宮本武蔵の出生地3


    「剣豪「宮本武蔵」の出生地」に関する応答及び追記・追補
   

 
 掲示
 去る平成22年(2010)10月10日に開催予定の家系研究協議会の創立30年記念大会では、歴史研究家の渡辺大門氏が「宮本武蔵の出自をめぐって−美作・播磨出自説の再検討」というテーマで、講演がなされましたので、その時の模様などとも併せて、掲示します。



 <本文の追補> 

 T 武蔵養子説の疑問

 武蔵養子説の根拠は、後世に作られた「小倉宮本家系図」以外は、唯一、泊神社の棟札といえるが、これに疑問がないだろうか(棟札に見える武蔵が養子となる記事の疑問については、本文で記したが、これ以外の事情についても、以下に疑問がある)。
 
 昭和36年(1961)に発見された、同神社が社殿屋根の修復工事をした際に、本堂と舞堂の二カ所から見つかったというが、その内容は、少なくとも大正5年(1916)発行の『印南郡誌』には全文が活字化されている事情がある。
 同一内容の物が二カ所から見つかったということに関する疑問(同じものが2つも作られる事情が疑問)。屋根裏から出てきたことへの疑問(こうした形で出てくる類の史料は、『東日流外三郡誌』や『武功夜話』など、伝来経緯の怪しい書に見える特徴そもそも、重要な棟札なら、そのような場所に置いておくのか)。

 記事内容の疑問
(1) 主君の実名を直接書いている。また、兄弟の名を「家兄田原吉久、弟小原玄昌及田原正久」と実名だけで書いている。祖父・父の名前も「祖考曰家貞、先考曰久光」として通称を記さない。こうした、文書における実名表記の多さへの疑問がある。
    (2) 武蔵の父・新免無二が「天正年間に秋月城で死亡」と書いている。→明らかに誤り。
(3) 武蔵が後に宮本に改めたと記される。→父・無二の出した数通の免許状において、既に「宮本」が使われていた事情がある。
    (4) 武蔵の養子の伊織について、「源」姓で書いている。
(5) 先祖を刑部大夫持貞として、その時に顕氏(赤松)を避けて、田原に改称したというが、その裏付けが赤松一族の系図にはない。持貞の子孫が改姓したとしても、田原の初祖が誰かを記さず、苗字起源の地を具体的に記さないのは疑問がある。

(6)「武蔵掾」の表記への疑問
 「武蔵掾」の表記は、泊神社棟札のみに見えるものであり、これには疑問がある。当時の宮本武蔵の地位・待遇からすれば、武蔵守でも武蔵介でも重すぎるから、せいぜい良くても官位は「武蔵掾」くらいであろうが、だからといって、この表記が正しいわけではない。武蔵は通称としてたんなる私称にすぎないから、武蔵の履歴から考えて、「掾」といえども国司の一員であり、正式に任官して、「朝廷からもらった官位である」といえるはずがない(官位の偽称は幕府の官位奏請権の侵害となる)。だから、武蔵書状にあるように、たんに「武蔵」であり、それ以上でもそれ以下でもない。小倉碑文でも「新免武蔵玄信」となっている。『五輪書』序文で自らを「新免武蔵守藤原玄信」と名のるのもまた、同様に官位の付け過ぎであって、同書記事の自著を大きく疑わせる。

 伊織は泊神社と同じ棟札を米田天神社にも納めたとされているが、現在は失われていることへの疑問。米田天神社から同じものが見つかれば、裏付けの一つともなる。

 以上の諸点で対比されるのは、武蔵の亡くなった翌年の「正保三年(1646)」に高砂の米田天神社に「鰐口」を寄進しているが、その鰐口の記事である。青銅製の口径一尺三寸の縁に「於豊州小倉小笠原右近大輔内 宮本伊織朝臣藤原貞次敬白正保三暦丙戌九月吉日本社再興願主」と記している。上記の2の(1)及び(4)と関連して考えれば、棟札の疑問が分かるはずである。
 
 以上の諸問題点から考えると、伊織がこの棟札を「承応二年(1653)」に作成したことは疑問があり、伊織が泊神社を再建したのが確かだとしても、当該棟札自体は後世、具体的には「小倉宮本家系図」作成時より後の時期の造作物ではないか、という疑問が残る。

  (2010.9.6 掲上)



  U 宮本武蔵と美作の古武道

 「小倉碑文」には「父新免号無二為十手之家」という記事があり、これとの関連で武蔵を考えてみる。

(1) 十手之家
 父の「新免無二」は当理流(十手術・小太刀術等を伝える総合武術)を開いた武芸者であるとされ、「小倉碑文」には、十手術の達人で、将軍足利義昭から賞められた、と記される。後段の話はともかく、前段はありうる話である。
 というのは、文献が確認できる日本最古の古武道で、日本柔術の源流とされるのが竹内(たけのうち)流であり、その始祖とされる竹内中務大輔久盛(生没は?〜1595)は、天正年間に毛利方として宇喜多直家と戦うが、天正八年(1580)に敗れて居城の一ノ瀬城が落ちた。その後、逃れて播磨国三木城の別所長治に仕えたと伝えるが、この所伝については、古武道史研究家の綿谷雪(わたたに・きよし)氏は『日本剣豪100選』(1971年刊)で、天正五−六年ごろの『作州竹山城侍帖』(新免伊賀守の家中)に「大原梅ガ枝、竹内中務」との記載があることから、久盛はこのころ新免無二に仕えて大原(旧大原町、現美作市)に在住しており、三木城で仕えたというのは誤伝であろう、と述べる。この大原滞在中は「客分」としてかともみられるが、無二と竹内久盛とは古武道でも接触があったか(どちらが師匠かは不明)、ともみられる。ただ、竹山の侍帳の時期が一ノ瀬落城の時期と符合しないので、侍帳には信頼できない面があるかもしれない(この辺はさらに調査を要する)。
 武蔵については、一伝には、父・無二とは不仲であって(この確認はできないが)、父の当理流ではなく、小具足腰廻(短刀組討)を流儀の要めとする竹内流を習ったとも伝えるが(師匠については、母方の叔父とも竹内久盛ともいって、諸伝あるが、宮本武蔵との交流があったことを竹内流でも伝える)、いずれにせよ、小太刀などの古武道に武蔵が通じていたとみられている。これは、武蔵が幼少時に美作に在ったことを強く示唆するが、泊神社棟札の記事のように、武蔵が無二の「死後養子」であったのなら、生地播州説では、武蔵はどこでどのような環境のもとで、古武道を含む武芸を修得したというのだろうか。

 そもそも、「死後養子」や「末期養子」などは、江戸時代の大名家などにおいて、「家」の存続のためになされた発想と行動である。これらの事情は、泊神社棟札の記事が後世の造作であることを強く示唆する。伊織が養子だからといって、武蔵まで養子にする必要はまったくない。
 
(2) 古武道竹内流に関する諸事情
 古武道竹内流の関係について、もう少し述べておくと、主な点は次のとおり。 
 @竹内中務大輔久盛は、美作国久米北条郡併和郷の一ノ瀬城主(岡山県久米郡美咲町栃原)であり、その父を垪和幸次とも、杉山備前守為就の子に生まれて竹内八郎為長の養子となったとも伝える。竹内久盛は源姓とも平姓とも称したが、その実、美作菅家党の垪和(ハガ)一族の出であった(具体的な系譜は不明なことが多い)。その祖・芳賀太郎佐延は有元氏から出て、芳賀(併和、羽賀)氏を嗣ぐと伝える。
 美作でも粟井(淡相)、竹内、杉山などの諸氏は併和同族であり、垪和筑前守は室町幕府奉公衆として、『見聞諸家紋』に「丸に抱き花杏葉」の家紋が記載される。
 久盛が古武道開基のもととなったのが、参籠した垪和郷三之宮であると伝え、同社は現在は八幡神社(美咲町西垪和・東垪和。栃原の北方近隣)となっている。
 A竹内久盛の弟とも伝える片山伯耆守久安(生没が1574〜1650という)は古武道の片山伯耆流を起こしたが、年代的に考えると、久盛に近い一族だったか。
 B豊前に福光派古術があり、これは、美作福光党の末流、福光三郎左衛門明正が開祖で、江戸初期に豊前香春の地で帰農するにあたって、帯刀を禁じられた百姓の護身の芸として考案したのが流儀の起こりとされる。福光氏も美作菅家党の有元氏の支流であった。
 C竹内流の宗家は、久盛三男の久勝(藤一郎、常陸介)が継承して以降、代々が連綿と続いて、現在、岡山市北区建部町角石谷(栃原の東方近隣)にあるが、当地に「古武道竹内流発祥の地」の石碑がある。その東南近隣には久米郡弓削郷の総社たる志呂神社(建部町下神目。主祭神は事代主命だが、その実態は少彦名神か)が鎮座しており、同社では「棒使い」(宮棒)が秋祭に奉納される。宮棒は、神輿の渡御の際の先導警護という神事の重要な役割を果たしており、その型の名称・所作の類似点から見て、竹内流古武道と源流が同じだと明確に認められる。
 D美作では棒術が古来盛んであり、農村芸能の一つでもあるが、神事に関係あるのでは、志呂神社のほか、加茂川町の加茂神社や建部町の七社八幡宮、和田神社などがある。加茂神社関連の鴨氏族同族も少彦名神の後裔氏族であり、吉備で繁衍した。和田神社(建部町和田南・角石畝。祭神は八幡神)は併和郷二宮ともいわれる古社で、「古武道竹内流発祥の地」の碑の西北近隣に位置する。角石畝には竹内氏の居城の高山城があった。
 七社八幡宮(岡山市北区建部町建部上)は旧建部郷の総社であったが、同社には、旧建部郷内七社(すなわち、多自枯鴨神社・佐久良神社・富沢神社・宮地神社・真名井神社・天神宮・天満天神宮)の御輿が氏子の家を回りながら、郷の総社に参集する「建部祭り」があって宮棒や神楽が奉納される。ここでの、鴨神・天神の祭祀に注目される。
 
 美作発祥の古武道が上記@〜Bで見るように、いずれも菅家党に関係し、弓削郷や志呂神社も少彦名神・鴨神の関連であることからみて、これらはすべて符合する。
 以上に見るように、武蔵の素性を考える場合に、祭祀・習俗・技術なども含め、関連する多数の諸点について総合的に考えていくことが必要である。
 
  (2010.9.7 掲上)



 (武蔵研究者の方〔M様〕からの来信) 2010.8.30受け
 
 私の考察は随分古いものですし、今から見るとかなり思い込みも多く、不十分なのですが、考えがまとまらず放置している次第です(私も武蔵が田原家貞の実子という説は疑問であると考えています)。また、少なからず生誕地論争に巻き込まれ、嫌な思いもしましたので、あまり公の場では発言しないようにしています。
 
 樹童さまの考察拝読いたしました。なかなかの力作だと思います。
 
 数点気になる点を上げます。
 
>ごく自然に考えられるのは、武蔵の実父が「新免無二」であって
→(M様)武蔵の実父が不明だからと言って「新免無二」が実父であるという結論に至る根拠が不明です。樹童さま御指摘の通り、少なくとも「五輪書」に於いて武蔵自身(もしくは少なくとも武蔵に近い弟子)が播州生まれであると宣言しているし、黒田藩の分限帳でも無二を「播州人」としていますが、この否定ができていません。その上で泊神社棟札を見る限り、武蔵を「新免無二」の実子とするのは乱暴でしょう。「先入観を抜きにして、確実な点を押さえ」るならば、(仮に播州説を全否定するにしても)実父は不明であると結論づける以外にありません。
 
 <樹童の感触> @「新免無二」は、いくつかの史料から見て、いまの美作市域をメインに活動しており、主君の新免伊賀守がこの地域の豪族であった事情を踏まえれば、実際に無二が美作の人であることは明らかです。それが、黒田家の分限帳で「播州人」として記されているのは、主君の新免伊賀守が播州生まれで、彼が播州北部をメインにして、そこから美作東部にかけての地域を版図とした赤松一族の宇野氏の勢力下に当初あったからだと思われます(だから、漠然とした「播州説」は、そのまま限定的に播磨国を意味するものではないと本文にも記しています)。
 M様は、「新免無二」を播州人とするのでしょうか。また、その場合の居地をどこと考えているのでしょうか。
 A 「新免無二」が武蔵の養父にせよ、実父にせよ、武蔵の「父」と当時に扱われていたことは、巌流島の事後処理に関する史料から見て、確かだと思われます。
 B泊神社棟札にはいくつかの疑問記事があり、筆者が実際に養子の伊織であっても、そのまま信じることは、史料評価の観点からいって、むしろ大きな疑問があります。そして、武蔵養子説はこの棟札に基本的に依拠しています(棟札の諸問題点は上記の追補記事を参照)。
 
 >現在に伝わる「平田家系図」は…武蔵の名の「政名」等々、現存の記事が疑問だからといって、武蔵の美作出生説が間違いというわけではない。
 →(M様)一次史料に近い「五輪書(写本)」を武蔵の書いたものではないかもしれない、「泊神社棟札」を碑文と合致しない(ちなみに「父」が実父を指すという指摘もあまり納得できません)と言って否定しておきながら、誤謬に満ちた系図を元に「武蔵の美作出生説が間違いというわけではない」と結論づけるのはあまりに偏りすぎていませんか。
 
 <樹童の感触> @「平尾家系図」の初めの部分は大きな疑問があり、新免・宮本家とは姻戚関係があっても、この家から無二が出たわけではないとみられますし、「平田家系図」にもいくつかの正確ではない記事がみられますが、この両系図を基にして作州説を支持しているわけでは、全くありません。武蔵と関係者・氏族・祭祀などを含めて総合的な考察からです(本文の趣旨をもう少しご理解いただけたらと思います)。
  なお、もとの系譜が正しくとも、焼失後に再作成された系図のなかに不正確な記事が混入する例は、武蔵の「高麗氏系図」にも見られます。
 A「子」の意味ですが、かつて読んだ大宅壮一著『宗教・皇室』だったかと思いますが、むかしの養子制度には、a養子、b猶子、c実子、という三種があり、それでは現在の実子はなんというかというと、たんに「子」というのだ、という記事があったと思います。
 B播州説には、貴殿のお立場にも示されるように、武蔵の「実父」に当てるべき者がおりません。ということは、『播磨鑑』でも武蔵の父は不明であることも考え併せて、「無二」の実子として武蔵を考えるのが自然です(確実だというほどのものではありませんが)。無二養父説は、田原・宮本家の主張にしか拠るものがありませんし、養父無二の秋月城死去説は史料にはまるで合致しませんし、養子になったことについては、経緯的にも疑問なことは本文に記しました。

3 総括的な内容
 (M様)
 失礼を承知で忌憚なく感想を言わせていただくと、「やはり美作説に偏った見方をしているなぁ」となります。播磨武蔵研究会の主張も、やや偏りがあるように思いますが、説得力は抜群でしょう(『播磨鑑』を信用しすぎだとは思いますが)。また、福田氏の著書は、たしかに現在の研究では最も優れたものだと思います。
 私は武蔵がどこで生まれようと構わないのですが、播州と作州の狭間で両手をひかれて可哀想だとは思います。まだ結論には至ってないようですが、先入観にとらわれずに結論を出していただきたいと思います。
 
 <樹童の感触など> @播磨武蔵研究会の主張は、その積極的な根拠の史料を考えると、田原・宮本家の主張・伝承や『播磨鑑』に拠るくらいで、それぞれの記事に疑問が多くあります。要は、十分な史料吟味という基本的な学問的検討を経ていないということです。「生地播州説」をとっている学究が、どなたかおられるのでしょうか(これは、学問的権威によるのではなく、あまりにも学問的基礎を欠く議論・アプローチが本件問題については多いので、そのような学究が誰かいるのだろうかということです)。
 Aその後、別途、検討を深めるにつけ、新免氏の出自・系譜は、本件問題の検討にあたり、たいへん重要な役割をはたすことをますます感じております。この辺は、別途に記すこともあると思いますが、黒田家文書に見える「新免=新目」(これが「神免=神目」にもつながる)ということの重要性は、播州説ではまったく認識されておられません。田原氏の祭祀事情も同様です。
 
 ちなみに、本文の筆者は、匿名だと無責任ととられるおそれがあるので、代表者の名を借りておりますが、樹堂を含む者たちの合作だと受けとめください(播州武蔵研究会などの会組織の名前によるHP記事と同様の話)。そして、当方の検討にはなんら先入観はありませんし、どちらの説にも利害関係はありません。本件問題に関して、「嫌な思い」もされたとのことですが、オープンで論理的な論議であるならば、本HPのなかで行うにやぶさかではありません(学問的な応答については、「私信」だから秘密にすべきだとの主張は、きわめておかしなものであり、そうした応答は、本HPでは歓迎しません。このような不明朗な「私信」のやりとりは、学問的で合理的な検討に資するものではありません)。

 私どもとしては、田原氏の系図をはじめとして、赤松一族の出という系図については、多くの系譜仮冒があることをご認識いただければと思われるところです。播州説の皆様(本文にお名前を掲げた方々のほかにも、多くの研究者の種々の論調を見せていただきましたが)におかれては、総じていうと、合理的な「史料批判」の姿勢があまり感じられません。そして、文書に書かれた「記事そのまま」を、そのまま文字どおり受け取る傾向が見られるように感じます。世の中に通行する多くの疑問な史料(偽書ばかりではなく、誇張記事も含む)について、きちんと吟味することは、歴史研究における立論のたいへん重要な基礎だと考えます。

 現状では、決定的な史料がまだ不足しているとも感じますが、現有史料からみて、どこまでが合理的な判断かということは十分言えると思われます。
 
 (2010.9.4 掲上) なお、本文も含めて、紛らわしい表現・不足の表現等は10.9.5〜7などに追補・補正しましたが、論調・主旨はまったく変更しておりません。
   


   渡辺大門氏の「宮本武蔵の出自をめぐって」の講演について

   本文のtopへ    前へ 


  ホームへ  ようこそへ   Back