古代氏族系譜集成にみる土岐一族−土岐一族関係系図の各種検討(試論)−宝賀 寿男
1 はじめに−土岐一族についての系図など 土岐一族の分布を見ると、殆どが美濃の地で、近隣の尾張に若干あり、あとは三河、伊勢という地域でも土岐一族と称するものが見られるが、総じて美濃とその近隣地域にある。ところが、鎌倉後期に分かれた土岐支族に、土岐頼貞の兄・隠岐孫太郎定親の次男彦次郎師親(美濃国恵那郡遠山荘原郷〔現恵那郡山岡町〕に移り住んで原氏を名乗る)を祖とする土岐原氏というのがあり、室町前期には美濃から遠く離れた常陸国の南部で霞ヶ浦の南岸、信太郡江戸崎(現茨城県稲敷市江戸崎〔もと稲敷郡江戸崎町〕)に遷住して戦国期に至り、たんに土岐氏と名乗っている。
戦国期には、この土岐氏に美濃の土岐本宗から養嗣が入るが、土岐政房の第三子治頼(政頼〔盛頼、頼純〕、頼芸〔ヨリノリ、ヨリナリ。ヨリアキとも〕の弟)がそれで、その子孫支族が龍ヶ崎(現竜ヶ崎市で、江戸崎町の西隣)に居城している。この龍ヶ崎の土岐一族に伝えられた系図に重要なものがある。
ところで、最初に土岐原氏と隠岐孫太郎定親を取り上げたのは、二つの意味がある。
※土岐定親:嘉元三年(1305)五月、侍所別当北条宗方の意を受けて、連署の北条時村の討手となった十一人のなかにあり、この時に殺される。土岐孫太郎入道鏡園(鎌倉年代記)、土岐孫太郎入道行円(武家年代記)。
第一は、土岐一族関係の系図史料に関してである。
頼芸は、弟・治頼の子の治英に対し、「当家継図一書送之候」という内容の書状を送っている。これは、土岐氏の惣領としての立場を治英に対し認めた行為とも受け取れる。治英の次男胤倫が龍ヶ崎城主であり、秀吉の小田原征伐の時に没落したが、その子・頼房(朝房)は慶長十六年徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられ、名字を土岐から豊島に改めて、紀州藩主の徳川頼宣に附属された。大坂の陣には、主君頼宣に従って出陣した。その後、曾孫の朝治(半之丞、信濃守)の代に、紀州藩主吉宗が将軍家になるのに従って幕臣となり土岐に復した。
頼芸が甥の治英に贈ったとみられる上記系図について、その原型を窺わせる系図が東大史料編纂所に現存している。これが「土岐系図」(以下「子爵家本」という)で、子爵土岐章氏の所蔵本が大正七年(1918)十月に影写されたもの。その末尾に「濃州太守従頼芸被許之畢于旨天文拾二季癸卯(1543)五月廿六日贈賜之」と記されるが、その時期よりあとの吉宗将軍の時の朝治まで書込みがなされている。その意味で原型そのものとはいえないが、土岐原氏の系図の部分の殆どが原型のとおりではないかとみられ、本来は沼田藩主家に伝えられた系図ではない。この系図は、現在に伝わる土岐氏の系図のなかで由緒がはっきりしており、比較的信頼性が高いものとみられる。
ご存知のように、沼田藩主であった土岐子爵家は土岐明智氏の流れであるが、この「土岐系図」には、明智氏の系図は室町中期頃までしか記載されていない事情にある。明智太郎国篤の子の民部少輔・十郎頼忠(イに頼尚とある)までの系図があげられ、この最後の頼忠は多くの明智系図に見える頼秀に相当するとみられる。(ただし、イ〔異伝〕に見える頼尚はその子か。)
土岐章氏の実父で、家督相続上では祖父にあたるのが、土岐頼知(ヨリオキ)氏であり、華族となって明治六年(1872)六月に宮内省に呈譜した「上野沼田 土岐家譜」(以下「土岐沼田系図」という)の写本も史料編纂所に所蔵されている。
このほか、徳山ひさ氏所蔵本※を大正十一年に謄写した「土岐家伝系図」(正本、別本、大系図の三本がある。以下「徳山本」という)や「明智氏一族宮城家相伝系図書」(以下「宮城系図」という)、鈴木真年翁編纂の鈴木叢書のなかに『明智系図』(以下「鈴木叢書本」という)が東大史料編纂所に所蔵されている。
土岐一族の系図では、『続群書類従』には「浅羽本土岐系図」など土岐・舟木・明智・多治見氏の系図が合計六本掲載されており、『寛政譜』や『諸家系図纂』『系図纂要』にも土岐一族についての系図記載がある。以上が土岐一族の系図の主だったところだが、個別にまだほかにも重要な系図が伝来しているかも知れない。
※ 徳山氏は江戸幕府の旗本の家で、美濃国稲葉郡d加村居住して、土岐池田頼世の子という徳山頼長の子孫と称した。
これら系図や諸史料を通じて、土岐一族の系譜を考えてみることにしたい。そのなかで、土岐原氏や蜂屋氏の始祖隠岐孫太郎定親をあげたのは、鎌倉期の土岐氏歴代の系図関係を考える意味で重要な人物であるということからであり、これが第二の意味である。 このほか、実は隠し味的にもう1つ意味があって、隠岐孫太郎定親の長男近江守貞経の子孫の蜂屋氏が居城としたのが加茂郡蜂屋(美濃加茂市蜂屋町)の堂洞(どうぼら)城であり、戦国期に蜂屋頼隆のあとを受けてその城主となったのが岸勘解由左衛門尉信周(のぶちか)という人物である。この岸信周という者が土岐一族の系図とどのような意味をもつのかは、あとで述べることにしたい。蜂屋氏も居住地が可児郡明智荘と近隣であり、明智氏と通婚があった。例えば、室町前期の明智頼篤の室は蜂屋新蔵人源康光の女だと「宮城系図」に記される。
さて、拙著『古代氏族系図集成』1986年刊行。鈴木真年・中田憲信という明治の系図研究の大家二人の業績などを基礎にして各種の古代氏族系図を編纂した系図資料集。
鈴木真年:『百家系図』『新田族譜』『諸氏本系帳』『諸氏家牒』『諸国百家系図』等
中田憲信:『諸系譜』『各家系譜』『皇胤志』等
このほか、宮内庁書陵部、東大史料編纂所、静嘉堂文庫や筑波大付属図書館、西尾市立図書館(岩瀬文庫)など各地の図書館の蔵本を、各種の氏族系譜関係論考などの検討を踏まえて、校合・整理したものが上記拙著である。
なお、『古代氏族系図集成』自体には、土岐一族は取り上げていない。というのは、同書は主対象を古代(主として平安末期までとされる)において、南北朝期までの人物を一応考察している事情に加え、いわゆる源平藤については系図が数多くあることから、原則として記載対象としていない。とはいえ、古代からの氏族が系図を仮冒して源平藤などの姓氏を名乗るものは、史料をもとに取り上げる形で記載。
鈴木真年翁や中田憲信も、上記『諸系譜』等には若干の記載はあるものの、めぼしい土岐一族系図の収集がない。そのため、土岐氏自体は本書からは除外となっているが、系図研究の視点などで多くの示唆が得られる。ここでは、この視点を踏まえて記したいと考えている。
2 土岐一族の系図など中世系図を見る視点(抄)
土岐一族の系図を考える場合に考慮すべき問題点としては、 @ 世代比較 これは、生物学的に妥当な年齢差(25〜30歳ほど)で世代交代をしているかという観点からの問題である。 鎌倉殿から建武頃の人までの世代……中間に四代(ないし五代)ほど
建武から応仁の乱頃の人までの世代……中間に三代ほど(先祖から数えて5代目)
応仁の乱頃から信長・秀吉・家康頃(織豊期)までの世代も、中間に三代ほどの世代。言い換えれば、織豊期の人から四世代遡れば応仁頃の人となる。
A
異体字と誤記・誤字
系図には誤記・誤字が多く見られ、それが相互に誤用される。例えば、土岐一族関係系図によく見える漢字でいうと、澄と隆、綱と継、秀と季、貞と員、光と元など。
B 姓氏と苗字(名字)、複苗字
各種史料に土岐明智氏、土岐長沢氏などの形で現れることから、土岐一族かどうかの判断材料となるが、例外にも留意。
C 武士の呼称 次郎、小次郎・新次郎、孫次郎、彦次郎、又次郎、弥次郎。
一般には、小(新)、孫、彦と世代をおって続くが、又、弥も使われる。
しかし、いつも太郎、次郎、三郎……十郎、余一、という順の通称になるわけではないなどの注意も必要である。親や兄弟の呼称との関連にも気をつけてみる。
呼称や官職名の世襲も見られる。土岐本宗では、室町前期の頼益以降、嫡子・歴代は代々「二郎、美濃守、左京大夫」を襲名した。
3 土岐氏の系図の具体的な問題点 そのそも、土岐氏の始祖(初代)とみられるのが鎌倉初期、『東鑑』建久四年(1193)五月八日条の記事に見える「土岐三郎」であり、将軍家頼朝の富士裾野の藍沢の夏狩の随行者として現れる。この者は一般に光衡と想定されているが、この比定が正しいかどうかは不明(相模の梶原一族・糟谷氏、武蔵の岡部氏に続き、常陸の宍戸氏、相模の波多野・河村氏に続く掲載順から)。土岐氏関係の系図では、光衡を土岐始祖とするのが多い。
土岐氏が清和源氏頼光流の「国房(頼光の孫)−出羽守光国−出羽守光信−伊賀守光基」という流れを実際に汲んでいるかは、いまのところ、系譜の確認・史料裏付けができない。とくに伊賀守光基に実子があるにもかかわらず、その弟・光長の子とされる光衡が後継者となって、これが土岐氏の初代となったという点については事情が不明であり、いまだこの関係の説明資料は管見に入っていない。
『東鑑』では、建保四年(1216)から嘉禎二年(1236)にかけて見える土岐左衛門尉光行が土岐氏の実質的な初出としてよいのかもしれない。同書では、鎌倉時代の土岐一族の者はほかに見えない。
多くの系図を収集した鈴木真年翁や中田憲信に関係する系図資料でも、土岐氏の端的な良本系図は見られない。先にあげた明智系図の「鈴木叢書本」でも、内容的には良質とはとても言えない部分がある。それどころか、この系図の後半はきわめて疑問である。なぜなら、光秀の弟に筒井順慶や明智光春をあげるなどの誤りが見られるから。しかし、真年翁は『史略名称訓義』の光秀についての説明において、「鈴木叢書本」に依拠した記事を載せている。
私の問題意識では、土岐氏の系図についての最大の謎は、実は、この土岐氏の出自が清和源氏かどうか(美濃の古族の末流ではないのかという懸念)という点にあるともいえる。しかし、いまのところ、これ以上立ち入って検討する材料がないので、ここでは取り上げない。
おそらく初期段階の分岐とみられる土岐長沢氏の系譜が分かれば、一つの手がかりとなりうると思われるが、越中国婦負郡長沢に苗字の地を有するとみられる長沢氏の系図は不明(苗字の地を大垣市長沢町という説もあるが、越中のほうでよいか)。『尊卑分脈』記載の長沢氏についての系図部分には裏付けがない。左衛門尉光長の子で光衡の兄弟の左衛門尉光経の子孫とされ、その子出羽守光助が越中国長沢に居住したのが起こりと伝え、永享年中(1429〜41)及び文安年中(1444〜49)の「御番帳」に「土岐長沢治部少輔」が見える。徳山本には、末尾に長沢先祖は分明ならずと書かれる。
本稿でとりあげるのは、それ以外の土岐氏系図の問題点であり、具体的には次の四点。
(1) 土岐氏第三代光定と第四代頼貞の位置づけ 標準的な世代比較からみて、鎌倉時代の土岐氏の歴代は世代数が不足しており、とくに鎌倉末期の惣領頼貞の隠岐孫次郎という呼称をはじめ、その同母兄弟三人の呼称にも疑問がある。しかも、長兄に隠岐太郎国時もいる。
隠岐孫太郎定親、隠岐孫次郎頼貞、隠岐孫三郎頼重という三兄弟の位置づけについては、『尊卑分脈』に三兄弟は同母(平貞時〔ママ〕女。「宮城」には北条経時女)とされる。
また、「宮城家系図」の記述では、頼貞を兄光包の養嗣で光定六男とする。
光定(土岐五郎)−光包(隠岐太郎)−頼貞(隠岐孫次郎)
1207生〜81没 1235生〜72没 1264生〜1339没
<結論> @ 年代と呼称から考えると、定親・頼貞・頼重の兄弟は隠岐太郎国時(光包)の子とするのが妥当である。『土岐累代記』には、頼貞を「伯耆守頼包」と表記するが(『列国譜』第4冊の土岐氏の記事にも美濃守頼包と見える)、そうすると「頼包」は父光包の名に由来するものか。
『分脈』の弥太郎国貞も、その上註にあるように隠岐弥太郎国経と同人であり、かつ、隠岐孫太郎定親とも同一人とするのがよい。「弥」の字は一本には「孫」と記されており、隠岐五郎貞頼については、『分脈』記載の隠岐弥太郎国経の子とされるかわりに、子爵家本には弥太郎国貞の子と記される。
なお、『分脈』に隠岐太郎国時の子として見える光方は、実際には隠岐孫三郎〔舟木〕頼重の子とされており、徳山本には国時の子に見えない。徳山本では、隠岐太郎国時の子に弥太郎国貞(その子に五郎貞頼)、太郎二郎(欠名)、孫二郎景光の三人をあげている。
A 頼貞等三兄弟の母については、『分脈』に平貞時女と記されるが、これは年代的に明らかに誤りである。田中静夫氏『土岐郡地誌』は、とくに出典をあげずに四代執権北条経時の娘※と記述し、地元の研究者である西尾好司氏もその著『土岐頼貞とその一族』でその蓋然性があることを記している。一方、「宮城系図」には明確に北条経時女と記載されており、頼貞兄弟の位置づけといい、同系図の価値を高めるものと言えよう。
土岐頼貞は、『分脈』に平宗頼の女(北条宗方の姉妹にあたる)を妻として九郎頼基を生んだと記されるが、この辺の事情も頼貞兄弟の母が北条一族として自然であり、世代的にみても、経時女と宗頼とはイトコ関係になって符合する。侍所別当北条宗方の意を受けて、隠岐孫太郎定親が行動したのも、「北条宗方→その姉妹→その夫の土岐頼貞→その兄の定親」という近い縁戚関係にあったことが背景として考えられる。
※ 『尊卑分脈』に光定の妻が北条貞時女とあることに関しては、岐阜市の林正啓様からの情報に拠ると、美濃地元にも次のような別伝があるとのことです。
すなわち、池田町宮地の河野氏から分家した大野町瀬古、古川村の「河野氏系図」に妻は北条経時三女とありますが、一般の個人系図ですので、どの程度信頼できるのか分かりかねます。この池田町宮地の河野氏は、鎌倉から嫁いできた北条氏の娘の供をして美濃に来て、その後土岐氏より土地をもらい帰農したと伝えております、とのことです。
(2) 室町中期の応仁の乱時に活躍した本宗・土岐成頼の系譜
土岐本宗の持益の嫡子左近将監持兼が康正二年(1456)に早世したので、土岐執事の斎藤利永がその幼児亀寿丸(当時三歳)を廃して、その推挙をうけた成頼(当時十五歳)が養嗣となり、第八代守護となった。その父を饗庭備中守義枚(或いは義政、元明)といい(『美濃明細記』など)、あるいは一色氏(兵部少輔義遠の子)の出とも伝える。一色義遠は土岐成頼の十歳弱ほどの年長にすぎないから、丹後・三河の一色氏から出たという説は、年齢的にもきわめて疑問が大きい。
したがって、成頼自体は美濃の土岐支族から出たとするのが妥当であろう。ところで、土岐系図(子爵家本、徳山本、阿子田家蔵)に記載の一説には、「実は光俊子」という。この光俊とはいったい誰か。
※ 揖斐郡相羽城 大野町相羽(あいば)にあり、 築城者は土岐光俊(光定の兄で饗庭氏の祖) <結論> 土岐成頼は、持益の従兄弟の佐良木光俊の子とするのが妥当と考える。光俊の父は大桑(駿河守頼名)を名乗るが、成頼の子に大桑(兵部大輔定頼)・佐良木(三郎尚頼)を名乗る者がおり、ともに嫡男政房の同母弟であることに注目される(資料7頁参照)。頼芸が送ったという近時代性の系図に「実光俊子」と記載があり、かつ、饗庭氏が早くに分かれた支族であることを考えると、上記結論に導かれる。また、政房の弟には、池田四郎元頼がおり、この系統の祖・池田頼忠(頼世)を想起させる。治頼の前称・大須三郎の「大須」も、池田頼忠の子の苗字に見える。
なお、東大史料編纂所所蔵の「依田・山名・土岐系図」(明治十六年十月廿五日内務省地誌課所蔵本ヲ写ス)には、成頼について、「明応六・四・三卒、実大桑駿河守頼名子」と譜が記載されており、上記と通じる所伝と考えられる。年齢的に考えると、頼名の孫で、光俊の子とするほうが妥当ではなかろうか。 成頼の孫、頼芸が居城としたのが大桑城(山県市〔山県郡高富町〕大桑)。斎藤道三が天文十六年(1547)に再び土岐頼芸を攻め、頼芸は美濃を逃れて一度復活したものの、結局、天文廿一年(1552)年頃に美濃を去り、ここに土岐守護家が滅んだ。もっとも、頼芸は長生きして越前・甲斐や関東などの諸国を転々し、最後は稲葉一鉄に美濃に迎えられてほどなく谷汲で死去した。その子・頼次の子孫は幕臣にあるので、家系自体は存続したが。 (3)
明智光秀の系譜
諸説に混乱が甚だしいが、これまでなされてきた議論の大勢を占める『大日本史料』(昭和二年刊行)に依拠した説には要注意である。具体的にいうと、同史料の〔明智氏一族宮城家相伝系図書〕の最初にあげられる頼弘について、註として「頼弘以前ハ、大抵前掲続群書類従本土岐系図ニ同ジ」と記載されるが、決してそうではない(「同じではない」ということ)。そのことが実際の「宮城系図」(別添に掲載)を見ればはっきり分かるはずである。しかも、『大日本史料』記載の宮城系図は、頼弘以降の系図部分でも原典の抄録にすぎないが、このような事情も記載されていないという問題がある。
いわゆる歴史学者でも、系図自体の知識に乏しい人が多いのが実態である。系図研究の基本として、できうる限り、その原典に当たる必要性が大きいことを実感する次第である。
とくに「土岐沼田系図」では、南北朝期の人から戦国期の定明(あるいは光秀)までの世代数が多すぎる。この辺は、実際は兄弟相続など傍系相続を含むものを、直系に記したものが含まれる故とみられる。
明智光秀関係の史料でいうと、「明智十兵衛尉」としての確実な史料初見は永禄十二年(1569)四月の文書とされ、その頃から活躍したことが分かる。その前年の永禄十一年の九月晦日(みそか。三十日)付けの妙顕寺文書に「明智十兵衛尉光秀外三名連署状」もある。
その生没年については、享禄元年(1528)生という説(「宮城系図」、『明智軍記』)があるが、確たるものではなく、大永六年(1526)説もある。一方、没年は天正十年(1582)であり、享年は一般に五十五歳とされる。
※ 明智の苗字の起源地は可児郡明知荘(可児市瀬田・広見辺りの長山〔明智〕城)
恵那郡明智町という誤説がいまだ辞典(『国史大辞典』原田伴彦執筆の明智氏記事も同じ)などに見える。高柳光寿教授の人物叢書『明智光秀』に「明智城(岐阜県恵那郡)」とあることの影響か。「宮城系図」に見える明智一族には、柿田、瀬田、石森など可児郡明知荘の地名を苗字とするものがあることにも注意。
光秀関係の具体的な問題点としては、次のようなものだが、ここでは問題点の概略のみ記して、検討の詳細は別掲する。
@
光秀の父祖の名前は? また、明智一族の苗字や光秀妻の出自はどうか。
これは、光秀が美濃明智一族から出ているかとの問題でもある。
一般に父は安芸守光綱(イに玄蕃頭〔十兵衛尉〕光隆、光国)、祖父は駿河守光継とされるようだが、これらの名前については確証がない。「宮城系図」では、光継及び光綱は各々法名に光継寺殿、光綱院殿と記されており、法名と実名とが異なる可能性もある。また、安芸守や駿河守という官職称号にも、疑問がないではない。
異説に光秀の父については、進士信周(「宮城系図」記載の異伝)、若狭小浜の刀鍛冶藤原冬広(『若州観跡録』)、土岐元頼(『美濃誌』)ともされるが、若狭の刀鍛冶説はまったくの問題外である。進士信周説については、別掲で詳細に検討を加えたいが、実際にはとりえない説である。これは、「宮城系図」の十分な検討により結論される。土岐元頼が船田合戦で滅びた者なら、年代が合わない。
光秀の妻は、明智一族の妻木勘解由左衛門範熈の女とされる。『兼見記』でも妻木氏と見える。範熈の子の主計、その子の勘介も明智家中にある。範熈の兄とみられる藤右衛門広忠の子孫は幕臣として続く。妻木氏は光秀後妻とも伝える。
山崎敗戦時の光秀の家来衆には、三宅、溝尾、藤田、可児、肥田、池田、奥田などの諸氏(これらは皆、明智一族か)のほか、堀口、堀田、伊勢などの美濃・尾張や京都などの名族があった。老臣隠岐五郎兵衛、家臣の今峰新介、舟木八之丞も土岐一族の出自である。
A
明智本宗はどの系統か?
明智宗寂(宗宿。光安とされる光秀叔父)・光秀の系と沼田藩主家との関係はどうだったのか。どちらが明智本宗なのか。また、明智本宗(家督)の歴代とその相続関係はどうだったのか、などの問題が多い。
B 妻木氏の分岐過程と系図
土岐明智氏の有力な分岐であり、江戸幕府の旗本として続いたのにかかわらず、系図が不明確となっている。とくに、その初期段階が不明である。
寛政系図や『百家系図』巻六には、土岐頼貞より「伯王」(おそらく妻木始祖)まで系が中絶と記されており、略系があげられるにとどまる。
(4) 幕藩大名浅野氏の出自
これについても、諸伝・諸説が多く、ここでは問題概要の指摘に止める。
浅野弾正少弼長政自体が養子(安井五兵衛善滋重継の子で、浅野長勝の外甥)であり、その養父となった又右衛門尉長勝も養子とされる。幕府に呈譜された寛永・寛政の系図では、浅野頼隆(鎌倉末期頃の人)から長勝(戦国期)の間が不明であること、尾張にも丹羽郡浅野村があるので、長政らが美濃の浅野氏とは別氏の可能性があることなど、疑問ないし問題点が多い。
結論的には、美濃浅野支族の浅野根尾氏の出(『諸系譜』巻13記載の浅野系図)としていいかもしれない。
なお、浅野長政が若狭小浜城主であった時期の天正二十年(1592)の小浜八幡棟札には、「尾張国住人父子浅野弾正少弼藤原長吉(長政のこと)、浅野右京大夫藤原長継(幸長にあたるか)、願主尾張国住人浅野八郎左衛門尉藤原家次」とあり、当時の長政が、「藤原」を称していたことが知られる。これには疑問な点もあるので、土岐一族の出というのは一応よいのではないかとみられるが、系図が不明確なことは浅野のなかでも支族の出ということを意味するか。
この辺は、「宮城系図」検討の関連でまた少し取り上げることにしたい。
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