フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「清和源氏」の項の記事に対する批判(反論)
 

  匿名の極めて多数の書き手がいる同事典については、これまでも多くの問題点が指摘されてきたことは、周知のとおりである。その意味で、当該記事は無視しておいてもよいとも考えられるが、一般に様々な事項について、ちょっと調べるにはたしかに便宜な事典であり(七,八割方の精度で)、世間的に一定の影響力があることを否定できないものでもある。その場所で、名指しで拙考が批判される事情にあることが最近、分かったので、07.11.5現在の記事(現在は変更になっている)に対して、簡潔に反論しておきたい。
  なお、当該記事は、この書き手(複数いるのかもしれないが、この辺の事情は不明なので、以下では、一括りで「筆者」と記す)が学究関係者らしい様子を示して(装って)いるが、粗雑な表現をとる問題個所が相当多いことに留意される。

 
 一 当該記事の問題個所   ※「 」が原文の記事_ は問題個所として、宝賀が付けたもの。

 「平家滅亡後、北条氏と豊臣秀吉を除く天下人の多くは清和源氏を称した。」
 批判:「天下人」の定義が不明だが、織田信長がそれに該当するのなら、不正確な表現。足利氏はまさしく清和源氏であり、徳川氏のみが史実と異なり、「称した」ものである。

 「義家の長男・源義親は対馬守に任ぜられ、河内源氏の勢力基盤の分散が図られた。」 
 批判:義親の対馬守任官が河内源氏の勢力基盤の分散ということにはならない。若年で官位が低い者が当初に小国の国司に任ぜられるのは、当然であり、長年対馬だけに留め置かれるわけでもないし、遙任国司の慣行もあった。

 「伊勢平氏傍流の平正盛」
 批判:当時の伊勢平氏でどの家が嫡流であったかは不明。

 「義朝は河内源氏の勢力回復をはかり」
 批判:義朝の基盤・居所がこの当時、河内ではなく、東国の鎌倉にあったとみられている。そのため、「河内源氏」の勢力回復という表現は誤解を招きやすい。そもそも、最初の定義で、「源頼信の系統は、河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠としたことから河内源氏といわれる」という記事自体が粗雑である。源頼信の系統を河内に居ないものまで河内源氏として一括りすることに無理があり、義家以降では、義忠・義時の系統に限って「河内源氏」を用いるべきであろう。
  この関係では、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』カハチ条の表現が妥当な取扱いである。すなわち、源頼信が河内源氏の祖であり、「頼信、頼義、義家三代の墳墓、河内国通法寺に有り」として、河内国が嫡流源家の発祥地であって、その遺跡は義家の五男左兵衛義時の子孫がこれを継ぐと記し、ここでの系図は義忠・義時の流れを略系で記載する。源頼信の系統がすべて「河内源氏」であるわけではないのである。

 「天下を目指す武将の多くが清和源氏(河内源氏、摂津源氏)の末裔を主張した」
 批判:これも粗雑な表現。摂津源氏の末裔を主張した天下を目指す武将とは、どのような該当者がいたのかは不審。筆者が念頭においていそうなものとして、美濃の土岐氏(頼光流であって別系統)が「天下を目指した」ものか。甲斐の武田氏は頼信流ではあるが、それだけで武将の多くはといえるのか。
 
 
 二 陽成源氏説についての記事の批判
 この記事は次のように論理的に滅茶苦茶であり、本来、まともな論評を必要としないのかもしれないが、念のためあげておく。
 
「この説は、学者の間では支持者は少なからずおり、支持しないまでも十分ありうることと考える人が多い」
 批判:きわめて誤誘導的な表現である。最近の歴史学者(そもそも、高名な学究でも、系図知識のない人が多い)で陽成源氏説をとっている学究は少ないし、論拠も示されないか、説得的ではない。かつて支持された竹内理三博士や安田元久氏の論拠が弱いことは、「源頼信告文の真偽」で記述した。竹内博士が主宰して編纂した『平安遺文』に採択している以上、これに疑問を感じさせるような立場にたちえないということも考えられる。
 筆者は、こうした抽象的な表現ではなく、この記事の根拠と「少なからず」いるという研究者の名を具体的に示されてはどうか。陽成源氏説をとるだけで、その人の系図知識が疑われるとさえいえるかもしれない。

 「頼信の願文は(それが後世の偽作でない限り)一次史料」
 批判:頼信の願文は明白に後世の写本であり、その事情は写本そのものに記述されている。この写本の伝来・由緒といい、記事内容といい、偽作性がきわめて強い(このことは拙考で具体的に提示した)。こうしたえたいの知れない写本がそもそも「一次史料」たりうるのか。

 「一次史料であり、後世の系図よりも事実認定において優先する」
 批判:六国史を含め「一次史料」でも、誤った記事の例が多くある。生物学にありえないことを「一次史料」が書いても、「事実認定において優先する」とは、おかしな事実認定である。『東鑑』が「一次史料」なら、誤りや誤誘導も数多い。要は個別具体的な記事の妥当性の問題であろう。

 「源経基の生年に寛平9年(897年)、延喜16年(916年)、延喜20年(920年)などの諸説があるが、いずれも、後世の系図等の注記類であって、信用性に乏しい。そのいずれも正しくない可能性もある。したがってこれによって詮索することはあまり意味を持たない」
 批判:源経基の生年については、いくつかの所伝があるが、これを検討・「詮索することはあまり意味を持たない」とはいえる筈がない。源経基の先祖や子孫の両方面から蓋然性の高い生没年代の推定ができるのであれば、それを行うのは当然である。とくに、経基の子や孫について筆者に異論がないのなら、この関係から年代はかなり絞られる。

 「元平親王には源兼名という実子があるというが、これも系図でのみ確認できることで、実在性も含め定かではない」
 批判:論理的にはその通りだが、これを記載する『尊卑分脈』の源姓公家部分についての史料評価の問題であり、系図の専門知識をもつ研究者が筆者なら、記述するような内容ではない。そもそも、元平親王と源経基とがまったくの同世代人で、両者の間に親子関係が存在しないという問題意識が筆者には見られない。
 
 様々な解釈という説明記事のなかで、「源頼信告文の真偽(宝賀寿男氏)」をあげ、「旧来の系図が正しいという主張であるが、その論法は後世の系図の記述によって一次史料を覆そうというものであり、学問的には成立しない。願文が偽作であるという論証も失敗している。在野の系図愛好家の限界を示す例」だと記される。
 批判:@拙考は、先に発表した「陽成源氏の幻想」『姓氏と家紋』第56号、1989年)で記した内容を補足的に記したものであり、二つの論考を当該記事で提示して、これらを合わせてきちんと読んだうえで、批判していただきたいという希望がまずある。
 Aネット上だけの記事をあげて、拙考を「後世の系図の記述によって一次史料を覆そう」とするものと評価するのは、公平でも適正でもない。源頼信告文が「一次史料」とはいえないことは、先にあげた。なぜ、筆者が「一次史料」と評価するのか、その理由を明らかにされたい。拙考は、様々な史料を用いて、「後世の写本」を批判・検討するものであり、これは正当な学問手法である。
  筆者の批判が正しいためには、当該写本の原本がまさしく頼信の手によって作成されたことを証明する必要がある。

 B 「在野の系図愛好家の限界を示す例」という部分は、私への評価でなくても、明らかに蛇足であり、誹謗中傷である。要は、論考の記述が合理的・論理的であるかにかかっている。こうした表現をとりうるような学究のご立派な論考を、清和源氏関係でなくてもよいから、是非、拝見したいものである。
 だから、本件については、筆者ご自身で、陽成源氏説を積極的に主張する論拠を示すべきであろう。筆者は陽成源氏説の立証責任がどちらにあるのかという問題意識がまったくない(これは、圧倒的に多数の資料が清和源氏の出自を記すのだから、論理的にまったく不思議な話である。立証責任を考えるなら、経基が積極的に元平親王の子であること、元平親王には源兼名という子がいないことを具体的に否定する等々、様々な論拠が自ずと必要になってくる)。

 当該記事では、告文が「一次史料」と評価するという筆者の思込みが論拠としてあげられるだけである。「在野」ではない歴史学界研究者の的確な論考がどういうものなのかを端的に示した論考の発表して読ませていただくことが期待される。
 
  (07.11.5 掲上)



 まったくの余談であるが、本件のように異説がある問題について、自らの説・見解に都合の良いような形で記事を書き込むことは、疑問の大きいところである。とかく問題にされがちなフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の声価を下げることにつながることを懸念する。筆者がほんとうに学究関係者であるのだとしたら、そのご当人の研究姿勢にも関係する問題である。

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