宮本武蔵の出生地4



    渡辺大門氏の「宮本武蔵の出自をめぐって」の講演について

                      家系研究協議会創立30周年記念講演
                      日時:平成22年(2010)10月10日
                      場所:大阪市弁天町市民学習センター
   


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 講演要旨の紹介

 1 概要及びお断り
 講演テーマの副題を「美作・播磨出自説の再検討」として、講演自体は約1時間40分、その後の質疑応答を約20分、合計で約2時間の話がなされたが、「1史料上確実な武蔵像、2播磨説 五輪書などの記述、3播磨斑鳩説 播磨鑑の記述、4播磨米田説 赤松氏系譜との関係、5美作説 新免氏との関係から、6武蔵の生誕地はどこに」の柱だけがペーパーに書かれており、これ以上の具体的で細部にわたるレジメ記載がなく、あとは参考文献が二枚半にわたってあげられる資料が配付された。
 このため、ここでは聴衆の伝聞なども含めて、樹堂の文責により講演の要点を整理し掲載したものである。ここに整理した内容は、講演された順番で記載したものではなく、質疑応答の内容も含むもので、順不同であるが、その記事内容に誤り等があったら、それは文責者に帰されることを最初にお断りしておく。

 ※渡辺大門氏のHPにも宮本武蔵の記事があり、本頁の説明を補足するものとなろう。
   「宮本武蔵研究の問題点を探る」  http://wdaimon.blog4.fc2.com/blog-date-200504.html 
                 
 
 2 出生地論争をめぐる特殊性と総論
○剣豪武蔵の出生地をめぐっては、美作説と播磨説とがあって激しい対立がある。これまで出された説としては、美作説が殆どだと思うが、そうは一概には言い切れないものがある。
○自分は、岡山県津山にある大学(美作大学?)にも在籍して、美作の現地事情も承知しているが、美作のほうでは武蔵関係の観光事業(大原町の武蔵記念館、饅頭、剣道大会など)も広く行われており、そうした利害関係もでている。だから、この問題には、いろいろデリケートな面があると思われる。
○武蔵関係の文献・史料、研究書、研究論文もきわめて多く、なかでは岩波新書(新赤本1167)で『宮本武蔵』を書かれた魚住孝至氏の研究が数多くあって、武蔵研究には参考になるが、彼には武蔵の出生地については具体的な記述がない、と話された〔註〕。武蔵関係の系図にはまずいものが多く、史料には決定的なものがない。これらを含め、数多い史料についてはしっかりした吟味がもっとも肝腎なことだと思われる。
 〔註〕魚住著『宮本武蔵』には、「宮本系図」を信頼して、播州米堕村で田原家貞の次男として生まれたという記事が見えるから、この辺は渡辺氏の受け取り方に疑問がある。なお、魚住孝至氏は、国際武道大学教授で、東大大学院博士課程を単位取得満期退学されているが、どうも歴史学専攻ではなさそうである。

○自分も、岡山での大学の紀要に研究報告として、「宮本武蔵の研究−生誕地・系譜を中心に−」(『美作地域史研究』第二号、2008)を書いたことがあり、本日は、その辺も踏まえて話をする(このほか、「宮本武蔵研究の問題点を探る」〔『歴史読本』48巻3号、2003〕という論考も書かれている)。
 
 3 確実な武蔵像
○手紙や日記などの一次史料から考えていくと、武蔵について確実に知られることは少ない。大坂の陣に参加したこと、寛永の島原の乱にも参陣したことくらいで、この辺は八代市立博物館に残る書状から知られる。
○『二天記』にはいろいろなものがあって、疑問もある。
○熊本の細川家には仕官ではなく、扶持米・合力米として、武蔵は三百石相当が与えられていたが、同藩には足利将軍家の末裔という足利道鑑なども招かれており、有名人を招く風潮があった。
 
 4 播磨斑鳩説
○『五輪書』には播磨の産とあり、春山玄貞作成の「小倉碑文」にも播磨の人とあるから、播磨は無視しがたい。平野庸脩(つねなが)編著の『播磨鑑』には「揖東郡宮本村の産」という文字が記されており、池田輝政関係の史料に宮本村が見えるから、その当時に存在した地名である。郷土史家川島右次の『石海村史』にも、この説が見える。
○その宮本村とは、斑鳩(鵤)にあって、現在の揖保郡太子町宮本にあたるが、現地には18世紀中葉、宝暦の大火で史料などはすべて焼失したといって、関係史料が残らない。
 
 5 播磨米田説
○武蔵の養子の伊織が武蔵死後八年の承保二年(1075)に米田村の泊神社に奉納したという棟札があり、赤松持貞の子孫とされている。これは「宮本系図」にも記事が見えるが、もとは田原氏であって、持貞の後の系図がおかしく、「某−某」という名前不明な中間世代がある。
○赤松持貞は、赤松春日部家の人であるが、足利将軍家から与えられた所領のなかに米田村が入っていたことが岡山県立博物館所蔵の「赤松春日部家文書」に見えている。これを神戸新聞社が大きく取り上げようとしたが、武蔵まで系図がつながるのか? むしろ、武蔵と赤松春日部家とを結びつける要素がない。
 
 6 美作説
○美作には「平田家家譜」が残るが、岡田一男氏が武蔵研究の本で取り上げたように、系図の記事に年代的な矛盾があり、疑問が大きい史料である。
○美作説は、熊本生まれで東京帝大卒、東大教養学部教授、日本法制史専門家であった池辺義象(よしたか)が著した『宮本武蔵』(金港堂、1909)が始まりで、これには熊本の宮本武蔵顕彰会の多大な協力があった。
 これでは、武蔵の家系は、赤松氏の支流、衣笠氏の一族の平田氏であって、無二斎が父とされる。
○無二斎の主君とされる新免氏については、『新免家古書写』という史料があり、公家の徳大寺家から出たという系譜となっているが、この家祖の出自は『公卿補任』などから見て疑問が大きく、総じて良い史料とはいえない。
○新免氏の活動は永禄年間から見えるが、美作竹山城主の新免伊賀守宗貫がその後に福岡黒田藩に仕えて、同藩の家臣を記す分限帳に二千石として出ており、そこに無二が百石取りで出てくる。無二のほうが黒田家に先に仕えたか「播磨の人」「古譜代」という註記も無二に記される。
○無二は慶長十八年(1613)の「木下延俊日記」にも出ており、無二・一真という名前で見えて、剣術の免許状を延俊に対して与えている。
○美作の宮本村が何時できたかというと、1657年に分村してできたと史料に見える。だから、武蔵が死んでからできた村であるので、それを苗字に名乗る武蔵については、美作出生説は成り立ちがたい。
 
 7 とりあえずの結論
○以上の検討からいって、「播磨斑鳩説」が最も妥当ではないか、と渡辺氏は考える。
 父の無二には、上記の黒田藩分限帳で「古御譜代」という記事も見えるので、無二が十六世紀半ば頃から播磨にあって黒田氏に仕え、新免氏の配下などの所縁もあって新免の姓も許された事情にあったのではなかろうか、というのが推論となろう。
 


 以下は、樹堂の見解です。
 
U 播磨斑鳩説への疑問 

 1 無二と新免氏との関係
 父の無二が播磨斑鳩に居たという証拠がまったくない。斑鳩にも播磨にも、宮本氏や新免(新目)氏の分布や痕跡がまったくないという事情がある。
 黒田藩分限帳での無二に関する「古御譜代」という記事が信用できるものであれば、この語のみから単純に考えれば、最初に新免氏に仕えて、その後に黒田氏に仕えたとはいえないことが多いだろうし、最初から黒田氏に仕えていたのだとすると、新免の姓を主君から特に許された事情がまるで説明できない。だから、「古御譜代」の語をどのように受け取るかの問題でもあるが〔註〕、無二は始め美作で新免氏に仕えて、それが、その主家宇喜多氏の没落あるいは新免氏の宇喜多氏からの離脱などで、黒田氏に仕えるようになったとみるのが流れとして自然である。新免氏に関する文書には、その家臣として新免無二の名前が見える。
 無二が当初は播磨の揖東郡斑鳩に居たとしたら、多可郡黒田ないし飾磨郡御着に居た黒田氏に仕える事情も、美作大原の新免氏に仕える事情も、まったく説明しがたい。新免氏が美作北東部の豪族であったことは明らかであり、その当初の主君であった宇野氏が播磨西部の宍粟郡長水城(現宍粟市山崎町)にあって、美作東部も領域としていた事情があったから、新免氏の配下にあった無二も播磨の武家とみられた事情があったのではないだろうか。
 〔註〕魚住氏の『宮本武蔵』では、「古御譜代」の意味としては、「黒田藩が豊前を領していた時代からの家臣の称で、関ヶ原以後に入った「新参」とは区別している」ということであり、「無二は、関ヶ原以前から黒田家中にいた」ことを意味するから、古くからの家臣ということではない。はじめ、新免氏に仕えていても、関ヶ原戦より前に黒田氏に仕えれば、「古御譜代」の条件を満たすということである。
 
 2 戦国期に斑鳩に居たのは別の土豪
 播磨赤松氏の家臣団についての史料を見ると、揖東郡斑鳩には室町・戦国期に長く居た豪族は鵤の構主であった大和氏であり、その具体的な系図が『赤松諸家大系図』第四巻に見える。室町前期の赤松義則に仕え嘉吉に功のあった大和肥後守則正を始めにあげて、それ以下の系図が戦国末期の大和久兵衛友次(壱岐守房元)まで九代にわたり記載される。この大和氏は、古代の明石国造族の大和赤石連の末流ではないかとみられるが、三木の別所氏の軍乱に与した大田氏に与力したとされる。
 大和氏は、戦国末期に秀吉による三木城攻めのときに別所氏に与して没落したから、同地に新免無二が居たとしたら、大和氏に仕え、かつ、大和氏と同様な運命であったはずである。大和則正の後は、石川大三郎が居城したとの所伝もある。
 また、斑鳩の南山構には、永禄年間(1558〜70)の頃、五百蔵右近繁広が居城したと伝える。五百蔵家は江戸時代には鵤宿の本陣をつとめた家柄であるという。これも含めて、無二が実際に斑鳩に居たのであれば、黒田氏や新免氏と縁が生じるはずがない。
 
 3 『播磨鑑』の書き方
 
平野庸脩は『播磨鑑』の附録で、武蔵と伊織を並べて書いており、その事情から、次のように考えられている(ネット上での見解)。
  宮本武蔵 揖東郡鵤ノ邊、宮本村ノ産也。若年ヨリ兵術ヲ好ミ(後略)
  宮本伊織 印南郡米田村ノ産也。宮本武蔵、養子トス
 
 こういう列記・並立して書く書き方であることから考えると、武蔵の記事と伊織の記事が無関係に書かれたどころか、むしろ、庸脩は両人を対照させて連続して記述し、武蔵の産地は揖東郡宮本村、伊織の産地は印南郡米田村だと書くのだから、こうした記述スタイルが明確にするところに注目すれば、現代の武蔵米田村出生説には成立の余地がない。


 4 関係する史料や痕跡が火災で消滅したという説明への疑問
 まるで、説明にもなんにもならないことはいうまでもない。
 
V 武蔵の出生地について導かれる結論
 どれも決定的な証拠はないが、総合的に考えると、多数説かも知れないが、美作説が最も妥当である。播磨説は、具体的に検討すると、どれも根拠が薄弱であるからである。養子の宮本伊織の実家田原氏に伝えたという系図を基本とする「宮本系図」は、信用できない。
 現存する平田家の系図についても、内容の信頼性が弱い面があるのは確かであるが、新免氏に属した平田氏が、往時は荒牧大明神と称していた讃甘神社の付近の「宮本」構を守って、一族が宮本とも号したということであれば、これは行政体である宮本村の分村時期とは関係がない。新免(新目、神免)氏や平田氏が美作の武家であったことは疑いなく、かつ、播磨とは無関係での苗字であった。
 なお、これら諸氏が、赤松氏の支流ではなく、その重臣の衣笠氏(本来、赤松氏とは別系統)の支流でもなかった。一般に、後世に作成された系図の記事には、十分な注意を要するものである。
 
 (2010.10.14 掲上。その後、同11.4などに、若干の追補)



 2015年4月に越後屋鉄舟様から来信があり、これまでの議論を踏まえて、HPを作成したとのことです。
 
   越後屋鉄舟の「新・真説宮本武蔵」   http://shinshinmusashi.blog.fc2.com/

 本件問題にご関心の方は、是非、ご閲覧下さい。

 なお、来信の内容と、それを受けての樹堂の感触は  次へ


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