(続)年輪年代・炭素14年代法と弥生・古墳時代の年代遡上論 |
1:池上曽根遺跡のヒノキ柱根N0.12は、年輪年代法でBC52年の伐採と判定され(1996年)、弥生中期が従来通説より100年遡上するきっかけとなった。歴博がこの柱根の最外年輪を炭素14年代法で測定(1998年)したらBC80〜BC40年となり、年輪年代と一致したとする。そして、これが年輪年代と炭素14年代を相互検証するとして、図6がしばしば紹介される。しかし、これは誤り。すなわち、 @
そもそも、この柱根N0.12(年輪248層)の最外年輪は炭素年代が測定されていない。測定したのは、樹皮から内へ103、133、163、193年目の4つだけで、それぞれ2200±40、2240±40、2160±40、2240±40BPであった(誤差幅1σ=68%確率。ただし2σ=95%確率なら±80年)。もう一つは近くの土中にあった炭化した木の小枝を測定したら2020±40BPで、この小枝を柱根N0.12の最外年輪と同一時期と仮定した。そして、以上5つの測定値から柱根N0.12の最外年輪をBC80〜BC40年と推測したに過ぎない(図6。今村峯雄「考古学における14C年代測定」2000年)。随分と乱暴な仮定や推測と言わざるをえない。 A
近くの小枝と柱根N0.12の最外年輪が同時期との保障は何もない。図6はあくまで小枝の測定値で、炭化した時期も不明。また、わずか5つのデータで統計処理(ウイグルマッチ)をするのは、もともと無理がある。 B
柱根N0.12の最外年輪〜102年目および194〜248年目をなぜ測定しなかったのか、歴博は何も説明していない。測定したが都合悪いデータになったためであろう。都合よい103〜193年目だけのデータで恣意的操作をしたと疑われる。 C池上曽根遺跡は大阪湾の海岸地帯にある。海洋生物やこれを多食する陸上動物は古い炭素年代が出ることが知られている(海洋リザーバー効果)。海岸地帯の樹木も海風を受け、海洋リザーバー効果の影響を受ける。能登半島の海岸地帯の樹木は、10キロ内陸の樹木より平均240年も古い炭素年代が報告されている(新井宏。金沢大学データを解析)。池上曽根遺跡のN0.12柱根も海岸付近のヒノキを伐採したのであれば、海洋リザーバー効果の影響で、実際より古い年代測定値となっている可能性が高い。一方では、年輪年代法の古代は「100年の狂い」の可能性が強い。従って、炭素14年代・年輪年代ともに古い方に狂っている可能性が強く、狂ったモノサシ同士を比較して「一致した」と喜ぶ状況ではない。 2:京都府宇治市街遺跡からヒノキ板(30×14×3センチ、樹皮型)が出土した。この最外年輪が年輪年代で389年、炭素年代で359〜395年と判定された(2006年3月発表。光谷拓実、下村峯雄)。これが年輪年代と炭素年代の相互検証になるという。しかし、 @このヒノキ板の年輪数は63層と少ない。照合が難しい日本では200層、最低でも100層が必要とされる。これでは異なる時代の候補年が多数出現し、389年は炭素年代359〜395年の範囲におさまる候補を示したに過ぎない。光谷氏も、「年輪数が少なく断定的な結論としない」とする。 B同時に出土した土器は、大阪府大庭寺遺跡のTG232様式に酷似し最も古い須恵器である。須恵器の源流は朝鮮半島の陶質土器で、渡来人が5世紀中頃に近い前半にもたらしたとされる。ただ最近は、これよりやや早く単に「5世紀前半」とするのが通説である。また、5世紀初頭あるいは4世紀末との説も出てきている。今回の年輪年代389年により、須恵器の出現が4世紀後半まで更に遡る可能性があると発表されたが性急過ぎる。年輪年代389年が怪しいのである。朝鮮半島で最も古い陶質土器窯である慶南昌寧郡余草里窯跡の操業は、4世紀末と想定されている。これからすると宇治市街遺跡の須恵器の4世紀後半説は早過ぎ、申敬K釜山大教授(韓国考古学)も「にわかには信じがたい」とコメントしている。 3:日本産樹木による日本独自較正曲線(図7)は作成途上で、歴博は完成を目指し2009〜2012年度の新たな文科省補助金プロジェクトを立ち上げた。 図7の日本独自較正曲線は、国際較正曲線とほぼ整合している。ということは、日本独自較正曲線が日本産樹木により年代付けが行われているとすれば、年輪年代法による測定値も正しいことになる。ところが、既述のようにAD640年以前は年輪年代が100年古く狂っている。図7に何の問題が内蔵しているのか? これを次の図8で説明する。 @図8は、「歴博年輪パターン」「ヒノキ年輪パターン」「スギ年輪パターン」を示す。「歴博年輪パターン」は、日本独自較正曲線を作成するためのベースデータである。本来なら、「ヒノキ年輪パターン」「スギ年輪パターン」が存在するので、それら多数の試料(年代は既知)の炭素濃度を測定して較正曲線が作成されなければならない。ところが歴博は、全く違う「歴博年輪パターン」から較正曲線を作成しつつあり、二重基準(ダブルスタンダード)となる。この普通では考えられない手法を歴博が採用した理由は何か? A最大の理由は、「ヒノキ年輪パターン」から較正曲線を作成すると、国際較正曲線とあまりに違う凸凹形状になるからであろう。これは「ヒノキ年輪パターン」が、既に指摘したように640年以前は100年古く狂っているからである。日本独自較正曲線を作成すれば、地域差から国際較正曲線とは多少違うのは当然である。しかし大体は似たようなものになるはずだし、しかも絶対に合致しなければならない期間がある。国際較正曲線は、現在(AD1950年を基準)から2400年ぐらい前のBC750〜BC400年頃の350年間は較正曲線がほぼ水平になり、前後の傾斜が激しく凸凹形状に非常な特色がある(これは太陽黒点活動の影響等で生じるため、地球上どこでも同じで、2400年問題と言う。図7参照)。ところが、既存の「ヒノキ年輪パターン」から較正曲線を作成すると、100年のズレのため国際較正曲線の凸凹形状と大幅な乖離が生じる。 B一方、「歴博年輪パターン」のA(BC820〜BC436年:黄幡1号遺跡)およびB(BC630〜BC193年:畑の沢埋没樹幹)は、この2400年問題に広くオーバーラップし、年代設定は国際較正曲線との比較で十分可能である。現在作成中の「歴博年輪パターン」は、このAおよびBを定点として前後に延長されつつあると考えられる。このように歴博は、「歴博年輪パターン」の年代設定は光谷拓実氏によるとするが、実態は違うと推定される。 C「ヒノキ年輪パターン」は、1980年代に骨格が完成している。このうち個別パターンF(BC206〜AD257年)は、もともとBC318〜AD258年であった。しかし、「とくに先端の150層ほどの部分は長野県上郷町出土の埋木試料の樹心に近いところの年輪データのみであり、しかもこの部分の年輪には乱れがあって、状況は決してよくない。先端部がとくに薄弱であることからすれば、(このパターンFを)標準パターンとするにはやや躊躇せざるをえない」(光谷拓実、1990年)。このため、それより古いパターンE(BC912〜BC206年)は1990年時点では存在しなかった。1990年代になり、年輪年代と炭素14年代の連携が模索され――歴博プロジェクト「ヒノキ・スギ等の年輪年代による炭素14年代の修正」(1997〜1999年。佐原真代表、光谷拓実、今村峯雄、坂本稔)――、このころ以降にパターンEの大半が炭素14年代の「2400年問題」との整合性を優先して年代設定がされたと推定される(パターンEとFの連結は脆弱で困難だから)。 4:新しい木曽系ヒノキの標準パターン なお最新情報では、木曽系ヒノキの標準パターンとしてBC705〜AD2000年が作成されたという(光谷拓実。『歴史読本』2009年8月号)。これは、図8の「ヒノキ年輪パターン」とは全く異なる。この「木曽系ヒノキの標準パターン」は、同一地域(木曽)だけから作成され、また埋没樹幹(丸太)という良好な試料から作成されたと推定される(詳細は一切不明だが)。これは、図8「ヒノキ年輪パターン」の中で最も問題のパターンG(BC37〜AD838年)が、試料22点中で丸太がわずか2点しか無いのと大きく異なる。さらに、炭素14年代とのチェックも行われている可能性が高い。今後、この『木曽系ヒノキの標準パターン』を使用すれば、飛鳥時代以前でも正しい測定年代が出される可能性がある。しかし、図8の「ヒノキ年輪パターン」による表1・表2の既測定値が100年古く狂っていることは変わらない。 5:以上見てきたように、年輪年代と炭素年代の整合性は根拠が薄く、あいまいである。一方において、記録と照合可能な14事例(法隆寺五重塔心柱・法起寺三重塔心柱・元興寺禅室部材・紫香楽宮跡No.6〜9柱・東大寺正倉院No.1〜3板、No.8〜9板)では、AD640年以前の測定値がすべて100年古く狂っているのは明白である。また、弥生中後期・古墳時代で検証可能な6事例(武庫庄遺跡・南方遺跡・二之畦横枕遺跡・池上曽根遺跡・石塚古墳・勝山古墳)も、100年古く狂っていることが明らかになった。結論として、年輪年代法による弥生中後期・古墳開始期の100年遡上論は全く成立しない。従って、この誤った年代遡上論にもとづく「箸墓=卑弥呼の墓」「纏向遺跡=邪馬台国の王都」説も全く成立しない。 W 年代遡上論と邪馬台国論争〜九州説VS畿内説 邪馬台国位置論は、本来は『魏志倭人伝』を中心とする文献上の問題である。しかし従来諸説は矛盾が多く、長年の論争でも決着しない。このため、最近10年は考古学(弥生・古墳時代の年代遡上論)からのアプローチで畿内大和説が一気に有力となってきた。 畿内説が従来根拠とした@「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」A日本を南北に転倒して描いた「混一彊理図」は、学術的にほぼ否定された。代わりに、年輪年代法で古墳時代の始まりが通説の300年頃から100年遡上し200年頃となり、初期大古墳が集中する畿内大和を邪馬台国の最有力候補とする。しかし既述のように、弥生中期〜古墳〜飛鳥時代は年輪年代のモノサシ(基本となる標準パターン)に100年の狂いがある。標準パターンは非公開で誰も科学的妥当性を検証しておらず、「ブラックボックス」化している。測定値の全てを事例検証すると、AD640年頃で標準パターン作成の接続に失敗し100年狂っており、奈良時代〜現代は正しいが(例:紫香楽宮跡の柱根No.1は743年伐採)、飛鳥時代以前は全て100年新しい年代へ修正する必要がある(例:法隆寺五重塔心柱、法起寺三重塔心柱、元興寺禅室部材)。 また国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓周辺の土器付着炭化物を炭素14年代法により測定したら240〜260年の土器で、「箸墓=卑弥呼の墓」と発表した(2009年5月)。しかし既述のように、『邪馬台国』101号(2009年4月)、および102号(2009年8月)特集などで既に崩壊している。 一方、九州説は筑後山門説・熊本県北部説・甘木朝倉説・吉野ヶ里説・宇佐説など乱立している。これらは文献(魏志倭人伝など)からの立論が多い。昔は「文献からの九州説」VS「考古学からの畿内説」と言われていた。最近は「専門家(特に考古学者)の畿内説」VS「アマチュア(在野)の九州説」の構図である。ところが、「文献学VS考古学」の構図は今も変わっていない。昔は多くの文献学者がいて九州説・畿内説に分かれていたが、九州説が優勢であった。今は文献学者が少なく、代わりにアマチュアが文献から九州説を主張している。 昔の考古学者は邪馬台国にあまり発言しなかった。これは、従来の考古学が編年による相対年代に留まっていたからである。ところが、年輪年代法が1980年代後半から「科学的年代測定法」として華々しく登場し考古学に絶対年代が付与されるようになり、考古学者が邪馬台国論争に本格参入した。年輪年代法による絶対年代は従来年代観より100年遡上したが、「科学的」と言うことで九州派・畿内派を問わず日本中が受け入れ、邪馬台国が古墳時代と完全に重なった。これにより多くの考古学者が畿内説を唱えるようになった(森浩一氏、高島忠平氏など九州説の考古学者もいるが)。ごく最近は、もう一つの科学的年代法の炭素14年代法により2009年5月には歴博が「箸墓=卑弥呼の墓」と発表し日本中に大ニュースとして流れたのは記憶に新しい(ただし、これは完全に誤りだった)。 年輪年代法がもたらした弥生中後期・古墳開始期の100年遡上論は、九州説VS畿内説の天王山である。九州派も年輪年代の測定値を科学的手法によるものとして受け入れた。それでは、100年遡上論にどういうスタンスを取ったのか?それは「100年前の古材が多いから当てにならない」とし、年代遡上論に踏み込むことをしなかった。現実は、遺跡・建造物が全て100年前の古材再利用・風倒木利用など有り得ない。だから、「100年前の古材再利用・風倒木利用」は本当の反論になっておらず、世の中の大勢は100年遡上論を認めてしまった。 畿内派は1980年代後半から、特にここ十数年は「科学的」と称する年輪年代と炭素14年代により着々と弥生中後期・古墳開始期の年代遡上を図った。九州派があっと気がついた時は、年代遡上は既成事実化しているのが現状である。九州説のそれぞれが、文献(魏志倭人伝など)からの里程日程・方向をいくら論じても、畿内説の年代遡上論に言及しなければ、自説の正当性を高めることにはならない。九州説の方々は今後、「年代遡上論」にもっと正面から向き合うべきであろう。 炭素14年代により「箸墓=卑弥呼の墓」とした歴博説は、多くの批判の集中砲火で崩壊した。問題は年輪年代である。私の第1論文「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」(『東アジアの古代文化』136号、2008年)、第2論文「炭素14年代法と邪馬台国論争―年輪年代法との連動を通して」(『邪馬台国』101号、2009年)によって、日本の年輪年代法は『実質的に瓦解した』(日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授のコメント)。また2009年11月8日に九州国立博物館で開催されたシンポジューム「邪馬台国はここにあった」で発表した第3論文「邪馬台国と宇佐神宮比売大神」(『歴史研究』578号、2010年新春合併号に掲載)でも、多くのページを割き年輪年代と炭素14年代の問題点を指摘した。 従って畿内説の考古学者は、今後、年輪年代を年代遡上論の根拠とするのは非常に少なくなるであろう。しかし年代遡上が既成事実として残っており、この状況は当面続くと予想される。最近の畿内派は、「年代遡上論は年輪年代・炭素14年代によるのではなく、関係ない」、と言い始めている。1996年に池上曽根遺跡が年輪年代法により100年遡上して以来、あれだけ「科学的年代測定法」と騒いで年代遡上の根拠としてきたのに・・・。これは、ここ十数年のマスコミ報道を見れば歴然としている。 2010/07/26 著書『邪馬台国の位置と日本国家の起源』(1996年、新人物往来社) 論文「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」(『東アジアの古代文化』136号、2008年夏、大和書房)。「炭素14年代法と邪馬台国論争―年輪年代法との連動を通して」(『邪馬台国』101号、2009年4月、梓書院)。「邪馬台国と宇佐神宮比売大神」(『歴史研究』578号、2010年1・2月新春合併号、歴研) HP「邪馬台国の位置と日本国家の起源」http//homepage3.nifty.com/washizaki/ <樹童の感触> いろいろ興味深いご教示・ご指摘ありがとうございました。 たしかに、現在の年輪年代法・炭素14年代法に基づく算出年代値を、今後、とくに説明なしにそのまま既定の年代値として学究により使用されていく可能性があり、それがたいへん怖いところです。というのは、三角縁神獣鏡魏鏡説がその出土状況から、ほとんど成り立たなくなっても、この説に基礎をおいた古墳築造年代の見方や舶来鏡・倣製鏡という区分がなんら見直しもされずに残存しているのが考古学界の現状ではないかと考えられるからです。 この辺が考古学の部外者としてみれば、不思議なことであり、そこには学問・研究の良心がないのかと強く問いたいところです。 <続く 小林滋様の見解> |
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