遠江井伊氏の系譜


       遠江井伊氏の系譜  

                                      
宝賀 寿男


 
 はじめに

 遠州西北部の引佐郡井伊谷に古代から続いた豪族井伊氏は、江戸幕府では大老を輩出した家としても知られ、幕藩大名二家などが近代まで続いた。その系譜は、かなり複雑な模様で、おおよそA三国真人姓、B藤原姓南家為憲流、C藤原姓北家良門の息子の利世の流れ、の三様がこれまで知られており、そのうちCが『寛永諸家系図伝』『寛政重脩諸家譜』などへの幕府提譜史料のなかにあるから、これが最も知られるものである。
 ところが、この流れの初祖的な存在の「利世」なる者(及びこれに続く初期段階の人々)の存在が、『尊卑分脈』や当時の信頼できる諸史料になんら見えず、系図の初期段階は存在が疑わしい虚構の人物からなるではないかとみられる。そうすると、この井伊氏はどのように起こって、それが中世・近世に継続してきたのかという問題になってくる。どうして、三様にも系図が作られたのかという根本的な問題もある。
 井伊一族については、最近、NHKテレビに「井伊直虎」が取り上げられることで多数の注目を引き、多くの史料・知見や研究も紹介されるようになった。ただ、数多刊行物があっても、多くが俗説ないし一般に通行する説の受け売りにすぎないものが多く、とても満足すべき内容ではない。こうした諸事情があることから、その辺を踏まえつつ、難解な井伊氏の系譜について具体的に検討し、総合的に整理しようとするものである。

 
 井伊氏の歴史の概要

 問題を整理するための基礎として、史料に見える井伊氏の歴史について確実そうなところを概要で見ておこう。

 井伊氏が初めて史料に見えるのは、保元の乱のときとされる。『保元物語』に登場する「井八郎」が初見とされ、保元の乱の時に源義朝に従軍したことが記される。「井八郎」は、「横地、勝田、井八郎」(勝田は後に勝間田と表記)という形で記載されるから遠江国の武士で、井伊氏の祖ではないかと思われる(ただし、「上野氏系図」に見るように、山名郡あたりのほうの井伊氏の可能性もないことはない)。
 井伊氏が井伊谷(いまの静岡県浜松市西北部)を本拠とする武士として 平安時代後末期には相当の勢力を有したが、鎌倉から南北朝時代の時期には「井伊介」あるいは 「井介」と呼ばれたことが『東鑑』『太平記』などから知られる。
 鎌倉時代の『東鑑』には、建久六年(一一九五)三月に東大寺供養のとき「伊井介」が随従供奉人のなかに、同じ遠州の「横地太郎、勝田玄蕃助」と共に見える。次ぎに、寛元三年(一二四五)正月の幕府の弓始のとき、射手の三番に「井伊介」が見える。更に、建治元年(一二七五)六月には、京都六条の若宮八幡宮の造営料を負担した御家人のなかに「井伊介跡 三貫」が見える(国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」)。この時に「赤佐左衛門」も五貫を負担しており、この頃に「赤佐太郎」「赤佐三郎」「赤佐新左衛門」の名も併せて見える(『浜北市史資料編(原始中世)』)。 これらの者の実名は記されないが(実名記載があれば、現在に伝わる系図のチェックができるが、赤佐新左衛門は共明にあたるか)、井伊氏がみな「介」を付けて記されており、鎌倉前期では遠江の在庁官人として勢力を保持したことが知られる。
 なお、『東鑑』には、近江佐々木氏の定綱・定重親子とその一族郎等の動向に関連して、建久二年に井伊六郎真綱(一に直綱)が見えるが、この者は他の随従郎等の列挙を見るように佐々木同族ではないかとみられ、遠州井伊一族ではない。
 
 南北朝の争乱期になると、井伊谷の井伊道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王のもとに参じて南朝方として挙兵し、親王を居城・井伊谷城に招いて保護した(延元三年・暦応元年〔一三三八〕とされる)。『太平記』には、「遠江の井介は、妙法院宮を取立まいらせて、奥の山に楯篭る」と見える。また、娘(重子)を宗良親王の側に置き、その間の子・尹良親王も井伊城に生まれたと伝承される。しかし道政・高顕親子及び井伊一族の三河を超えての善戦も空しく、北朝方の兵に攻められて、まず千頭ヶ城や上野砦(上野直助が守る)が落ち、続いて延元五年(一三四〇)正月には主城の三岳城も落城した(このときは北朝方の仁木義長や高師泰らによるとされる。今川了俊による落城で井伊氏が滅びたともいうから、何度か落城したものか。決定的な落城当時の井伊当主は、道政の甥の道三が当主とされる)。ともあれ、もとの井伊本宗家はいったん滅びており(本稿では「前井伊氏」とする)、この滅亡が現伝の井伊氏系図の混乱の大きな要因にもなっている。
 道政・高顕親子の名は、江戸期に井伊氏が公式呈譜の『寛永重修諸家系図』『寛政諸家系譜』には見えない形となっている。そのため、一部ではその存在が疑われて、直政の名に基づき造作されたのではないかという見方まで出ているが、これは系図に後世加えられる多くの虚飾例を知らないだけの話である。『宗良親王御事蹟雑記』には、親王が井伊城に滞在したのは行直のときだとの記事があるが、鈴木真年や中田憲信が採集した系図には、道政やその一族も記載されており、その従弟として直政の直系の先祖となる行直の名も見える。 

 なお、南北朝期では、延文三年(一三五九)に新田残党の新田義興(義貞の次男)の随従をした井伊弾正直秀が、主とともに武州矢口の渡で討死を遂げたと系図・所伝等に見える。『太平記』では執事の「井弾正」として実名の記載はないが、みなが直秀のこととしており(鈴木真年著『史略名称訓義』も同じ)、主の義興を肩車で抱え上げて切腹の名誉を与えた後に自らも切腹、首に刀を突き刺して壮烈な死を遂げたと記される。これより先、京都で戦う新田義貞の軍勢に井ノ次郎という者も見えており、これは井弾正の前身か近親であろう(弾正の父の次郎直助にあたるものか)。

 戦国時代後期の井伊直平より前の時期では、当主歴代の行動・事績は不明であり、江戸中期に書かれた井伊氏の歴史たる『井伊家伝記』(龍潭寺九代住職の祖山法忍の著で、享保十五年〔一七三〇〕に成立)には、初代共保から直平までは何も記されない。他の史料により一族の活動を探ってみると、南北朝時代後期では、井伊谷は今川了俊に制圧されて、井伊一族はこれに従った模様であり、その関係の史料(『今川了俊関係編年史料』に所収)には、貞治六年(一三六七)の八月・九月に井伊越前守直朝が見える。
 今川了俊が応安三年(一三七〇)に九州探題に任じられると、井伊一族や横地・勝間田など遠江の諸氏がこれに随って九州北部に転戦する。とくに激戦として知られる永和元年(一三七五)の背振山合戦では、井伊一族の犠牲が大きかった。『今川記』には、「横地・勝間田・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井悉く討死」と記されており、支族奥山家の当主奥山直朝(上記の越前守)が討死した。このとき同時討死の笹瀬(篠瀬)・早田も、奥山一族であった。篠瀬は、奥山太郎行直の後という(『姓氏家系大辞典』)。河井も山名郡に起った井伊一族とみられ、井伊系図には次郎直氏に「河井氏祖」と見えると太田亮博士は言うが、この直氏以前にも河井氏があったか。ほぼ同じ頃の応安六年(一三七三)には、井伊二郎なる者が三河巣山の熊野権現に戦勝祈願の懸仏を奉納したという(『遠州渋川の歴史』)。
 これらの少し後の十四世紀末頃、明徳三年(一三九二)八月の相国寺供養には、今川貞秋・氏秋兄弟(仲秋の子)の随兵として井伊修理亮藤原朝藤が見える。その父が上記の井伊越前守直朝(親子は一族の奥山氏)である。これより先に奥山朝藤は、宗良親王の弟・無文元選を招いて至徳元年(一三八四。一に応安四年〔一三七一〕)に方広寺を建立している。相国寺供養の三年後の応永二年(一三九五)には、今川了俊は九州探題の職を罷免になり、弟・仲秋(兄の養子にもなる)とともに失脚している。
 
 その後の室町時代では、しばらくして北朝に降った一族から本家跡を継ぐ形で井伊氏再興となったが(時期及び家督は不明。本稿では、これを「後井伊氏」とする)、遠江守護家の配下として、今川氏(了俊・仲秋兄弟の系統)に、ついで斯波氏(応永十年頃から遠江守護か)に仕えた。
 永享十年(一四三八)に鎌倉公方足利持氏が起こした永享の乱では、討伐側の幕府軍の上杉持房の軍勢のなかに横地・勝間田と並んで「井伊弥太郎」が見える(『今川記』)。横地氏の系図に拠ると、この者はこの戦ないし結城合戦(一四四〇)で討死にしたとされる。井伊氏の系図では、成直が永享十一年(一四三九)に死んだとされ、しかも弥太郎忠直の父とされるから、この親子のいずれかあたりに比定してよかろう。結城合戦では、今川範忠の配下に井伊介八郎・井伊弥四郎が見える(『獄南史』。後述する「上野氏系譜」では、上野主税助直英が結城合戦軍功ありと見える)。そうすると、この頃までに井伊氏の再興がなったことになる。

 ついで、戦国時代に入って、応仁文明の大乱の時には、保元の乱や『東鑑』に見える遠江東部の勝間田氏や横地氏の城が今川義忠の侵攻により落城したが、井伊氏の動向は史料からは知られない。勝間田・横地残党の襲撃による義忠の塩買坂での敗死で、影響があまり及ばなかったものか(「上野氏系譜」では、上野主税助直英の甥・忠亮が義忠同時に討死と見える)。
 十六世紀になると、守護の斯波義達は、駿河守護今川氏と対立したが、今川氏親に敗れ遠江の守護職も失うとき、井伊氏は引間(曳馬)城の大河内貞綱と連合して今川氏に抵抗した。これにも敗れて、永正十年(一五一三)には井伊氏はまた居城・三岳城を落とされてしまい、三岳城を奥平氏に明け渡し(三河の奥平貞昌が三岳城城番を二十年間務めたとされる)、井伊谷北部の伊平に遷居して、その掣肘を受けた(武藤全裕著『遠江井伊氏物語』)。これが、十六世紀前葉の井伊直平(井伊次良)の時代とされる。直平は、義元の時代になって引き立てられ本拠地に戻ったとされる。
 今川氏親が斯波氏に勝利した後の時期に、甲斐国へ遷住した一派もあった。それが本宗並の勢力を誇ったともいう渋川井伊氏(上野氏)で、行直の弟の上野次郎直助から始まる系統であり(系図に拠ると、小田原北条氏に属して行動したのが甲斐遷住の契機だという)、室町時代中頃に引佐郡渋川(渋河。井伊谷の北方)を本拠として、藤原姓を称し神仏への寄進を多く行った模様である。ただ、上野直貞(直助の子)が渋川六所大明神(一三六二年)に寄進したのは、年代的に無理がないが、他の造立・寄進等の記事は信頼性に欠ける可能性がある。

 その後の戦国後期を通して、井伊氏は守護今川氏の支配下にあり、井伊直平は娘を義元の側室として差し出したが、この娘は、義元により家臣の関口刑部少輔親永(義広とも。今川了俊の子孫)に「養妹」という形で嫁がせた。この間に生まれたのが築山御前(家康正室)である。また、天文八年(一五三九)に直平・直宗が今川氏に降ったとき、目付家老として遣わされ井伊谷にきたのが今川家家臣の小野兵庫助で、以降は井伊家の筆頭家老としてその子の小野伊豆守道高(政直)があり、その子の但馬守道好(政次)と続いて、各々重臣ながら直親などを讒言するなど井伊一族を苦しめた、とされる。
 今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際には、当主井伊直盛は一族郎従とともに今川氏に従い討死したが、その後を承けるべき養嗣直親は戦後まもなく謀反を企てたとして今川氏真に討たれた。この「遠州錯乱」では一族を多く失ったことで、直盛の娘の次郎法師丸(直虎)が尼から還俗して実質的に家督を継いだ。この当時、井伊氏の勢力は大きく衰退しており、井伊谷の城と所領は筆頭家老小野氏の横領・専横や武田信玄の侵攻により数度失われた。
 元亀三年(一五七二)十二月、信玄の遠江侵攻が本格化するなか、奥山大膳亮吉兼は、遠江進攻に対する戦功で「小野宮口并あかさ」からの三百貫文を含め二千貫文を与えられた(「奥山文書」、『静岡県史料』第四輯に所収)。赤狭郷は北遠の周智郡久頭郷城(浜松市天竜区水窪町地頭方。高根城とも)の城主、奥山大膳亮の勢力下におかれるよう許された。これより先、永正十年(一五一四)に奥山大膳亮が武運長久を祈願して山住神社を造営したが、この者は吉兼の曾祖父・大膳亮良茂にあたると系図に見える。また、天正九年(一五八一)に家康により所領安堵状をうけた奥山惣十郎は、居住地からみて大膳亮吉兼の一族で、系図には甥で名が貞成と見える。大膳亮の跡職を従弟の左近将監友久が今川氏真から認められ、その後に家康に仕えたが、その子の源太左衛門は井伊万千代直政に仕えた。

 天正三年(一五七五)、直親の遺児の井伊直政は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り(この謁見のときに叔母婿の中野直之も随行)、これに従って多くの武功をたてた。後に徳川四天王の一人とされ、引き立てられて近江彦根藩主となり、井伊氏は江戸期には多くの大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となった。
 本稿は系譜研究が主眼であるので、ここでは諸伝が多く混乱する直平より前の時期を主に取り上げることとし、直平以降の記事は簡略にとどめる。なお、大永六年(一五二六)「井伊保八幡宮鐘銘写」に「大檀那藤原朝臣直隆」とあり(『静岡県史 資料編7、中世3』)、直隆は井伊氏と比定されようが、系図には見えない。年代的には、当主が直平の時代にあたるから、直平の別名だったものか。

 
 井伊氏一族の系図関係史料とアプローチ法

 井伊氏の系譜は大別して三種類あることは、先に述べた。この概観をまず見てみる。
 このうち、B藤原姓北家良門の息子の利世の流れというのが世に通行しており、『寛永諸家系図伝』『寛政重脩諸家譜』という幕府への提譜や『改選諸家系譜』『井伊年譜』(功刀君章編)など(ここでは、歴代がほぼ同内容のこれらを「通行系図」という)のなかにあるから、江戸時代以降の公式的見解として最も知られるものである。ところが、利世以降の歴代について、『尊卑分脈』などに見えないように、実在性を裏付ける史料は皆無である。だから、新井白石の『藩翰譜』でも、これに疑問をもちつつ、具体的な系図を提示せずに、横地・勝間田など遠江雄族と同様にA藤原姓南家為憲流の系譜を示唆する。鈴木真年も、『華族諸家伝』(井伊直憲条)では、為憲流の系譜のほうを記述する。

 また、A三国真人姓については、井伊一族が当初、称した系譜の模様であり、初期段階で分かれて日蓮を出した貫名氏などがこの姓を称している。
 まずこの関係から言うと、上記の祖山筆の『井伊氏系図』(ここでは「祖山系図」という)でも、遠祖の共良や良宗について「三国氏」という記事が見えており、この一族が当初、称したのが三国姓だと窺わせるものがある。鈴木真年編の『百家系図稿』巻二や中田憲信編『諸系譜』第十五冊にも、継体天皇から始まる三国真人姓の系図が掲載されており、「井伊、赤佐、貫名」三氏の分岐まで見える。この系図は貫名氏系統に伝えられた模様であり、貫名は鎌倉中期の日蓮までの記載があるが、井伊は三氏分岐のときの政盛までしか見えず、この「政盛」が他の井伊氏系図に見える誰に該当するかも明確ではない。井伊氏に永く伝わる古代の祭祀・習俗から見て、皇別たる三国真人氏というのは冒姓ではないかと考えられるが、そうであっても、この姓を比較的早い時期に称したことは確かなのであろう、と一応しておく。

 C藤原良門流の系図は、先に問題点をあげたが、普通には、初代共保から始まり、「@共保、A共家、B共直、C惟直、D盛直、E良直、F弥直、G泰直、H行直、I景直、J忠直、K直氏、L直平、M直宗、N直盛、O直親、P直政」という歴代で知られるものである。ところが、この最も通行する系図は、南北朝期に活躍した道政・高顕親子が見えないことに加えて、歴代の世代数も数世代欠落する模様なのである。
 そのこともあってか、野田浩子氏の「彦根藩による井伊家系譜の編纂」では、「@〜Cが同じで、D道直→E盛直→F良直→G弥直→H泰直→I行直→J景直→K道政→L高顕→M時直→N顕直→O諄直→P成直→Q忠直→R直氏→S直平」と七代も歴代を増加させる形(道直、道政、高顕に時直、顕直、諄直、成直の合計七人。この結果、直政は第二四代となる)をとっている。これは、明治期(一八七四年)に井伊直憲が差し出した『井伊家譜(近江彦根)』の内容と同じである。これでは数が増えすぎのきらいがあるが、後期のほうの「時直、顕直、諄直、成直の四人」については、世代数としてはともかく、歴代の数としては尊重せざるをえないことも十分考えられる。というのは、江戸中期の「祖山系図」にも、後期四代が付箋貼付で記載される事情があるからである。
 この『井伊家譜』には、忠直の卒年が文明十七年(西暦一四八五年)、その子におかれる直氏のそれが永正五年(西暦一五〇八年)という記事があり、これに信拠すれば、南北朝初期頃の行直から応仁文明の乱ごろの忠直までは、中間に三代ほどあってもよさそうである。行直と景直、及び成直(永享十一年〔一四三九〕死と記事)と忠直との結付きは強そうでもあり、この辺を考えると、時直・顕直・諄直の三人は、とりあえず一世代(兄弟か)とみておくのが無難そうである。
 井伊氏一族における標準的な世代配置を考えるために、各種の系図にあたったところ、井伊直政の母を出した奥山氏の系図が近世まで長く伝えられており(「奥山氏系図」という。「祖山系図」のなかにもほぼ同様の記事が見える)、これに加え渋川井伊氏(上野氏)の系図が中田憲信編の『各家系譜』第四冊に「上田氏系譜」として収められており(これを、本稿では「上野氏系図」という。井伊一族上野氏の系図に上田宗箇家を接続させたもの)、井伊一族の部分はかなり信頼性がありそうなので、これら二系図と鈴木真年編の『百家系図稿』巻十所収の「井伊系図」(これを、本稿では「百家稿井伊系図」という)を基礎にして、中世部分の系図を整理し再構成してみることとしたものである。

 
 井伊氏一族の系図整理

 井伊氏系図の中世部分についての問題点はいくつかあるが、そのうち主要点を簡潔にあげると次のとおり。これは、最初に見た井伊一族の歴史の概要も踏まえたものである。
○井伊氏の支流にあげられる貫名氏は、井伊氏ともども橘紋で、日蓮宗でも同紋だから、この分岐伝承と世代・系譜は信頼できそうである。なお、貫名は、『和名抄』に長下郡貫名郷に起こったとみられるが、現在はこの地は不明で、一般に山名郡貫名(現・袋井市広岡のうち)とみられている(その当否は不明)。後に奥山一族や江戸期の井伊氏からも貫名を名乗る者が出た。
 
○為憲流の系図では、為憲後裔の維頼の長男が頼兼で横地・勝間田の祖とされ、次男の維弘の子が周時(井伊の祖)及び周頼(相良の祖)であって、周時の子が遠江権介で鎌倉右大将家に仕えた兼政で、更にその三子で井伊・赤佐・貫名の三流が生じたとあるが、周時と兼政との接続に疑問があり(三国真人の系図では、井伊大夫政保の妹が藤原周時とする)、兼政の先祖を共保につなぐ立場をここでは採用した。井伊氏を為憲流藤原氏とはみないということである(横地・勝間田の系譜も諸伝あって定めがたいが、実際には為憲流藤原氏ではなかったろうと考える)。
 
○南北朝期に活躍した井伊介道政・高顕親子の存在は無視できず(道政を後世の直政から造り出されたとする説は無理な想像論)、この親子を記載する「百家稿井伊系図」「上野氏系図」を基本的に採用する。
 
○その場合、通行系図で重要な位置を占める先祖「盛直」が消えてしまうが、この盛直が別の名前と重複する可能性も考える。盛直については、『長禄寛正記』に日蓮の系譜に関連して「共資五代ノ孫、赤佐太郎盛直」と見えるから、支族の赤佐氏の出という形で考え直す。また、歴代のうち行直についても、篠瀬氏の系図に関して『姓氏家系大辞典』では「奥山太郎行直」という表記が見られるから、やはり赤佐・奥山系統とするのが本来の姿かとみておく。南北朝期の活動が知られる行直や弾正直秀から世代を遡らせる場合、盛直の位置付けは赤佐氏の祖・俊直の子の位置に置かれることになる。
 
○井伊本宗の道永(一に道宗)と直政祖先の泰直以下の五兄弟とが兄弟であるとの所伝があり、これは「百家稿井伊系図」「上野氏系図」に共通するが、上記の盛直・行直が赤佐・奥山系統とされるのであれば、一族で同世代としておくのが無難であろうか。
 
○「上野氏系図」については、歴代の記事も詳しく、各種の年代配置とも符合するから、総じて信頼性が高いものと考える(ただし、後世の上田男爵家に接合させる戦国末期の個所の系譜は疑問が大きい)。「奥山氏系図」も歴代はほぼ信頼できそうであるが、その系譜記事が殆どないのが欠点であり、また系線の混乱もあってか朝良の兄弟とされる者たちが多すぎる事情もあって、戦国期に二世代ほどの欠落があるように思われる(具体的には朝実と親朝との間に欠落か)。奥山氏支流には北遠州の久頭郷奥山氏(高根城主)があり、その系図も割合信頼できそうである(室町前期に世代欠落ありか)。久頭郷奥山氏の系図は、井伊谷近隣の奥山在住で井伊家家臣となった奥山氏にはなぜか伝わっていない。
 
○初代とされる共保より前の時期の系図は、別途考える。また、「井伊介(遠江介)」は、前井伊氏の最後の道三から、一族の景直の子の世代(これが忠直とするのは疑問)まで一時的に中断となり(祖山筆系図の貼付に高顕の次ぎに遠江介と見える時直のときに再興か)、時直以降が後井伊氏の系統とみておく。
 
 上記のような諸点を踏まえて直政あたりまでの系図を整理したのが、本稿末尾に掲載の「井伊一族の系図(推定試案」である(上野、奥山両系統を重視して整理したので、田中・伊平・谷津などや岡については簡略に記述)。
 その結果、初代共保から直平までの歴代は、「@共保─A共家(共政)─B共直(政保、兼政)─C惟直(政盛、維政)─D道親(道直)─E道貞─F道直─G道永(道宗)─H道政、次ぎに甥I道三、一時の中断があって一族の景直の子J時直、K顕直、L諄直(JとK、Lとの関係は不明)─M成直─N忠直─O直氏─P直平」ということになった(この場合、直政は第二一代となり、盛直、良直、弥直、泰直、行直、景直は当主歴代からはずれる)。
 この場合、初代共保から第二一代直政まで合計で十八世代となり、共保の没年を所伝通りとしたとき、直政の没年(一六〇二年)まで五〇九年の経過であり、一世代平均で約三〇年弱である。


 井伊一族の祖先系譜

 為憲流藤原氏の流れという系図では、兼政(共直、政保)からがほぼ信頼できそうである。兼政の弟に常行(大山八郎)をあげ、その孫に川名七郎維時が見える「上野氏系図」があるが、この大山・川名は井伊一族が分布する近隣に地名が見えるので、この辺も信頼できよう。また、共直の弟に惟直をあげて、この系統から中世の安芸に展開する平賀一族が出たという系図も残るから、これもほぼ信頼してよさそうである。こうした系図を考えると、源三位頼政の郎等で知られる猪早太(高直)も、保元の乱の「井八郎」も、共直の兄弟一族にあげられそうでもある。
 次ぎに、兼政の父祖に「共保─共家」の二代を置くのも割合、自然であって否定することもなさそうである。井伊氏の初祖伝承は、その生年など活動年代はともかくとして、一応信頼し得よう。この辺は、三国氏出自伝承とも絡みそうである。

 さて、井伊氏の初代当主とされる者が共保といい、寛弘七年(一〇一〇)に生まれたという伝承が有名である。この出生年代には疑問があるとして、系図を整理、再構成してみると、子孫の活動年代から遡上すると寛治七年(一〇九三)頃かもう少し後の頃に没したというのは一応、信頼できそうでもある。もとは井伊保八幡宮の神主が見つけた捨て子だと言う共保が、遠江国司の「藤原共資」(一に三国姓)の娘と結婚し、井伊谷に居を構え領主となったが故に井伊氏を名乗り、初代とされる。自浄院(後に地蔵寺、龍潭寺となる)の御手洗の井戸の傍に捨てられていたという捨て子伝承に基づき、「井」が旗幕の紋で、井の傍らの橘が家紋となったという。一族の奥山氏でも、日蓮の貫名氏でも、橘は家紋に関係する。藤原共資が正暦四年(九九三)に築いて居城したといわれるのが志津城で、浜松市西区村櫛町に城跡といわれる地(志津古城址と刻まれた石碑が建つ)が残る。
 赤子は、井中より化現(生誕)した者と考えられ、養育されるが、井伊家は水(水龍)との縁を始祖から運命付けられていた。久留女木を流れる都田川には、竜宮に通じるといわれる深い淵があり、その淵から子どもが現れて村人の農作業を手伝ったという「竜宮小僧の伝説」が語り継がれている。棚田の最上部には「竜宮小僧」と呼ばれる湧水があり、今も棚田を潤す水源となっているという。井伊谷の北にある三岳山には大蛇が棲み、蛇王山とも呼ばれ、三獄の三獄神社(式内社の大セチ神社に比定)はその大蛇を竜神として祀ったのが創祀といわれる。海神の綿津見三神及び筒之男三神が合祀される。

 井伊谷での祭祀の中心となる渭伊神社は式内社で、『三代実録』にも見える。もとは龍潭寺の境内にあったとされ、井戸・井水を祭祀対象として水神の罔象女神(瀬織津姫、白山比)を祀る神社である(中世に正八幡宮、井伊八幡とも称した影響で、祭神を玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命とする)。地域の産土神で、井伊氏の氏神であり、境内社には水神社もある。本殿背後の丘には、古墳時代の巨石祭祀の遺跡・天白磐座遺跡(薬師山の巨石群)がある。龍潭寺の西方近隣には、白山神社もある。
 これら祭祀・伝承から見て、井伊氏の先祖は海神族の流れを引いたとみるのが自然である。井伊谷地区には、四世紀代から五世紀前半頃にかけて築造されたとみられる古墳群が集中しており、この地方に勢力を張った有力な古代豪族の存在が知られる。 辰巳和弘氏は、この古墳群を築いた首長が井伊氏の祖先かとし、「井のクニ」の磐座祭祀を行ったと推論している(『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』)。
 井伊谷には家紋を橘とする二宮神社があり、これが引佐郡式内社の三宅神社の論社とされる。井伊郷の荘司であった三宅氏の始祖「多道間守」を祀る神社であったが、南北朝期には宗良親王を合祀して現社号となったという。同社の創祀者を九世紀末頃の三宅篤茂と伝えたり、延喜年間にこの地の荘司として着任した三宅好用の三代目の井端谷篤茂の娘が藤原共資との間に生んだのが共保だとも伝える。境内の伊雑宮も、志摩や三河の同名社同様に海神族により奉祀された神社である。天文年間に井伊直盛が二宮神社を再建したという。三宅神社の論社は、同市北区細江町気賀の屯倉水神社にもあって、こちらが式社ともされる(もとは小字大鳥居にあった屯倉神社が水神社に合祀されたという)。この地は伊福郷域とされ、井伊谷の南方近隣で、都田川の南岸に位置する。

 気賀の東隣の細江町中川には蜂前(はちさき)神社もあり、直虎の花押が記された唯一の古文書「井伊直虎関口氏経連署状」を所蔵する。同社は、応神天皇の時代に八田毛止恵が勅命によって遠江国に下向して開墾し、八ヶ前の地に本社勧請したのが創祀だといわれる。往古に羽鳥大明神とも呼ばれたから、神服部連に関係したものか(※神服部連の関係記事参照)。細江町には、三和(海神族の三輪氏に通じる)や小野の地名もある。
 引佐郡の東隣の麁玉郡には、『和名抄』に三宅郷及び赤狭郷があげられており、前者は浜松市浜北区宮口のあたりで、三宅氏の本拠地ではないかと考えられ、後者の赤狭郷はその東方近隣に位置し、浜北区の根堅・於呂・尾野あたりとされ、井伊氏の重要な庶子家の赤佐氏の本貫地であった。赤狭郷小野(尾野)は、井伊氏筆頭家老の小野氏の本貫地ともいう。於呂にある於呂神社は、麁玉郡式内社の一であり、その祭神は浜北区道本にある同名社と同じ(大国主神・磯部大神など)とみてよかろう。磯部神・伊雑宮の奉斎は、三河の穂国造領域にも見られる。尾野の式内社多賀神社(高根神社)は保食神(豊受大神、白山比売神に同じ)を祀る。

 この辺までを併せ考えると、井伊谷から東方の地域一帯は海神族系の遠江の三宅氏が治め、その始祖の本来の名「八田毛止恵」が、一般に三宅氏の先祖として知られる「田道間守」(多遅摩毛理。渡来系の天日矛後裔として、垂仁朝に海外に派遣され、橘を倭地にもたらした者として著名)に転訛したのではなかろうか。
 三宅氏は新羅渡来の伝承をもつ天日矛系のほかに、各地に種々、多く見られる。東海地方では、海神族系の尾張国造尾張連一族かとみられる三宅連が春部郡及び愛智郡に郡司で見えており、三河では賀茂郡に衣君・庵君の同族(近江の小月山君と同族で、許呂母之別の後)ではないかとみられる中世の三宅氏がいた(幕藩大名の三河田原藩主家で、備前の児島高徳後裔と称する系譜は疑問)。地域により各地の屯倉の管理者として各種の三宅氏が出たということになろう。
 本件で見た遠江の三宅氏の系譜を敢えて推測すると、三河東部の穂国造が海神族系(磯城県主支流で、丹波道主命の後裔)であり、この同族とみられるのが浜名湖北方の地域にあった浜名県主や神服部連(この後裔が浜名惣社神明宮と初生衣神社の宮司を世襲)であるから、これと同じ流れとみるのが割合、自然であろう。遠江国引佐郡や尾張国海部郡の伊福郷との関連が認められるのなら、尾張国造支族という可能性も残る。

 
 
  

       (2017.3.17 掲上)
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