年輪年代・炭素年代法と弥生・古墳時代の年代遡上論鷲崎 弘朋 T 木材の年輪年代法 1:暦年「標準パターン」 温帯・寒帯など気候の年周期(春夏秋冬)が明瞭な地域の樹木は1年毎に年輪を形成する(図1)。同じ地域の同一種類(例えばヒノキ)同士であれば、同じような年輪変動を示す。これを利用し、現代から過去に遡り同一種類の樹木試料(現生木・古建築木材・遺跡出土木材など)を集め、計測した年輪幅を時系列で繋ぎ合わせ、モノサシとなる暦年「標準パターン」をまず作成する。次に、調べる樹木(その段階では年次不明)の年輪パターンを暦年「標準パターン」と照合し伐採年代(あるいは枯死年代)を求める。これが、年輪年代法である。 2 飛鳥・奈良時代 @まず、法隆寺五重塔心柱は594年伐採と測定されたが、法隆寺は670年に全焼(『日本書紀』)、7世紀末〜8世紀初の再建とされる。100年の誤差が生じ現在でも理由不明のままで、光谷氏も「多くの新説を期待するのみ」とするだけである。法起寺三重塔心柱(測定年代572+αに対し706年建立:『聖徳太子伝私記』)や元興寺禅室部材(測定年代582年に対し建立は710〜718年:『元興寺縁起』)も同様である。現状は100年前の古材再利用と苦しい説明をしているが、年輪年代を100年修正して、全て新材のヒノキとするのが正しい。五重塔や三重塔の心柱は建築(免震)構造上もっとも重要で、100年前の古材を使用するなど考えられない。 A滋賀県紫香楽宮跡から9本のヒノキ柱根が出土し、No.1〜4は樹皮型、No.5は辺材型で、『続日本紀』の記録(紫香楽宮は742年に建設を開始し745年に短期間都とした)と一致する。ところが、No.6〜9は心材型で最外年輪は530〜562年の形成と判定された。そうすると、『続日本紀』とは200年の違いがある。ヒノキでは年輪1層(1年)は平均1mmで、200年では半径ベースで20cm直径ベースでは40cmにもなる。No.6〜9は直径40〜50cmの掘立て柱で、直径80〜90cmの原木を外から40cmも削り仕上げた柱とは考えられない。心材型柱根(丸太)を建造物の構造材として使用する場合、削り取られる年輪数は辺材部(年輪35〜70層)を含め、最大約100層である。ということは、No.6〜9柱は測定値に100年の狂い(記録との違い200年から最大削り分100年を引いた残り100年)がある。もし測定値が正しければ、100年前の古材使用としなければならない。 B東大寺正倉院の事例でも、AD640年以前の測定値を示すNo.1〜3、No.8〜11も全く同様である。このように、記録と照合可能な14事例(法隆寺五重塔心柱・法起寺三重塔心柱・元興寺禅室部材・紫香楽宮跡No.6〜9柱・東大寺正倉院No.1〜3板、No.8〜11板)では、AD640年以前の測定値が全て100年狂っている。これら以外に記録と検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しければ、14事例(表1で「×」表示)は全て100年前の古材利用となるが、それは有り得ない。
弥生中後期・古墳時代も年輪年代が100年古く狂っているのは同様である(表2)。 @大阪府池上曽根遺跡のヒノキ柱根No.12はBC52年伐採と測定されたが、同時に出土した土器(弥生W―3様式)の最新年代論(図3:寺沢薫案、2000年。柳田康雄案、2004年)とも合わない。弥生X様式初頭の土器に貨泉(中国でAD14〜40年の短期間に鋳造された銅銭で、年代論の重要な定点)が入れられた状態で出土し(大阪府瓜破遺跡)、W様式とX様式の境界はAD1世紀後半〜末となる。従って、W―3様式の土器はAD1世紀中頃〜後半とする従来通説が正しく、年輪年代が100年狂っている。寺沢薫氏は年輪年代が正しいとの前提で古材利用とあっさり片付けているが、年輪年代が100年狂っていると判断するのが妥当である。同様に、滋賀県二之畦横枕遺跡も100年狂っている。 A奈良県纏向の石塚古墳(残存辺材部2.0cmのヒノキ板で、177年+α。推定190〜200年伐採)、勝山古墳(残存辺材部2.9cmのヒノキ板で、199年+α。推定200〜210年伐採)も、周濠から同時に出土した布留0式の土器年代(従来通説は300年以降。最近は280〜300年とする考古学者が多い)と合わない。石塚・勝山古墳も、測定値より100年新しいAD290〜320年の築造が正しい(ほぼ従来通説通り)。 B兵庫県武庫庄遺跡のヒノキ柱根の最外年輪がBC245年の形成と判定された。この柱根は年輪617層の老樹木で辺材部が2.6cm残存し、しかも年輪密度が極めて高いことから辺材部はほぼ完存しているものと見なされ、伐採はBC245年に限りなく近いと判定された。同時に出土した土器(弥生V様式)と約200年も違う。年輪年代を100年修正しても、なお50〜100年の開きがある。遺跡の年代を通説より50年程度古く見るか、または50年前の古材使用で説明可能である。あるいは、残存辺材部2.6cmをもって「辺材部はほぼ完存している」と見なしたことに問題があるのかも知れない。光谷氏も「(同時に出土した)土器と200年も違い、実に頭が痛い問題」「池上曽根遺跡の場合と同様、実に大きな問題」と述べ、未解決のままである。岡山県南方遺跡も全く同様である。弥生・古墳時代は明確な記録が存在せず、年輪年代の妥当性の検証が難しい。土器・鏡・貨泉・古墳型式・埴輪等との共伴(同時期性が確実なケース)による従来の編年に頼ることになる。このため、検証可能な事例は非常に少なく表2の6事例に絞り込まれるが、測定値が100年狂っているのは明白である。 4 コウヤマキ(高野槙)標準パターン 表1・表2では、ヒノキ(および連動するスギ)標準パターンを検証した。このほかにコウヤマキ標準パターンが存在する(図2)。当初、作成者の光谷拓実はヒノキとの連動を試みたが照合は失敗した。そこで、コウヤマキのAD286〜695年の410層を抜き出しヒノキと照合したら、なんとか成功したとする(『年輪に歴史を読むー日本における古年輪学の成立』同朋舎、1990年)。しかし、その相関係数は0.258と非常に低い。ちなみに、相関係数は±1で完全一致、0に近づくほど相関度は低く(悪く)なる。標準パターン同士の相関係数として0.258は異常に低く、とても照合成立(連動している)とは言えない。 ただ、この標準パターンの186〜741年は平城京跡(12本)と隣接する法華寺跡(3本)の丸太15本から作成されている。平城京跡出土の12本は平城京時代(710〜784年)に伐採されたのであろう。そうすると、標準パターン先端の741年は平城京時代のほぼ中央年に仮置き状態にあるので、狂っても±40年以内である。従って、大阪府狭山池遺跡出土の樋(ため池から水を出す装置で、コウヤマキ製)の測定値616年伐採はほぼ妥当であろう(狂っても40年以内)。また、奈良県香芝市下田東遺跡の2号墳周濠から出土したコウヤマキ製の木棺底板(辺材型)の測定値449年+αすなわち450年代伐採もほぼ妥当であろう。 5 事例検証からの除外 @例えば滋賀県瀬田唐橋は除外した。橋脚角材のヒノキ3本の最外年輪は、548年、617年、548年と判定された。しかし、3本共に心材型で何年分が削り取られたか判然としない。さらに、治山治水がほとんど行われなかった古代は洪水で橋はしばしば流失し、何度も架け替えられた可能性が高い。672年の壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)軍と大友皇子軍が瀬田唐橋で戦っている。しかし、問題のヒノキ角材が壬申の乱の当時のものと即断できず、伐採年と壬申の乱672年を直結して論ずることは出来ない。 A弥生遺跡から出土する木材も同様である。弥生遺跡の存続期間は数百年に及ぶことが多く、出土木材と土器の共伴関係が明確でない限り、測定値はあまり意味を持たない。例えば、滋賀県下之郷遺跡・兵庫県東武庫庄遺跡の例では土器年代との関係が今ひとつ明確でない。下之郷遺跡では出土した木製の楯はBC200年頃?の伐採と判定され、出土土器より相当古いとされるが、それ以上のことは分らない。 Bまた、木工品・工芸品は心材部を大きく削り取り加工することが多く、検証事例から原則除外すべきである。例えば、東大寺正倉院宝物の長方机第17号は心材部を大きく削っているため最外年輪はAD381年で、正倉院建立760年頃とは約380年も違い、全く参考にならない。もちろん、樹皮型・辺材型なら検証可能。ただし木工品・工芸品は、良質な材料を保管し少しずつ使用することがあり、伐採年と使用年が数十年単位で狂うことがあるので要注意。これらを考慮すると、標準パターンが正しいか否かを検証できる事例は、表1・表2に絞り込まれる。 U 炭素14年代(測定)法
測定した炭素14濃度は過去からの濃度減少比率(5730年で半減)に従い、減少開始年を炭素年代=BP(Before
Present)で表示する。これは、1950年を基準(Present=現在)として、ここから何年前に減少を開始したかを意味する。例えば、1800BPと表示した場合、1950年から1800年前すなわちAD150年が減少開始年となる。ところが、この炭素年代は誤差が極めて大きく実用にならない。そこで、年代が既知の年輪年代で較正(補正)して実年代に換算する、これが「国際較正曲線」である。 ただ、国際較正曲線は欧米の樹木を基準とするため、地域差があり日本での適用は問題があることが判明した。このため、歴博が中心となり日本産樹木による「日本独自の較正曲線」を作成中である(後述)。 この手法により、歴博は「箸墓周辺の土器は240〜260年で、箸墓=卑弥呼の墓」と日本考古学協会総会で発表した(2009年5月)。しかしこの説は、季刊『邪馬台国』101号の「総力特集 歴博・炭素14年代論の大崩壊」、および同102号の「特集 箸墓古墳は卑弥呼の墓なのか」などで完全に崩壊している。箸墓は3世紀末〜4世紀初の築造とする従来通説が正しい。すなわち、 1:炭素14年代法は、科学的測定法とは言うものの原理上の誤差が大きく、100〜200年誤差は当たり前で石器時代や縄文時代ならそれぐらいは容認される。しかし、邪馬台国問題が絡む古墳時代は10年、20年単位、最大30年の誤差を問題に議論されており、この手法でピンポイントに年代を絞り込むのは難しい。例えば、 @
1つのクルミを20分割して測定したら炭素年代で最大145年の誤差幅があった(2σ=確率95%で。西田茂)。これを較正(補正)曲線で実際の暦年代に換算すると400年幅となる(安本美典)。 A
弥生9遺跡(唐古鍵、下之郷、二の畦横枕、瓜生堂、山持、青田A、青田B、岩屋、門前遺跡)から出土した木材の炭素年代が、それぞれ木材の年輪10年毎の測定値として出されている。それによれば、同一木材内の炭素年を時系列で並べた年代値と、年輪差から導き出される理論年では±100年の誤差がある(1σ=確率65%で。鷲崎弘朋)。これを較正曲線で実年代に換算すれば誤差は更に広がる。 B
土器型式は古い方から庄内0→庄内1→庄内2→庄内3→布留0→布留1→布留2で、箸墓は布留0の時期とされる。歴博は前後の庄内3を3世紀初、布留1を270年と見なし、中にはさまる布留0を240〜260年とした。しかし、庄内3と布留1の年代は流動的で、まだ最新の定説がない。従って、240〜260年と言う±10年幅への絞込みは手品(あるいは試料操作)でも使わないと不可能である。今回の歴博発表は明らかに意図的な試料操作を行っている(安本美典、北條芳隆、新井宏)。 C
布留0式は従来通説のAD300年以降が依然として正しく、箸墓を4世紀築造とするのが妥当(関川尚功)。今回測定値からは、布留0式は240〜340年の広い幅しか言えず、箸墓を4世紀前半の築造とするのも十分可能である(図5。籔田紘一郎) @
北海道江別市対雁2遺跡では、クルミ・炭化木片はほぼ同じ年代を示すのに、土器付着炭化物は最大600年も古い測定値であった(西田茂)。 A
歴博は北部九州の土器付着炭化物により、弥生開始期を通説より500年も早い前10世紀と発表した(2003年)。しかし、九州大学が弥生人骨を測定したら、通説に近い値が出た(2004年。田中良之、溝口孝司、岩永省三、Tom Higham)。また福岡県曲り田遺跡(弥生早期)では鋳造製の鉄斧が住居跡床面から土器を伴い出土した(橋口達也)。中国で鋳造の鉄が流通するのは戦国時代(前403〜前221年)で、歴博の年代観に従うと中国より数百年も先に日本に鉄製品があったことになる。 B
奈良県唐古鍵遺跡では、同一地域・同一時期にもかかわらず、土器付着炭化物が炭化米より57年古い測定値が出ている(新井宏)。また箸墓周辺遺跡では、桃の核と土器付着炭化物では100年の違いがある(新井宏、安本美典)。 C
さらに最新情報では、名古屋大学が同一地層から出土した炭化木材・貝類・海生動物の骨・土器付着炭化物の炭素14年代を測定した。遺跡の年代を示すと見られる炭化木材より貝類が古く、ウミスズメはさらに古く、ニホンアシカはさらに古い年代値となった(海洋生物およびこれを多食とする陸上動物は実際よりも古い年代値を示すことが知られており、これらは当然の事。これを海洋リザーバー効果という)。ところが、土器付着炭化物の中にはニホンアシカよりさらに100年以上も古い年代を示すものがあった(宮田佳樹。2009年7月、日本文化財科学会で報告)。この状況で、土器付着炭化物から箸墓築造を240〜260年としたのは方法論上の誤り。 3:最新の報告書『ホケノ山古墳の研究』(2008年11月、橿原考古学研究所編)で、奈良県ホケノ山古墳(箸墓古墳のすぐ東に位置する)の中心埋葬施設の木の小枝2点(最外年輪を含む12年輪)の炭素14測定値が出された(表3.奥山誠義)。年代幅はAD250〜420年で、中心はAD300〜350年頃である。
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