「甲斐国造の系譜と一族」 の続き |
(前頁に続く部分で、主に祭祀等を論じる) 甲斐の御室山の祭祀 大和の三輪山(御諸山)に通じる「御室山」が山梨郡には二個所あり、ともに甲斐の祭祀において重要な役割を果たしてきた。「御室」が「御諸」に通じ、神の居地、「神霊の籠もる山」をいうとみられているが(『神道大辞典』など)、これは一般的な神様というわけではなく、端的には三輪山関係の神とされよう。 その一つが、笛吹市春日居町鎮目の山梨岡神社に関係する。
山梨岡神社は、延喜式神名帳に載る古社で、もとは背後の御室山に創祀されたが、その後に麓の梨樹を伐り拓いて現在地に遷され、「甲斐ヶ根・山梨岡神社」と号し、武田氏や江戸期は徳川氏からも保護された。このあたりの鎮目の地は山梨郡山梨郷に比定され、郡の中心ないし郡境を示すという「郡石(こおりいし)」が境内に残され、当時の郡名発祥の神社となる。甲斐の式内社は二十社であって、そのうち半数ほどの九社は山梨郡に所在し、当社鎮座地の東方に残る「国府」という地名(笛吹市春日居町国府)は、初期の甲斐国府の所在地と目される。山梨郡が古代甲斐の政治の中心といえよう。
いま山梨岡神社の祭神を大山祇命、別雷神、高オカミ神とするが、別途、「キ」という奇獣も祀られ、これが雷神、水神の象徴かともいう。このあたりの御室山は、大蔵経寺山の山頂から東に張り出した尾根筋のピークとされ、その御室山の東麓に立地するのが当社である。近世以降、「日光権現」や「山梨権現」などとも呼ばれるから、下野の日光山から考えると、事代主神など三輪氏祖神を本来、祀ったか。摂社の吾妻屋宮は当社の北方近隣、北山の中腹に鎮座して、日本武尊と弟橘姫命を祀り、論社の山梨市下石森の同名社も日本武尊が東夷征伐の折に勧請したといわれる。なお、山梨郡式内社の物部神社(笛吹市石和町松本に鎮座の論社)も、もと御室山山頂に祀られたという(『甲斐国志』など)。
次ぎに国名の「甲斐」を名乗る甲斐奈神社は、論社が三社ないし四社あり、そのうち甲斐奈神社という神社名では笛吹市に二社、甲府市に一社ある。それぞれ祭神が異なるが、大己貴命ないし菊理姫命とするのが穏当か。
なかでも、笛吹市一宮町橋立鎮座の甲斐奈神社(林部宮)は、甲斐国総社(の論社)とされ、「橋立明神」と呼ばれて大きな権威をもち、鎮目の山梨岡神社すら一時は傘下においた。別名を神祖明神、林部宮といい、前者の名は大己貴命にふさわしい。同社の周辺には、甲斐一宮の浅間神社や国分寺・国分尼寺跡が残り、甲斐国の中心地であったことを窺わせる。平安後期以降に甲斐で勢力をもった野呂・林部など三枝氏一族が橋立明神を氏神として篤く奉斎したことが知られる。この明神は丹後国与謝郡、現・宮津市文殊の天橋立の中に鎮座して八大竜王(海神)を祀る神社(境内に「磯清水」がある)を勧請したといわれる。山梨市歌田の金桜神社も、初名を橋立明神といい、塩見足尼が丹後から勧請したという伝えがある。橋立明神を祀る地域が、丹後・甲斐以外にないようで、この祭祀に基づくと甲斐国造(ないしその一族)には、三丹地方に繁衍した丹波道主命の後裔も入っているのかもしれない。
笛吹市のもう一つの論社は春日居町国府にあり、守之宮明神(甲斐四宮に由来ともいう)とされる。ここでは、彦火火出見尊・大己貴命を祭神とする。甲府市中央の同名社は、古くは「白山権現」と称しており、現在の祭神は菊理姫命とされる。
御室山のもう一つが酒折の御室山(月見山)で、八人山から南西に張り出したピークとされる。倭建命が居た酒折宮の跡地に置かれた酒折宮八幡宮からは東北の五百Mほどの近隣に位置し、玉諸神社(国玉大明神)の真北、二キロ弱ほどに位置する。この玉諸神社の創祀地は酒折御室山と言われ、現在も山宮の祠と積石塚があり、その南西麓には拝殿跡とされる場所にも石祠がある。甲斐国造第二代の速彦宿祢が「玉緒神」を祭祀したと系図にいい、酒折宮八幡宮の社家は国造後裔(姓氏は不明)という塩見友定を祖とする塩見氏で、後には飯田氏と言い現在まで続く。酒折宮祠官家の飯田松三氏に伝来の変形方格規矩鏡は、製鏡で四世紀後葉の鏡とみられるから(『甲府市史』)、酒折宮にかかわる倭建命伝承は無視しがたいと考えられる。御室山石祠は柴宮神社(酒折宮八幡宮の西北近隣で、櫛稲田姫などを祀る)の奥宮とされるが、同社祠官家も飯田氏一族がつとめた。江戸中期の宝永・宝暦頃の柴宮神主、飯田正紀は歌人で当時の甲府文壇の重鎮であった。 甲府の玉諸神社の祭神は、各地の国玉神と同様に大己貴命であった。『甲斐国志』でも祭神を大己貴命とするが、それを磯部氏が御室山に祀ったから符合がとれている。甲斐国の国魂が大己貴命とすることの意味は、国造族がその後裔ということでもある。なお、もう一つの論社とされる甲州市塩山竹森の玉諸神社は、水晶玉を神体とし(祭神は天明玉命で玉作連の祖)、まったくの別系統の神社である。
また、三輪氏族に縁由がある神部神社が山梨郡と巨麻郡に式内社が各一社ある。山梨市上神内川の同名社は、『神社明細帳』によれば、景行天皇の御代に甲斐国造塩海足尼が近江国比叡から勧請したと伝え、山王権現とも称される。山梨郡のもう一つの論社、甲州市塩山上萩原のほうは、岩間大明神ともいい、海神の筒男三神などを祀るが、萩原は三枝一族の苗字に見える。巨麻郡のほうでも論社がいくつかあるが、南アルプス市(旧・中巨摩郡甲西町)下宮地の神部神社が本命とされる。同社は、鳥居の扁額に「正一位三輪大明神」とあり、社伝によると、垂仁天皇の御代に大和の大三輪神社を勧請したといい、三輪明神(西郡三輪神社)と呼ばれていた。当社は元来は里宮で、古くは南アルプス市(旧・中巨摩郡櫛形町)上宮地の「太神山(みわやま)」に山宮があった。神主家は本姓が大神君といわれ、今沢を苗字とした(『甲斐国志』)。今沢氏は、武田信虎のときに甲府の府中八幡宮の神主となり、近世末期まで甲斐国神職の総支配職をつとめた。 なお、大和の三輪君・大神朝臣の系図には、甲斐への分岐は見られないから、本流からの直接の分岐ではなく、遠い同族庶流という可能性がある。この関連で、駿河国安倍郡の式内社に同名の神部神社(静岡市葵区宮ヶ崎町)が賤機山の南麓にあり、いま浅間・神部・大歳御祖の三神社をあわせて、通称が静岡浅間神社と呼ばれる。この神部神社の創祀は、不詳で、一説に崇神天皇の御代だともいう。平安時代末頃から駿河国惣社と呼ばれた古社で、式内の神部神社に比定されており、大己貴命を祭神とする。境内社に八千戈神社があって、この辺も甲斐に通じる感がある。駿河の大歳御祖神社の神官に大井求馬が見え(「式社略記」)、大井郷が廬原・富士両郡にあるが、甲斐でも戦国末期の甲斐奈神社別当に大井摂元がおり(『甲斐国志』)、大井郷が巨摩郡に、大井邑が山梨郡にあった。「賤機」は倭文織に通じるが、駿河には富士郡式内社に倭文神社(静岡県富士宮市星山)があり、甲斐にも巨麻郡式内社に倭文神社(韮崎市穂坂町宮久保。穂坂総社という)がある。浅間神社も駿河・甲斐にあるほか、但馬国造の領域に養父郡式内社(兵庫県養父市八鹿町浅間)としてもある。 この駿河府中惣社神主家は惣社を苗字とし志貴県主姓と伝えており(鈴木真年の著『列国諸侍伝』)、私は、これまで物部氏族の出とみていた。もとの磯城県主本宗が崇神前代に断絶して、和泉から三輪君の祖・大田田根子が探し出され、県主家のほうは女系でつながる物部氏から大売布の後裔が跡に入り、その流れから志貴県主・志貴連、十市部首・中原朝臣などが出た事情が頭にあり、駿河・遠江の三国造家(珠流河、遠淡海、久努)も景行天皇の東国巡狩に随行した大売布の後裔から出た事情があったからである。
しかし、上記のように見ていけば、シキ県主とは同じ訓みでも三輪氏族の磯城県主のほうだとみられ、そのほうが祭神関係も、甲斐の神部神社への流れも自然となる。太田亮博士の『姓氏家系大辞典』シキ条17項にも、「駿河の志貴氏」とあげて、「駿河府中惣社神主にして、……伝説に拠れば、志貴県主の後にして、崇神朝、神部神社勧請の際、神主となり、後に惣社を氏とすると云ふ」と記述される。この惣社神主家の祖先は、崇神朝頃に甲斐国造の祖と同行して東国に来たもので、甲斐下宮地の神部神社の称大神君氏ともども、皆が磯城県主同族なのであろう。ただ、分岐が崇神〜景行朝という早い時期では、本来の姓氏は別にあって、志貴県主姓も大神君姓も、出自から後世に称した姓氏であろう。
駿河にはこのほか、益頭郡三輪村(静岡県藤枝市岡部町三輪)に三輪大明神があり、神主を三輪左門というが、同社が式内社の神神社にあたる(『姓氏家系大辞典』など)。同社は大物主神を祀り、『駿河国神名帳』には三輪明神と記載される。その摂社に伊造神社(伊雑大神が祭神)もある。 甲斐では更に、山梨郡西青沼村(甲府市宝)に鎮座の穴切大明神(穴切大神社)は式内社の黒戸奈神社だと社記にいうが(『甲斐国志』)、その論社の一つである同社も正殿に大己貴命を祀る。八代郡式内社の中尾神社(笛吹市一宮町中尾。飛永明神)は、垂仁天皇七年の勧請と伝え、祭神を大己貴命とする。中尾神社の論社は笛吹市八代町米倉にもあり、いまは石祠が一つだけだが、『山梨県神社誌』によると、飯田氏の聞書に言うところでは、「昔は大社にて毎年西郡三輪ノ社へ神幸ありしが、何れの頃か廃して小祠となり」とある。
甲斐国造族と丹波国造族 甲斐の諸古社では、上に見るように、三輪氏族系の祖神を奉斎する有力社が多いことに気づく。だから、甲斐国造が皇族系の氏族ではないこと、もとから甲斐に自生した勢力ではないことも分かる。この事情に加え、応神天皇以前の初期天皇から出たと記紀にいう氏族が実は神別系の氏族であった事情が認識できれば、彦坐王・狭穂彦親子についても実は皇族ではなかったことで、甲斐国造が狭穂彦一族から出たことを簡単には否定できない。そして、彦坐王の系統が実は磯城県主支流の出と分かれば、三輪系諸神の祭祀もよく符合すると分かる。 彦坐王・狭穂彦一族の中央の流れでは、日下部連氏が代表的だが、地方では但馬国造がそうした地位にあったとみられる。但馬国造は彦坐王の子、丹波道主王の流れだが、実は東隣の丹波国造もそうであった。後に丹波国造や丹後の海部直では、系譜を海神族系の尾張氏族に附合する形になっていたが、丹波国造一族も丹波道主王の流れであった。ともあれ、丹波国造・但馬国造の一族は古代の三丹地方に繁衍し、海神族出自を裏付けるように磯部・石部の地名・神社名・氏族名・苗字を名乗った。この系統には、丹波国造一族は丹波直、海部直・釆女直などの直姓を名乗り、一方、但馬国造一族は但馬君、出石君、日下部君などの君姓を名乗った。
ちなみに、これまで史料から知られる甲斐国造一族では、日下部直・三枝直・小長谷直(小谷直)、壬生部直(壬生直)があげられ、このほか、大伴連一族から系を引く形になっているが、大伴直・伴直も実際には甲斐国造一族としてよかろう。
こうした同族のカバネ例を見れば、甲斐国造一族の本宗が国名の「甲斐」を名乗っても、カバネが君姓でも直姓でもありえそうである。その意味で、『諸系譜』の系図に甲斐君の名乗りが見えても不自然ではない。当該系図は、塩海宿祢より前の部分に若干の疑問があっても、塩海宿祢以降の人々は基本的に信頼できそうであれば、当該系図に当初が君姓、次ぎに庚午年籍のときに造姓になった、との記載は妥当だとみられる。
三河の穂国造一族と遠江国浜名郡 東海地方では、古墳時代に三河東部の豊川流域、主に宝飫郡(宝飯郡)あたりを本拠とした穂国造も、丹波道主王の流れであった。その奉斎した式内社の砥鹿神社(愛知県豊川市一宮町)は、大己貴命を主神とし事代主命なども祀る。国名の「穂」は、『姓氏録』に見える三輪山の別名、「真穂の御諸山」に由来したか。この一族の具体的な姓氏は知られないが(系図には「穂別君」が見える)、日下部という氏があったことは、後年の神主家が草鹿砥氏を名乗ったことから推測される。穂国造の領域には南部の渥美郡も含まれ、同郡の磯部郷(豊橋市南西部の磯辺・駒形から王ケ崎あたり)の地名は国造族に関係したものか。「三河国内神名帳」には、正五位下磯部天神が渥美郡に、小初位神の磯宮神が宝飯郡に鎮座と見える。 八名郡も同じ国造の領域とみられ、式内社の石巻神社(豊橋市石巻町の三輪、旧地名が八名郡美和村神郷に鎮座。三河国四宮)も大己貴命を祭神とする。八名郡石巻に起った石巻氏は、小田原北条氏の重臣にあって旗本家につながるが、系図(『諸氏本系帳』第四冊所収の「伊沢系図」)には伊沢氏から出たと見え、実際には穂国造族裔の可能性があろう(一に藤原為憲流ともいうが系譜仮冒)。延喜三年(九〇三)に宝飯郡より分離した設楽郡には、中世、三河大伴直の後裔とみられる設楽・富永一族が繁衍したが(江戸期は旗本で残る)、この辺は甲斐の大伴直姓に通じるか。設楽郡には三輪村があった(現・北設楽郡東栄町南端の大字三輪)。
『古事記』開化天皇段に丹波道主王の子、朝廷別王が「三川の穂の別の祖」と書かれる。『旧事本紀』天孫本紀には、垂仁朝頃の物部十市根大連の子の胆咋宿祢が三川穂国造美己止直(名前「ミコト」の近似から、朝廷別王「ミカド別王」と同人か)の妹・伊佐姫を妾として一児を生むとあり、胆咋の子孫に「三川蘰連」が出たのもこの所縁に因るものか。
国造領域が概ね現在の豊川市・豊橋市・新城市あたりとされるが、豊橋市の牟呂市場町にある市杵島神社は墳丘長推定五五Mの前方後方墳で二重口縁壺の出土があり、新城市竹広の断上十号墳も墳丘長約五〇Mの前方後方墳とされるから、前方後方墳が盛行した垂仁〜成務朝頃には国造系統の豪族が当地に来ていたことが推される。
同領域の豊橋市の杉山八幡社、大崎町八幡社、岩田八幡宮境内社の御鍬神社、安久美神戸神明社境内社の伊雑社、及び蒲郡市清田町の石山神社などの祭神のなかには「伊佐波止美命」が見える。この神は、志摩の伊雑宮の祭神にあげる同宮神職の磯部氏の祖先という伊佐波登美命に通じる。これにより、穂国造の領域には磯部氏が多くあったことが窺われ、同国造家は当初、磯部を氏としたことも考えられる。豊橋市の磯辺王塚古墳は、双龍環頭大刀二本や頭椎大刀・鉄鏃・金環、勾玉・管玉など玉類などを出土する古墳時代後期、六世紀後葉頃の円墳であり、所在地の渥美郡からみて穂国造関連の墳墓と考えられる。現在でも全国的に見ると、新潟県と愛知県に磯部の苗字が多い。
豊橋市の東側は遠江国浜名郡の郡域であったが、この地域も三輪氏族に関係が深い。すなわち、浜名湖の西側には三輪氏の同族が繁衍した模様で、天平十二年の「遠江国浜名郡輸租帳」(正倉院文書)には新居郷などに神人、神人部、神直、和爾神人や敢石部など、それらしき人々が多く見える。 式内社でも浜名郡にあった五座のうち、弥和山神社及び大神神社(大神郷に鎮座)が神社名からして三輪氏系の祭神をもった。いま、前者は静岡県浜松市北区三ケ日町只木の神明宮に比定され、後者の有力な論社として二宮神社(同県湖西市新居町中之郷)がある。同郡唯一の名神大社、角避比古神社は浜名湖入口の守護神としてあったが(角避は「津の幸」の意らしい)、大津波に流された事情などで鎮座地が変わり、いま浜松市北区細江町気賀の細江神社が後継社とされている。
浜名郡式内の英多神社はいま浜名惣社神明宮(浜松市北区三ケ日町三ケ日で、只木の南西近隣)が有力な論社とされるが、元は浜名県主が祖神・太田命を祀ったものといわれる(現在は境内摂社で祭祀)。この県主は三輪氏の系統らしく、太田命は大田々根子命のことらしいともいう(ただし、年代からすると実際には別人か)。鎮座地名の大輪山も、三輪山と関係するらしい。境内社に天棚機媛神社があるのも駿河惣社に通じる。神明宮の南方近隣の三ヶ日町岡本にある初生衣(うぶぎぬ)神社では、天棚機姫命を祀り、皇大神宮の神衣を納める神事を担う類例のない特別な由緒を持った。垂仁朝頃の創祀と伝わる。これら浜名郡の有力古社は、いずれも海神族系の神社とされよう。神衣は、三河赤引の糸を使って織られていたが、宝飯郡の赤日子神社(蒲郡市神ノ郷町。海神の豊玉彦・豊玉姫等を祭神とする)の「赤日子」が、「赤引」の訛りであるとする説もある。その境内社に白龍水神社や太田命を祀る社口神社もある。赤日子神社は養蚕の祖神を祀る代表的な神社とされ、拝殿の西には蚕祖神をまつる塚(養蚕祖神碑)もある。『神道大辞典』は端的に「蓋し三河国神服部の祖神を祀ったものであろう」とみている。
なお、穂国造については、『旧事本紀』「国造本紀」の穂国造条に、雄略朝に葛城襲津彦の四世孫の菟上足尼を穂国造に定めたとあるが、ここには生江臣氏(生江国造か)の系譜記事が入り込んで当該記事に混乱があったとみられ、これは信頼できない(太田亮博士も著書『三河』などで、そのまま混乱して受けとめる)。豊川北岸にある宝飫郡式内社の菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)は祭神を菟上足尼命とするから、穂国造の先祖にこの者があたるだろうが、生江臣氏にも同名の先祖が雄略朝にいて、それが混乱の原因になっているのかもしれない。おそらく、垂仁〜成務朝ごろに三河東部・遠江西部の浜名湖一帯に磯城県主系の一族が来て、穂国造の設置があったとみられる。
浜名湖周辺でも井伊谷に北岡大塚古墳(墳丘長五〇M弱で、西遠江最古級)という古墳時代前期の前方後方墳が見られるので、畿内王権の東漸があった。井伊谷の渭伊神社の神殿背後の丘にある天白磐座遺跡(巨石の集合体の祭祀遺跡)は、引佐郡を象徴する「蛇神=雷神=水神」の顕現する場所ともみられている。伊勢や東国にいくつかある天白社の祭神は、土着の麻績の神(機織の神)か天白羽神(神麻績部の祖)を祀ることが多いとの指摘もある。大庭祐輔氏は『竜神信仰』で、信濃国伊那郡に麻績郷(飯田市座光寺付近に比定)のあたりには天白神が祀られると指摘する。天白神社は、甲斐国巨摩郡(中巨摩郡昭和町紙漉阿原、南巨摩郡南部町)や遠江国磐田郡(磐田市池田)、三河国の宝飯郡など(蒲郡市三谷町、新城市細川や岡崎市西区入野町)にもある。各地の祭神については今では種々、差異があるが、水神の瀬織津姫(保食神、倉稲魂神)が本来の祭神で、名前に関連して織物の神でもあろうと考えられる。 これら穂国造等の例から言って、彦坐王の流れが東海地方の三河・遠江を経て駿河から富士川沿いで北上して甲斐に入り込み、甲斐国造が出ても不思議ではない。宝飯郡発祥の石原氏があり、甲斐にも三枝氏支族に石原氏(三枝七名字の一)があって、甲斐各地に多く見える事情がある。
甲斐国造一族の系譜 甲斐国造家の系図は、中田憲信編『諸系譜』第七冊に「甲斐国造系図」として掲載されるが、当該系図がほぼ妥当そうなことは、ここまでの検討から言えそうである。 もちろん、現在に伝わるまでに多くの人々の手を経て書継ぎや書込みがなされてきているから、いまに残るものがすべて原型・史実どおりとは言えないが、十分参考になるという意味である。本系図の留意点を気づいたところで、順不同であげてみると、主な点は次のとおりである。
@本系図が開化天皇から始まり、その子の「彦坐命−狭穂彦命−黒彦命−臣知津彦命−塩見足尼」と続ける初期部分は、原型・実態では、彦坐命が開化天皇の皇子ではないこと、塩見足尼が狭穂彦命の兄弟、子か甥くらいの近親に位置づけられようが、『古事記』や「国造本紀」にほぼ合致する記事となっている。 A塩見足尼から後では、基本的に問題が多くはないとみられる。ただ、履中〜允恭朝頃の伊志良のときに甲斐君姓を負い、庚午籍で甲斐造を負うとされ、この辺は妥当としても、庚午籍のときの高野なる者の位置づけについては、世代数や系図のカバネ附載の記事からいって、実際の父はもっと先祖におかれる稲目君かその叔父野養君であろう。この辺に系線の混乱が考えられる。 B国造支族の諸氏についての分岐の記事がまるで見えないが、壬生直や小長谷直の祖・倉毘古は本系図に見える「韓人」にあたりそうである。また、山梨郡塩田の降矢氏は、塩見足尼の甥から出たと伝えており、「降矢、古屋」は同じ苗字だと見れば、甲斐一宮浅間神社の神主家が伴直姓の古屋氏であるから、早く初期段階に分かれた可能性がある。また、三枝直の祖は飛騨国大野郡の三枝別の支流のように系図にいうが、やはり元から甲斐にあった国造族で、おそらく伴直と同族であろう。 C甲斐造高野の後は二十四世孫の季茂(時期は南北朝期の人と推定)まで系図が続くが、ほぼ問題がなさそうである。平安後期に義令・義幹兄弟がおり、義幹の後が続いて記され、雨宮が主流で、山梨・諸角・石阪の苗字が出たと見える(雨宮は、風間・風祭・藤巻とともに甲斐四姓と『甲斐国志』に言うが、これらは皆、国造族か)。義令の後については系図に記載がないが、名前のつながりなどの諸事情から見て、この流れから伊沢氏や甲斐氏(土佐の香宗我部氏につながる)が出たのではないかと推される。 国造族裔となる中世諸氏 この国造後裔一族の代表的な苗字、雨宮は甲斐に多く、八代郡米倉村の鉾立明神の祠官に雨宮土佐がいたと『甲斐国志』に記されるほか、巨麻郡山寺町(旧・櫛形町域)の八幡宮の雨宮左膳、東山梨郡七里村塩後(旧・塩山市域)の鈴宮明神の雨宮大内蔵など神職の名が伝わる。甲斐の雨宮氏は、隣国信濃の埴科郡屋代郷雨宮(長野県千曲市雨宮)に起る清和源氏村上氏一族の出で、甲斐に移って武田氏に仕えたと伝えるが、そうした雨宮氏が甲斐に一部、あったとしても、古来甲斐の豪族であった。 中世武家の関連について言うと、例えば笛吹市一宮町(旧・一宮町域)には、国造一族から出た諸氏の旧跡が多い。そのうち、末木地区には雨宮氏の館跡があり、中世の塩田郷の中心の和田地区の国立神社東側の館跡が塩田長者として続いた降矢氏関係とみられている。土塚地区の熊野神社の北側に古屋氏屋敷跡(名主組の旧家、古屋専蔵氏宅跡)があり、その西北近隣の天神塚(降矢塚)は日本武尊を祀り、土塚地名の基となるが、応神朝に降矢真治が築き、塩海宿祢より受けた剣二振を埋納したと伝える。
三枝氏の居館跡と伝わる場所も一宮町南野呂にある。平安時代中期に甲斐へ赴任、ないし野呂に配流されて土着したと伝える三枝守国は、系図以外の史料には見えず、実在性は確認されていないが、百六十歳とか百十一歳という長寿や大宰大弐の官職補任、異族撃退伝承は疑問大でも、平安中期頃に三枝姓諸氏の中興の祖としての存在は考えてよい(長徳四年〔九九八〕の死去説自体は問題がないか)。守国とほぼ同世代人として史料に見える者では、相撲人として三枝為忠・三枝邦近(ともに『小右記』)、越中少目として三枝部連為頼、伊勢大掾として三枝助延が史料に見えるが、これらの者は系譜・出身地が不明である。
南野呂の大宮橋立明神は、橋立明神と守国将軍を祀るとされ、野呂郷には三枝氏宗族が長くあったとみられている。ただ、いまの系図に伝える天津彦根命後裔の三枝部造の流れではなく、この一族は実際には甲斐国造族の支流の三枝直氏から出たと多くみられており、太田亮博士などもいう甲斐各地の橋立明神の祭祀なども出自と符合する(守国について、三枝部直貞邦の子とする系図所伝もある)。石阪や古屋が三枝一族にも見えるなど、甲斐では同じ苗字ながら氏族系統を異に伝えるものが多い。
鎌倉前期に甲斐から他国へ移遷して大きく発展した伊沢・甲斐の両氏について、次ぎに述べる。 甲斐国造家がもともと磯部・石部を名乗っていたことは、ここまでの説明でほぼ理解されたのではないかと思われるが、玉諸神社祠官家の磯部氏のほか、山梨郡の「イサワ(石和、伊沢)」(笛吹市西部の石和地区)の地とも密接に関係する。
このイサワから起ったのが国造末裔の伊沢氏であり、保元の乱の時に甲斐の井沢四郎信景が源義朝随兵で『平治物語』に見え、その子の伊沢四郎家景が頼朝のとき奥州征伐に従った。伊沢家景は陸奥国の留守所を預かり多賀国府にいて、子孫は留守氏を名乗るようになる。この系統が、藤原北家粟田関白道兼とか同藤原長良の子の清経の流れと称するのは系譜仮冒である。家景の姉が武田太郎信義に嫁して、後の武田宗家の祖となる石和五郎信光を生み、信光の後裔からも源姓の石禾・伊沢氏が出た。 イサワは伊沢・石和・石禾・井沢のほか伊雑とも書くが、志摩国の伊雑宮(答志郡式内社の粟嶋坐伊射波神社)は三重県志摩市磯部町に鎮座して、上古から磯部氏により奉斎され、漁師・海女の崇敬があつかった。三河の穂国造の領域たる宝飫郡の式内社、石座神社(石鞍神。愛知県新城市大宮)の境内社には、伊雑社・保食社があることに留意される。その同名社では近江国滋賀郡の式内社、石坐神社(大津市西の庄)があり、八大竜王や彦坐王を祀る。但馬にも日下部一族から出た石禾九郎能実がおり、鎌倉期の「但馬国太田文」に下司として見える。この一族には朝来郡に磯部貫主や礒部・石部の苗字も見える。
また、頼朝のときに甲斐小四郎秋家がおり、当初は武田信義の子の一条次郎忠頼に属し、その滅亡後は幕府に仕えた。秋家は土佐国香美郷に地頭職・領地を得て移遷し、中世土佐の大族、香宗我部氏の祖となった。秋家は中原姓とも大中臣姓ともいわれるが、子孫がその後も長く甲斐氏を名乗った事情から見て、古代甲斐氏の後裔ではなかろうか。
「甲斐国造系図」には、伊沢信景や甲斐秋家が系図に記載がない。というのは、伊沢信景の祖系は藤原氏に変更して、兼隆流などで見えており、甲斐秋家のほうは伊沢信景の割合近い同族とみられるうえ、別系の中原朝臣一族の系図のほうに二様で見える事情がある。これらのそれぞれが疑問ではないかとみられる。
初生衣神社の神服部氏 ここまで書いてきて一応のまとまりをつけたつもりでいたが、最後に思いがけない事情に遭遇した。それは、先に述べた三ケ日の初生衣神社に隣接して、現在も宮司の神服部(かんはとり)家宅があり、代々浜名惣社神明宮と初生衣神社の宮司を世襲してきた事情が分かったからである(浜名郡式内の英多神社は、初生衣神社に比定される可能性もあるかもしれない)。天平十二年の「遠江国浜名郡輸租帳」には、新居郷に戸主で「神麻績部国麻呂、麻績部麻呂」も見えることに留意される。 神服部は神服とも綺とも書くが、伊勢神宮の神御衣を織ることを職掌とした。『令義解』には「神衣祭は伊勢神宮の祭を謂う也。此の神服部等斎戒潔清して、参河赤引の神調糸を以て、御衣を織り作る云々」と見え、「大嘗祭式」には「参河国神服部・輸する処の調絲十絢云々」とある。神御衣の織上りを祝う神事(おんぞ祭り)が終わると、次ぎに豊橋市の湊神明社に運ばれて「御衣祭」が行われ、その後伊勢神宮へ奉納という形が永く行われてきた。
『姓氏録』や「天孫本紀」などには、いずれも神服連・綺連は尾張連・津守連の族とされ、海神族系とされる。すなわち、『姓氏録』和泉神別の綺連条には、「津守連同祖、天香山命の後也」とあり、因幡の服部神社についての『地理志料』には、いま岩井郡服部荘海士村にあって二所八幡宮と称し、神服連・海部直二氏の祖・建田背命を祀ると記され、「天孫本紀」尾張氏系譜には、天火明命の六世孫(建斗米命の子)におく建田背命について、神服連・海部直・丹波国造・但馬国造等の祖と記載がある。
ところが、この系譜に大きな混乱があり、「建田背命」が竄入されている。すなわち、この者は建田々須命・比古多々須の別名をもつ但馬国造の祖・丹波道主命と同人なのである。三河東部の宝飯郡と隣接する遠江西部の浜名郡の一帯で、赤引の神調糸を用いて伊勢神宮の神衣を作り、同族の穂国造と神服連とが協力して関係作業にあたったと解される。そして、衣服関係の祭祀も併せ行う駿河の称志貴県主氏も甲斐国造も、三河東部・遠江西部一帯の同族の流れを汲んだとみられる。甲斐の三枝氏が丹後の橋立明神を奉斎するにも、これに通じるのだと分かる。そうすると、臣知津公とは丹波道主命の別名なのかもしれない。丹波道主命の長兄と『古事記』に記される大俣王が、伊勢の品遅部君・佐那造等の祖とされ、伊勢に深い縁由をもった事情もある。 ちなみに、服部は、伊豆国造一族から出た服部連が管掌氏族として知られ、東海道をはじめ各地に分布するが、上記のような事情から見て、次の三河・遠江・駿河の神社や氏は神服連の関係と推される。すなわち、三河国八名郡の服部郷(新城市〔旧南設楽郡鳳来町〕の大野あたりで、大野神社の境内社に服部神社あり)や、同宝飯郡の服織神社(豊川市〔旧同郡一宮町〕足山田町。「三河国内神名帳」に宝飯郡鎮座の服部天神)、遠江国長上郡の服織神社(浜松市東区東町)、同榛原郡の服織田神社(牧之原市静波)、駿河国安倍郡の服織庄、静岡浅間神社社家の服部氏(円祐坊。本来、包括される大歳御祖神社関係か)である。
先にも触れたが、三河の大野で精製された赤糸を遠江国三ケ日岡本郷で神御衣に織り、朝倉川・牛川を経て湊神明社を経て伊勢神宮に奉納されてきた事情がある。大歳御祖神社はもと奈吾屋大明神とも呼ばれており、本来は大歳御祖神社と奈吾屋社とは別との見方もあるが、奈吾屋社が賤機山上に鎮座して倭文機部の祖を祀る神社ということで、大歳御祖神が海神族系の祖神だから、同一氏族が奉祀したものであろう。丹波道主命の一族は、山陰道で倭文氏族系の伯耆の伯岐国造(波伯国造)族と通婚して(川村・久米両郡に式内社の倭文神社が各一社ある)、神服連など衣服関係氏族を生み出したとみられる。
<一応の総括> 以上に見てきたように、甲斐国造一族の系図はたいへん複雑であるが、『諸系譜』第七冊掲載の「甲斐国造系図」や「国造本紀」記事がほぼ信頼されそうなこと、すなわち、これを踏まえれば、甲斐国造は竜蛇信仰をもつ海神族系の磯城県主の支流に出て、彦坐王の後裔に位置づけられ(狭穂彦系というより丹波道主命系の色彩が濃い)、景行朝の倭建命東征に多少先立ち、駿河を経て甲斐に入部したことが分かる。姓氏は、大元が磯部であって、国造になってから甲斐君、庚午年籍に際して甲斐造を負った。 国造一族の諸氏では、@甲斐一宮社家古屋氏が出た大伴直・伴直姓は、神別の大伴連支流に先祖の系譜を付け替えたこと、同様にA在庁官人として活動が顕著で、江戸期の大身旗本まで続く三枝氏一族は、三枝直・三枝宿祢姓であって、これも本来の甲斐国造族から神別・天津彦根命系統や息長氏系統の飛騨国大野郡の三枝別の流れに系譜を付け替えたこと、が推定される。
かつて拙著『三輪氏』を刊行したとき、東海道方面に分布する三輪氏同族については気にかかったものの、その流れの探索ができなかったが、偶々甲斐国造の系譜を種々調べる過程で、この解明の手がかりを得たことを幸いに思う次第でもある。といっても、甲斐国造の初祖・塩海足尼の位置づけがいまだ定まらない。狭穂彦・丹波道主命兄弟の子弟というところまでは分かったが、それ以上が進まない。甲斐国造本宗と三枝直や伴直の先祖がどのようなものか、後者両氏の先祖が直系で塩海足尼になるのか、傍系で塩海足尼になるのかという問題である。前者の場合には、穂国造と同じく丹波道主命の子に位置づけられそうであるが、降矢にまつわる矢石伝承からは後者になりそうでもある。この辺も含め、関係の課題はまだある。
それにしても、太田亮博士がずいぶん丁寧に資料を収集してくれたことに改めて感謝する次第であり、『姓氏家系大辞典』の記事に様々な示唆を得たが、関係各氏の祭祀事情や甲斐各地の諸伝承なども含めて、甲斐国造一族を更に総合的に系図研究をしていく必要性を感じる次第である。本考で見たように、甲斐の諸氏のみならず、穂国造や神服部などにも密接に関連するからである。
(2016.10.23 掲上) |
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