殷王朝などの中国上古王統と祖系についての雑考
 
    
               宝賀 寿男


 はじめに
 
  落合淳思氏の一連の新書関係著作、すなわち『甲骨文字に歴史を読む』(2008年刊)、『古代中国の虚像と実像』(2009年刊)及び『殷─中国史最古の王朝』(2015年刊)を改めて読み、その他上古中国に関する日・中諸研究者の諸著作も併せ読んだところで、雑考・雑感を書いてみる。
  話しが古代中国のことである故、日中両国の論考・著作や報道などの記事引用が多いし、拙見なりの解釈・判断もかなり混じることになるが、その辺はご容赦されたい。この辺が雑感と問題提起ということであり、読まれる方々は適宜、原典などにあたられてご判断されたい。

  落合氏の諸著作では、殷(商)を「中国史最古の王朝」と位置づけ、それより早い時期に王朝が中国には存在しなかったという前提で書かれているが、最近までの中国における考古遺跡発掘のめざましい進展状況を踏まえて、中国では、殷に先立つ王朝として『史記』などに書かれる夏王朝の存在が確認されたとして、既に今世紀初頭には「夏商周断代工程」(夏・商・周の年代確定プロジェクト)で年代値の結論まで出されている。
  その数値が、日本の多くの研究者たちが言うように「かなり過剰に遡上される年代」だとしても(この辺は、それ以上の遡上があるように拙見でも思われるが)、夏王朝の存在が否定されるわけではなく、最近まで偃師二里頭遺跡ばかりではなく、中国各地で、殷王朝の遺跡よりも古い考古年代を放射性炭素年代測定法で示す諸遺跡の発掘が進められてきている。遺跡の規模などからも、偃師商城遺跡に匹敵する規模であれば、それを「二里頭文化」と言い換えて済む話しではない。殷王朝の王統・祖系を考えるためには、それに先立つ王朝の存在の是非等の諸問題も、まず問われる必要がある。
 

 一 夏王朝の存在の是非
 
  1950年代末頃から偃師二里頭遺跡ばかりではなく、1980年代からは二里頭文化期には、河型先商文化(豫北の新郷と安陽地方。邯鄲市磁県の下七垣文化)や岳石文化・二里頭文化が黄河中・下流域で鼎立していたことが解明されており、二里崗下層期には河型先商文化が南下して、西の二里頭文化に取って代わり、二里崗上層期には東の岳石文化にも取って代わったことが判ったとされた。これらの状況は、文献上で殷()が夏を滅ぼした記述と符合するとされ、二里頭文化が夏王朝の存在を証明することが明らかになった(「中国まるごと百科事典」などに拠る)、と表現される。
 中国の岳南の著書『夏王朝は幻ではなかった』が2005年に刊行され、日本でも岡村秀典氏が『夏王朝 王権誕生の考古学』(2003年刊で、2007年には補論入りで文庫本となり、副題も「中国文明の原像」となる)という著作で、その存在を時間的地域的にかなり限定をかけつつも存在を認める状況であり、飯島武次氏も『中国考古学のてびき』(2015年刊)で、夏王朝の存在を認める記述をするから、従来から存在を認めることに消極的であった日本の学界でも、夏王朝実在説がかなり多くなってきたと言えそうである。
  たしかに、夏王朝の時代には甲骨文字を含め文字類の存在確認はまだなされず、文字出土資料もなく、自らの王朝・国を何と呼んだか不明であり、「夏」という名は後世のものに違いないが、その後裔たちが称した先祖の国の名であり、そして『史記』などに書かれる記事とは上古の実態がおおいに異なるものがあるとしても、殷王朝に先立つ「王朝」の存在を中原に認めて、そのうえで原態の研究をするほうが合理的なものだと考えられる。
  二里頭の都市文化は、後世の概念である「王朝・国家」の性格を持っていたのかも不明であるとして、考古学的に「夏に当たる年代に政治勢力らしきものが実在した事」が証明された事と、諸史書(呂氏春秋や史記など)にいう「夏王朝が実在した事」を混同してはならないという見方も依然として日本にはある。しかし、城壁などの規模とそれが二期ないし四期にわたり政治勢力が長年(数百年)継続した事情を考えれば、そこに「王朝・国家」の存在を考えるほうが自然である。河南省洛陽市偃師市(県級市)の二里頭遺跡では、殷王朝に匹敵するような規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかるとなると、殷()を王朝として認めて、二里頭のほうを王朝と認めないという議論にはならない。この遺跡からは、宮廷儀礼に用いられたとみられる玉璋・玉斧・玉刀・玉戈など多種多様な大型玉器が出土し、多種多様な青銅製容器(飲酒儀礼用か)も出て、これら考古遺物は宮廷における「礼制」が整備されたことがわかるとされる。
 最近では、陝西省北東部のシーマオ()遺跡の巨大で長遠な城壁の存在も知られてきており、そこから出土の大量の玉器類遺物などもあり、放射性炭素年代測定からも二里頭遺跡よりも古い時期だとされるから、こうした国家的な権力の発生が中国ではかなり早かった事情も分かる。

  二里頭遺跡では、青銅器の本格的使用が認められ、卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字と良く似るという。宮殿の側には大墓があり、この宮殿が死者に対する祭祀を行うためのものとみられている。二里頭文化は四期に分かれ、そのうち一期から三期までは拡大期で、四期は衰退期だと考えられている。この一期から二期までが夏王朝、三、四期が商との併存時代に入るとされるが(『華夏考古』1991-2による)、これには異説もある。
 同遺跡の第一期には三門峡、関中平原東部、河南省南部に拡大し、二期になると、山西省の汾水流域に拡大し、その地域に二里頭文化の東下馮類型を形成し、三期には沁水以西地区、河南省東・東南部に拡大するが、二、三期頃になると、河北の輝衛文化・下七垣文化、山東にあった岳石文化などとの衝突が始まる、と中国ではされている。
  この辺が、夏王朝が存在した場合の版図ということにもつながるが、一期・二期が夏王朝の初期版図と言えそうであり、その場合、河南省西部の洛陽・偃師あたりを中心に山西省南部の臨汾あたりへかけての一帯となろう。偃師の南方には中国五嶽(中国中原を囲む聖山)の中嶽たる嵩山があって、その山麓あたりに夏族の先祖が住んでいたとみられる。飯島武次氏も、河南省の嵩山あたりを流れる洛河・伊河・潁河の流域と、山西省南部の汾河(陶寺遺跡付近を流れる)及びその南の水河(南側に夏県・安邑・運城や解池がある)の流域を夏王朝の領域とする。解池は塩湖で有名であり、三門峡の北方に位置するが、解池方面へ洛陽あたりから通じる道もある。その近くに禹県もあって、夏王朝初代の帝禹の都に絡む伝承もある。この地域に伝えられる夏の都も、安邑があげられる。そうすると、帝堯陶唐氏の都ではないかといわれる臨汾市襄汾県の陶寺遺跡もそれらの近隣にあって、実際には夏王朝の都城であった可能性が出てこよう。ここには、長大な城壁を繞らされるが、平地の城壁であって、山城的な長い城壁をもつシーマオ遺跡とは異なる形とされる。
  そして、「王朝」と言うからには、帝位(王位)は世襲で、それを担う「王統」もあったわけであり、その系譜が後世にいい加減に捏造された(あるいは、容易に改変された)とみるような見方や、中国上古の姓が簡単に変更されたという落合氏の見方は、まず考えられない。夏王朝の歴代の名前が殷王朝の歴代に類似するものであっても、また滅亡の原因としての「傾国の美女」、夏の末喜(・喜)が殷の妲己の伝承に酷く似るとしても(殷の帝辛〔紂王〕の放蕩・暴政の伝承と夏の桀とが酷似とも言う)、夏王朝の存在自体の伝承が後世に創られたということにはならないのである。

  夏王朝の王家の同族後裔として、)姓で、杞・褒や越などがいわれる。周の文王の妃・太文定皇后と追号)は、姓有氏の娘として生まれ、武王・周公旦など十人の子を生んだとされる。有氏は、殷の成湯の妃・匕丙(妣丙〔ひへい〕とも書き、大丁を生む)を出した氏族でもあり、国は州陳留県(河南省開封市域)の東五里のところにあったという(『史記正義』殷本紀)。また、帝禹の子・啓が王位を継ごうとしたときに異議を唱えて討伐され滅亡した陝西戸県(あるいは河南原陽かともいう)の諸侯・有扈氏も、夏と同姓で姓の部族であったという。
 夏族の習俗・トーテムが竜蛇信仰で通じるものとされ、中国で竜が王の権威の象徴とされるのはここに始まり、殷の鳥・太陽の祭祀とは明らかに異なる。夏王朝の否定論者はこうした祭祀方面には殆ど目を向けない事情もある。落合氏は、殷の遠祖契が、玄鳥が落とした卵を飲んだ帝(こく)の次妃・簡狄が孕んで生まれたという伝承を軽く片付けるが、これも鳥トーテミズムに絡むものに注意しないという問題点がある。

  夏王朝が存在した場合の禹〜桀の治世年代・期間について、「夏商周断代工程」では竹書紀年の十七代471年を踏まえて、紀元前2070〜同1600年とするが、日本では、飯島武次氏は紀元前1750前後〜同1500年頃の約250年としており、ほぼこうした年代をとる学説が多そうである。岡村秀典氏は王朝の体制が整ったのが二里頭三期であって、同四期までの紀元前1600〜同1500の百年足らずとみる。
  拙見では、上古の夏王朝の王統がほぼ直系でつながることに疑問をもつこともあって、歴代のなかにかなりの傍系相続も実際にあったのではないか(個別の治世期間の長さからは二倍年暦などの可能性も考えられる)と考えると、夏王朝の治世期間が全体で二百年くらいであって、年代が飯島説よりも百年くらいは後に引き下げるほうが妥当かともみている。

  中国中原の地図 
 
 二 殷王朝の王統と祖系
 
  甲骨文字の解読が進むと、『史記』等に記された殷王統の記事との整合性が当然問題になる。これが、ほぼ符合するとして殷帝王の存在をそのまま認める見方と、仔細に検討すると、名前の表記が若干異なったり、即位の順序が異なったり、また甲骨文に見えない帝王や逆に甲骨文に見えて『史記』殷本紀等に見えない者の存在を重視する見方も出てくる。
  落合氏の場合は、後者のほうである。そして、甲骨文に見えない帝王は、後世に追加された架空の帝王とみるが、この辺はどうであろうか。佐藤信弥氏は、『中国古代史研究の最前線』(2018年刊)で、「殷王の系譜は一定不変のものとして後代に受け継がれたわけではなく、時期ごとの政治的要請によって改変がなされ、殷王の実際の血縁関係を反映していたわけではなかった」と落合氏の見解をまとめる。
  しかし、後代の「時期ごとの政治的要請」による改変の例を具体的にあげるわけではなく、改変を要する政治的要請が殷王朝系譜について、抑もそんなにあるのだろうか。上古の甲骨文の全てが現在にまで伝わるはずがなく、しかもその個別記事も総じて簡略である事情があって、『史記』等よりは記事が信頼ができるとしても、実際には即位していない祖先を祀ることだってありえないわけでもない。佐藤信弥氏は、白川静などの研究を踏まえて、殷本紀と甲骨文とを比較して、次のように述べる。
 @中壬・沃丁のように、甲骨文の方では該当する名前が見えない王がいる、
 A初代成湯の子の太丁(大丁)のように、殷本紀では即位が認められていないが、甲骨文では王として扱われている者がいる、
 B河亶甲→戔甲のように、殷本紀と甲骨文とで呼称が大きく異なる王がいる、
 C太甲(大甲)と外丙(卜丙)のように、即位順が異なる者がいる、などの異同があり、
 D廩辛と祖己については、甲骨文での即位の有無をめぐり議論がある。

  百度百科に掲載される殷王朝の王名比較表

  さらに、帝辛(紂王)の時代に滅亡したので、殷墟甲骨文ではこの王を祖先として記録したものはない。紂王の父とされる帝乙の名も、甲骨文に見えないので、落合氏はこの王の存在を否定し、後世に追加された王名だとする。その事情として、紂王の子の武庚禄父が武王の兄弟の管叔鮮・蔡叔度・霍叔処と共に反乱を起こして(三監の乱)滅ぼされた後に、宋として再興されたときの当主微子啓は、本来別系(殷王朝の氏配下にあった微の首長の家系)なのに殷王室の系に追加され合成されたものと考える。これは、周に従い殷紂王を討った軍に「微」が見える事情があるからである。宋()は、元は殷の支配下だったのが周に寝返り、諸侯と認められたという。その行動の正統化のために、自己の系譜を殷の系譜につなげたとみる。しかし、佐藤氏の上記書では、周の甲骨文である「周原甲骨」や殷末周初の金文に「文武帝乙」として、その名が見えると指摘する。帝乙の妹は周文王の妃の一人だともいうし、宋の王室やこれにつながる孔子の家の系譜を、簡単に否定して良いものだろうか。落合氏は、上記金文は偽作とするが、この辺もどうなのだろうか。
  宋国は殷の礼楽を修め、殷の習俗を堅持し続けたと伝えるように、宋王室の存在意義が殷族の祭祀を伝えるところにあるのだから、微子啓が殷紂王の実兄では仮になかったとしても、殷王室の同族だということまでは否定しがたい(箕子は紂王の叔父と一般に伝えるが、実際には殷王室と早くに分かれた同族の箕伯の家の出であったから、微子啓について同様な事情がなかったとはいえないかもしれないが)。

  殷王室の祖系についても、初代王の六代祖とされる上甲より前(初祖の契から7代)は甲骨文の祭祀に見えないとして、微子啓の祖系と殷王室の祖系とが統合された結果だと落合氏は考え、本来は上甲と微という両者が統合された者とみるが、これも疑問が大きい。それでは、殷王室の祖系についてはまったく所伝がなかったのだろうか。
  上甲微が祖系で重要な人物であったと認められるが、上甲微の父・王恒の兄にあたる王亥は鳥トーテムと重要な関係をもつ。王亥は牧牛創始の偉大な功績により、殷の祭祀では「高祖」として崇敬を受けたという。先に述べた祖先の契の誕生説話などから、殷族は鳥トーテムを持ったと推測されているが、王亥も鳥と関係が深く、その神像は「両手で鳥を操り、その頭を食う」(『山海経』)という姿に描かれる。この辺も、落合氏が祭祀・トーテムを考慮しない姿勢からきていると思われる。
  上甲微は、伯父王亥や父の仇討ちで河北易県(河北省西北部の保定市域)にあった有易国(有扈氏の流れという)を討ち、祖契の事業を継承し商族をおおいに振興させたので、死後に殷人から祭祀で尊重を受けたと伝えるから、王亥兄弟の頃には、殷族は河北省西南部の平野部あたりに遷住していたとみられる。
 河北省南端部の邯鄲市と河南省北部の安陽市(殷墟の地)の間を流れる河流域には、二里頭文化とは異なる先商文化があったとされており、今よりも更に北方を流れて渤海に注いだ黄河の下流部の北岸一帯に殷の起源地(建国以前の居住)があったと落合氏も言うから、これに則り考えてみたい。

  殷族の故地は、おそらく内モンゴル自治区オルドス地方の朱開溝遺跡あたりにあり、そこから南方に百キロほど進んだシーマオ()遺跡の地に巨大な城郭を築いており(最近、両遺跡のほぼ中間の東方、シーマオの東北65キロの地〔楡林市府谷県〕に関連する墓地、寨山遺跡が発見された)、そこから黄河を横切り南東に進んで、山西省の箕の地に入ったものか。「箕」は山西省太原市の南にある晋中市の太谷県・楡社県(箕城鎮に県政府)あたりという。この地に殷の初代王成湯(天乙)のとき、同族の遂という者が箕伯に封ぜられ、その子孫が箕子胥余だとされる。ここから南東に山越えすると河流域になる。そこから南下して河南省の鄭州一帯(二里岡遺跡、鄭州商城など)を押さえ、夏王朝を滅ぼしたものと推される。
  いったんは二里頭遺跡の近隣、東方6キロほどの地にも偃師商城を築いて居るも(偃師商城は前王朝支配のための副都だと落合氏が言い、そうだったか)、先祖の地にまた戻ったのが「大邑商」たる殷墟の地なのであろう。

 三 羌族と太公望の系譜

 上古中国の重要な種族として羌族があった。殷版図の西北方面(陜西省から寧夏回族自治区・甘粛省にかけての地域)に遊牧民として多く居たようであり、殷墟では祭祀における人身供犠(生贄)として多くの羌族の人骨が出土した。羌族の長・太公望(呂尚、姜子牙)の後とされる山東の斉国の初期君主の諡号には十干の名(殷の習慣に類似)が見えるとして、もとは殷側の勢力だったことが窺われると落合氏は指摘し、周の側についたことで、後に「姜姓」を自称したとみるの見方も問題がある。

 中国の姓は種族や祭祀・習俗に関係するものだから、そう簡単に変えられるものとは思われないし、周王室は古公亶父(周文王の祖父)や武王発(妃が邑姜で、太公望の娘といい、成王・唐叔虞の母)など何代にもわたり姜姓一族と婚姻を重ねた事情にもある。なお、殷代の甲骨文には呂尚の領国・斉の名前は見えるものの、西周初期の金文史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない(従って、『史記』などに記される太公望の活躍は後代の創作と考える)、との指摘も落合氏はしているが、周王朝の発足にあたって山東半島基部にかなり広域の領地を得たのだから、斉の初代太公の殷周革命における役割が大きかったと窺われる。その父祖の系は、『史記』斉太公世家に言う四嶽の官職に先祖が就いていた者(帝堯、帝舜に仕え、火神祝融の子の共工の族裔という系譜か)くらいしか知られない。
  私の北京勤務以来の公私ともの友人として中野謙二氏がおられた。毎日新聞の北京支社長として赴任しており、退社後は東海大学教授などをつとめたが、亡くなる前年、2003年に『漢民族の源流を探る─羌族史の解明から』という書を著している。同書等に基づき、羌族や姜姓の系譜も併せ考えてみる。

  いま中国の55の少数民族のなかに羌族があり、総人口が約30万人で主に四川省の成都北方の岷江流域に暮らすが、広義ではイ族や苗(ミャオ)族、現在のチベット人やビルマ人にもつながるものとみられる。
  古代羌族は漢民族の前身たる華夏族の重要な構成部分をなしていたとされ、三皇のうちの炎帝~農氏の流れを引くとされる。羌族は西戎で、犬戎とも言われるように白狼をトーテムとしていた。犬狼祭祀があったということで、日本列島の山祇族にも通じるものがある。殷王朝を承けた周族の出自・祖系は良く分からないことが多いが、始祖の后稷()が巨人の足跡(上帝の巨大な足跡ともいう)に感精した母・姜の元妃)から生まれ、生まれた時は子羊のようだったと伝えることから見て、巨人(=熊に通じるか)がトーテムに関係して羌族に近い種族であったのかもしれない。
  苗族の流れを引くのではないかとみられる古代江南の楚には、熊トーテムがあってか、歴代の王に「熊」の名が多く見られる(氏が熊ともいう)。楚の王家は、)姓で祝融職(火神奉仕)の呉回の孫・季連の後と伝える。いま、南方に居た三苗の流れとかミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されるといわれ、本源は羌族と同系の種族なのであろう。楚の墓には、「鎮墓獣」(獣形の陶製・木製の明器)といった墓を守護し悪霊をはらう役目をもつ副葬品が顕著であって、楚では動物信仰が盛んに行なわれていたとされる。


 <小括>
  以上に見てきたように、古代中国における夏の竜蛇信仰、殷の鳥・太陽信仰や羌族の犬狼信仰が、それぞれ倭地・日本列島の海神族(蛇鈕の漢委奴国王金印)、天孫族、山祇族(倭地原住の縄文人の流れ)につながる要素があることに留意される。
  殷滅亡の要因と伝える妲己は、九尾狐の化身ともされるが、有蘇氏の女で、この一族は祝融呉回の後の昆吾氏(上記の季連の兄弟の樊の後裔)から出た己姓と伝えるから(『國語』に己姓は昆吾氏、蘇氏、顧氏、温氏、董氏と記す)、犬狼信仰を伝えるとして不思議はない。そうすると、殷族により長年、大量の生贄とされ続けた羌族の積年の恨みが妲己で噴出したのかもしれない。その前に、紂王の軍隊は叛乱を起こした有蘇氏を伐ち、美女妲己を獲て帰還したという経緯があるから、殷に敗れた祖国の怨みもあったろうか。
  中国でも倭地でも、こうしたトーテミズム関係は無視できないと考えるものである。神話・伝承の裏で意味するものを把握しないと、歴史の流れを見失うおそれもあろう。また、姓などの系譜を軽々に考えないことも必要だと思われる。

  (2020.10.03掲上。その後にも追補あり)


  最近発見された陝西省のシーマオ遺跡に関連する遺跡についての報道

     楡林市府谷県の寨山遺跡の発掘
 
 

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