源頼信告文の真偽


                                          宝賀 寿男

  はじめに

  石清水田中家文書*1にある「源頼信告文」という文書に基づき、明治三十年代に星野恒博士博士により問題提起された「頼朝など武門源氏は清和源氏ではなく、陽成源氏であったという説」は、竹内理三博士などに支持されて*2、現在までかなり有力に唱えられてきた。
  これに対し、私は、かって、初期段階の貞純親王・源経基・満仲など人々の生没年の検討などに基づき*3、陽成天皇の皇子の元平親王と源経基とはほぼ同世代の人であって、動物学的には親子関係は成立しえないことを強く主張した(「陽成源氏の幻想」〔『姓氏と家紋』誌第56号(1989/6)〕で、以下に「先拙考」とする)。星野説の是非について、内容的にはこれに尽きるのではないかとも思っている。それにもかかわらず、現存の上記告文(以下、「頼信告文」とする)の表面的な検討くらいで、陽成源氏説を主張する学究もいまだかなり見られる*4。

  最近、赤坂恒明氏が「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考─源朝臣経基の出自をめぐつて─」という論考を発表され*5、当時の皇族の叙位例・氏爵など制度的な側面から検討してみると、やはり清和源氏説が正しいと立証されると記しており、多くの史料を活用した緻密な論証はきわめて説得的であって、教えられることが多い。
  従って、いかなる意味でも陽成源氏説はもはや存在意義を失っているとも思われるが、謬説は徹底的に叩いておかないとその後の研究者の検討に当たって無駄な作業をさせることにもなりかねず、多くの人々を惑わす源ともなりかねない危惧もある*6。現に、武門源氏の出自問題に限らず、武門源氏と八幡神信仰との関係でも同告文を史料として立論がなされ所論が展開しているのも見られる。そのため、この際煩わしさを厭わず、すなわち前掲拙稿に加え他の論考で既に言及のある諸点も整理して、別の角度から「頼信告文」の真偽をできうる限り検討しようとするものである。その際、上掲赤坂論考については多くの意味で学恩を蒙ったことに謝意を表しておきたい*7。


 1 「頼信告文」を信頼する説の論拠

  星野博士や竹内博士などが「頼信告文」に信頼をおき、その内容を是とした理由は、その記述を見る限り*8、次のようなものである。
  星野博士は、「其体頗ル尋常ノ告文ニ異ナリト雖、却テ頼信当時ノ実情ヲ察スルニ足レリ」「通編一点偽造ノ痕跡ナケレハ、此文直ニ其事実ヲ証明スルニ足レリ」としており*9、各種の系譜仮冒例や文中の「齢覃鳩杖」は告文奉納当時の頼信の年齢七十九歳とも合致するなどの事情もあげる。しかし、本当に告文全部を通じて「一点偽造ノ痕跡」がないのだろうか。私には、問題の告文に疑問な点が多々あると思われるし、星野博士の論拠についても疑問な点が多いと考えている。(これらは、以下に具体的に検討を加える)
  竹内博士の根拠は、@写しであってもかなり古いものであること、A内容が具体的で、ほかの史料ともよく一致していること、B内容は終始頼信及びその祖先の功業の記述を目的としているので、大切な祖先をわざわざ暴君といわれる天皇に結びつけることは考えられず、むしろ陽成天皇の暴君としての強い力は兵の祖としてふさわしいと頼信は考えたのではあるまいかという推測、である。しかし、告文の内容が具体的で、ほかの史料(具体的に何を指すのか不明)と一致していると本当にいえるのだろうか、また一致するとしても一致する内容にむしろ問題がないのだろうか、という十分な検討が必要であると私は考える。
  安田元久氏は、鎌倉時代の写しであり、願文としてはかなり異例な文体であることを承知しつつも、一方、@『尊卑分脈』の武家源氏初期の人々についての記事は誤記が多く、この関係の星野博士の考証はほぼ正確なようであること、A鎌倉時代に何故こうした偽文書を作成する理由があったかという疑問が残ること、B父満仲のことを先人新発意と表現しているが、頼信在世中は専らこの呼称が行われていたであろうことも想像され、満仲という本名を書いていない点はかえって頼信自身がこれを書いたことを信じさせること、を論拠としてあげる。しかし、満仲に対して「新発(新発意)」という表現は他書にもいくつか見え*10、近親のみしかできない表現ではなく、信頼性をおくことの論拠にはなり難い。また、清和源氏に限らず、『尊卑分脈』の桓武平氏・藤原氏など武家部分系図について多くの誤りや混乱があることは、同書の性格上やむをえないことであり(いわば当然の常識)、これらを指摘するからといって、星野博士の所説が全てにわたって正しいわけでは決してなく、かなり勘違いがみられる。偽文書を作成する理由については、具体的な作成者や事情等が分からない以上、誰も説明できるものではない。
  これらを総括してみると、竹内・安田両氏の論拠は情緒的感触的で信念的ですらある。この程度の論拠で、しかも後にも先にもこの「頼信告文」という文書一つの論拠で、従来の定説をひっくり返す(返しうる)というのだろうか。日本歴史学の学究(の一部)は、ここに、論理的思考を忘れ、科学的学問という立場を放擲したのである。


 2 「頼信告文」が偽造かどうかの検討

  系図も含めて歴史文書には、伝来経緯的にみて偽造ではないかという検討はつねに欠かせないところであり、次にその具体的な記述内容が信頼できるかという検討になってくる。これが、歴史学の対象としての史料検討の大前提であろう。星野恒博士も、現存の「頼信告文」が写本ということは十分承知しておられた訳であるから、この辺の検討をもっと行われるべきではなかったか,と私には思われる。

   写本と写本時期の問題
  問題の告文が「写本」であることは、研究者においてまったく異論がない(はずである)。それは、告文の奥裏書に「明応三年石清水宮寺前検校准僧正」*11の華押があり、その識語には「頼信(この次に「告文」の二文字省略か)以他本少々點レ之了」(「點(点)」は字句をなおす、書き入れするの意か)と記されるからである。すなわち、写本としての現存告文は明応三年(1494)までの時点の成立が考えられるということである。ここで注意したいのは、『大日本古文書』の記載には、その前の一行に「文明十四年卯月廿四日令修覆之畢、石清水別当法印権大僧都奏清」とある記事の解釈である。これは田中家文書所収の告文全てに通じるものかどうかは不明であるが、仮に修覆対象となった文書のうちに「頼信告文」が含まれたとしたら(一文の置かれた位置から見て、その蓋然性が高いが)、同告文が文明十四年(1483)には成立していたということにすぎない。
  その成立が何時まで遡ることができるかは全く不明であって、かりに原文があったとしても、それが何時成立したものであるか、原文の表記内容が現存告文とどの程度同じかどうか、の確認もまったくできず、同告文に石清水祠官の田中奏清が関与したことが分かるだけである。
  ここに、十分注意しておくべきことである。星野博士は「頼信自書ノ原本ニ非スト雖、紙質字体ヲ審ニスルニ、確ニ鎌倉代ノ古抄本タリ」*12とその論考で記されるが、そうしたことがどうして言えるのか疑問が大きい。実際、明治後期のころに四百年超ほど前の古文書を見るだけでは、紙質と字体から判断して、前のほうの写本の部分と最後の華押など書入れ部分との年代差がどれくらいあったかということなぞ、どんな優秀な学究であっても正確に分かるはずがないと思われる。

  「頼信告文」の奉納先
  写本の「頼信告文」が石清水八幡宮旧祠官田中家に伝来したが、なぜ同家に伝えられたのかについても疑問がある。そもそも、同告文に原本があったとしたら、それは本来どこに奉納されたのか、という問題がまずある。
  これについては、竹内博士は、「石清水八幡宮に一通の願文をおさめて」と簡単に記すが、これは勘違いである。赤坂氏の上記論考の註に記すように、「この「頼信告文」については、石清水八幡宮に奉られたと解説されてゐる場合もあるが、『八幡山陵末社告文起文等部類』三(『大日本古文書 家わけ 四ノ一』 六五頁)に、
   河内守源頼信告文
    永承元年
    進誉田山陵
とあることから明らかなやうに、誉田山陵、即ち誉田八幡宮に奉られたものである」ことに疑いがない。

  星野博士ご自身でさえも、その論考で水戸彰考館纂輯『本朝文集』巻四十六の鳩嶺雑文のなかに「進誉田山陵文」と題して記載すると記し、明確に「原本ハ誉田八幡宮ニ奉リシナリ」と記述しており、誉田山陵(伝応神陵古墳、誉田御廟山古墳)のほうが河内守在任で近くの志紀国府にあった頼信の奉納場所に相応しい。しかも、誉田山陵は頼信に始まる河内源氏の本拠地古市郡壺井・通法寺一帯(現羽曳野市南東部)からも近い地であった。

  東大大学院の義江彰夫教授は、源頼義が朝廷の東国支配を支えるために、東国の要である相模国に八幡神と道真霊の導入をはかり、永承元年(1046)から遠からぬ時期に、本来は土地神祭祀であった相模一之宮たる寒川神社の祭神として誉田八幡(応神天皇)を勧請したことを論証し、その後の『吾妻鏡』*13に見える康平六年(1063)の鎌倉由比郷への石清水八幡の勧請はその誉田八幡を越えるためであったと論じている*14。つまり、鎌倉への石清水八幡の勧請の前に、それよりランクの低い誉田八幡の勧請が行われたということであり、鶴岡八幡宮の伝承が石清水八幡ではなく、もともと誉田八幡を勧請したものであって、この時期の頼義の力では石清水八幡を勧請することは不可能であったともしている。
  こうした分析を通じても、頼信告文が当時奉納されたとしたら、永承元年頃では河内源氏の本拠地に近い誉田山陵のほうが適切であったことが分かる。
  なお、頼義の相模守補任は『範国記』によると、長元九年(1036)十月十四日のこととされ、それ以降、八幡信仰が東国へもたらされたことになるが、義江教授のように「永承元年」以降とは必ずしもいえないものであろう。教授は「頼信告文」の永承元年奉納を事実とみているからである。そして、誉田八幡宮の実際の成立時期如何によっては、教授のいわゆる誉田八幡は、誉田八幡宮そのものではなく、「誉田(陵、すなわち応神天皇)+八幡大菩薩」という緩い結合のものを指すのかもしれない。

  誉田山陵と当地の八幡神奉斎の経緯
  それでは、誉田山陵における八幡神の奉斎はどのように始まったのであろうか。
  現在、大阪府羽曳野市の誉田山陵の南には誉田八幡宮が鎮座して、応神天皇等を祀るから、ごく当然のように古くから同社があったように思われるが、同宮の鎮座はそう古いものではない。
  現在も同宮に所蔵される『誉田宗廟縁起』(重文)は、その奥書に永享五年(1433)将軍足利義教が旧本によって新写させて奉納した旨を記している。それによると、欽明天皇のとき、任那の再興を発願して、伝応神陵の後円部の頂上に神廟形式の小社殿を造営し八幡大菩薩を勧請したのが同宮の始まりで、天皇が行幸したとするが、これはまず信じがたい。下っては、聖徳太子・僧行基・僧空海・菅原道真らが参詣し、しばらく滞留したとも縁起に伝えられるが、これらについても何ら裏付けがなく、史実としてはまず信じがたい。
  次に、平安後期の後冷泉院のときに、陵の一町余南に社殿新造して遷座し、同天皇が永承六年(1051)に行幸したことが上記縁起にあげられ、これが現社殿であるとされる。しかし、同縁起に見える永承六年の後冷泉天皇の行幸と治暦二年(1066)の社殿鳴動の事件もまた虚構であると説(『扶桑略記』ほか)が有力である。すなわち、実際には前者が山城石清水八幡宮への行幸、後者が奈良春日社の鳴動であったが、これらを誉田八幡宮のものとしたというものである*15。永承六年は、源頼信・義家親子による前九年の役が始まった年でもあり、この戦役の早期平定を祈念して天皇が誉田八幡宮に行幸したともいうが、これはあまりにも武門源氏に都合の良い所伝であろう。古田実氏は、これ(註:後冷泉院のときの社殿新造)が「おそらく神社としての誉田八幡宮の始まりであろう」とみている*16。しかし、これでも誉田八幡宮創祠についてまだ甘い見方なのかも知れない。
  『石清水文書』(これも田中家文書)にある延久四年(1072)の太政官牒*17には、長久五年(1044)八月十五日の国符に曰くとして、国司清原頼隆が誉田山陵の法楽荘厳のために三昧堂を建立し、三昧田供料田十五町を免除し行法を勤修するとある。同文書に拠ると、「誉田山陵三昧田」が石清水八幡宮寺の三十四カ処の一処として見えるから、誉田山陵を八幡神の御舎利処とみなして建立したといわれる「三昧堂」が誉田八幡宮の前身だったとみられる(『大阪府の地名U』1069頁)。この建立が、「頼信告文」奉納時期の僅か二年前のことであり、同文書において「誉田山陵」とあるのも自然である。もっとも、「誉田山陵」ないし「古市山陵」という表現が、田中家文書所収の告文では十三世紀前葉頃まで続くから、神社施設がなかったとは必ずしもいえないものであるが。

  「頼信告文」の記す奉納期たる永承元年(1046)の時点でも、誉田八幡の前身が「三昧堂」という形態で存在し、まだ神社の形態をなしていなかったようであるし、その祠官家が成立していたのかについても疑問が残る*18。さて、三昧堂建立の僅か二年後という時期に河内源氏の棟梁が自己の重大な願文を奉納するのだろうか(そもそも誰に対して願文を差し出したのか)、という疑問も当然生じる。
  戦国期、河内守護の畠山氏の内紛、さらには三好一族の侵攻や織田信長の河内攻め等の争乱が続いたことで、誉田八幡宮は再三兵火を受け、その際に社殿・護国寺がともに焼失したといわれるが、それでも上記『誉田宗廟縁起』や『神功皇后縁起』等は無事保持されてきた。鎌倉初期の建久七年(1196)に、源頼朝が社殿および神宮寺の長野山護国寺の伽藍を再営し、神領として四十町歩を寄進して社寺領とするとともに、現国宝の螺鈿金銅飾りの神輿や長刀・刀剣・神馬を奉納したといい、これらを含め、同宮には鎌倉・室町期の重文などが多数残る。かりに「頼信告文」が同宮に元来保存され重要な文書として認識されていたとしたら、そのまま現在まで保持されてきたのではなかろうか*19。誉田八幡宮の祠官を先祖の紀角宿祢以来代々世襲してきたという菅居家においても、「頼信告文」を示唆するような史料は残されていない*20。

  以上、「頼信告文」をめぐる外形的な環境を見ただけでも、同告文には多くの疑問があることが分かってくる。



 〔註〕

*1 『大日本古文書』家わけ第四、「石清水文書」一(田中家文書)に所収。

*2 竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』1965.7、中央公論社。
  最近の陽成源氏説に立つ学究としては、庄司浩、杉橋隆男、奥富敬之、貫達人、元木泰夫、野口実などの諸氏があげられるが、総じてその論拠をあまり具体的に記述していない。
  しかも、杉橋、奥富、元木、野口の諸氏については、系図関係の記述や指摘で様々な誤解が散見する傾向があるという共通点もある。杉橋氏の誤解については別稿(「杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む」)で触れたが、奥富氏については、例えば鎌倉北条氏の先祖の系図の点で、元木氏については加藤氏の祖で源頼義側近の藤原景通を「美濃の武士」「加賀介となった」(『尊卑分脈』の景通の譜註に記されるが、先祖が加賀介になった由縁で、景通のときに加藤を号したという意味のはず)とする点で、野口氏については出羽清原氏の出自を平繁盛流とみる点で(『桓武平氏諸流系図』に「武則が平繁盛の孫」と記載されることに基づく立論であるが、同系図には誤記や仮冒もかなり多いことに留意)、それぞれ疑問がきわめて大きい。(これら指摘は、「頼信告文」の問題には直接関係がないが、誤解や十分に系図を検討しておられる学究とはみられない要素があるということである
  学究として立つ以上、系図を総合的にもっと十分検討したうえで発言していただきたいと強く願うところであるが、いずれ機会を見て、それぞれを個別具体的に批判の対象として取り上げたいとも考えている。

*3 陽成源氏説を主張しないでも、「頼信告文」を信頼性のおける文書とみる見解はかなり多いようでもあり、これまで含めると多数説ともとられよう(野口実氏は『武士の棟梁の条件』37頁で、陽成源氏を「研究者の多くが認める」とまで記すが、何をもって多数というのか不明である。勿論、数で解決する問題でもないが、朧谷氏は『国史大辞典』では多数説だとは記していない)。
 しかし、かりに現存の同告文が正文書の写本と見た場合でも、そこに主張なり理念ないし願望が込められているとしたら、直ちに陽成源氏説が正しいというわけではない。この辺の論理は、後掲赤坂論考を参照されたい。

*4 武家源氏の初期段階の人々の生没年を正確に決定するのは、現存史料からは無理なことであるが、数年くらいの幅のなかで決めることができれば、親子関係の是非はほぼ確実に判定できるものであり、生物学的な証明としてはその程度で十分ではないかと判断される。
  清和源氏の初期の人々に関する記事(尻付)が比較的信頼できると私が考えている「青木周蔵家譜」(宮内省への呈譜)について、その史料性を問題とする見解もあるが、内容が多くの現存する系図史料のなかで最も妥当性があって、平安期の日記類など信頼性の高い史料と整合性がとれておれば、それで問題がないのではなかろうか。なお、同系図を明治期に中田憲信は採録して『各家系譜』に記載しているが、憲信が編纂ないし製作したわけではない。この辺には、赤坂氏の記述(同論考の注(19))に誤解があることに注意されたい。

*5 赤坂論考は、『聖学院大学総合研究所紀要』第二五号(2003.1)に所収。

*6 中野幡能『八幡信仰』などに信憑性のある文書として取り扱われ、この文書の内容を基礎に論が展開している。
 なお、安田元久氏は、星野博士の「論文が学界の大勢をほとんど動かさなかった事実に、一種の奇異の気持ちを感じなければならなかった」、決して取るに足りない問題ではなかった明治末期〜大正・昭和前期において、「何故に星野博士の主張が人々にほとんど無視されていたか、まさに驚くべきことであろう」という感触を述べるが(『武士世界の序幕』1973.10、吉川弘文館)、それが謬説であれば当然のことである。黒板博士はほとんど無視したように記されるが、それが同じ大学の学究としていわば武士の情けであったのではなかろうか。

*7 本論考で資料の註記を簡単にしてあるものについては、併せて赤坂論考を参照していただきたい。

*8 「頼信告文」を正文書とする議論において、具体的な論拠を示して検討を加えているのは、管見に入った限り、明治の星野博士くらいで、あとはごく簡単な記述しかない。そのため、各論者の結論に至った検討過程や具体的な論拠が不明である。もし、星野博士の論拠ですべての議論が尽きていると考えたとしたら、学究たちの怠慢ないしは論理的検討の薄弱と言うほかない。

*9 義江彰夫氏も、いま正文書か偽文書かの論争について「辿るゆとりはないが」と断ったうえで、「文体も内容も源頼信の書いたものとして疑うべき点はないので、正文書と判断して扱う」とし、その基礎に論を展開している(「源氏の東国支配と八幡・天神信仰」『日本史研究』第394号の9頁、1995年

*10 管見に入っただけでも、『今昔物語集』巻第19の第4、や南北朝期以降の『神皇正統記』『永享記』などに「新発」の表現が見え、親族・関係者しか用いない語ではなかったことに留意したい。 

*11 明応三年の「石清水宮寺前検校准僧正」とは、田中奏清(長享三年補検校准法務(「僧正」省略か)、明応五年入滅)を指すとみられる。奏清は、後出の田中融清の曾孫にあたる。
 なお、『大日本古文書』の註記では生清(奏清の父)とみるが、疑問が大きい。『続群書類従』巻169所収の「石清水祠官系図」には、生清の記事に「明応七年八月十八日入滅」と記すが、その割註には「以大乗院過去帳書之。奏清入滅ヨリ後也。不審。可考」とあり、その活動時期から考えて、割註の指摘が妥当と考えられる。しかも、明応三年で始まる前の一文には、本文で記すように「文明十四年…(中略)…石清水別当法印権大僧都奏清」とあり、その次に書かれる後年の記事に父の生清が出てくるとみるのはきわめて不審であって、「前検校准僧正」も同じく奏清その人であろう。

*12 『大日本古文書』家わけ文書第四の一において、「頼信告文」の一部を写真で示し、その横に「コレハ源頼信告文ノ一部ニカカル、告文ハ原本ニアラズト雖モ、ソノ紙質書風伝説等ヨリ推セバ、蓋シ鎌倉時代ノ書写ナラン」と記される。この評価者が星野博士その人かどうかは不明である。むしろ「伝説」も加味しても、鎌倉時代までしか遡らないということに注意すべきではなかろうか。博士の「紙質字体」を十分検討すれば「確ニ鎌倉代ノ古抄本タリ」という記述は、過剰な強調であろう。

*13 『吾妻鏡』治承四年10月12日条。最初の鎮座地由比郷から現鎮座地へ遷座があり、最初の鎮座地には由比若宮社があるとされる。

*14 義江彰夫「源氏の東国支配と八幡・天神信仰」(『日本史研究』394所収、1995)。その講義でも、同様の趣旨が述べられるとのことである。

*15 日本歴史地名体系28『大阪府の地名U』1069頁。
*16 『日本の神々』3の292〜5頁。
*17 『大日本古文書』家わけ四「石清水文書」二の田中家文書122。『平安遺文』第1083号にも所収。

*18 誉田八幡宮の祠官家誉田一族(誉田党)は、室町期には河内守護畠山氏の有力家臣としてあったが、明応六年(1497)に在地の水論が原因で遊佐氏との間で激しい争論を起こし、大和の土豪古市澄胤に攻められて没落した(『大乗院寺社雑事記』同年六,七月条)。その本姓は紀祝か紀辛梶臣かとみられるが、中世は紀姓を称した。
  この関係の系図に拠ると、誉田鍛冶町在住の轡鍛冶市口・明珍両家と同族であり、一条天皇御代(1080〜1111)の頃の人とされる両家の祖・宗興の近親・宗光に始めて「誉田八幡宮務」と譜註があり、以降職守まで五代の宮務が記載されるから(『古代氏族系図集成』506頁)、これに拠る場合には、誉田八幡宮として存在したのが少なくとも十二世紀初頭頃から後ではないかとみられるが、三昧堂との関係は不明である。

*19 『藤井寺市史』第四巻(『平安遺文』題跋編にも)には、「大般若経 巻178奥書」が記載されており、その表紙に「誉田八幡宮」と記し、奥に「永承元年八月廿日一校了、又以両本一校了、又重以八幡宮本経一校畢」と記され、現蔵者が平林家とされる。この奥書が正しいと、永承元年八月には奉納されるべき対象があったことになるが、この当時に奉納されたものが残っているとした場合、「頼信告文」はなぜ誉田八幡宮に残らなかったのだろうか。この関係の説明が正文書写本説に全く見られない。

*20 『菅居家文書』。菅居家の系譜では、内容が後世的な混乱が多いにせよ、紀角宿祢の後裔と伝えるから、おそらく誉田一族の末流ではなかろうか。

                                              (続く)
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