甲斐国造の系譜と一族


       甲斐国造の系譜と一族
                                            
宝賀  寿男


 
 はじめに

  いまから三十年ほど前、『古代氏族系譜集成』(以下、たんに『集成』ともいう)を編纂していたなか、系統の判別が難解など諸課題があったうち、処理に困惑した点の一つが甲斐国造の祖系の判断であった。
 そのときは、「国造本紀」や『古事記』開化段の記事に当該国造が彦坐王の子の狭穂彦王(沙本毘子王)の後裔とあるにもかかわらず、狭穂彦から国造初祖とされる塩海宿祢までのの世代数が過剰に多いことや、なぜこの系統が東国の甲斐までやって来たのかという移遷理由への疑問があった。そのため、倭建命(日本武尊)東征の帰路に従って、常陸から甲斐まで酒折宮まで来て、そこで「東の国造」に任じられたという記事が『古事記』に見える建許呂命(茨城国造など東国諸国造の祖)がいたことに留意し、その一族に甲斐国造が出たという系図も中田憲信編『諸系譜』に見えることから、これに拠って上記書を編纂した事情がある。しかし、『集成』の記述が不徹底なことに、甲斐国造一族の壬生直や小長谷直については、倉毘古から後の系図を彦坐王系統の氏族グループ(これを「日下部氏族」、あるいは「丹波氏族」と総称されよう)のなかで掲載したから、内心はその不統一性に忸怩たるものもあった。

 こうした事情が前にあって、私にとって長い期間抱えてきた課題なのであるが、このほど東国の大豪族毛野氏を総合的に究明する過程のなか、甲斐国造の祖系や国造の地位・位置づけに関わる手掛かりを得たので、ここに提示して皆様のご批判等をあおぐ次第でもある。


 本件検討の前提ないし基礎事情

 甲斐国造は東国でも辺地の小国造にすぎず、中世では清和源氏に出た武田一族が甲斐国内におおいに繁衍して、信玄・勝頼の時期まで同国を中心に長く勢威を振うから、古代の氏姓国造の系譜などは、私の関心とは別にして、かなりマイナーな問題ではないかとも考えていた。長い期間、この問題を放っておいた感じもあるのは、主に特段の手掛かりを認識できなかったことに起因するが、両毛地方の毛野氏を総合的に、かつ踏み込んで種々検討するうち、この氏族や彦坐王系統の諸氏族が海神族系の磯城県主の初期分流に出ており(彦坐王を開化天皇の皇子、崇神天皇の弟に位置づける部分の記紀の皇室系譜は、後世の改編によるものであることに注意)、本来、イソベ、「磯部・石部」を氏とすることが分かってきた事情がある。
 これまでも、伊勢を中心に磯部の繁衍があり、その意味でイソベはイセベではないかとも言われたが(太田亮博士など)、伊勢の地名起源が「磯」にあったとしても、その逆はおそらくなかろう。というのは、伊勢・志摩在住の磯部については、大きく二流あって、一つは磯城県主から出た三輪君氏の支流が伊勢に行って石辺君や宇治土公磯部氏となり、もう一つは彦坐王後裔から出た丹波国造家の支流一派(同じ海神族系の尾張氏族の支流とする系図には仮冒がある)が雄略朝に保食神を奉じて丹後から伊勢山田原に移遷し、度会神主などの一族となったものである。これらが伊勢中心に中世・近世まで広く見られたし、磯部のほうが先にあったとみられるからである。磯部は石部に通じ、これらの分布地は海岸部に限らず、山間地にもかなり多い事情もある(中村修氏の「海部と磯部」、『海民と古代国家形成史論』所収)。
 現在の名字の分布でも、磯部は総じて近畿地方の東側、但馬・近江・伊勢から東国にかけての地域に多い。そのうち、伊勢から濃尾(三河は後述するが微妙な感じがある)などの東海地方は伊勢の磯部の流れとみられ、近江から北陸道、信濃及び上野・下野の両毛地方、常総や武蔵北部は毛野氏同族の磯部、三丹地方から北陸にかけては丹波道主命の流れの磯部が多いとみられる。
 ここまで書いても、甲斐国造の系譜の探究という本件の主題と結びつかないように思われるかもしれないが、これに密接に結びつくとみられるのが「甲斐の磯部」なのである。その具体的な結付きは次項以下で述べていくこととするが、この辺が私自身も長い間、気づかないできた。

 ちなみに、これまでの学究の検討を探ってみると、意外に熱心に本件が取り上げられ、論じられてきたことに驚く。管見に入った主なところでは、関晃、磯貝正義、鈴木正信、古川明日香などの諸氏(敬称略)に関係論考が見られる〔註を参照〕。その概要をとりあえず言うと(論拠と詳細は、この後に本文で記述)、甲斐国造の祖系についてはあまり言及がないが、総じて、甲斐国造は当地土着の古族の流れを引くもので中央とは関係がなく、同じ姓氏「日下部」を名乗ることからその系譜を中央の日下部連に結びつけ、祖系を架上させて擬制系譜的に彦坐王・狭穂彦王につないだとみられており(開化天皇系を端的に否定していない見方もある)、姓氏は日下部直あるいは甲斐直とされる。
 戦前期までは記紀など八世紀以降に成立した文献史料に記される六世紀以前の記述を史実とみなす考え方が一般的であったが、戦後には、津田博士の影響で、これらの文献には伝承や造作がに拠るものが多いとされる傾向が強い。十分な史料批判を行い考古学的知見とを総合する態度が古代史学界では一般的となったが、この姿勢は合理的で正しいとしても、その検討結果や論理が妥当かどうかは別問題である。この辺は、本来混同してはならないことだが、甲斐国造も他の地方国造と同様に、ヤマト王権(の王族や有力諸氏)と直接の血縁関係は持たず、弥生時代以来の在地首長がヤマト王権に臣従して任じられた、と総じて考えられている。
 しかし、これら先学の研究は、参考になる点が多いものの、氏姓や系譜の検討をしていながら、肝腎の系図や神社・祭祀について具体的な検討がなされてこなかったという大きな欠点がある。この辺が、戦後の古代史学に総じて欠落するという特徴でもあるのだが。
 
〔註〕甲斐国造関係の主な論考
 『山梨県史』(二〇〇四年)及び『甲府市史』(磯貝正義氏執筆)、式内社関係の各種資料のほか、
@関晃氏「甲斐の国造と日下部」(『甲斐史学』甲斐特集号、一九六五年)
A磯貝正義氏「伝説と史実―甲斐の古代史をめぐって―」(『徽典會』会報第三号、一九六六年)
B鈴木正信氏「甲斐国造の「氏姓」に関する再検討」(『日本史研究』五八四号、二〇一一年)、同「甲斐国造の系譜に関する一考察」(『彦根論叢』三九一号、二〇一二年)
C高橋富雄氏「国造制の一問題−その貢馬の意味−」(「歴史学研究」二四四号、一九六六年)
D古川明日香氏「甲斐国造日下部氏の再評価─『古事記』・「国造本紀」の系譜史料を手がかりに」(山梨県立考古博物館の『研究紀要』二六号、二〇一〇年)
E末木健氏「甲斐と河内と馬」(山梨県立考古博物館の『研究紀要』二一号、二〇〇五年)「甲斐国古代氏族と墨書土器」(『甲斐』一〇九号、二〇〇五年)


 甲斐における磯部の存在

 毛野氏検討などの過程で、東国各地における磯部の分布を追いかけるうち、甲信地方における磯部の存在につきあたった。
 信濃の磯部は、埴科郡に磯部郷が『和名抄』にあげられており、それが北陸の磯部・石部から両毛のそれにつながる結節地点ともなっている。磯部・石部の地名や神社は甲斐にはなく、毛野の移動経路からもはずれているので、甲斐についてはあまり気に留めていなかった。ところが、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』にはイソベの第34項に甲斐の磯部について触れ、甲斐三宮の国玉大明神(玉諸神社。甲府市国玉町)の旧社家(祠官家)が磯部氏だと記して、次のように記述する。
 「寺社由緒書抄に文政九戌年九月磯部出雲正冬花押とあり。当国磯部氏は佐々木氏流なりと伝ふ。信濃にも磯部氏あり。……」と。
 これに限らず、甲斐の磯部氏は社家として近世まで永く続いて「磯部文書」を遺し、東大史料編纂所には磯部正佐(山梨県西山梨郡国里村)原蔵の謄写本がある。この磯部氏で最も著名なのが、武田信玄・勝頼親子に仕え長篠合戦で奮戦空しく討死した磯部竜淵斎名は正清)である。武田信虎の時代から甲斐武田氏のもとで働き、弓馬の達人として知られて、各地に出陣した。信玄の時代には、天文十五年(一五四六)頃の「八月十二日付け」で竜淵斎宛に信玄自らが信濃出陣中の諸将の様子を伝えて、意見を問うている。玉諸神社の西側、大橋の森の傍らに深き淵があって「竜の淵」と呼ばれたが、磯部家四五代当主「竜淵斎」はこの淵の名に由来するという。
 『角川日本姓氏歴史人物大辞典 19山梨県』には、玉諸神社神主磯部隼人家の神主系譜略によると、その家祖は大山守命の後胤、磯部善見麿の三男で甲斐国総鎮守国ノ御魂社宮司に任じられた磯部豊麿であり、その八代の後、武田氏から武正が養子に入って武田を名乗り、その十四代が上記の正清で、武田氏滅亡の時に次代の正元が磯部に復し、子孫は同社神主を歴任したという(甲斐国社記・寺記。傍線部は疑問あり)。竜淵斎については、先の四五代という伝えもあるから、いずれにせよ、太田博士が言う近江佐々木氏(盛綱後裔の磯部氏)の末流ではありえないし、大山守命(応神天皇の皇子)の後裔説にも疑問が大きい。武田氏が滅びた後も、社家磯部氏は近世まで続いたことが史料に見える。上記の角川大辞典によると、山梨県内に磯部が九七戸、礒部が六戸、磯辺が三戸あるとされる。
 甲斐では、ほかの古社家も永く続いたようで、一宮浅間神社の古屋(降矢)氏、二宮美和神社の坂名井氏も知られ、前者は中央の大伴連一族の貴重な古系図を伝える(社家の大伴直はこれに系譜附合をしたものか)。三宮玉諸神社を含め、それぞれが上古の甲斐国造一族から出た可能性もある。

 そこで、玉諸神社の創祀伝承を見ると、倭建命東征に密接な関連があることが知られる。『古事記』に拠ると、東征の帰路、甲斐まで来た倭建命は、酒折宮での「御火焼の老人」を「東の国造」に任じたといい、『書紀』ではこの者をあつく賞するとともに、遠征随行の大伴連の遠祖武日には靱部を賜ったと見える。当該「御火焼の老人」を甲斐国造初祖の塩海足尼とする見方(酒折宮社務所由緒や原秀三郎氏『地域と王権の古代史学』)もあるが、これは比定者が史実と異なる。塩海足尼はそもそも老人にはなっていなかったともみられる。また、物部系の人でもなかった。
 もうすこし説明すると、酒折宮では、倭建は燈火をかかげる老人(御火焼之老人)と問答歌を交し、その知恵を賞して「東(あづま)の国造」を任じた、と見える。同書には問答歌相手の名を具体的に記さないが、天津彦根命(天孫族で天照大神の子)の後裔となる近江国野洲郡の三上祝に伝わる系譜では、一族の建許呂建凝命)のこととされ、その功績により子弟が常陸の茨城・筑波、相模の師長、上総の馬来田・須恵など東国の諸国造の祖となった(「国造本紀」など)。鈴木真年も、当該老人を建許呂命とする(『日本事物原始』)。問答歌の問いが、「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」(常陸の新治・筑波を過ぎてから、幾夜寝たのだろうか)で、その答が日数を重ねて九夜十日だ、という歌の唱和であるが、これにとどまらず、「火」とは食膳奉仕の火であって、服属儀礼につながるという見解がある(中西進、前之園亮一氏など)。
 とはいえ、倭建命に甲斐で応対したのが塩海足尼であったことは、神部神社などの所伝にも言うところである。これに限らず、甲斐の神社には金桜神社(甲府市)や大嶽山那賀都神社(山梨市三富)など、倭建命にまつわる創祀伝承が多い。倭建東征伝承を、具体的な根拠なしに、後世に作り出された架空の物語として切り捨てることはできない。後に誰々に仮託されたなどという論法も、根拠が薄弱である。以下に具体的に現地に即して、先学の論究も含め甲斐国造に関連する事柄を見ていこう。


 甲斐国造とその事績・姓氏

 甲斐国造とは、上古に甲斐国全域を支配した氏姓国造であり、その系譜は『古事記』及び「国造本紀」に見える。両書ともに、開化天皇の孫の沙本毘子王(狭穂彦王。彦坐王の子)を祖とするとの伝承がある。しかし、具体的に当該国造の氏人の活動が史料に見えるわけではない。一般に、氏姓国造は、一族として名代の民の地方的管掌者(伴造)をつとめるほか、中央王権に対し幾多の負担を負った。男子の子弟を舎人や膳夫として、姉妹や娘を采女として貢進したのは人質的負担の例であり、国造軍を編成して大和朝廷の軍事行動に参加したのは軍事的義務であった。
 地方からの財物の貢上では、四世紀後半頃から倭王権と韓地、とくに百済との所縁が深まって馬の飼育と乗馬の風習が伝えられたことで、甲斐は馬産地として古くから知られた。甲斐国造が貢進した駿馬「甲斐の黒駒」が当時中央で駿馬として名声を博したとの記事が『書紀』(雄略十三年九月条)に見られ、壬申の乱にあっても「甲斐勇者」が騎兵として参加している。八代郡に黒駒牧(現・笛吹市御坂町の上黒駒・下黒駒一帯か)があり、その牧監(牧長)を小長谷直氏が平安期につとめたと系図に見える。
 奈良・平安時代では、国造一族の壬生直氏が史料に見える程度である。平安時代中期ないし後期頃からは、別系統の系譜を称する三枝氏(天孫族系の三枝部連の後の三枝宿祢姓で、守国の後裔と称する)が国衙在庁官人で多く見えており、学界ではやはり国造一族の流れとして、『続日本後記』承和十一年(八四四)に見える三枝直平麻呂の族裔とみられている。それも熊野神社との争いのなかで処罰され、かつ、平安後末期からは武田一族の諸氏が甲斐各地に繁衍したから(古族の跡を襲ったケースも多々あろうが)、国造族の末流が中世にあまり活躍したとは言いがたい。それでも、甲斐の中堅武家層において幾つかの国造族後裔らしき諸氏が見え、長く活動を続けたとみられる。

 ともあれ、『古事記』開化天皇段には、開化天皇が丸邇臣(和珥臣)の祖・日子国意祁都命(彦国姨津)の妹・意祁都比売命を娶って生まれたのが日子坐王(彦坐王)で、同王が春日の建国勝戸売の娘・沙本の大闇見戸売を娶って産んだ子が沙本毘子王・オサホ王であって、沙本毘子王が甲斐国造及び日下部連の祖と記される。「国造本紀」では、纒向日代朝(景行天皇の御世)、狭穂彦王の三世孫、臣知津彦公の子、塩海足尼が甲斐国造に任じられたと記される。更に、但馬の神部直氏の系譜を記す『粟鹿大神元記』には、先祖の武押雲命(三輪君の祖・大田々祢古の曾孫)の母を、「甲斐国造等が上祖狭積穂彦命の女、角姫命」と記される。系譜関係で史料に見えるのはこの三つの書だけであり、『日本書紀』では、狭穂彦王について甲斐国造との関係を何ら言及しない。
 狭穂彦は、妹・狭穂媛が垂仁天皇の皇后に入り、狭穂彦本人が垂仁朝に反乱を起こして討伐されたと諸書に見え、一方、垂仁天皇の実弟たる景行天皇(記紀では景行天皇は垂仁の皇子に置かれるが、これは後世の変更による)の時代に、狭穂彦の後裔で「三世孫」(ないし「四世孫」)にあたる塩海足尼が活動できるはずがない。狭穂彦と塩海足尼とが、ともに実在の人物であったのならば、活動年代の差異はせいぜい叔父甥という間柄(一世代の差)くらいにしか考え難いのである。そのため、『集成』編纂のときは上記両書の記事が信じがたいと私見では考えて、別途、東国諸国造や三枝部連氏の祖・建許呂命(天孫族系で、天照大神の子の天津彦根命の後裔)に関係する系図のなかに、その同族に出た塩海足尼が見えることから、こちらのほうを採用した経緯があった。
 塩海足尼以降の系譜の信頼性は認められるとしても(この辺もこの続きで検討する)、その祖系が、海神族系の磯城県主支流だったか、天孫族系の天津彦根命後裔かということで、具体的にはその祭祀などの行動に大きな差異がでることになる。

 これまでの学究の研究にあっては、津田左右吉博士の影響で、総じて上古関係の記紀記述を切り捨て気味に取り扱い、さほどの検討なしで後世の造作とみる傾向があるから、甲斐国造の皇別出自という系譜をまったくの架上・附合だと否定して、皇室とは直接の血縁関係をもたず、もとから現地にあった地方豪族の出と位置づけたうえで、その姓氏を検討するむきが多い。その結果、甲斐に日下部という部民が見えること(笛吹市東北部の小原・七日市場あたりには、旧山梨郡日下部村もあった)、狭穂彦王の後裔の主流が日下部連とされることなどから、国造の姓氏はおそらく日下部直であって、同じ氏の名をもって日下部連と同族と称したものであろうとされる。
 もう少し言うと、甲斐国では『正倉院宝物』の調庸金青袋白七〇五年)に「甲斐国山梨郡可美里日下部□□□ 一匹 和銅七年十月」の墨書銘がある。山梨郡可美里は笛吹川上流、今の山梨市北部辺りかとみられている。この地の日下部某が、調か庸の布として出したあしぎぬ。粗製の絹布)が、今に残る。その南方になる笛吹川南岸の笛吹市一宮町坪井大原に所在する大原遺跡から出土した墨書土器の「日下」の文字からも、山梨郡には王族に従属する名代の日下部が置かれたことが分かる。
 日下部は、東海道や東山道などを含め全国的に広く分布する。国造の氏姓に関しては、関晃氏以来、『古事記』等に同祖と記される日下部とされ、姓は地方国造に多く見え、甲斐でも他の部民管掌氏族と同族関係があって、共有するカバネの直だと推定された。この日下部直説がいわば通説的な位置を占めた(木簡に見える「日下部公」は甲斐の人かどうかの確認はできない)。
 これに対して、鈴木正信氏は、二条大路出土木簡に「左大舎人甲斐□」と見えること、他の国造の姓氏は管轄国の名をそのまま用いる傾向があることを踏まえて、甲斐に分布する氏族には直姓をもつものが極めて多いことなどから、庚午年籍以前における氏姓が「甲斐直」であったとみた。国造がその国に置かれた名代の民の地方的管掌者を兼ねる例は珍しくないからであるという日下部直説の理由づけは、実は疑問が大きい。国造一族から名代の部の管掌者を出したことは確かだが、管掌者が国造本宗家自体であったとするのは疑問だということである。もちろん、本宗家の衰滅などで、名代管掌の一族が替わって国造になることはあったが(武蔵などに例がある)、それとは話が別である。
 しかし、これら両様の見方にはともに疑問がある。とくに前者のほうは、日下部直の存在は史料に見えないし、中世武家などでもその後裔らしき者がまるで見えないからである(ただ、実在性は否定しないが、後裔も含め史料になんら見えないことは、勢力の弱さを示唆する)。かつ、国造の姓氏については、鈴木正信氏の指摘のほうが総じて妥当とみられるからでもある。「日下部」は、雄略朝に皇后若日下王(草香幡梭姫)のため全国各他に設置された名代であり、氏の起りが垂仁朝頃、姓の起りが履中〜允恭朝頃だとすると、日下部直の前は甲斐国造はどういう姓氏の名乗りをしたのかという問題すら生じる(戦後の古代史学界においては、文献を無視して、氏姓制度の成立時期を勝手に遅くに引き下げるが、こうした恣意的な史料操作には疑問が大きいものがある)。
 その一方、「甲斐直」という姓氏も史料には見えない。ちなみに、鈴木真年関係の系図史料には、当初は姓氏が甲斐君で、後に庚午年籍のときに甲斐造に変わり、一族に小長谷直・壬生直が見える。彦坐王後裔の但馬(但遅麻)国造では、国造の姓氏がおそらく但馬君で、一族に日下部君があった。但馬君は史料などにあまり見えないものの、日下部君の後裔諸氏のほうは但馬や近隣に繁衍し、中世越前の朝倉氏などもその支流であった。


 甲斐の古墳時代の状況

 甲斐国は『和名抄』に四つの郡(山梨、八代、巨摩、都留)があげられ、中央部の甲府盆地を占めるのが北部の山梨郡、南部の八代郡であって、この主要地域に国造が居たことに間違いなかろう。そのうち、最初に栄えたのが八代郡という見方もある。すなわち、甲府市南部の旧・中道町には、古墳時代前期の当時、東日本最大級とされる甲斐銚子塚古墳中道銚子塚)が築造された。その時期は四世紀後半頃とみられており、倭建命が遠征の途次に配布した可能性のある三角縁神獣鏡の出土もこの地域からあり、こうした副葬品や畿内の古墳と類似する古墳型式から見て、畿内王権の影響の大きさが窺われる。その被葬者は、倭建命に応対した塩海足尼が候補としてまず考えられ、かつ、中道町あたりにはほかにも前期古墳が多く見られるから、この地域を上古の甲斐の中心域とみるものである。
 その一方、甲斐の祭祀の中心は甲府盆地北部の山梨郡のほうにあったから、普段の居地は北部のほうであって、南部の八代郡のほうは奥津城としての位置づけを考えるほうが妥当とみられる。もっとも、北部・南部と言っても同じ甲府盆地のなかだから、それほど距離が遠いわけではなく、南北が同じ勢力だと考えても無理がない。
 六世紀頃の古墳時代後期になると、古墳も甲府盆地の北部のほうに造られるようになる。現在の甲府市、笛吹市のあたり、旧郡名でいうと、山梨郡西部と巨摩郡東部のあたりで、笛吹市御坂町井之上(旧・御坂町)に姥塚古墳、甲府市千塚町には加牟那塚古墳と、石室の大きさで見ると全国十指に入るような後期の円墳が六世紀代後半に造られた。これらの古墳の築造者については、物部氏などを考える見方があるが、総じて国造一族の墳墓であろう。これらは現在の国道一三七・一三八号にあたる「御坂路」の沿線や延長線上に位置しており、甲斐の基幹道路の道筋が、四世紀頃には西側の中道往還だったのが、東回りの御坂路に移動したとされる。この原因としては、馬を使った陸上交通が要となったことで、高低差の大きい中道往還よりも、だらだら坂の御坂峠の方が好都合だったのではないかとみられている。
 以上に見るように、甲府盆地のなかでも主要道路や古墳分布に変化があったものの、甲斐国造の本拠地は、塩海足尼以降は一貫して北部の山梨郡にあり、なかでも考古遺跡や主要神社・祭祀などから見て、笛吹市の旧春日居町あたりから甲府市東部にかけての地域ではないかとみられる。
 初祖の塩海足尼は後年、山梨郡塩田(笛吹市一宮町塩田)に住んだと伝え、当地の国立神社の祭神の一とされる。同社は甲斐国造族の出とみられる三枝氏の氏神とされる。塩田長者といわれるのが降矢氏で、この降矢姓の由来となる矢石も当社境内に残される。降矢・古屋などの苗字は、一宮浅間神社の祠官家で有名だが、『古屋家譜』に言う中央の大伴連氏の後ではなく、国造一族に出たことがこの事情からも知られる。
 
 甲府市南部、旧中道町の曽根丘陵にある中道古墳群の前期古墳について、もう少し触れておく。
 玉諸神社の南西方近隣七・五キロほどの笛吹川南岸、旧東八代郡中道町、現甲府市下曽根町に先に触れた甲斐銚子塚古墳がある。全長一六九Mの大古墳で、三角縁神獣鏡や内行花文鏡等鏡五面や石釧・車輪石、鉄製刀剣、円筒埴輪U式などを出土した。特殊器台系譜をひく初期円筒埴輪は、静岡県磐田市の松林山古墳、群馬県太田市の朝子塚古墳とも共通する。甲斐銚子塚から出土の三角縁神獣鏡が、備前車塚や群馬県三本木古墳・神奈川県真土大塚山古墳・福岡県藤崎遺跡(六号周溝墓)等からの出土鏡と同笵関係にあり、東征経路上にある群馬県西部の三本木古墳ともども倭建遠征隊から同鏡の分与を受けたものか。備前車塚の被葬者は吉備武彦の近親女性関係者かとみられる。甲斐銚子塚の営造時期について、玉類に碧玉勾玉を含むことを重視して四世紀後葉とみられている(今西氏『円筒埴輪総論』など)。
 その南西方の米倉山中腹には、県内唯一の前方後方墳の小平沢古墳(全長四五M)があって、斜縁神獣鏡やS字状口縁付台(S字甕)を出した。近くには鏡三面ほどや鉄鏃・鉄斧・竪矧板革綴短甲等を出土した大丸山古墳全長が九九M、ないし一二〇M)もあって、出土の三角縁神獣鏡は岐阜市坂尻一号墳や静岡県磐田市の寺谷銚子塚古墳と同范鏡関係にある。坂本美夫氏は、小平沢・大丸山が甲斐初現の古墳で、四世紀後半とみたが、もう少し時期が早いか。橋本博文氏は小平沢古墳を大丸山に先行するものと位置づけ、上の平遺跡(曽根丘陵公園の南側一帯に広がる遺跡で方形周溝墓群もある)の勢力基盤の上に立つ東海地方西部からの入植者集団の首長墓と位置づけた。
 大丸山は、組合式石棺の蓋石上に割石小口積みで竪穴式石室が構築される特異な形態で、京都府向日市向日の妙法山古墳との類似が指摘されている。妙見山の組合式石棺は、大阪府松岳山古墳の石棺とともに長持形石棺の祖型として重要な位置を占め、四世紀後葉の時代とみられている(ともに平良泰久氏の見方)。妙見山と大阪府紫金山古墳との間、紫金山と奈良県新山古墳との間には同笵鏡関係があるから、これら諸古墳の築造は時期を少し引き上げた四世紀中葉とみたほうがよい。これら近隣には、初期土師器(ハソウ)を出した中道天神山古墳(全長一三二M)もあって、時期には諸説あるが、上記の甲斐最古級に次ぐ存在であろう。
 これら諸古墳の地が甲斐国造一族の初期の墓域であった。規模が小さめの小平沢古墳や円墳(丸山塚は、銚子塚の妻が被葬者か)を除き、上記前期大古墳の築造順については、大丸山→銚子塚→天神山という見方が多く、その場合、〔Aケース〕大丸山の被葬者が甲斐国造の初代塩海足尼(景行朝に定賜国造)とするならば、→第二代の速彦宿祢→第三代の百襲彦、に三古墳が各々対応するものか。あるいは、〔Bケース〕銚子塚の被葬者が初代塩海足尼ならば、大丸山がその先代の臣知津彦、天神山が第二代速彦宿祢という考え方もありうるもので、拙見は、いまは後者のBケースのほうにやや傾いている。

 要は、塩海足尼の墳墓かとみられる古墳よりも先に造られた首長用の古墳がこの地区にはあると考えられ、その場合、築造者一族は、国造設置の景行天皇朝よりも前の時期から甲斐に来ていたことを意味する。甲斐の主要古社の創祀も、垂仁朝とするものが散見する。甲斐近隣の信濃(科野国造)や武蔵の秩父地方(知々夫国造)では、崇神朝に国造設置がなされたと「国造本紀」に記されるから、甲斐でも、同じ崇神朝とまではいかなくとも、垂仁朝ごろには塩見宿祢の父祖が到来した可能性がある。そうすると、それに当たるのが「国造本紀」に見える臣知津彦公で、その場合、垂仁朝の狭穂彦とほぼ同世代の人物となろう。狭穂彦は大和で乱を起こし戦死するから、その近親の例えば同母弟・ヲサホ(小狭穂彦。『記』の袁邪本王)にあたる者の実名が臣知津彦ではないかということでもある。
 ちなみに、袁邪本王は、『古事記』に葛野別・近淡海ノ蚊野別の祖と見えるが、葛野別は山城国葛野郡の氏とみられ、近江国愛智郡の蚊野別は後に軽我孫君となった。この事情から、父の彦坐王と共に滋賀県愛知郡愛荘町蚊野の軽野神社の祭神とされるほか、同県長浜市木之本町川合の佐波加刀神社(伊香郡の式内社)の祭神のなかに名を連ねる。サホヒコや志夫美宿祢王などの兄弟も佐波加刀神社に祀られ、サホヒコは同じ愛荘町蚊野外の御霊神社に祀られるが、袁邪本王との混同もあったかもしれない。太田亮博士は、甲斐の塩海・塩見はシブミ(渋見)に通じると説くが、これが妥当するのなら『記』にサホヒコの兄弟におく志夫美宿祢王が塩海足尼にあたりそうでもあるが、一応、サホヒコと塩海足尼とは一世代の差異があるとみておく。志夫美宿祢は「佐々君」の祖と見えるが、この氏については不明である。

 旧中道町の上記古墳群は米倉(こめくら)山の北麓一帯にあるが、最も近い式内社(の論社)が甲府市下向山町にある佐久神社であり、曽根丘陵公園の南側近隣で、米倉山山頂の真東近隣に位置する(一・五キロ弱で、社地は若干の変遷ありという)。祭神は主神が土本毘古王で、及び建御名方命・菊理姫命を配祀とされるが、所伝は種々混乱があり、主神の別名を手力雄神といったり、甲斐国造になったとして祖の沙本毘古王に当てたり、綏靖天皇朝の大臣だとしたりする。後世の訛伝も多くあるようで、原型は把握しがたいが、あるいは狭穂彦の近親で最初に甲斐に来た国造家の祖かもしれない。
 佐久神社の論社は、笛吹市石和町河内にあって、祭神を岩裂・根裂の両神及び天手力雄命とするが、鎮座地などから同社が甲斐国造に関係があった神社とみられよう。『甲斐国志』には、小石和筋河内村の佐久明神社が下向山の佐久神社に御幸したと見え、古社地にあった神社が洪水で流されて富士川西岸の鬼島(南巨摩郷鰍沢町)にも祀るといい、ここにはいまも蹴裂明神社がある。甲府市の穴切大神社の社伝では、甲府盆地がまだ湖水が多かったので、時の国司が国内を巡見して、湖水の跡を良田にしようと考え、大己貴命に祈願こめて、多くの人夫を用いて鰍沢口を切り開いたといわれるから、甲斐の岩裂く神が信濃の佐久神(天手力雄命)とは異なっても不思議ではない。南アルプス市下宮地の神部神社(三輪明神)の曳舟神事は甲斐盆地の湖水伝説と密接に関連するという。

 上記古墳群の東北方五キロ余にあるのが八代郡式内の桙衝神社の論社の一つ(笛吹市八代町米倉)で、祠官家は米倉(よねくら)氏、一族に宮脇氏もあった。この氏は武田一族から出たと系図に言い、後に幕藩大名も出したが、実際には古族末裔か古族の跡を武田一族から嗣いだものであろう。同名の桙衝神社は福島県須賀川市にもあって、磐瀬郡の式内社(中世岩瀬郡の総鎮守)とされ、同社の案内板によると、日本武尊が東征の折、この亀居山(神居山)に柊の八尋の矛をつきたて、武甕槌神を祀ったのが神社草創の初めだといわれる。甲斐のほうの祭神は現在天鈿女命とされるが、これら祭神よりも八千矛神(大己貴神)に通じそうな感もある。甲斐の桙衝神社の論社の一つが笛吹市御坂町二之宮の美和神社(祭神が大物主命。米倉の八キロほど北東に位置)で、その古社地にあるのが同市御坂町尾山の杵衝神社(二之宮の二・五キロほど東南で、古くは山宮様、山宮喜筑明神と称)とされる事情もある。美和神社の社伝によれば、景行天皇四十年の日本武尊東征の際に大和から勧請し、国造塩海足尼を祭主として祀ったのが創祀という。
 
 続く

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