(続々)年輪年代・炭素14年代法と弥生・古墳時代の年代遡上論


  鷲崎様の論考に関する応答


      
  小林滋様のコメント

  標記の論考は、随分と行きとどいたなかなかの労作であり、現時点でこの問題を検討するに際しては、まず第一に拠り所とすべきものと考えます。まず、本稿はこうした観点からの記事であることをお断りしておきます。

ただ、多少気になるのは、表現の仕振りがかなり断定的になっているところであり、この問題について、現時点において、年輪年代法は「正しい」か「誤っている」かなどについて、キッパリと対応できるものだろうかとも思ったわけです。おそらく、その背景には、邪馬台国畿内説の昨今の隆盛に対する深い憂慮の念があるのかもしれませんが、この辺は、筆者の強調だと受けとめておきたいと思います。
以下では、鷲崎氏の今回の論考について、年輪年代法の問題点をある程度、承知のうえで、年輪年代法を取り巻く現時点の状況についても、できるだけ正確に把握しておくほうがよいのではないのか、と考えて、気のついたところを記してみました。

イ)「T 木材の年輪年代法」について
「表1:飛鳥・奈良時代」及び「表2:弥生中後期・古墳時代」において、沢山の事例を挙げられた上(現状で検証可能なすべての事例が取り上げられていると考えられます)、どの事例も“等しく100年の開きがある”点を示されたことは非常に意義深く、ここまで良くまとめられたことに対して心から敬意を表します。
 これらの表を見れば、飛鳥時代以前にかかる年輪年代測定値には100年の狂いが生じている“可能性”が大きいことが一目瞭然であり(どの事例でも同じように100年の開差があるのですから)、従って、そうした年代測定値を基礎として、安易に歴史分析に用いることは大きな問題がありそうだ、といえるでしょう。
ただ、そうであるとしても、これだけのデータでは、「この100年遡上論は完全な誤り」とか、「測定値の全てを事例検証すると、AD640年頃で標準パターン作成の接続に失敗し100年狂っており、奈良時代〜現代は正しいが、飛鳥時代以前は全て100年新しい年代へ修正する必要がある」とまで断定するには、少々無理があるかもしれません。

というのも、そもそも年代測定というのは、自然科学的なものとはいえ、幅があるものではないかと思いますし、当事者の光谷拓実氏は、鷲崎氏の方向とは逆に、「表1」にある「建立記録」や「表2」の「土器・貨泉・古墳型式等による年代」の正確性をこそ、「年輪年代法」によって確認しようとしているわけではないかと思われますから。どちらから接近するかの方向により、意味づけが異なるわけであり、個々のケースにおいて、どちらがより確実なのかを判断してから用いられたり、あるいは相互に試行錯誤的な各種の接近があるかもしれません。鷲崎氏のように、それらの正しさについて前提的に受け入れるというのであれば、何も年輪年代法など持ち出す必要性などなかったはずです(注1)。もっとも、年輪年代法などを用いて、考古年代の遡上をはかるという意図が誰かにあれば、これは別問題ですが。

あえて厳密に言うとすれば、これらの表からは、文献に基づく「建立記録」や「土器・貨泉・古墳型式等による年代」と「年輪測定値」との間には、100年の開きがあるということだけがわかるわけです。

そこで、ここから次に進むべきステップとしては、二つあると考えられます。

一つ目は、「表1」にある「建立記録」や「表2」の「土器・貨泉・古墳型式等による年代」の正確性をさらに一層深めることでしょう。ただ、この点については、様々な研究がこれまで行われてきており、これからも一層充実した研究が行われることでしょうし、またそうしなくてはなりません。とはいえ、それをさらに進めることには非常な困難が予想されるところです。

二つ目は、光谷拓実氏の年輪年代法それ自体が有する問題点を掘り下げて、それから得られた測定値の誤りを具体的に指摘することでしょう。

しかしながら、「基礎データは非公開でブラックボックス化している」(あるいは、「標準パターンは非公開で誰も科学的妥当性を検証しておらず、「ブラックボックス」化している」)という現状においては、年輪年代法の内容自体に踏み込むことは大変な困難が伴います。現状では、なぜ100年の狂いが生じたのかの原因を、年輪年代法の技法そのものの中に求めることは、おそらく困難であって、周辺的な事柄に触れるだけのいわば状況論といったところで止まらざるを得ないでしょう。

ただそうなると、「100年前の古材再利用・風倒木利用」にすぎないとして「100年遡上論」に対決する「邪馬台国九州派」の議論が変則的だとは感じますが、これに対して、どうしたら「本当の反論」と言えるのかを考える必要があると思われます。というのも、酷な言い方かもしれませんが、鷲崎氏の方でも、厳密には「本当の反論」をしているかどうかが問われるように思われるからです。だから、公開の場に必要なデータベースがすべて提示され、そのうえで十分な検討・検証がなされることを望みたいものです。


ロ)「U 炭素14年代(測定)法」について
・「1」とか「2」で述べられているのは、炭素14年代法を使っての年代測定に様々な問題があるということですが、だからといって、それだけでは「箸墓は3世紀末〜4世紀初の築造とする従来通説が正しい」 とまで断定できないのではないでしょうか?古墳の具体的な築造年代の測定は難しく、例えば4世紀前半くらいの少し幅のある捉え方をして、そのなかで、考古学遺物の相互関連や文献など様々な資料を総合的に駆使して、より具体的に時期を絞っていくことが必要ではないかと考えられます。

・「3」において、「奈良県ホケノ山古墳の中心埋葬施設の木の小枝2点」に関する2008年発表の炭素14測定値が取り上げられているところ、2001年の測定値が改められ、「従来通説の3世紀末〜4世紀初(290〜320年頃)」に近いものになっていますが、そうなると炭素14年代測定自体も「正しい」とされてしまうのでしょうか?また、実際の年代として、この年代で正しいのでしょうか。また、この場合には、較正曲線の問題はどうなってしまうのでしょうか?安本美典氏の見方だと、ホケノ山古墳はもう少し遅い時期におかれそうですし、私は安本氏とは見方が少し違いますが、4世紀前半くらいにおいたほうがよさそうな感もしています。


ハ)「V 年輪年代と炭素14年代の整合性」について

・「1」において、池上曽根遺跡のヒノキ柱根N0.12は、「年輪年代法でBC52年の伐採と判定され」、他方、「歴博がこの柱根の最外年輪を炭素14年代法で測定(1998年)したらBC80〜BC40年となり、年輪年代と一致したとする」が、「これは誤り」とされています。

ですが、そこで言われているのは、歴博の測定は、「随分と乱暴な仮定や推測」によっているとか、「わずか5つのデータで統計処理(ウイグルマッチ)をするのは、もともと無理がある」、「海洋リザーバー効果の影響で、実際より古い年代測定値となっている可能性が高い」といったことです。ご指摘の内容は、十分理解できますが、この辺は厳密にいえば、“誤りの可能性”についての指摘であって、確実な証拠に基づいて「誤り」だとなるわけではありません。

実際に、池上曽根遺跡ができてきた事情やその関係者などの動きを考えると、この辺の時代になると、百年をはるかに超えるくらいの時間差が生じている可能性がないともいえません。基本的にいって、年代の遡上しすぎという点では同じかもしれませんが、いつも百年だけ並行移動しているというわけでもないという感じがします。それは、上掲のご指摘からも言えそうですが。

・「2のB」においては、須恵器について、「最近は、これよりやや早く単に「5世紀前半」とするのが通説である。また、5世紀初頭あるいは4世紀末との説も出てきている」との観点から、「年輪年代389年が怪しいのである」とされますが、通説の正しさの根拠はどこにあるのかという問題もあります。

須恵器の製造技術の源流が朝鮮半島の南部、伽耶地方にあるとしたら、わが国の須恵器にとっては、この地域と倭国の王権が接触を開始した時期を一つのメドとして考えられますから、通説自体があまり明確な説明・根拠なしに具体的な年代設定をしていることになります。ともあれ、年輪年代法年代値がどうもおかしいということに変わりありませんが。

・「4」においては、「最新情報では、木曽系ヒノキの標準パターンとしてBC705〜AD2000年が作成された」とし、「今後、この『木曽系ヒノキの標準パターン』を使用すれば、飛鳥時代以前でも正しい測定年代が出される可能性がある」とされながら、「図8の「ヒノキ年輪パターン」による表1・表2の既測定値が100年古く狂っていることは変わらない」と述べられています。

確かに、従来の標準パターンで作成された「表1・表2の既測定値が100年古く狂っていることは変わらない」のは当然のことですが、その「既測定値」を新しい「木曽系ヒノキの標準パターン」で測定し直せば、「正しい測定年代が出される可能性がある」のかもしれません。ただ、これは可能性でありますから、年輪年代法のわが国における適用の具体例として考えれば、自然条件をはじめ様々に異なる要素があるわけですから、木種を替えればそれでよいわけでもないようです。だから、替えた結果がどうなるのかは未だ分からないのではないか、とも思われるところです。


ホ)「W 年代遡上論と邪馬台国論争〜九州説VS畿内説」について

その最後の結論的部分(Wの後半)においては、次のように述べられています。

「問題は年輪年代である。私の第1論文「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」、第2論文「炭素14年代法と邪馬台国論争―年輪年代法との連動を通して」によって、日本の年輪年代法は『実質的に瓦解した』。また、2009年11月8日に九州国立博物館で開催されたシンポジューム「邪馬台国はここにあった」で発表した第3論文「邪馬台国と宇佐神宮比売大神」でも、多くのページを割き年輪年代と炭素14年代の問題点を指摘した。
従って畿内説の考古学者は、今後、年輪年代を年代遡上論の根拠としないであろう。しかし、年代遡上が既成事実として残っており、この状況は当面続くと予想される。最近の畿内派は、「年代遡上論は年輪年代・炭素14年代よるのではなく、関係ない」、と言い始めている。」

この部分について、次のようにも思いました。揚げ足取り的なものとして受け取られることを懸念しますが、そうだとしたらご寛恕ください。

・「従って畿内説の考古学者は、今後、年輪年代を年代遡上論の根拠としないであろう」との文章において、なぜ「従って」なのでしょうか、鷲崎氏が年輪年代法や炭素14年代の問題点を指摘されたことから、「従って」となってしまうのでしょうか?

・「年代遡上が既成事実として残っており、この状況は当面続くと予想される」というのが現状ならば、なにも「年輪年代法がもたらした弥生中後期・古墳開始期の100年遡上論は、九州説VS畿内説の天王山である」と言われるまでもないのではないしょうか?「日本の年輪年代法は『実質的に瓦解した』」(注2)のであれば、時が経てばそんな議論は誰もしなくなるはずでしょうから。

・「最近の畿内派は、「年代遡上論は年輪年代・炭素14年代によるのではなく、関係ない」、と言い始めている」との記事について、なにか根拠や出典が示されたほうが分かりやすいかも知れません。

 〔注〕

(注1)建造物について、鷲崎氏は、「記録と照合可能な14事例では、AD640年以前の測定値が全て100年狂っている。これら以外に記録と検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しければ、14事例は全て100年前の古材利用となるが、それは有り得ない」と述べています。ですがここでは、「記録」の正しさが前提とされ、従って、「測定値が正しければ、14事例は全て100年前の古材利用となる」と断定されるところ、もう一つの可能性、すなわち「記録」の方の誤りについては全く考慮されていません。

また、古墳について、鷲崎氏は、「弥生・古墳時代は明確な記録が存在せず、年輪年代の妥当性の検証が難しい。土器・鏡・貨泉・古墳型式・埴輪等との共伴(同時期性が確実なケース)による従来の編年に頼ることになる。このため、検証可能な事例は非常に少なく表2の6事例に絞り込まれるが、測定値が100年狂っているのは明白である」と述べています。ですが、「従来の編年に頼ること」が出来るのかどうかが、いま年輪年代法によって問われているわけではないかとも思われます。「測定値が100年狂っているのは明白である」と断定するのであれば、さらにその根拠を別に示す必要があると考えられるところです。

(注2)この表現は、「日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授のコメント」によるとされますが、同教授はその根拠としてどういう点を具体的に挙げているのでしょうか?

  (2010.8.1 掲上)


  <樹童の感触>

  現在の年輪年代法・炭素14年代法に基づく算出年代値については、多くの問題点があると感じます。それが、主流派考古学者が多く依拠しているだけに、それ以外の人々も、これら手法に関心をもって多様な角度から検討していくことが必要だと思われます。もちろん、これら手法への批判や疑問でも、それらがみな妥当するかどうかという点のチェックは、必要だと思いますから、そこに多様な検討の意義があると思われます。

  合理的な批判・疑問は、次への展開が出てくると思われます。貴見のご提示・ご指摘ありがとうございました。

  (2010.8.1 掲上)



 <鷲崎様からの応信> 2010.8.5受け


 小林様のコメントは多岐にわたっており、全てを個々にここで書くことはとても出来ません。とりあえず全体的に申し上げます。

 論文全体が断定的過ぎるとのご指摘ですが、これは私の強調と受け取っていただいて結構です。ただ、年輪年代の標準パターンが飛鳥時代の640年頃以前は100年古く狂っていると断定しても良いとの心証を持っています。これが、論文全体の口調に影響しているのかも知れません。年代論は、当然幅があります。従って、たとえば特定古墳の築造時期について通説があるとしても、それは当然幅があるし、通説自体が揺れる場合があります。ただ年輪年代の場合、樹皮まで残っている試料で測定値が正しければ1年単位で伐採年が特定され、幅はありません。これが年輪年代法の特色です。もちろん、伐採年代が特定されたとしても、古材利用もありえますので、これだけで遺跡・建造物の年代を完全に決定できるかは他のチェックもいれて総合的に判断する必要があります。

 小林様もよくご承知のように、年輪年代の基礎データは非公開でブラックボックスとなっています。多くの人が長年にわたり基礎データの公開を要望してきましたが、依然として公開されません。従って、「公開の場に必要なデータベースが全て提示され、そのうえで十分な検討・検証がなされることを望みたいものです」と言われましても(私もそう望んでいますが)、現実には絶望的です。こういう状況で年輪年代を批判しようとしても「靴の上から掻く」ようなもので、水掛け論となる可能性が大であります。

 そこで私が明確な判定基準として採用したのが「記録」です。拙論で飛鳥奈良時代の法隆寺・法起寺・元興寺・紫香楽宮・東大寺の14事例を取り上げましたが、みな記録との照合が可能です。これらの記録は直近の出来事を書いていますから、記録の全てが誤りというのありえません。例えば、法隆寺は670年に全焼したと日本書紀に書かれています。日本書紀は681〜720年に編纂されていますから、わずか数十年前のことを記録しているわけです。数百年前のことならいざ知らず、数十年前のことを書いた記録が全て誤りということはありえません。そういう意味で、私は記録との照合を最大ポイントとしたわけです。拙論@「木材の年輪年代法の問題点ー古代史との関連について」(『東アジアの古代文化』136号、2008年)、A「炭素14年代法と邪馬台国論争ー年輪年代法との連動を通して」(『邪馬台国』101号、2009年)でも、記録との照合に最大の力点をおきました。

 記録との照合可能な14事例についてです。各事例で古材の確率が50%、新材の確率が50%とします。そうすると、14事例の全てが古材の確率は,

 0.5×0.5×0.5・・・・・、すなわち0.5の14乗=0.00006で1万分の1以下の確率となります。標準パターンが正しいためには、14事例は全て古材使用としなければなりませんが、その確率は1万分の1以下で、ほとんど有り得ません。各事例での古材の確率を30%とすると、1千万分の1以下となり、標準パターンが正しい確率は途方もなく低くなります。

 炭素14年代法は年輪年代法と密接に連動しています。炭素14年代法については、多くの人が問題点を指摘し歴博説は事実上崩壊しています。従って私としては、年輪年代と炭素14年代の整合性の分析に力点を置いていますが、これについてはもう少し分かり易く説明した方が良いかなとは思っております。
 
  私がここ2年間で発表した論文を、掲載した雑誌社の了解を得て、全文を私のHP「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に掲載するよう準備を進めています。 これも参考にしていただければ有難いと思います。

 <掲載論文>
@「木材の年輪年代法の問題点ー古代史との関連について」(
『東アジアの古代文化』136号、2008年夏、大和書房)ーー雑誌では42ページ分
A「炭素14年代法と邪馬台国論争ー年輪年代法との連動を通して」(
『邪馬台国』101号、2009年4月、梓書院)ーー雑誌では65ページ分
B「邪馬台国と宇佐神宮比売神」(
『歴史研究』578号、2010年1・2月新春合併号、歴研)−−雑誌では56ページ分
C「年輪年代・炭素14年代法と弥生・古墳時代の年代遡上論」(
2010年4月および5月に「九州の歴史と文化を楽しむ会」で発表した論文に加筆修正したもの) ーーこれは今回掲載した論文です。

 <私のHPへの掲載予定時期>
   今月8月中(出来るだけ早く)
 
  以上、かなり漠然とした返事となりました。今回、小林様から貴重なご指摘を多々いただきました。重要な論点については、拙論@ABも参考としながら意見交換をさせていただければと思っております。

  (2010.8.6 掲上)

  <追加コメント>
  遺跡・建造物では複数の測定値が得られるケースが多くあります。特に、弥生遺跡の存続期間は数百年に及ぶことがあります。ですから、出土木材と出土土器の共伴(
同時期性)が重要となります。木材と土器の共伴が確実であって始めて土器の年代を年輪年代値により特定できます。ただし、特定土器様式の存続期間(たとえば、弥生W−3様式)は幅があります。普通は1型式を25年ほどの幅で見ていますが、実際には25年幅と決め付けるのは危険です。このあたりになると、土器編年の決め方のややこしい議論となりますが・・・。 



 <小林滋様からの来信> 2010.8.9受け
 

  先のコメントの趣旨は、関する鷲崎氏の見解に異議を差し挟むことでは毛頭なく(注)、年輪年代法等を巡る議論の一層の明確化を図り、諸前提・諸見解の基礎的チェックをしてみることでした。今回の「応信」で鷲崎氏が言われていることに関しましても、同様の趣旨から、些末にわたるようで誠に恐縮ですが、とりあえず以下のような点を考えてみた次第です。
 
) 鷲崎氏は、今回の「応信」のなかで、「例えば、法隆寺は670年に全焼したと日本書紀に書かれています。日本書紀は681〜720年に編纂されていますから、わずか数十年前のことを記録しているわけです。数百年前のことならいざ知らず、数十年前のことを書いた記録が全て誤りということはありえません」と述べられます。
 
 これに関しては、結論的にはまるで変わらないものですが、かつてや現在の歴史学界の動向をみると、少し慎重な書き方のほうがよさそうです。すなわち、日本書紀の記載内容がよくわかっていながらも、明治大正時代に「法隆寺再建論争」というものが喧しく行われたわけで、それが下火になったのは、日本書紀の「記録」の正確さによるというより、若草伽藍の発掘が行われて焼け跡が確認されたからのようです。これに限らず、文献の「記録」は重視すべきですが、あまり絶対視してしまうのもどうかなと思われるところです(「数十年前のことを書いた記録が全て誤りということはありえません」ということは、一般論として、はたして言い切れるものでしょうかということです。戦後の歴史学界では、聖徳太子の存在や大化改新関係記事などをはじめとして、日本書紀の記事自体に編纂者によるいろいろな造作説がいわれており、その殆どが誤解であったとしても、史料の記事については、考古学知見などを含めて、できるかぎり裏付け確認を要すると思われます)。
 
ロ) この点につき、さらに鷲崎氏は、「標準パターンが正しいためには、14事例は全て古材使用としなければなりませんが、その確率は1万分の1以下で、ほとんど有り得ません」と述べておられます。ここでの鷲崎氏の議論は、「記録」が“全て正しい”ことを基礎とするものでしょうが、その点はサテ置くとしまして、言われるように、「各事例で古材の確率が50%、新材の確率が50%」とすれば、「14事例の全てが古材の確率は,0.5×0.5×0.5・・・・・、すなわち0.5の14乗=0.00006で1万分の1以下の確率」となるでしょう。
 
 その場合に気になるのは、「各事例で古材の確率が50%、新材の確率が50%」という前提で、その根拠がヨクわからないところです。これを、「各事例で古材の確率が100%、新材の確率が0%」とか、逆に「各事例で古材の確率が0%、新材の確率が100%」とすれば、結論の先取りになってしまうでしょう。と言ってその中間値(あるいは30%と70%の組み合わせ)をとるとは、どのような根拠によるのでしょうか?
 なにより、「各事例で古材の確率が50%、新材の確率が50%」の意味するところはどのようなことなのでしょうかいうまでもなく、法隆寺建築に使われた木材の中に占める古材・新材の割合という意味ではないでしょう
 サイコロを振る場合のように、同じ条件の下で同一の事象が繰り返し何度でも起きるという確率事象であれば、そう言うこともできるでしょう。ですが、例えば法隆寺の建立というような歴史的な事象は確率事象で考えてよいのでしょうか? 何度も繰り返し行われる事象なのでしょうか?
確率の議論を歴史の検討に使う場合になかなか難しい問題があり、いろいろ愚考してみても、なかなかうまくまとまらないところがあります。そして、時系列のタテ・ヨコも、必ずしも截然と割り切れるのでしょうか。
  例えば、ここでの場合、法隆寺建立という事象がn(→∞)回行われるとすると、n/2の回は古材で、残りは新材で作られると考えるということなのでしょうか?  ですが、“n(→∞)回の法隆寺建立”という想定自体に意味があるのでしょうか?そしてそのことが他の13事例についても該当するのでしょうか?さらに、同一の条件といったことも確保されないのではないでしょうか? また、算式から得られる「1万分の1以下の確率」とは何を意味するのでしょうか?
  たとえ起こる確率がごくわずかだとしても、得られる確率がゼロではないのですから、「あり得ない」とか「起こらない」とは言い切れません。仮に取り上げる事柄が確率事象だとしても、そして1万回に1回しか起こらないと言うことに仮に意味があるとしても、なにしろそれが起きてしまえば、いうまでもなく確率は1なのではないでしょうか?それに、むしろ歴史というものは、思いもよらなかったこと、起こるはずがないとされたことが起きたことのつながりで出来上がっている可能性がある、というべきではないでしょうか?
 
 実のところ、以上のような考えをしてみますと、古材・新材の議論はなかなか難しそうに感じます。現実問題として、常識的に考えた場合、当時の築造者が最善を尽くして法隆寺築造に当たったとした場合、その個所・用途に応じてそれに適した木材を使用したと考えられます。だから、建築に使われた木材が同じ性格のものではなかったことも十分考えられ、採取地域が異なった可能性さえあります。新材といっても、切り出してすぐ使用するのではなく、乾燥などの期間のゆとりがあったとしても不思議ではなく、そうした期間をどのように評価するのか、その場合に古材・新材の比率値を考える場合にどうみるのかも難しいところです(こうした事情は、むかしの宮大工さんに聞いてみたいものです)。
 ここまで記したことは、最初にもお断りしたように、いろいろな可能性のなかでどこまで押さえられるかという観点からのものです。
 
(注)本HPに掲上されている拙稿「年輪年代法を巡って2」の「X.補足(その2―従来の研究成果との齟齬)」(2002.11.23)において、ごくごく小規模ながら、鷲崎氏の論考の「表1」と類似のものを掲載しているところです。

  (2010.8.10 掲上)

  <樹童の感触>

1 
これまでの議論を通じてでも、年輪年代法や放射性炭素年代測定法には、まだまだ多くの問題点があることを感じます。検証されていない年代値は、あくまでも仮説値にすぎませんから、その取扱いには十分に慎重に考えていく必要があると思われます。
  なかでも、七世紀以前の年輪年代法算出値については、約100年後ろへずらせばよい、という見方(これも、一応のメドかも知れませんが)よりは、そもそも、どの程度依拠できるのかという姿勢のほうがよいのではないかと感じられます。だから、今の考古学者の年輪年代法算出値の受け入れ姿勢には多大な疑問を感じるものでもあります(自説に都合がよいから、そのまま受け入れるというのでは、真面目な人文科学研究者のなすところではないと考えます)。

  鷲崎様の書かれた追加コメントに関して
 土器編年に関して、「普通は1型式を25年ほどの幅で見ていますが、実際には25年幅と決め付けるのは危険です。このあたりになると、土器編年の決め方のややこしい議論となりますが」というコメントについてですが、多少とも関連するかも知れない古墳年代について考えると、『前方後円墳集成』などには、古墳編年十区分というのが見えます。私は、十区分のうち、はじめの第1期・第2期は実質重複するのではないかとみていますが、それはともあれ、古墳編年の9ないし10の年代区分は、それに対応する時期の天皇(大王)の世代区分にほぼ対応するのではないかとみています。(宝賀寿男著『巨大古墳と古代王統譜』p283〜288参照
  具体的にいえば、日本列島内に巨大古墳の築造された期間、四世紀前葉の崇神天皇の世代から六世紀中葉の欽明天皇の世代までが、実質的に9世代であり、その具体的な年代が西暦330年頃〜560年頃であって、合計約230年の期間になされたとみています。このことは、一世代あたりに平均すると25.5年という数値を示します。これは、土器の「1型式を25年ほどの幅」でみることと、ほぼ通じるのではないでしょうか。
  この辺は平均の議論ですから、個別の地域によっては、25〜30年というくらいの幅となることもあると考えられます。古墳や土器の作り手・技術者が世代交代すると、その製品・築造物も若干の型式変化をしたのではないかと考えると、唯物的な見方に人的要素が入ってくるのではないかと思われます。

 これらに関連して、年輪年代法の年代算出値に関しても、人的要素を考えることができると考えています。具体的には、その年代値検討の対象となったホケノ山古墳や池上曽根遺跡などがそうであり、記紀などの記事や氏族・部族の行動が参考になると考えているということです。その場合に、これら遺跡に関する現段階の年輪年代法算出値は100年前後〜150,200年ほど年代遡上しすぎているのではないかとみています。両遺跡について、考古学者はまるで築造の背景を検討していないと思われますが、これはきわめて偏面的であり、それでは結論がおおきく偏る可能性があります。実のところ、両遺跡には、地域的・地名的・地勢的にいって、多くの特色があって、それが当然、個人的・部族集団的な人的要素に結びつくからです。
  大きな歴史の流れを踏まえて、年代値の仮説を検討するというのも、私は検証の一手段だと考えています。

  (2010.8.10 掲上)



  <鷲崎様からの応信> 2010.8.20受け

  私がここ2年間に発表した論文を、掲載雑誌社のご了解を得て、私のHP「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に全文を掲示しました。

  これからの意見交換には、これら拙論も参考にしていただければ有難いと思っております。
 
  <掲載論文>
@「木材の年輪年代法の問題点ー古代史との関連について」(『東アジアの古代文化』136号、2008年夏、大和書房)ーー雑誌では42ページ分
A「炭素14年代法と邪馬台国論争ー年輪年代法との連動を通して」(『邪馬台国』101号、2009年4月、梓書院)ーー雑誌では65ページ分
B「邪馬台国と宇佐神宮比売神」(『歴史研究』578号、2010年1・2月新春合併号、歴研)−−雑誌では56ページ分
C「年輪年代・炭素14年代法と弥生・古墳時代の年代遡上論」(2010年4月および5月に「九州の歴史と文化を楽しむ会」で発表した論文に加筆修正したもの) ーーこれは今回HP『古樹紀之房間』に掲載していただいた論文です。
 
  以下をクリックして下さい。  http://homepage3.nifty.com/washizaki/

  なお、拙論@の「7 暦年標準パターングラフ」の末尾に注としてに以下のように書いてあります。

『注: 在野の研究家・山口順久氏は論文『年輪年代法と弥生中・後期の歴年代』(季刊『古代史の海』16号、1999)、また、小林滋氏も『法隆寺と年輪年代法』(26号、2001年。27号、2002)で、かなり問題点を指摘している。例えば、標準パターンは統計処理による類似度(相関係数などによる)と目視を総合して決定されるが、結局は光谷氏個人の経験と勘に頼っている面が大きいと指摘している。なお、これらはHP『古樹紀之房間』に一部紹介されている。』

  (2010.8.27 掲上)

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