、山鹿市・阿蘇郡など、主に福岡・熊本県境の山間部に多い。代表的な遺跡として、山鹿市の方保田(かとうだ)東原遺跡、菊池郡大津町の西弥護免遺跡、さらに阿蘇市の狩尾遺跡群・下山西遺跡(ともに黒川流域)などがあげられ、これらからはいずれも多数の鉄鏃を主として鉄器百点超が出土する。
 これら遺跡の所在する山地県境は、三世紀頃も、筑後川流域にあったとした場合の邪馬台国と狗奴国との国境地帯に近く、この一帯に鉄鏃を集中させるような軍事的緊張が続いたとの想定を、奥野正男氏の見解(同氏著の『鉄の古代史1 弥生時代』)を踏まえ、菊池秀夫氏も記される。現在の福岡県と熊本県の県境に跨るのが筑肥山地であり、その東側延長は大分県に及んでいて、この山地が、弥生後・末期でも、二大勢力圏の境界線となっていたとみられる。境界線の南方でも、弥生後期頃に福岡県同様に菊池川流域を中心に環濠集落が多く営まれた。白川・緑川の流域や阿蘇南郷谷の南鶴遺跡(南阿蘇村)でも、環濠が見られる(南鶴遺跡からは、免田式長頚壷やジョッキ形土器、鉄鏃、小型銅鏡も出た)。
 青銅器でも、銅鏡では熊本市の徳王遺跡、大津町の西弥護免遺跡などの連弧文鏡の出土がかなりあるが、別種のものも菊池市泗水町の古閑原遺跡(方格規矩鏡)や玉名郡和水町の諏訪原遺跡(八乳文鏡)から出た。銅剣・銅矛・銅戈・銅鏃の武器類や、巴形銅器(山鹿市の方保田遺跡、熊本市南区の宮地遺跡群)・小銅鐸・銅釦(どうこう)なども出ている。これらの大部分は熊本平野以北の地域から多く出土しており、阿蘇地方からも銅矛・銅戈が出た。熊本平野より南では、大型の青銅器は殆ど発見されていない(人吉盆地の多良木から細形銅剣が出たが、薩・隅では僅少)とされるから、南部九州の薩・隅とはこの辺も差異がある。熊本県内の弥生時代の遺跡数は約740もあって、これは日本国内の約13%を占める、という。

 先に免田式土器について少し触れたが、熊本県では、弥生時代の後期・終末期には、中期末頃からの黒髪式土器(暗褐色の甕棺が主体)に続いて、免田式土器、野部田式土器という地域特色のある弥生土器が現れる。黒髪式土器は、白川下流北岸の熊本市中央区黒髪二丁目の黒髪町遺跡(この付近に飽田郡家が所在か)から出土したことに因む名で、黒髪T式は弥生中期後半に、黒髪U式は弥生後期に位置づけられる。この遺跡からは黒髪式土器や、玄界灘沿岸地域の北部九州の須玖式土器(弥生中期の土器)を用いた甕棺墓地が分布しており、近隣で白川南岸の神水(くわみず)遺跡(中央区神水・出水・水前寺あたり)などからも須玖式系統の甕棺が出土したから、この分布南限の宇土半島までは北部九州の影響も見られる。
 免田式土器のほうは、もと「重孤文土器」といわれ、熊本地方の後期弥生文化を代表する。形は、胴部がそろばん玉の形のようで、そこから上に長く開き気味に伸びた円筒状の首(長頸)をもち、胴部の上半面には、同心円紋を半分に切った紋様(重弧紋)やノコギリ歯状の鋸歯紋、平行紋などが描かれており、底部は丸底である。
 その出土分布は、熊本県中・南部を中心とする南九州にあって、これまで約150か所で発見されており、うち熊本県は95か所ほどを占める。特に球磨・人吉盆地では30か所ほどもあり、当初は、この地域が同様式の本場と推定され、その見方から免田(球磨郡あさぎり町免田地区の本目遺跡)の地名に因る。この土器は、昭和前期に下益城郡隈庄町(城南町を経て、現・熊本市南区)から出土したものが報告されて注目をあび、先に大正期に人吉盆地の免田からの出土もあって、『弥生式土器聚成図録』に免田式土器として記載され、この名称で一般化した。
 その後に考古資料の発掘・増加とともに、分布範囲の広がりも分かった。だから、用語としても、@重孤紋長頸壺という広い意味、A免田の本目遺跡から出た土器と同時期の同種土器やこれに伴う土器群、という二種があり、この辺を明確にするほうがよいとされる。鹿児島県の北薩摩の大口盆地や熊本県の人吉盆地からも多く出ており、地下式板石積石室墓から免田式土器の変化した土器が出土した事情もある。
 現在までに、重孤紋長頸壺が出土した遺跡は、旧・下益城郡城南町を含む熊本市、上益城郡の御船町・益城町や宇土市など熊本地方に最も多く、最古形態のものもこの地域の熊本市南区の平田町遺跡から出た。だから、分布の源・中心はむしろ北の方のこちらで、「免田」の命名に拘るのは疑問がある。この種の土器の用途は、上益城郡御船町の南原A地点遺跡や同郡山都町の稲生原遺跡からの出土状態から見て、祭祀用の土器とみられる。緑川上流の山間部、阿蘇市の下山西遺跡でも、竪穴の中央部に祭祀的な姿で出土する。村上恭通氏も、祭祀的な使用が卓越したとみている。阿蘇谷やこれに東隣する大野川上流域(大分県域)からの出土もあるが、県北の菊池川流域になると急に少なくなるとされる。総じて粗っぽく言うと、「別府─島原地溝帯」あたり以南に多く分布する土器といえよう。
 なお、熊本県外では、北九州の行橋市、佐賀県の鳥栖市・武雄市や吉野ヶ里遺跡、福岡県の八女市、南では種子島・奄美大島や沖縄本島の具志川市でも、ごく少数だが発見される。長頸壺が液体を入れるのに好都合な器種で、舟形注口土器・ジョッキ形土器という祭祀土器が弥生後期の熊本地方に同時にあったという指摘(『新熊本市史』)もなされる。
 野部田式土器のほうは、菊池川下流域南岸の玉名郡天水町(現・玉名市域)野部田の際目遺跡から戦後、発見された一群の土器であまり模様をもたないものである。甕形土器に特色があって、九州北部の影響があり、時期は弥生終末期頃とされている。その分布範囲は、北は菊池川あたり(玉名市、合志市なども含む)、南は緑川あたりで、東は阿蘇外輪山に限られた地域に集中する。
 『新熊本市史』第一巻では、「現在の段階では、免田式は人吉盆地の弥生後期の土器群に、野部田式は菊池川流域の弥生終末期の土器群に限って使用したほうがよい」(佐藤伸二氏執筆)と指摘する。そうは言っても、これまでに発表の考古学的記述には種々混用されているので、読むときはその辺を念頭におかねばならない。野田式は「野田式」と誤記される例もかなり見受ける。

 
  神水・二子塚の弥生遺跡とその周辺

 ここまでに見てきた諸事情から整理すると、熊本県でも北から、@菊池川流域(中流部で環濠をもつ大集落の方保田東原遺跡が主拠か)、A白川・緑川の両流域、B人吉盆地という大きな地域ブロックで考えたほうがよさそうである。これら(とくに@とA)が一つの政治連合体を形成したとしても、その主要勢力は白川・緑川流域にあったかとする見方に導かれる。免田式土器(重孤紋長頸壺)の北のほうの集中分布地域が、阿蘇谷から白川・緑川両流域にかけての一帯にあるからである。村上恭通氏は、熊本独自の鉄鏃とされる「二段逆刺の無茎鉄鏃」の分布の中心も、白川・緑川両流域にあるとする。
 緑川流域のなかでも、上益城郡嘉島町北甘木の二子塚遺跡に注目される。当地は阿蘇の大鯰流れ着き伝承の地・鯰の東方近隣に位置し、江戸時代は鯰手永に含まれた。白川流域の西弥護免遺跡の西南方で、熊本市街地から見れば東南近隣にあたる。遺跡から267基の竪穴住居遺構が検出され、環濠内も含め250点もの鉄製品や2基の鍛冶遺構が出た。掘立柱建物の遺構があり、野部田式土器も多数出て、勾玉・鉄鏃や内行花文鏡の可能性がある破片も出ており、弥生後末期(V期)の遺跡とされる。時代は古墳時代に及ぶが、赤色顔料を塗布した石障や周溝への馬殉葬も見られる。ごく近隣には「足手荒神」があり、いまは甲斐宗立(名は親英。阿蘇氏重臣で天正15年〔1587〕没)も祀って甲斐神社と呼ばれる。「手足荒神」という名は、熊本・大分・福岡諸県や四国、秋田県にも分布して、大山祇神など山祇族系の神が祀られたとみられる。

 二子塚遺跡の南西近隣で、今は熊本市域となる南区城南町の宮地遺跡群にも、環濠があって、巴形銅器・王莽銭(貨泉)や鉄斧・ヤリガンナ・刀子・鉄鏃なども出た。この城南町域では免田式土器が多数見つかっており、出土数や文様のバリエーションから見ても、熊本平野の南端部の緑川流域が分布の中心地ではないかと村上恭通氏はみる(「二・三世紀の南九州における鉄の普及」など)。
 鉄器や鍛冶遺構、免田式土器という分布の観点からは、これら遺跡が評価されるが、北方の筑後川流域に都城があったかとみられる女王国連合では、この流域に多数の鉄器を出す遺跡が知られない事情から考えると、狗奴国の国都のほうでも直接の係争地から少し離れていた場合にはさほどの鉄器遺跡・鍛冶遺構でなくてもよいことになろう。その意味では、熊本市内の大集落遺跡も見てみる必要がある。
 熊本市域には、北側に五丁中原遺跡(北区貢町・和泉町。環濠も確認)もあるが、まず留意されるのは熊本市街地の東北方に位置する東区弓削町の山尻遺跡群である。弥生時代を中心とした大集落で、白川中流の南岸に位置し(熊本空港の西北西近隣)、西弥護免遺跡からも遠くない。当地からは、弥生期の小型倭製鏡(内行花文鏡。銘文なしの破片)も出た。

 これに近いのが西南方の熊本県庁の東側・南側周辺に拡がる神水遺跡であり、弥生時代と奈良・平安時代を中心とした複合的な大遺跡とされる。この遺跡の範囲は広いが、弥生期には掘立柱建物とよばれる建物跡がみつかり、なかに長辺が十メートル以上、幅が四メートル以上もある大型住居が検出された。同じ神水本町地内からは周溝も出た。このほか、土器を焼いた焼成遺構も見つかり、鉄器や鍛冶関連遺物も出土する。
 熊本県文化財調査報告第117集の『二子塚』に拠ると、村上恭通氏執筆部分では、二子塚や五丁中原・弓削山尻・西弥護免を「大規模な拠点集落」とみて、それより大きい「特に大規模な拠点集落」として神水遺跡とその南方の南区の宮地遺跡の二つをあげる。二子塚と神水・宮地両遺跡とがちょうど三角の形をなしており、これら皆が緑川流域にほぼおさまる。縄文時代当時には、熊本平野の貝塚分布から見て現在の標高五メートル線が海岸線で、それより高い地が陸地であって、白川・緑川とも河口は更に上がり東方に寄っていたとされるから、平野部はかなり狭く、上記三遺跡は海岸線に割合近い地点でもあった(『新熊本市史 通史編1』)。これら三遺跡あたりが狗奴国の主要域とみてよさそうである。

  ※弥生時代後期の拠点集落(熊本北部)
 

 
 神水遺跡や方保田東原遺跡を含む地域には、祭祀用のジョッキ形土器が重弧紋長頸壺と重複して分布する事情もある。括れた腰に薄帯の把手でシャープな形のジョッキ形土器は、壱岐の原の辻遺跡(東アジア最古の船着き場の発掘がある)を経て、韓地南部の大邱まで分布がつながるから、狗奴国の外交はこの方面まで達していたともみる見方もある。
 神水遺跡の東側の熊本市東区健軍(たけみや)町には、阿蘇四社のうちの健軍神社があり、阿蘇氏同族で火国造の初代という建緒組命を祀る(本来の主祭神か)。『風土記』の記事(肥前の本文及び肥後の逸文)では、崇神朝に肥後国益城郡の朝来名峰に土蜘蛛の打サル・頸サル(サルは「猴」)の二人が居り賊衆百八十余人を率いて、「皇命」に従わなかったので、これを討滅したとある。「朝来名峰」とは、益城町福原の南部の朝来山(標高465M)かとされ、二子塚遺跡の東北東近隣に位置する。この「土蜘蛛」とされる人々が狗奴国の残滓かということでもある。
 朝来名峰の西方で、二子塚遺跡の西北近隣に位置するのが健軍神社である。火国造の嫡裔とみられる河尻氏は白川下流域に勢力をもち(飽田郡河尻庄に居)、重要支族の木原氏は宮地遺跡群の近隣に本拠(益城郡木原村。旧・富合町で現・熊本市南区域)があった。ともに、平安末期から鎌倉期に見える肥後の大族である。阿蘇にも菊池にもそれぞれ古族の血をひく中世大族があったから、肥後における、こうした三つの大きな勢力配置も無視できない。益城郡南部から宇土半島基部にかけては前方後円墳が多く、火君一族の墳墓かとされる。
 山祇族の月星祭祀は妙見信仰にもつながる。狗奴国の末裔は姿を消して後世に残らなくとも(狗奴国が九州を統合し、東遷して大和王権につながるという水野祐説は疑問大。古代習俗の不知に因る妄想にすぎない)、熊本地方や八代市では妙見信仰が長く盛んであった。日本三大妙見の一つとされる八代妙見の祭祀が拡がる素地も、上古の狗奴国の存在にあったのではなかろうか。熊本では妙見信仰は水神信仰と結びつくとされ、上記の地名「神水」の由来は、かつて神水泉と称する湧水があったことに因るというから、この意味でも神水遺跡に留意される。

 
 <一応の総括>

 
これまで狗奴国の研究があまりにも等閑にされてきたことを痛感する。また、水野祐氏のように、狗奴国の記事を『魏志倭人伝』で過剰に多く考えるのも問題が大きい。文献と各種考古学資料を基にして、総合的に冷静に狗奴国を考えることが必要であり、最近までの発掘成果もあって、それが次第に可能となっていると思われる。
 七田忠昭氏は、近年の熊本地方の弥生時代後期の有力集落の発掘成果などから、倭女王卑弥呼が魏皇帝に緊迫感をもって救援を願うほどの存在として、狗奴国が存在していたものと考えている。本稿でこれまで記してきた諸事情は、近年分かったことが多い。これらから見て、熊本県の中央部・北部の重弧紋長頸壺の分布範囲が狗奴国の勢力範囲であったとしてよい(球磨川流域、とくに人吉盆地までを含めて広く熊本県全域を版図に考える見方は、その辺までの影響力があったとしても、範囲がやや広すぎる感もある)。
 その場合の中心域が白川と緑川とに挟まれた神水遺跡及びその周辺域だ、とされそうでもある。菊池秀夫氏も、狗奴国の中心は、位置や生産力から推して白川流域の勢力だったとみる(著書では具体的に触れないが、その後は益城町付近とみる模様)。狗奴国の存在を証明することにより、邪馬台国の存在を証明することも可能となるとの趣旨を指摘しつつ、「九州北部の勢力が女王国連合、九州中部の勢力が狗奴国と考えられる」と菊池氏は記すが(『邪馬台国と狗奴国と鉄』、2010年刊)、狗奴国の具体的な比定地が多少違ったとしても、この言説がほぼ当てはまると私も実感する。ただ、その場合、青銅器・鉄器などの考古遺物よりも、祭祀・習俗に関連するもののほうを拙見では重視したいとも思われる。

 この狗奴国問題も含めて、邪馬台国に関わる諸問題は各種の視野から総合的になされるべきことを痛感する次第である。
                                 (基礎となる初稿は2016年春頃に稿了)

 (2023.6.08掲上)


   狗奴国の実態 へ
 
         ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ