落合淳思著『甲骨文字に歴史を読む』を読んで、
    殷の王統譜を考える

                    宝賀 寿男


 一 はじめの冗言など
 
 私がごく若い頃、勤務した部署の課長に佐上武弘さんという名物課長がいて、その上司から印象深く聞いた言葉に「インカン遠からず」というものがある。「インカン」と言ったって、押すハンコ(印鑑)のことではないぞ、よく先例(の誤り)を研究すべきだという趣旨の説明もあったように記憶している。
 多くの人々が知っているだろうから、改めての説明は不要であろうが、もとは『詩経』大雅篇に見える句で、「殷鑑不遠、在夏后之世」(殷鑑遠からず、夏后の世にあり)であり、その文意は「殷の人(治世者)が戒めの手本とすべきことは、遠い時代にあるのではなく、すぐ前の夏の国(王朝、夏の桀王)が悪政により滅びたことにある」とされる(『新字源』など)。なお、「后」は後とか皇后ではなく、「帝王」の意。
 
 ところで、 筑摩書房のPR誌「ちくま」2008年8月号には、「歴史は遠くない」という題で落合淳思氏が記事を載せる。いうまでもなく、その前月(08/07)に同社から刊行された標記の書(ちくま新書732)に関連しての稿である。
 落合淳思氏は三〇歳代半ばの気鋭の古代中国史研究者(立命館大学講師)である。その研究対象とする甲骨文字は、上古中国の黄河中流域(中原)にあった殷王朝で作られた文字資料であり、漢字の起源・原型である。本書が興味深い内容と重要な問題提起をもつものであり、かつ、かつて私が中国語の外務研修を受けたときの先生の一人が欧陽可亮が甲骨文の研究の大家であって、自筆の甲骨文の掛け軸をいただいたこともあり、北京在勤の際に河南省安陽の殷墟を訪れた記憶もあって、様々な感懐をもって、本文を記す次第である。
※ 欧陽可亮 (おうよう・かりょう、オウヤン・コォリャン、ou yang ke liang)   1918生〜1992没
 立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所のHP記事では、故白川静博士と交流のあった学究としてあげられ、「1918年、北京に生まれる。欧陽詢 (557〜641。中国の唐初の書家)の直系44代目の子孫で、甲骨文字の書家で研究者。1992(平成4)年、東京都三鷹市において没。欧陽可亮が京都在住時に白川と交流をもつ」と記される。
氏は、外務研修所で中国語を初めて学ぶ教え子たちには厳しくてにこやかな好々爺(当時66,7歳)であり、蛙肉や豚脳といった珍味をご馳走になったこと、ご自身の名前の四文字が中国語の四声をすべて含む(第1声から順に第4声まで続く)という特徴があることなどの話が記憶にある。その甲骨文字研究については そのときでも仄聞していたが、当時の私たちは未熟であってそんな偉い先生とは思わず、漫然と授業を受けていたようにも思われる。その目には、さぞや、出来の悪い生徒達とうつっていたのであろう。いま、哀悼の意もこめて、ここに記す。
ち なみに、その先祖の欧陽詢は初唐の三大書家の一であり、越王無疆の後で姓とされる。無疆の次子が浙江省呉興の烏程欧余山の南に欧余亭侯として封じられた ことに因んで欧陽の氏が生じたとある。呉王夫差との攻防で名高い越王勾践の七世孫が無疆であり、その先は夏の少康が少子無余を会稽(浙江省紹興)に封じたのが越王家の祖とされる。
 

 二 本書概要の紹介と評価
 
 本書は、三部構成であって、@甲骨文字とはなにか、A文明と社会、及びB殷王朝の歴史から成るが、すでに著者には『甲骨文字の読み方』(講談社現代新書、2007年)、『殷王世系研究』(立命館東洋史学会、2002年)などの著書があり、@及びBの二部はそのエッセンスとされそうである。また、Aは白川静博士の著作に対応するようなパートであるが、呪術に拘る白川学に対比して、著者の関心が歴史学専攻ということで、殷王朝の政治や社会の復元に興味があり、その視点からの検討がなされており、@及びAは基礎的知識としてB につながるものとなっている。
  だから、それぞれの部が従来の著作のエッセンス的な記事だとしても、主眼が第三部にあるわけで、そこでは、これまでの大家である島邦男・白川静・松丸道雄らの先行研究を批判して、殷王系譜、殷末衰亡期の動向、宋公家の起源と系譜、などの点で著者の説が提示される。その検討過程のなかでは、たんなる字面ばかりでなく、統計的な数値が二つの軸(時代ごとの統計的数値と時代間の数値変化)で分析がなされる。著者もいうように、「甲骨文字は均質的な資料であり、同じ地域で作られ、また文章も定型化して差異が小さいため、統計の数値を直接的に使うことができる」ということで、その成果もあがっている。
 著者の説で主だったところでは、a 殷王の系譜は政治的な意図によって改編(歴代の追加減少)が加えられたこと、 殷の滅亡は、『史記』などの文献に見えるような最後の王である帝辛(紂王)の「酒池肉林」や重税等で知られる暴政が原因ではなく、その即位七年目に起こった反乱を直接の原因としていたことなどがあげられる。
 
 以上のような内容で分かり易く書かれるから、中国上古史に関心や知識があまりなかった読者にとっては、本書は総じて好評で迎えられている。私も、「歴史もまた現代と同じく人間の社会である」という著者の姿勢を基本的に高く評価し、また甲骨文字・金石文という一次資料を使って行う統計的な検討手法は、今後の歴史分析には欠かせないことで、こうした手法を用いた本書を総じて評価するものであり、貶すつもりで取り上げたものではない。殷の滅亡のときの状況や原因については、既に白川静博士の名著『中国の神話』にも見えており、初めてのものではないが、それを具体的な甲骨文分析で裏付け論旨を展開したということで、十分価値あるものと考えられる。
 中国では、わが国の甲骨文字研究の成果もほとんど顧みられず、その国家的事業として行われた「夏商周断代工程」が『史記』などの文献を十分な検証なしに受け入れる基礎でなされている事情(従って、年代が過大で遡上傾向を示すとみられる)に対しての批判もしっかりあって、この辺も興味深い。殷墟の発掘が進んで、いまやわが国で殷王朝の存在を否定する立場はないと思われるが、日本列島の天皇家につながる天孫族が殷を建てた種族と通じる面が大きいと私はみており、中国の上古史研究が日本のそれに大きな関わりをもっていると感じている。「河(豊作)や岳(雨乞い)」などの自然神の信仰や甲骨卜占についても、無視できない要素があり、岳神は河南省の嵩山の神で(落合氏は不明とするが、白川説が妥当)、これらが日本列島にももたらされたことを別稿(「扶桑」概念の伝播」)で述べた。
 こうした諸事情があるからこそ、本書で説かれる内容と結論については、手放しで受け入れることには大きな疑問がある。とくに、殷の王統譜とそれに関連してあげられる日本の天皇家の系譜についての考え方は、十分な検討と慎重な判断が要される。これらの点で、本書では、重要な指摘がなされる部分があると評価する一方、大きな問題点をもつとも考えている。日本史関係では、現状では学界の通説ないし多数説とはいえ、仮説にすぎず検証できていない否定説を当然の前提として、議論を展開する傾向も座視できない(新書という分量から見てやむをえないところもあろうが、氏に問題意識がなく、当然のことだと思い込んでいるのなら、やはり問題がある)。「夏商周断代工程」の批判は結構だとしても、明らかに日本の「皇紀」とは別問題なのに、皇紀制定と似通うとみるなど、全般に日本上古史に関する無理解が目立つという特徴が本書にはある。
 中国に限らず、後世による歴史の改竄は往々に見られるところであるが、どこまでの改竄がなされたのか、甲骨文字などの原記録には見えないことが即、全くなかったといえるのか等々、歴史検討の際の様々な問題点を多く含んでいる事情にもある。
 
 
 三 殷の王統譜の検討
 
 殷王統譜の主要問題点
 肝腎の殷の王統譜については、詳論のほうの『殷王世系研究』を見ないで検討することに問題を感じないわけでもないが、六年後に刊行された本書のほうに重要なポイントはすべて書かれていて、その範囲で氏の結論等を検討することには問題がないとみて、以下の文章を記すことにする。

 著者の手法は、現在までに分かっている甲骨文に見える殷王朝の歴代王名と『史記』記載の王名とを比較して、甲骨文の先王祭祀に見えないで『史記』に記載のある王、「中壬・沃丁・廩辛」の三人は実在せず、逆に「祖己」という者が甲骨文の祭祀に見えるから王とみた島邦夫氏の考え方(『祭祀卜辞の研究』1953)をまず紹介する。これが「周祭日程表」とも符合するから、上記三人の王は殷滅亡後に伝説が追加されたと著者はみる。更にこれを進めて、『史記』では、帝辛(紂王)の前王()とされている「帝乙」が、甲骨文には見えないので、金石文には見えるものの信頼性はなく、殷滅亡後の周代になって宋によって殷王統譜に入れられた王だと考える。この辺が主要なポイントであろう。
 殷の王統譜については、何の目的で誰がどのように改竄したのか、を推理も交えて論述するが、殷の遺民とされる宋()は殷代からあった殷の系譜とは無関係の集団であり、これを殷の王統につなげるために(帝乙−微子啓・微仲衍兄弟というのが初期の宋の系譜)、後代になって帝辛の父として帝乙を文武丁の次ぎの世代に挿入したとみるわけである。
 このほか注目すべき本書の指摘では、@斉も初期の公の名前の付け方からみて、殷に服属していた集団であった、A「口祀」が王の即位二十年目の祭祀ではなく(「口」は「廿」ではない)、王の初年の祭祀であり、これによって殷末の王の在位年はかなり短くなる(帝辛の治世は、従来の六三年とか三三年ではなく、落合説では十六年+α)、B文武丁の代に人方との戦争に勝って殷の国力は充実したが、次の帝辛(紂王)の代になんらかの失政によって、背いた盂の鎮圧ができたものの、殷が衰退して周に滅ぼされた、などがあげられる。これら三点については、とりあえずはあまり異論を感じないところである。
 これらを通じて、殷王統譜についての主な問題点としては、
@『史記』に記載の「中壬・沃丁・廩辛」の三人の王と不記載の「祖己」の位置づけ
A「帝乙」の実在性とその位置づけ
B 宋公室の位置づけ
があり、これらの諸点について以下に検討を加える。
 
 落合氏の考え方の前提は妥当か
 ところで、こうした殷王統譜を考える場合に、落合氏の系譜等に関する考え方の前提が問題になると思われる。というのは、氏は、「王朝の歴史を研究する上での基本となり、かつ最も重要なものは、統治者の系譜であろう」との適切な判断を持ちつつも、その一方、歴史も系譜も簡単に後代に変えられるという認識が強くあるからである。
 「記録が不確実な社会においては、系譜に改変が加えられるのはむしろ一般的だったのである」というのが氏の考え方である。この例証として、西アフリカのオートヴォルタのモシ族の王の系譜、春秋時代の呉の系譜、三国時代の魏の曹操やわが国の徳川家康の系譜をあげて、「政治的な意図を持って改編が加えられることも多い」と断定する。モシ族の王の系譜については私はコメントできないし、先祖が地方小豪族ないし庶民クラスであった曹操や徳川家康の系譜は確かに疑問が大きい部分もあるが、春秋の呉王の系譜についてはそうとはいえない。周の太伯が立てた句呉(子爵の国)との関係が完全に否定されない限り、系譜改編とはいえないのである。系譜の変改・仮冒の多さはどの地域でもその通りであるが、個別具体的に十分な検討が必要である。かつ、変改しやすい系譜とそうではない系譜もある。
 次ぎに、中国の「夏商周断代工程」の結論が、甲骨文字などよりも文献資料を多く用いることに問題ありとして、殷後期の武丁の例を引いて批判する。年数を数える習慣ができたのは殷末期であって、甲骨文字の初期の王である武丁の時代には実際の年数が記録に残るはずがないとする。しかし、一方では、甲骨文字の初期〜中期には一ヶ月・一年という太陽太陰暦が用いられたと記しており、この頃までに年・月の観念があるとしたら、それが数えられないはずがない。もっと単純には、春耕秋収の農作業から、これを単位として現在の一年を「一年ないし二年」ととらえる見方がないほうがおかしいと思われる。だから、「夏商周断代工程」の基礎が疑問であっても、その依拠する史料のすべてがおかしいということにはならない。殷で正確な暦が作られたのだから、時間の概念が文字に見えなくとも、それがなかったとみるのは、思考方法に問題があると考えられる。現に「十三月」という月の蓄積が甲骨文に記されているのである。ただ、氏が本書で具体的に提示する殷末期の期間のとらえ方などからしても、中国上古の年代のとらえ方には過大過長の傾向が見え、「夏商周断代工程」も同様であるというのなら、私にはたいへん肯けることである。
 さらに、戦前のわが国の「皇紀」紀元法については、『日本書紀』の紀年を単純かつそのままに受けとめて作られたものであって、これは紀年解釈の誤りに基づくものにすぎない。崇神天皇より前の九代の天皇の実在性については、戦後の学界で否定説が多いものの、様々な誤解が基になっている。「日本武尊」が明らかに想像上の人物だと氏は斬って捨てるが、この否定論も九代天皇と同様、学界での立証がまったくなされていない事情にある。初期諸天皇の異例の長寿も、「あり得ない数字」というだけで、切り捨てるべきではない。「二倍年暦(ないし四倍年暦)」の問題があるからで、それでは、八七年の治世期間を『書紀』に記される仁徳天皇についても、落合氏は実在性を否定するのであろうか。記事を素朴に受けとめて、そうした把握のもとで単純に切り捨てる議論は、もういい加減止めたらどうだろうか。中国古代史については、落合氏はそうすべきだと主張しているのではなかったのか。
 戦前の日本と現代の中国の政治状況が同じ様なものとみて、皇室や国家の権威を高めるために歴史や紀年を利用したとみる氏の発想法は、あまりに機械的でステレオタイプである。津田左右吉博士とその亜流の視野狭窄的な史観が、日本古代史の合理的な検討をいかにこれまで阻んできたかを考えるべきであろう。統計的手法という科学的な手法を用いようとする者は、すべてにわたって合理的に考える姿勢が是非とも必要である。
 これに関連して、殷が滅びてから数百年〜千年も後に作られた『史記』などの文献資料がもつ「権威は、殷代史研究に関しては、もはや阻害要因でしかない」と考えるのも行きすぎである。多くの文献資料が残ることは幸いなことであり、これを冷静に合理的総合的に分析すればよいのである。
 このように見ていくと、落合氏の前提的な考え方、思考方法には多くの問題があることが分かる。そこにも、十分留意しておきたい。こうした認識を持ちつつ、次ぎに個別問題に入りたい。
 
 「中壬・沃丁・廩辛」と「祖己」の位置づけ
 この四名の王については、現在に残る甲骨文と「周祭日程表」から見ると、落合氏の所説にかなりの合理性があろう。「祖己」については、『史記』に帝武丁の臣下として見える。
 実のところ、歴代の帝王をどのように数えるかは、その当時と後代の事情に影響されることが多々あり、治世期間が短い者や後代からみて不都合な者は、後世になって歴代や祭祀対象から外される傾向がある。このことはわが国の古代天皇についても同様にいえることであり、王位の簒奪対象となった者など治世が比較的短い者が歴代の天皇に数えられない例(神功皇后、菟道稚郎子、飯豊皇女や大友皇子など)がままある。現在に残る甲骨文がいかに多数であっても、当時の全てではない以上、甲骨文に見えないとはただちに言い切れない。それは、「周祭日程表」に見える殷後代の祭祀でも同様である。
 このように考えると、『史記』に記載の歴代については、ある所伝に基づくものであったとみられる。これは、後代になって帝王に追加されたという見方とは異なる。「中壬・沃丁・廩辛」を殷の歴代に入れて、「祖己」を歴代から外すことの合理的な理由は見つからないのである。また、中壬はともかく、沃丁・廩辛を歴代帝王から外すと、その相続が直系相続になりすぎることにもなる。当時は、兄弟相続を主とする傍系相続法がなされたが、廩辛を外す場合には、祖甲以降は五代(「帝乙」を除くと合計四代であるが)にもわたって直系相続が続き、殷の後・末期には傍系相続が見られないことになる。これは、相当に不自然なことだといえよう(殷の王統の権威確立の結果、直系相続となったとみる見方は疑問が大きい)。
 
 「帝乙」の実在性
 「帝乙」の実在性について疑問大と考える落合氏の指摘は、妥当だと思われる。「帝乙」も甲骨文祭祀に見えず、「周祭日程表」にも見えない事情にあるが、問題はそれだけではない。帝辛の近親の直系王(武丁・祖甲・康丁・武乙・文武丁)は特に祭祀の数が多いという事情も指摘されており、存在否定説の説得力が大きい。周王朝の甲骨文字や金石文に見える「文武帝乙」も「文武丁」と同じだとみる見解が妥当である。
 殷の帝王のなかでも、『史記』では最後の「帝乙、帝辛」二人だけが十干だけの名の上に「帝」と冠されるが、これを除く「乙、辛」で考えると、殷の先代の王として「祖乙、祖辛」が親子で見え、小乙・武乙もいた。帝辛が「帝受(紂王)」として否定できない一方、「帝乙」の存在の稀薄性が目立つ。落合氏の指摘では、殷の中期以降、「帝」の文字は先王の名に使われるようになり、祖甲の別称として「帝甲」、文武丁の別称として「文武帝」があるとされるからでもある。「帝乙」の実在性が否定されても、紂王の叔父・王子比干の位置づけがズレるだけで、むしろ直系相続が一代減るだけである(なお、文武丁〔太丁〕も武乙の兄弟という可能性がないだろうか)。一伝に文武丁の子とされる箕子胥余は、紂王の近い親族ではなく、同族にすぎない事情もある(鈴木真年編『朝鮮歴代系図』)。

 こうした「帝乙」についての見方が落合説に同じでも、なぜ「帝乙」が王統譜に入れられたかの事情については、宋(微)の公室の位置づけとも関連するという落合説には賛成しがたい。氏は、先にふれたように、殷の系譜とは無関係の宋の系譜を殷の王統につなげるために、後代になって帝乙を挿入したと するが、この見解が疑問大ということである(氏の記述から考えると、宋が系譜を混入させたのではなく、甲骨文と金文とを混同して後世〔司馬遷などの史料編集者〕に受け取られた結果ではないのか)。
 宋につながる微が殷代からあって、殷周革命革命の時に周に加担したとしても、帝辛の庶兄が先に微に封ぜられた事情があり、叔父の比が干に封じられて「比干」と呼ばれた事情に通じる。先祖の祭祀が重要だと考えられたが故に、殷の滅亡後も、その祭祀を継続するため、帝辛の子の武庚禄父が殷の遺民を率いて殷の故地におかれた事情にあった。武庚禄父が反乱を起こして滅ぼされた後も、その伯父にあたる微子啓()が殷の祭祀を引き継ぐために宋に封じられ、殷の遺民がこれを戴き敬愛したと『史記』に記される。まったく無縁の者をつれてきて、殷の祭祀を行うことは殷の先祖祭祀を汚すものであるし、殷の遺民が喜ぶはずがない。周の武王が昔あった帝禹の後の夏王朝の後裔を見出して杞(伯爵)に封じ、帝舜の後裔を陳(侯爵。商均の後、箕伯の後裔とされるから、実は殷同族か)に封じた事情もあり、周王朝が先行王統の先祖祭祀を重視したことも無視できない。
 宋が周代には公爵という最高位の爵位をもったのも、殷王朝の祭祀を引き継いだ嫡系という事情があったからであろう。殷周革命の功臣の国、春秋の強国を見ても、周王室一族の晋・魯や斉が侯爵で、燕は伯爵であった。微子啓を宋の初代として、その系譜のなかに第四代に丁公申という十干に因む名が見えるのも、殷の後裔たることの傍証であろう。
 同様に、十干に因む名が初期の斉の君公(初代の太公のあと、丁公、乙公、癸公と続く)として見える事情を落合氏は指摘しており、これは重要である。斉公室は姜姓で羌族の出とされるが、殷と同種族であった可能性がある。殷と羌族諸侯が嵩山の岳神祭祀を同じくする事情もあり、殷の王統譜のなかにも「羌甲(『史記』に沃甲)」という名も見える。そうすると、殷が神への犠牲として人狩りして羌人を用いたからといって、別種族とはいえないということでもある。
 
 このほか、殷の王統が実際に一系統だけだったのかという大きな基礎的問題がある。松丸道雄氏は、『山海経』などに見える十個の太陽という神話に着目し、殷の王族は十個の支族から成っていたと考えた。張光直氏は、殷の王統譜に着目して甲・乙組と丁組という二大氏族及び若干の小氏族が父系の交叉イトコ婚を繰り返し、王位は常にオジからオイへと引き継がれたと考えたが、これらのように、殷の王統が複数であったとみる説がいくつかある。また、一族中の同世代の者が兄弟という形で並べられたという見方もあって、違う世代間の親子関係は確定しがたい面もある。
 落合氏は、直系祖先の祭祀ということなどで、「甲骨文字の初期の系譜」(図78)と「甲骨文字の系譜の最終形」(図77)とを対比させてあげ ているが、これは一系を考えているということであろう。「甲骨文字の初期の系譜」では小乙までしか記されないが、後ろへ行くほど傍系相続が目立っている。 そうすると、小乙から後の王統(武丁から帝辛までの王統)にあっても、同様な傍系相続が実際にはなされたとみるほうが自然である。先に、武乙と文武丁との兄弟関係を推したことを触れたが、両者の兄弟として同じ「祖位」という人物が伝えられる事情もある。

 
 (おわりに)
 
 この辺で、殷の王統譜について一応の取りまとめをしておくと、
(1) 殷の王族が十個ないし複数の支族から成っていたとしても(この辺の立証も十分とはいえないが)、基本的に王統を伝えたのはほぼ一系としてよいのではないか(五部をもつ高句麗・百済も王を出したのは一つの部。高句麗では途中で部が変わった可能性があるが)。
(2) 殷王系が一系だとしたら、15代30王(帝乙を除き、祖己を加え、あとは『史記』の諸王をとるとともに、武乙と文武丁を同一世代とみる)というのが原型に近いのではないかと推している。

 ほぼ本文で記したことの整理ではあるが、もう少し説明すると、殷の王については、『姓纂』に2244王とあるといい、これは『史記』の記す17代30王と大きく異なるが、世代数からみると、初代王成湯の前にも殷の祭祀の対象となる祖先がおり、その初めの上甲微から数えたものか。殷王室の嫡裔とされる宋公室から出たのが儒聖孔子の家であり、現在に伝える「孔子家譜」では、孔子の四七世祖の黄帝軒轅氏を大始祖として、殷の王統譜を経るが、そこでは、三十世祖の商王成湯(太乙)から商王が始まり、十四世祖の商王帝辛 (紂) まで商王が18代30王であげられる。王の名前と数は『史記』とまったく同じである。『史記』と異なるのは、親子の関係がはっきりしないこと、商王辛と商王康丁とが兄弟ではなく、違う世代(親子)としてあげられることである。『史記』が「孔子家譜」(ないしは、その先の宋公室の伝承)を踏まえて、そこに記載の殷の王統譜を編纂したのではなかろうか。
 
 以上、『甲骨文字に歴史を読む』を読んで、殷の王統譜などいくつかの点を考えてきたが、注意点がかなりあるものの、重要な指摘と知的な刺激が多い書であることはいうまでもない。ここで書き出した私見もまだ相当粗いことを承知しつつ、皆様の考える材料として記載してみた。史料や研究者の権威にとらわれることなく、当時の事情を踏まえて科学的な思考方法で対処していく必要性を痛感する。
 いずれにせよ、中国上古史に多少とも関心ある方には、本書の一読をお薦めする次第である。
 
 (08.9.16 掲上、9.18などに追補)


   その後の関連雑考が次ぎに掲載しました。

     殷王朝などの中国上古王統と祖系についての雑考


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