宮本武蔵の出生地5


  宮本武蔵の出生地問題の続き(その5)



    越後屋鉄舟様からの来信と最近の樹堂の感触など

                        


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 越後屋鉄舟様との応答次第

  <越後屋鉄舟様からの来信の趣旨> 
2015.4.13受け

   元々、武蔵に対してそれほどの関心をもっていたわけではないのですが、2014年の六月ごろに、宝賀氏の「宮本武蔵」の出生地(試論)を読んで示唆をうけ、宮本武蔵の研究をはじめるようになりました。新免幸男氏と宝賀氏の提示された説に非常な魅力を感じ、様々な史料を検証して、ある程度の成果が得られたので、先日、武蔵研究のブログを開設しました。以下のアドレスがそのブログです。
  http://shinshinmusashi.blog.fc2.com/

 まだブログを立ち上げたばかりですが、武蔵の新・作州説の周知・立証に多少なり寄与できないものかと考えつつ、いろいろと活動をつづけている次第です。わたしなりに文章を練り、また多少自分なりの考察なども交えて播州説の問題点を整理しなおした記事を投稿しましたので、ご報告いたします。
 今はまだようやく播州説の問題点をまとめた程度で、これから「平田無二世襲説」の紹介、またわたしなりに世襲説の裏付け検証をおこなった研究成果など、少しずつ文章にしていこうと考えている段階です。
 基本的に先行研究者のみなさまの文章を直接引用したりはせず、影響を受けた学説などに関しては出典も明記したうえで記事を作成したものです。             


  <樹堂の返信の趣旨>   2015.4.14発信

 武蔵の記事を掲上してから5年ほども経ち、ほとんど忘れてしまい、その後もとくに新しい情報はありませんが、この問題に限らず、中世の武家研究にあっても、古代以来の祭祀や習俗・特殊技術を考慮する必要性を感じてきました。
 新免に通じる備中の「新見」が蹈鞴製鉄の関係地であることで、古代の鍛冶部族たる天孫族の流れを汲む吉備弓削部関係者が居た可能性があり、当該武蔵なども、苗字が平田あるいは宮本で、本姓が新見ではないかとも思われるのですが、これまで新見という古代姓氏は管見に入っておりません。ただ、吉備の辺地の姓氏だと記録に残らない可能性もあり、「新見郷司」が源平争乱期に見えるとのことでもあり、なんらかの姓氏をもっていたとみるのが自然ですが、それが分からないということです。
 播磨関係の系図は後世の造作もので、父・田原氏説は疑問が大きく、その場合、播磨説では具体的に妥当な父親の名が分からないわけですから、採用のしようがありません。


  <越後屋鉄舟様からの第2信の趣旨> 2015.4.15受け

 新免姓のなりたちそのものは、わたし個人の研究の範疇を超えていますが、やはりわたしも備中新見庄にルーツがあるのではないかと思っております。
 というのも、国人領主制のなりたちについて調べておりましたおり、菅野則子氏の論考「国人領主制の形成過程」の中で新見姓の地頭の存在が確認でき、あるいはこれら新見庄から美作地方に流れていった一族が後に新免になったのかもしれないと、これはあくまでわたし個人の憶測にすぎませんが、考えております。
 平田無二世襲説につきましては、なにぶん史料上ではすべて同人物としてあつかわれているため、はっきりとした区別はつきませんが、いくつか武仁と無二が別人である傍証とよべそうなものも見つかり、それらもいずれ記事にしていけたらと考えております。

 
以上の趣旨での応答があって、ご連絡のメール掲載の了解もいただき、ここに掲載する次第です。基本的に、越後屋鉄舟様の考え方と異なっていないようであり、別人の視点からなされた検討・検証という事情もあるので、宮本武蔵関係の問題にご関心の方は、是非、次のブログを閲覧下さい。
     越後屋鉄舟の「新・真説宮本武蔵」
 
 最後に、ネットで、武蔵研究の最近の動向を見ても、とくに目新しい史料は出ていないと思われるので、なんらかのご参考までに、このところまでの樹堂の感触等を併せて記しておきたい。



U <樹堂の最近の感触>  

 順不同の極めてアトランダムなもので恐縮ですが、思いついたところを書いておきます。内容は目新しいものはあまりなく、これまでこのHP内で述べてきたことの要約・取りまとめとも思われますが。
 
1(総論 武蔵の出生地は、合理的な根拠に基づくものであれば、それはどこでもよいのだが、いずれにせよ、具体的な資料を基に総合的に判断されることが必要だと思われる。私どもが、縦(祖先から子孫への流れ)と横(同時代の交流関係者)の人間関係を重視する所以で、かず多くの系図関係資料を見てきたが、先祖の事績顕彰を基に、立身出世・任官・所領争い等々、などに有利に働かせようとするために、多くの偽造系譜を含む文書類が造られる。これは、日本に限らず、どこの国にあっても共通なのだが、それでも具体的・個々的に冷静に見ていくと、おかしな点は割合はっきり浮かび上がってくる。
 例えば、ある文書・史料に関与するとされる人物が実在しない者だとすると、そこで先ず史料の真実性に疑問が生じる。『古事記』序文に見える「稗田阿禮」がそうであり(この場合は、序文や同書成立の由来に疑問だと言うことに限定して良いと思われるが)、『東日流外三郡誌』(いわゆる和田家文書) の編者という秋田孝季があげられるが、学究としての偉い肩書きがどうであろうと、こうした面について配慮しない研究者が多い。当該文書の伝来・由来なども重要で、屋根裏や壁の中から後年に出てきたとか、あきらかに後世の製作だとみられるものは、総じて疑問が大きい。
 そうしたものとして、武蔵関係では、承応二年(1653)の年号が記される泊神社棟札とか、「田原氏系図」があげられる。これらを一級史料として扱うのは疑問だということである(一次史料かもしれないが、一級史料とは言い難いということで、これを混同してはならない)。
 宮本武蔵には、兄弟や一族が明確に伝わらないし、実の子もいなかったから、その血脈についての所伝は、殆どが後世の造作、ファンタジーにすぎないとみられる。しかも、宮本伊織の血脈も、江戸期に主君小笠原氏から養嗣が入って途切れており、武蔵の父(ないし養父)とされる新免無二くらいしか、端的には一族関係者が見られない。播磨出生説の根拠の薄弱な点は、武蔵の父や一族について、具体的になんら明確にされないということだと私は思っている。
 
2(以下は各論 中世播磨の武家諸氏は、その祖先を守護赤松氏に架上する系譜をもつものが多い。たしかに播磨一円に繁衍して一族が多かったから、それらの系譜・所伝の全てを否定するつもりは毛頭ない。しかし、系図類については、十分な吟味や裏付けが必要なことは今更言うまでもないし、先にも掲げた宮本伊織の実家、田原氏も赤松一族の出自は疑問が大きい(数代の世代欠落があるなど、確認されないことが多い)。後世の『播磨鑑』等の記事に、過剰な信頼をおく見方・姿勢には疑問が大きいことにもつながる。
 私は、最近、古代の邪馬台国所在地問題を含めて、文書・史料だけを「信じる者は救われない」という見方を強めるようになった。つまり、総合的具体的な検討のなかで文書・史料を用いるべきであり、同族が古来おこなってきた祭祀・習俗など、その当該者と一族を取り巻く様々な要素を十分、考察することが必要だということでもある。武蔵の父が田原氏の家貞なら、なぜ宮本とか新免とか名乗ったのかという問題があり、また播磨の宮本村の生まれなら誰が父なのか、当該宮本村ないしその近隣に一族がどのように残ったのかという問題に対して、播磨説の主張者は具体的に答える必要がある。
 
 武蔵の家系についてのつながり・手がかりは、父と伝える新免無二とか、宮本・平田などの苗字しかなさそうである。そして、これらは美作に多く関係する。播磨には、赤松一族と称する諸氏も現実にいくつかあり、美作出自の武家で南北朝・室町期に赤松氏に属して一緒に活動したものは、美作菅家党の一族諸氏でも見られた。それでも、個別具体的な生地はともかく、その氏の本貫地という目で諸氏の行動を見ていくと、播磨ではなく、美作に強く関係する。美作で武蔵関係とされる諸氏の現伝系図には疑問があるとの指摘もあるが、一族や祖先に共通する通称が見られる例もほかにもあり、武蔵と新免無二との関係が切断できない限り、武蔵の出自として美作を考えるのはごく自然である。

 「新免」は、無二の当初からの苗字ではなく、主君の「新免伊賀守宗貫」から賜与されたものだともいうが、一族故にその主従関係が生じ、新免の名乗りを許されたと解することもできよう。「新免」が本姓(苗字ではないという意味での、姓氏)なら、自ら名乗ることもできる。ちなみに、新免氏が藤原北家の清華家・徳大寺実孝より出るという系譜は、明らかに仮冒であり、その先祖が作州吉野郡粟井城主とも同郡竹山城主ともいうから、美作古族の末流とみるのが自然である。「宮本」だって、抽象的に地名ができたわけではなく、具体的な神社鎮座地に起こり、通常はその神社に奉祀する祭神後裔の祠官家が名乗る苗字が宮本でもある(播磨説では、これに関して、どのような説明をするのだろうか)。
 美作の名族に菅家党があり、その一派ともいう久米郡垪和(はが)郷の垪和氏の支族に、粟井氏もおり、観応の擾乱で山名氏が美作を制圧すると、鶴田城主羽賀(垪和)美濃守祐房の子、垪和助盛が山名氏に従って多くを領し、吉野郡粟井に居して粟井氏となったと伝える。この粟井氏と粟井城主から起こったという新免氏とは縁由があるともみられる。美作菅家党は菅原道真の後裔と称したが、実際には古代の吉備弓削部の末流ではないかとみられる。『姓氏家系大辞典』には、美作の弓削は、菅家族で原田日向守忠門の裔なりと見えるから、これと符合する。原田氏は勝田郡原田郷を苗字の地としており、長亨の頃(1487〜89)に原田彦四郎が弓削荘末国名代官職に関与したことが知られる。室町期には赤松氏に属しながら、美作国の有力国人として美作東部に勢力を持った一族であった。
  中世武家の系譜仮冒や祖先・出自の美化は、往々にして見られるものであり、菅原姓だから中央の菅原朝臣氏から出たわけでもない。源平などの名族に結びつけられない氏にあっては、藤原姓を名乗るケースが多くあり、地方の藤原朝臣姓の武家はその殆どが中央の藤原氏に出ていないことに留意される。一つの氏で、時代により姓氏を変更する例も多いから、この辺にも留意される。

 美作は、吉備氏一族諸氏が繁衍した吉備地方のなかでも、山間部であることから、主流の吉備臣一族ではなく、少彦名神後裔の弓削部とか日本列島古来の山祇種族系統の久米氏族がおおいに分布した。これらの末流は上古から戦国期まで長く続いて当地域に居り、棒術など古武道や特殊な技能を長く伝えた。古武道の流れを汲む竹内流は、戦国時代に垪和を拠点とした垪和氏一族の竹内久盛で、天文元年(1532)に創始したと伝わるが、この時に始まったものではなかろう。
 武蔵が工夫改良を加えたのが二天一流の棒術として今日に伝わるというから、宮本武蔵も棒術に関係した。新免無二が当理流の十手術の達人といわれたといい、手棒の変化一つに十手があった。この意味でも、古武術継承が見られる(無二から武蔵が直接に手ほどきをうけたことの証拠はないが、習俗的な志向ということで)。吉備地方には、棒振り神事などもあって、この辺は古代の久米氏族や弓削部の血脈・伝統をひくとみられる。
 古代久米郡の垪和の地は、「羽具部」(?)と呼ばれる矢柄・矢羽などを採集する部民の住む場所であったという所伝もあるというから、この職掌の所伝は弓削部(弓を作る職掌の部)にもつながる。なお、美作の竹内氏は、堂上公家で清和源氏を称した竹内氏と同族ともいうが、これは疑問が大きく、古族末裔となろう。『垪和氏系図』に拠ると、長徳年間(995〜 999年)に久米郡賀茂郷が稲岡郷と垪和郷に分れ、垪和郷には地名に因む垪和臣氏、垪和氏があったというが、「垪和臣」という姓氏はほかに裏付けがなく、不明である。「賀茂」も少彦名神(=鴨健角身命)の後裔に関係する氏・地名だから、この意味でも、弓削部に通じる。この賀茂郷の隣には、弓削郷も『和名抄』の久米郡のなかに見える。
 隣の稲岡郷に在ったのが法然上人などを出した美作の名族・漆間氏であり、系譜では、宇佐八幡の有力祠官漆島氏に出たとも、物部氏族の漆部造の出ともいうが、実際には久米氏族であって、吉備に置かれた古代国造関係者の族裔ではないかとみられる。

 弓削部と久米氏族とは、もとの父系が別であっても、美作では近在で上古からの長い期間、相互の通婚・交流も多かったとみられるから、あえて父系のみで判断する必要はないと思われるが、こうした吉備辺在の氏族は姓氏が伝わらないことも多い。「新免」が苗字だとしても、その本姓が別にあり、それが「新見」(カバネは不明)ということもあるのではなかろうかと考えられるが、この辺の姓氏は残念ながら現存の史料には見えない。
 新見は、美作に隣接する備中国北部地域にあり(哲多郡の東隣が英賀郡で、明治には両郡が併せて阿哲郡となり、その東が美作国真島郡)、高梁川の上流で、備中国哲多郡新見郷に因る氏の名では、源平争乱期に「新見郷司」が見えるから、これが古族の末裔とみられる。中世では新見庄で、鎌倉期は東寺が領家であり、鉄・漆・紙などを産する重要な荘園であった。地頭の新見氏が承久以降に見られ、室町期に領家小槻氏(壬生官務家)と争ったが、系譜上の自称はともかく、吉備古族の末裔ではないかとみられる。中世にはたたら製鉄が地域産業として知られ、新見市西北端部の神郷高瀬にある金屋子神社には、製鉄に関わる人々に信仰される金屋子神が祀られている。この辺の伝統は、中世に始まるものではなく、上古代から続くものではなかろうか。
 吉備弓削部は、雄略天皇朝の吉備弓削部虚空が『書紀』(雄略七年条)に見え、その帰郷の報告が大和王権による吉備国造一族(下道臣前津屋ら)の誅殺につながった。とはいえ、もともと崇神朝の吉備平定の時に吉備臣氏の先祖・吉備津彦兄弟とともに、先祖が一緒に吉備に来た由縁が考えられる。弓削部は鍛冶部族たる天孫族の支流だから、この地域の鉄鍛冶・製鉄に関与したことが考えられ、その伝統が中世まで伝わったのではなかろうか。鉄産地の新見郷の郷司・新見氏は、そうした流れではないかとみられる。吉備弓削部は美作から備中の山間部に居住したとしたら、新見郷から吉野郡のほうに移転したなどの交流・移遷も十分考えられよう。備中には、中世に美作垪和氏から派生したとみられる垪和氏も居て、吉備地域内の交流・移遷も知られる。
 
 こうして見ていくと、様々な視点から宮本武蔵の現実の出生地を探る過程のなかで、文書史料ばかりではなく多くの検討分野が出てきたが、総合的に本件問題を考える必要性を痛感するものであり、そして出生地探索よりも、武蔵の関係者一族の祭祀・習俗や技術、古武術関係の根源を探るほうが歴史的に意味があるのではなかろうかとも思われる。これらは一片の文書だけで覆い隠せない各種事情を顕わすことが多く、本件ではその殆どが吉備山間部の美作方面を志向する(国境沿いの地域や交流が盛んな両地域にあっては、どちらとも取れない傾向も見られるが、そこは総合的な判断である)。

 とかく、日本のある種マスコミのように、声高に確信的に大勢で主張すれば、物事や論争が決着すると思われる傾向も見られるようだが、合理的で的確な手順・思考を経た上で問題を判断し、更に十分な検証をしていかねばならない。これが、邪馬台国所在地問題なども含め、日本で学究・非学究など多くの参加者がある歴史問題への対処方法ではなかろうか。こうした基本線が踏まえられない限り、問題解決にはつながらない。
 基礎的な文献史料を十分に吟味し、見せかけの客観性・科学性に誤魔化されないことも基本である。冷静な判断をくださないこと(その実、くだせないこと)が研究者の良心だと誤魔化す記事も見たことがあるが、的確な断案を重ねて整合的なものにいくことが必要だと思われる次第でもある。

  (2015.4.17 掲上)  



 <越後屋鉄舟様からの第3信の趣旨> 2015.4.17受け

  古代豪族とのつながりから新免姓のルーツを探る考察は、考古学分野にうとい(近世史以降も決して知識が十分ではありませんが)、わたしにとって大変参考になり、わたし自身も武蔵と無二の間にある「兵法技術の継承」という状況証拠が、両者の親子関係を傍証するものになると考えています。

 たとえば無二は、『小倉碑文』以下の伝記史料では原則として「十手術」の使い手ということになっていますが、一方で『新免家古書写』の中では、無二は「十字槍」の使い手ということになっています。

 これが熱心な播州説研究者にいわせると、
「無二は十手使いであって十字槍使いではない。したがって『新免家古書写』の記述は間違っている」
 ということになるようなのですが、わたし個人はそのような杓子定規な解釈には賛同できません。

 元々、十手にせよ十字槍にせよ、「相手の武器を絡め取って攻撃するための武器」という共通性をもっていますし、戦国時代の十手は、江戸期の捕物帖に見られるような小太刀ではなく、熊手のような形状の長柄武器であったという可能性も示唆されていますので、無二が十手と十字槍の両方に精通していた可能性はおおいにあると思いますし、いずれか片方の技術に精通するうち、もう片方の取り扱いにも習熟したと考えることもできると思います。
 というよりもやはり、当時の兵法者は原則として剣術一筋ではなく、武芸全般をひととおり網羅していたと考えるのが自然と思います。

 武蔵がしばしば剣のみならず棒のような長柄武器をあつかったといわれるのも同様の事情からくるものと思われますし、『新免家古書写』において「平田十字槍」の異名をとったとされる無二からそれら長柄武器の技術を受け継いだと考えるのが、やはり妥当な解釈と思われます。

 以上のような推察は、いずれも文献上に記されていることを鵜呑みにするだけでは決してたどり着けないものだと思います。
 「想像」というのは、文献史料を好き勝手に解釈すると言うことではなく、文献上の断片的な記述から、蓋然性の高い仮説を導き出すことだとわたしは考えています。

 わたし個人はペンネームの「越後屋」のとおり、中国地方とは縁もゆかりもなく、仮にあったとして別段武蔵が作播いずれの地方に生まれたとしても、そのことにこだわりはありません。
 また、いやしくも学術的研究にたずさわる者ならば、信ずるべきは自説ではなく、目の前の検証結果であり、信憑性の高い事実であるという信念は、この先も変わりません。
 自説に拘泥し、目の前の検証結果を素直に受け付けられなくなったとき、学術的研究は、宗教的信仰に堕してしまうのだということを肝に銘じながら、今後も様々なことに取り組んでいこうと思っています。

 <樹堂の感触>
 ご連絡、ありがとうございます。
  

 古武術の起源・伝承や祭祀にまつわる所伝は、重要な要素だと思っています。実は、あまり調べたことがないので、書かなかったのですが、沖縄でも棒術が重要な武術として伝えられるとのことですが、この地域の住民の主流は、銅器・稲作、さらには鉄器を携えて渡来してきた弥生人の流れ(海神族、天孫族)を避けて南方に移遷した山祇種族の支流ではないかという見方があり、その場合には、これは久米氏族などにも通じるのです。
  棒術は、弓削部よりも久米氏族に伝えられたようにもなりますが、美作を中心とした吉備地方では、これらが近隣に混在していて、上古からの伝統・技術を伝えたのではないかという可能性もあるとも思われます。
   (2015.4.17 掲上)

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