〔源頼信告文の真偽〕の続き


 3 「頼信告文」の内容の検討
  次に、「頼信告文」の内容を具体的に検討することにしたい。

  頼信の河内守在任の時期 
  頼信が河内守従四位上でそのとき昇殿したことは、『尊卑分脈』(以下、たんに『分脈』という)など多くの系図書に記すところであるが、この河内守任官を記すれっきとした文献は知られないと朧谷寿著『清和源氏』(以下、「朧谷上掲」と記す)206頁が指摘し、頼信が河内守任官は河内源氏の由来や『今昔物語集』所載の話から疑いえないと記す。系図以外の史料としては、「頼信告文」があるのみで、その書出しに「維(これ)永承元年歳次丙戌某月某日、従四位上行河内守源朝臣頼信」とあり、この意味でも同文書の真偽を十分検討する必要がある。

  頼信が河内守に在任していた場合、現存史料から見て、その時期に比定されるのは何時が妥当かという問題がある。いま便宜的に、『日本史総覧 U』(1984年刊、新人物往来社)所載の「国司一覧」の表を基礎にして、河内の国司について考えてみよう。
  頼信の活動時期である十世紀後葉から十一世紀中葉のうち、河内守は美濃守の後の官職とみられるから、とくに美濃守(1032〜36?)以降の十一世紀中葉の時期が河内守在任に相応しいとみられる。この時期の河内守関係の史料としては、『小右記』、『平安遺文』(1083号)及び『朝野群載』(第26・第7)が上掲表にあげられており、それらに拠ると、@長元4.3.26(藤原公則見任)〜長暦3.8(藤原親国見任)、すなわち1031〜39年の間、A寛徳1.8.15(清原頼隆見任)〜永承3.12.10(大江時棟見任)、すなわち1044〜48年の間、に頼信の河内守在任期間が入りうることになる。
  この@及びAのうち、年齢的な観点と美濃守以降の官職が知られないことを併せ考えると、河内守在任としては、美濃守のほぼ直後が最も妥当ではなかろうか。そうすると、その時期としては1036〜39年頃が蓋然性が高い。この時期に在任の河内守が誰であったかは、現存史料からは知られない。頼信が968年に生まれているとすると(後述)、1037年でちょうど70歳であり、年齢的にはこの辺りで致仕(引退)したとみるのが自然である。『尊卑分脈』等系図書の記載を史料に見える頼信の官位変遷と併せ考えると、河内守で従四位上に昇り、それを極官極位として致仕し、その十年ほど後に卒去したと解釈するわけである。

  告文が書かれた時期にあって、上記に見るように、頼信は河内守在任だとうけとられるが,その当時の年齢を星野恒博士は前述のように79歳とみており(永承元年なら,私も基本的にこの年齢で同意)、頼信が永承元年(1046)の79歳の高齢まで現役の国司でありつづけたとは考え難い。そんな例は、当時の他の人々において殆どないのではなかろうか。特別の例外を除くと、おそらく最高でも70歳くらいで当時の官人は致仕していたはずである*21。
  かりに永承元年の少し前に河内守に就任したとする場合、美濃守見任から河内守就任まで14年間、頼信がどういう職務を歴任したのかまったく不明である。すなわち、史料に確実に見える最後の官職は美濃守で、その就任は長元五年(1032)二月八日であり(『類聚符宣抄』)、少なくともその九か月後の同年十二月十九日まで在任していたことが『小右記』で確認されるが、その後の死亡までの16年間の官位歴の空白があることになる(朧谷前掲もほぼ同旨)。各種系図も含め現存の史料にあって、頼信については、美濃守より後の官職が河内守以外には全く知られないという奇妙な状況を呈している。頼信が現役の官人として活動を続けていたのなら、これはまずありえないことである。

  告文には、肝腎の河内守補任の時期を何故か記さない。その一方、頼信の諸国の国司経験についても触れるが、ここに僅か六箇国しかあげないのも疑問が大きい。その六箇国とは、「上野、伊勢、常陸、甲斐、美濃、河内」であり、『小右記』に明らかに見える石見を除外しているのも疑問が大きい。星野博士は、「石見ハ中国ニシテ其国司タルモ美仕ニ非サルヲ以テ之ヲ略セシカ」と事情を推測するが、これではあまりにも恣意的であろう。
  また、頼信が石見守であったことは、「タゝ中右記寛仁三年七月八日ノ条ニノミ載セテ、他ニ見ル所ナケレハ、或ハ頼信ノ字ハ誤写ニシテ、モト別人ヲ言ヘルニ非サリシカ、猶攷フヘシ」とも星野博士は記している。これまた身勝手な推測であり、寛仁三年七月八日条の記事には、「頼信は入道殿近習者である」と記しており、さらに同書の寛仁三年正月二十四日条に前日に検非違使頼信が石見守に補任したことが見え*22、治安三年(1023)五月二十三日条には「石見守頼信」の解由のことが見えていて、源頼信当人であることに間違いない。
  なお、『尊卑分脈』には頼信について信濃・相模・陸奥もあげているが、これは史料からは確認できず、「相模・陸奥」は子の頼義の記事の混入かもしれない。

  頼信の生没年は何時だったか
  頼信の没年については、『分脈』に康平三年(1060)或永承三卒60歳とあるが、同書の清和源氏初期段階の人々の生没年には多くの混乱があり、一般に永承3年(1048)説(系図纂要、新田族譜など)が多く採られている。次に、その生年については、@説(諸家系図纂、青木周蔵家譜)享年81→安和元年(968)、A説(系図纂要):享年75→天延二年(974)があり、鈴木真年翁『新田族譜』は、安和元年生・永承三年卒としながらも74歳と記している。
  槙野廣造『平安人名辞典』ではA説(974)を採るが、『小右記』には永延元(987)・2・19条に「左兵衛尉源頼信」が叙位(五位か?)に浴すと見え、年齢的に天延二年(974)生では無理な話であり、@説の安和元年(968)生の20歳のほうが妥当であろう。『紀略』正暦五年(994)3・6条には武勇人で盗人を探捜すと見え、『御堂関白記』長保元年(999)・9・2条に上野守〔介〕頼信、道長に馬五疋を献上と見えるから、頼信は順調に官途を歩んでおり、この辺も年齢的に@説のほうが妥当であろう。
  上掲朧谷氏も、星野恒博士も、@説(968→1048、享年81)を採っており、私もこの立場に与する。これに関連して、頼信の長兄になるとされる頼光の没年は、『左経記』により治安元年(1021)と知られ、享年が68歳とされる(系図纂要・新田族譜)から、生年は天暦八年(954)となるが、その三弟としての頼信の生年はやや離れすぎかという感もしないでもない。しかし、子の頼義(後述)や兄の頼親*23の生没年から考えて、上記@説はまあ妥当なところかと考えておく。

  頼信の生没年に関連して、その息子たちの生没年・年齢も問題となる。
  一般に頼信の長子とされる頼義は、その没年が『水左記』によって承保二年(1075)と知られ、その生年は『系図纂要』の正暦五年(994)説を一応妥当と考えてみる(その前提で享年は82歳。前掲朧谷参照)。その場合、頼信生年968年説をとると、頼義は頼信が27歳の時の子となり、ほぼ妥当な関係となるが、一方で長子の義家の生年が長暦二年ないし三年(1038ないし1039)とされるので、頼義の生年はもう少し引き下げたほうが妥当なのかも知れない。ただ、頼義は康平七年(1064)十月まで極官の伊予守に見任であり、かりに長徳元年(995)の生まれだと、ちょうど七十歳くらいで致仕ということになる。
  頼信の次男とされるのが頼清で、『分脈』には従四位下肥後守陸奥守となり、信濃の村上氏の遠祖とされている。十二世紀中葉の摂関家を中心とした故実譚を収める『中外抄』(中原師元著)にも、頼信は我が子について、「子三人あり。太郎頼義をば武者に仕ひ御せ、頼清をば蔵人に成し給へ、三郎 字をとは入道は不用の者にて候ふ」と主君頼通に語ったと伝える。一方、『造興福寺記』の永承三年(1048)三月二日に「前陸奥守源頼清四位」という記事があり、ここに見える人物に頼清が当たるとしたら、兄とされる頼義の陸奥守就任(永承六年)より先に陸奥守に任じており、実際には頼義の兄であった可能性も出てくる。また、寛治八年(1094)七月十七日の頼清の孫にあたる三河守惟清の配流記事(『中右記』)を見ても、この頃はまだ頼義の子の義家・義綱の活躍時期であり、頼清系統のほうが世代的に進行しているという状況もあった。


  「頼信告文」の記事の疑問点

(1) 鳩杖の時期についての疑問

  告文では、頼信が「齢覃鳩杖」(齢〔ヨハヒ〕、鳩杖に及んで)と表現する部分があり、星野博士は、告文奉納時に79歳として、これが「鳩杖に及ぶ」という意味だと主張される。博士は、「按スルニ鳩杖ハ漢土ノ制ハ、老人七十歳ニ至レハ之ヲ賜ハル定メナリ」とし、周礼・後漢書礼儀志・礼記の原典をあげて、もう一度「鳩杖ヲ賜フハ七十歳ヲ始トス」と記したうえ、本朝で鳩杖を用いた例(散位敦頼84歳、藤原俊成90歳、中院通茂70歳)をあげる。
  しかし、この説明は私には不審である。というのは、「鳩杖」の端的な出典は『後漢書』礼儀志にあり、そこには、年始めて七十となる者へは玉杖を授け、八十、九十へは礼を加え杖端に鳩の飾りをつけた玉杖長尺を授けるが、これは鳩が飲食の時むせないので老人もむせないようにとの願いをこめている旨が記される。
  すなわち、八十歳で鳩杖を賜るということであり、現代の日本でも、例えば秋田県の本荘市や神岡町で、80歳の長寿を祝う鳩杖贈呈式が行われている。昭和天皇が昭和四十年(1965)年10月に88歳の米寿を迎えた吉田茂元総理に対し鳩杖を賜った事例もあり、これが宮中杖*24としての鳩杖下賜の最後の例とされる。わが国の他の用例を見ても、鳩杖は日本では80歳の功臣に朝廷より下賜されるものである、あるいは米寿(88歳)の祝で鳩杖を賜る、という記述が随所で見えるが、70歳で鳩杖を賜るという例を見ない*25。星野博士があげる中院通茂の例について、その記録により差異があることも自ら記している。
  以上の諸例からみれば、頼信が79歳で「齢、鳩杖に及ぶ」と記すことには誤りがある。願文に自分のことを記すのに当たって、年齢計算が誤るということは、おおよそあり得る話ではない。

  「鳩杖」について、気になることがもう一つある。それは、漢土においては「鳩杖」下賜の風習が『後漢書』記載の頃からあったとしても、本朝においては、史料にこの風習が見られるのは早くとも平安末期から、主として鎌倉期であるという事実である。すなわち、『後京極摂政別記』に見える建仁三年(1203)十一月二十三日の藤原俊成の九十の賀に際し後鳥羽上皇から鳩杖を下賜されたことを最古の文献登場例として、次に建長六年(1254)成立の『古今著聞集』に見える承安二年(1172)の散位敦頼84歳が鳩杖を用いたという記事があり、また文永二年(1264)生まれの日蓮宗の日尊上人の伝に「年齢已に鳩杖に及ぶ」という記事があることに注意される。そうすると、「頼信告文」が十一世紀中葉に実際に書かれたとしたら、その文中に「齢、鳩杖に及ぶ」という漢土の故事・史書に由来する表現が登場するはずがない。

(2) 割註に見える藤原資業朝臣の官職の誤り
  告文では、頼信が甲斐守に任じた長元二年(1029)の当時、「正四位下行式部大輔兼勘解由長官播万守藤原資業朝臣」と記載されるが、『公卿補任』の寛徳二年(1045)の非参議従三位の同(藤原)資業五十八 の記事に拠ると、万寿五年(1028)二月十九日に「任播磨守(止長官。大輔如元)」とあって(この記事は『尊卑分脈』譜註記事も同じ)、播磨守任官とともに式部大輔は元のままで、勘解由長官は止めており、長元二年の当時、「式部大輔兼勘解由長官播万守」ということは史実ではありえない。なお、資業朝臣の官位の正四位下は当時の官位として問題ない。

(3) 天智天皇と施基皇子の順序倒錯
  これはあまりにも明白な誤りであるので、既に指摘があり、改めて言うほどのことではないかもしれないが、頼信の先祖を遡って列挙するなかで、「白壁天皇(光仁)、天智天皇、施基皇子、舒明天皇、敏達天皇」とあって、天智天皇と施基皇子との倒錯のほか、舒明天皇と敏達天皇との間に押坂i人大兄皇子の脱落もある杜撰な系譜となっている。
  さすがに安田元久氏も、「願文というものの性質上、こうした点での注意は、とくに慎重なはずであるが、その点などには、割り切れぬ疑問が残る」と記している。まことに尤もな感触であろう。

(4) 「経基孫王」という表現の疑問
  告文には、承平七年の将門の乱の当時、「経基孫王」と表現される。しかし、星野博士もあげるように、これは『本朝世紀』天慶二年六月七日条の記事(武蔵介源経基)、『将門記』承平八年二月条の記事(武蔵守興世王介源経基)と明白に相違する。また、『貞信公記』天慶二年三月三日条の記事(源経基)とも相違する。これら三書全てに追記ないし後世の修正があったとは思われず、告文の作者が経基の源朝臣賜姓の時期を誤解して(例えば、『分脈』には天徳五年(958)六月十五日に始めて賜姓と記す*26)、そのため「孫王」の表現をしたものではないかと考えられる。

(5) 告文の形式等の不備
 田中家文書には、〔八幡山陵末社告文起文等部類三〕という項目があって、その最初に「頼信告文」が記載されている。告文起文等部類のなかには、誉田山陵(古市山陵)へ進められた告文・起請文が四通、筥崎宮へ進められた告文が一通のほか、摂関家藤原道家の春日社等三社への告文もあり、これらと比較すると「頼信告文」の形式の異常さが分かる。具体的には、次の諸点である。

 @ 「頼信告文」の奉納時期
  他の四告文が、石清水祠官紀氏の光清と宗清各二通で、年代も前者が保安四年(1123)と保延三年(1137)、後者が建保四年(1216)と嘉禎二年(1236)であって、「頼信告文」の奉納時期が飛び抜けて早い。

 A 神に祈請する内容の文体か
  「頼信告文」を信頼する奥富敬之氏ですら、「神に祈請する内容だから、”掛石清水大菩薩広前、恐美毛佐久”(かけまくもかしこき石清水大菩薩の広前に、かしこみかしこみも申さく)というような宣命体であるべきなのに、通常の和風漢文で記されていた」と記述する*27。現に、保安四年の光清告文や建保四年の宗清告文では、奥富氏が挙げると同様な文章が見られ、これに続く嘉禎元年及び同二年の藤原道家告文でもほぼ同様な表現が見られる。これだけで、「頼信告文」が神に奉納した文書でないことは明らかであろう。
  星野博士自体も、告文が異例な文体と認めているが(安田元久氏も同じ)、苦し紛れに、「其体頗ル尋常ノ告文ニ異ナリト雖、却テ頼信当時ノ実情ヲ察スルニ足レリ」と表現するが、こうなると、ものは言い様である。学究がこのような表現をすべきではないことは当然の常識ではなかろうか。

 B 告文に月日を記載しないこと
  さらに疑問に感じるのは、「頼信告文」に「永承元年、歳次某月某日」とあり、具体的な月日の記載のないことである。他の告文・起請文では明確に月日の記載がある*28。祈願ないし奉納の「月日(せめて月)」についいて、「頼信告文」はなぜ明確に記さないのだろうか。ちなみに、永承という年号は、四月十四日に寛徳(三年)から改元されており、この改元事情が気になって、後世の作者は明確に月日を記せなかったのではなかろうか、とさえ思われる。先にあげた、頼信の河内守補任の時期を記さないという事情とも相通じるものがある。

(6) 宇佐八幡縁起を詳しく記載すること
  『扶桑略記』第三では、欽明天皇三十二年(571?)辛卯正月一日の条に、宇佐八幡縁起を引用して「又同比(おなじころ)、八幡大明神筑紫に顕はる」で始まる八幡大菩薩の記事を載せる。この記事の表現が「頼信告文」にきわめてよく似ている。具体的には、「人帝第十六代之武皇」「顕坐於豊前国宇佐郡馬城岑」「遷坐同国菱形少椋山」「広幡八幡」の語句が両者に殆ど共通であり、これらに加え、告文に見える天平三年の禰宜辛島勝波豆米、弘仁十年の神主大神清丸といった八幡神を奉斎する祠官の人名などを含む告文の文章は、宇佐八幡縁起や「大神清麻呂解状」を手元においた八幡神関係者しか書きえないものである。
  『扶桑略記』は延暦寺の皇円阿闍梨の手による12世紀後半に成立した編年体の歴史書であり、「頼信告文」の実際の成立時期は、同様な表現字体から考えて、いわゆる「承和縁起」を記載した『扶桑略記』の成立以降ではないかとさえ思わせる。この「承和縁起」とは、承和十一年(844)の奥書がある「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」のことであるが、同文書も、『大日本古文書』家わけ第四、『石清水文書』二(すなわち田中家文書)に所収されており、八幡神研究の専門家中野幡能氏によると、本書の承和十一年の奥書そのものにも疑問がもたれ、そのほかにも内容に幾つかの疑問点があるとされる*29。平野博之氏の「承和十一年の宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起について」*30では、寛弘六年(1009)に近い頃の作成とされているとのことである。この説が妥当だとすると、田中家文書のなかには既に年次偽造の文書があったことになる。
  また、宇佐重栄撰の「宇佐八幡宮縁起」が建武二年に成稿となっている事情もある。

(7) 内容的にみて、少なくとも代筆が考えられること
  星野博士は、「頼信武幹アリト雖、文筆ハ長スル所ニ非ス、告文何人ノ代作ヲ詳ニセサルモ、篇中頗ル仏語ヲ雑ユレバ、疑ラクハ誉田八幡社僧ノ代撰ニ成リシナラン」と代筆を考えるが、少なくとも代筆自体は妥当な推測であろう。しかし、当時、どのような形で成立していたかどうか不明な誉田八幡(三昧堂)に社僧*31が現実にいたとしても、宇佐八幡縁起等に詳しい学識ある神官ないし社僧が誉田八幡にいたことなぞ、まず考えられない。「頼信告文」には、古代中国の周の王子晋の昇仙伝説まで記載されているのである。


  星野博士の論拠への疑問
  ここにあげるのは、誉田八幡宮や「頼信告文」の記事とは少し離れて、同告文を是とする星野博士の論拠に対する疑問である。従って、これらの疑問のなかには、論理的に厳しくいえば、博士の論拠が誤っていたとしても、別の考え方を採れば依然として告文の記事を是とできる余地は残るものもある。しかし、そのためには別の説明を考える必要があり、少なくとも博士の論拠は成り立たないということになろう。

(1)大鏡・今昔物語の後世の記事竄入・改編説への疑問
  星野博士は、清和源氏説が頼朝により唱えられた*32と考えると、頼朝以前の時期に成立されたとみられる書(その基礎資料が頼朝以前の書)は、全てが後世の記事竄入ないしは改編ということになる。しかし、そこまで史料の改編が簡単に一斉にできるとみるのは、論証も立論も飛躍が大きいと考えられる。

  さすがに、星野説は無理な立論と考えてか、十一世紀末葉に成立した大鏡・今昔物語の記事は、もともとあったと考える奥富敬之氏は、世間に「清和源氏」と誤信させた犯人が十一世紀後半の人、八幡太郎義家だったとする。白河院政から冷遇された義家は、院政に対抗するため清和源氏を自称し、麾下の将兵や周辺の者たちにこれを信じさせた、という推測を記している。
  これは、お口あんぐりの奇説であろう。氏は、系図に関係する著作をいくつか著しながら、系図というものを知らないことを自ら暴露していると言わざるをえない。義家の河内源氏は決して清和源氏の嫡流ではなかったという事実に鑑みれば、義家に反発する他の清和源氏の流れもあり*33、それらまで全てが義家の作為や工作に同意するはずがない。そして、ごく短期間の内に正しい系図が全て、陽成源氏から清和源氏に書き換えられるという、到底あり得ないような想像となるのである。勿論、これを裏付ける史料も皆無である。ただし、系図の書換えなり仮冒なりを企図しようとするのであれば、世代が相当に進んだ頼朝のときよりも義家のときのほうがやり易く、かつ広く通用力を持たせることができたものと思われる。
  そして、こうした系図仮冒ができそうな権力・地位を持ち得た人物がいたとしたら、頼朝か義家くらいしか河内源氏の系統には見当たらず、これらでも系図書換えが無理だとしたら、本来は陽成源氏だったと考える説は、いったい誰が系図書換えをしたというのだろうか。この辺について、納得できるような説にお目にかかったことはなく、星野(野口実氏も同説)・奥富氏以外の学究にはこうした問題意識がなかったのだろうか。

(2)大江広元の慫慂による頼朝の系譜書換え説への疑問
  星野博士は、大江氏が本来、蕃別(ママ星野博士の誤記で、実際は「神別」)の土師姓であったのを、祖の音人について阿保親王落胤説を称え、皇別として家格を高めようとしたことを挙げ、「頼朝ノ清和ノ後ニ託スルモ、焉ンゾ広元ノ慫慂ニ出ツルニ非ラザルヲ知ランヤ」と記される。
  しかし、これは博士の誤解であろう。すなわち、広元の曾祖父匡房は、その著『続本朝往生伝』に「大江音人卿者大同【平城天皇】後、阿保親王之子也」と記して初めて皇孫説を称え、中世の史料では『尊卑分脈』(ただし、同書では阿保親王の子に大江本主をおき、その子が音人とする)などで大江氏皇別説が見られるが、広元自身が平城天皇後裔とする系図を持っていたか、あるいは皇孫説を信じていたかどうかはまったく別問題である。というのは、広元の子孫となる武家大江氏の各流では、その遠祖を出雲国造・土師宿祢とする系図を室町後期まで伝えていたからである。そうした例として、出羽の左沢(あてらさわ)氏や安芸の毛利氏には天穂日命以来の土師氏の子孫とする系図が伝わっていた。
  内閣文庫所蔵の修史館本「美濃国江氏系図」は、広元の長男親広の子孫で左沢一族から室町後期に美濃国方県郡に移遷した江氏の系図であるが、土師氏→大江氏と推移する信頼性の高い系図だと評価されよう。そこには、先祖を天穂日命として、それから歴代の具体的な系図を書き記し、方県郡に移った政高から孫の政房まで及んで終わっている*34
  毛利氏の系図でも、途中若干の混乱が見られるものの、天穂日命以来の系図を中世において保持していたことが分かる。大江氏については、こうした事情で皇孫と神別の二様の系譜所伝が併存して中世に伝わることになるが、これが先祖を変更した場合の例であり、武門源氏のように全国に広範囲で分布した一族で、清和源氏以外の系図を伝えないという事実の重みを感じ取る必要がある*35
  この事実により、広元が自己の例に基づき頼朝に清和源氏主張を勧めたという星野説の推測が崩されることになる。

(3)「三木系譜」を論拠の一つとすることの疑問
  星野博士が所論に当たって引用する系図についても、その史料性に問題がある。その一つが、鎌倉末期の「三木系図」である。これは「和田文書」のなかの中家系図裏書に記録される三木俊連が元弘三年の軍忠状に副進する系図であり、そこには清和天皇と経基との間を四世とするといって同系図をあげるが、同系図は史料としてそもそも信憑性が欠けるものであった。
  同系図には、たしかに「清和天皇−貞能 源氏元祖也−貞澄−経基 六孫王」と記されるが、信濃の伊那馬大夫為公(同系図には「伊那右馬大夫為兒」と記)の子孫の一族は、本来は信濃古族の末裔であったのを、『分脈』成立の頃までに経基の子の満快の子孫とする系図に改編し、そうした系譜仮冒を流布させていたものである。満快という人物は、史料に拠ると「満扶」のほうが正しく*36、その意味で三木系図に見える「満輔」と通じるが、同系図は満輔以下にもいくつかの混乱(為部・為兒という表記や世代欠落、傍系の直系化など)が見えており、こうした信憑性に欠ける系図史料を基礎に立論することは、方法論的に問題が大きい。

(4)その他
  私の先の論考で述べたが、貞純親王の生母たる「棟貞王ノ女」の関係で、白川王家の例から「棟貞モ亦神祇伯ニ任ゼシト誤想セシニ非サルカ」と星野博士は記述するが、『六国史』の貞観十八年正月十四日の記事からいって、棟貞王が神祇伯に補任されたことは確かであり、博士の誤解がある。
  また、博士の立論に当たって、経基の生年を延喜二十一年(921)とする誤解に基づいているが、『分脈』の初期清和源氏関係の記事に誤りが多いと指摘しつつも、この生年だけ同書の記事に基づくという矛盾した行動をとっている。経基の生年は、実際には昌泰三年(900)ごろとするのが妥当であった(先拙考を参照)。

  以上に見てきたように、「頼信告文」については、その内容も置かれた環境にも疑問があり、星野博士の論拠もそれぞれ疑問が大きいとなると、結論的には同文書が偽文書と評価してもよかろうと考えられる*37


  おわりに「頼信告文」が偽文書である場合に注意すべきこと

  同告文が信憑性がある文書と評価された場合、少なくとも二つの点で大きな意義があった。その第一は、武門源氏がその実、陽成源氏であったということであり、その第二が「源氏が八幡神を氏神とする起源がはっきりしたこと」(竹内博士の表現)である。
  しかし、逆に偽文書であることがはっきりすれば、これらはともに誤りであることになる。とくに後者についていえば、従来から考えられていた見方、すなわち八幡太郎義家が武威を輝かし、その子孫が武門源氏の嫡流となったこと、でとくに問題がなかろう。頼義の長子義家は石清水八幡の社前で元服したものの、次男の義綱は賀茂社前で元服して「賀茂次郎」と名乗り、三男の義光が近江の新羅明神で元服して「新羅三郎」と名乗ったと伝える事情は、彼ら兄弟の元服の時点では、源氏の氏神として八幡神は確立していなかったと解さざるをえない。『経信卿記』や『水左記』等によると、奥州合戦後の永保元年(1081)十月に義家・義綱兄弟は石清水行幸の供奉をしたり、また石清水への奉幣使に選ばれるようになったというから、この頃から河内源氏を中心に八幡信仰が強くなったものとみられる。
  星野博士は、たった一つの後世の偽文書をもとに、武門源氏の清和源氏であることを否定し、今昔・大鏡等の清和源氏関係記事を後世の竄入・追記と評価したが、当時の黒板勝美博士などの冷静ないしは無視の姿勢と比べると、私には狂気の沙汰ではないかと思われる。そして、十分な検討もしないで、星野説を踏襲する学究がいまだに絶えないということこそ、問題の告文記事に見える「解頤」(口を開けて大笑いする)に当たるものではなかろうか。もっとも、同告文には、「傍人、もし此の文を閲るならば、解頤するなかれ」との注意をわざわざ記述してあるのだが。

  前掲の赤坂氏は、「所謂偽文書も、それが作成された時において作成されるべき必然性があったわけですので、"偽文書作成の論理"を明らかにしなければならなくなります」と私信を通じていわれたが、私には、そうは思われない。偽文書作成の心裏なり論理なりが、作成時期も作成者あるいは実際の筆記者も明確でない状況のもとで(すなわち、作成当時の具体的な事情を踏まえないで)、解明できるはずがないからである。まず、偽文書かどうかの分析が重要であり、「偽文書作成の論理ないし心理」については関心ある研究者が行ってはいかがか、とも考える。
  「頼信告文」の評価について、上述の検討を踏まえて、いま敢えて言うとすれば、室町前期頃の石清水八幡宮祠官田中家関係者の手による「戯文」ないし「自家修飾の偽文」*38ということではないだろうか。この頃には、田中家には同告文を書きうる資料が手元に揃っていたのである。


 〔註〕

*21 中国の史書には、「大夫七十而致仕」(礼記曲礼)などと見える。白居易について、「古制七十而懸車致仕。武宗會昌二年,白居易已七十一,乃因病以刑部尚書致仕」という表現も見られる。
  わが国の例では、頼信の子の頼義について、康平七年(1064)十月まで極官の伊予守に見任であり、かりに長徳元年(995)の生まれだとすると、ちょうど七十歳ということになる。

*22 頼信の石見守補任の経緯については、前掲朧谷著184〜6頁に取り上げられる。

*23 頼信の兄弟となる頼親は、史料に見る限り、きわめて長い官歴を持っていたことが分かる。その生没年は全く不明だが、頼信没後の永承四年(1049)十二月にまだ三度目の大和守在任であり、息子の前加賀守頼房とともに興福寺の僧侶と合戦をしている(『扶桑略記』)。おそらく頼親は例外中の例外ではあるまいか。「青木周蔵家譜」(宮内庁書陵部『続華族系譜』所収)には、永承六年二月十一日卒享年八十六と記されるから、これに拠ると生没年が966〜1051年であり、その場合、頼信の兄に相応しいことになる。
  なお、その母を左衛門佐藤原致忠女とし、頼信の母を大納言藤原元方女と伝えて、両者の母が別人のようにも見えるが、致忠は元方の子であり、各々の生存期間を考えると、各々の母とされる者は実際は同一人で元方の娘であったもの(兄致忠の養女となった可能性も残るが)、と考えられる。

*24 明治以降の宮中鳩杖の許可基準については、@親任官で80歳を越える者、A特旨による者、B三人の天皇に仕えた旧公家当主、とされた。

*25 中国の例では、@隋書の志/巻九の志第四/礼儀四に、「都下及外州人年七十已上,賜鳩杖黄帽」とあり、A旧唐書の列伝/巻一百六十六の列伝第一百一十六/白居易には、「会昌中,請罷太子少傅,以刑部尚書致仕.与香山僧如満結香火社,毎肩輿往来,白衣鳩杖,自称香山居士.大中元年卒,時年七十六」、B同じく列伝/巻一百九十下の列伝第一百四十下/文苑下/司空図には、「図布衣鳩杖、……数日卒,時年七十二」と記して七十歳以上で鳩杖の例が見られるが、C新唐書には、本紀/巻五の本紀第五/玄宗皇帝/開元二年に「宴京師侍老于含元殿庭,賜九十以上几、杖,八十以上鳩杖」とあって、八十歳以上となっている。
  最後に掲げたの新唐書の記事が頼信の活動期に最も近い時期とみられるから、やはり鳩杖は八十歳(以上)の者に下賜されたと考えるのが妥当であろう。

*26 経基の賜姓時期については、先拙稿を参照のこと。
*27 『天皇家と源氏』三一新書、1977年。

*28 建保四年の筥崎宮への宗清告文では、「−月朔ゝゝゝ日」と『大日本古文書』に記載されるが、これは明確に読みとれないか後で記入する予定だったかであろう。その意味で、「某月某日」と記す「頼信告文」と明確な差異がある。

*29 中野幡能『八幡信仰』(1985年、塙新書)51頁の註(22)。
*30 竹内理三編『九州史研究』(お茶の水書房)に所収。

*31 延久四年(1072)の太政官牒(石清水文書)には、長久五年(1044)八月十五日の国符に云うとして、「可奉免誉田山三昧仏僧供料田拾五町事」という表現があるので、この文書が由来・内容ともに正しければ、三昧堂には仏僧がいたことが考えられる。

*32 野口実氏も、頼朝が清和源氏を称したと考えており、称えた理由として、「本来の源氏の嫡流で大内(大内裏)守護を家職とした摂津源氏(頼光流)の存在を意識し、河内源氏(頼信流)の祖神である八幡神の擁護によって即位した清和天皇を祖と仰いだのではないか」と想像するが、これは想像過剰ではなかろうか。
  「大内守護」という職については、摂津源氏の源三位頼政に在職の徴証があるが(『頼政家集』)、史料では『吉記』の寿永二年(1183)七月に「源三位入道子息(頼兼)大内裏、義仲九重内」と見えるが最初であり(『分脈』は頼兼に大内守護と註記)、平家を追って入京した源氏の軍が京中守護を託された一環の人事であった。文治四年(1188)には、頼兼は一族郎党のみでは任に堪えないとして、鎌倉幕府に援助を請うている。すなわち、頼朝と同世代の源頼兼は、京と鎌倉とを往復して頼朝に仕えており、鎌倉に幕府を樹立した頼朝には頼兼に対して対抗心があったとは考えられない。頼兼の子の頼茂も、鎌倉に出仕しており、承久元年に大内守護になったことが知られるが、同年七月に後鳥羽院の追討を受けて自刃し、これにより大内守護の職名もおのずから廃絶した。

*33 義家は弟の義綱とも抗争の動きがあったと伝え、美濃では満政流の重宗を降しているが、本来の嫡流にあたる摂津源氏(頼光流)や大和源氏(頼親流)といった一族が義家に従ったわけではない。

*34 美濃国江氏の政房の子孫は現代まで続き、明治の初代大蔵次官郷純造、その子誠之助となることが、中田憲信編『各家系譜』により知られる。

*35 鎌倉末期まで播磨一国に限定して存続・発展した赤松氏や、同様に伯耆の名和氏については、村上源氏に出自したという系譜を伝え、これと異なる系譜を伝えないが、こうした例を清和源氏に当てはめることはできない。なお、赤松・名和両氏においても、仔細に系図を見ると所伝が異なる部分がある。

*36 下野守満扶の記事は、唯一『類聚符宣抄』(第8・越勘事)に見え、寛弘7年(1010)12月官符に「(下野)前々司守源朝臣満扶・藤原朝臣亮明・大江朝臣佐理、不勘公文頻以卒去」と記されており、下野守(任期は不明)の在任中に卒去したものとみられる。その子孫は史料には見えない。

*37 赤坂氏は、『大鏡』・『今昔物語』と「頼信告文案」との矛盾については、後者は擬制的系譜を示したものである、とその論文で述べられる。 しかし、これに限らず、「擬制的系譜」とか擬制的古代氏族結合とかいう学究の好まれる曖昧な表現に対しては、私は、常々疑問に感じている。
  平安後期以降、加階・任官の便宜として「猶子」という擬制的親子関係が用いられるようになったが、中世以降に割合よく見られる「養子」「猶子」(「実子」という猶子さえもある)とかいう仕組みは、「官位・官職」とか世襲される「家」あるいは「土地・財産・祭祀」を前提にしていて、古代に遡るほど類例が少なくなるものであり、経基が活動した十世紀中葉ごろは、系譜なら実系か系譜仮冒かに峻別されるのではなかったろうか。だからこそ、源経ママ)は元平親王との関係で出自を偽った(王氏爵の不正)として遠流の刑相当とされた(『権記』)、のではなかったか。
  こうした観点でいうと、問題の「頼信告文」については、正文書の写しか偽造文書かに明確に判別されるべきものであり、問題となる経基の活動期という時代の記述にあっては、「頼信の時に、経基在世当時に遡って擬制的系譜を表現した正しい文書」なぞ考えられない、ということである。「理念」とか「祖先願望」を記した系譜を、古代ではいわゆる仮冒系譜というのである。そして、頼信が仮冒系譜を主張する理由が十分説明できなければ、それはまさに偽文書であろう。

*38 このように仮に考えてみた場合には、ある程度、推測ないし想像ができるのかもしれない。敢えて言えば、それは、室町前期における石清水祠官家のなかで、別当位に就いた善法寺家と田中家との相剋が根底にあったかもしれないということである。
  すなわち、将軍足利氏は善法寺家と結び、善法寺通清の女・良子が二代将軍義詮の室となり義満を生み、義満が将軍になったので善法寺家は盛運に向かうはずであったが嗣子に恵まれず、権力は田中融清の手に移った。田中融清は応永七年(1400)以来十五年間社務を握り、将軍義持の時代は田中坊家は全盛で、善法寺家は失意の立場にあったが、融清が没すると、善法寺家も回復した、と中野幡能著『八幡信仰』181頁に記される。
  こうした相剋過程のなかで、田中家では一族間における自家の格を上げるか保持するために、足利氏の先祖で武門源氏の祖となる頼信の告文を偽造したものという想像もできよう。同告文が奥裏書にあるように、「文明十四年(1483)」に修復されたとすると、それ以前の作成で田中融清(あるいはその父祖)の手によるものかも知れない。このとき、なぜ系譜を陽成源氏としたのかは不明であるが、いずれにせよ、頼信の告文を代々保持・伝来してきたという点のほうに偽文書の主目的があったものであろう。
                                   (了)
 (03.5.17 掲上、5.19及び5.25に補訂)

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 (関連して)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「清和源氏」の項の記事に対する批判(反論)