駿河の仁杉氏とその一族

(問い) 一杉氏の祖仁杉(「ひとすぎ」で同訓)氏について調べていますが、貴HPの「藤原氏概観」の中の為憲流工藤氏の項に仁杉氏について、「仁杉−駿河国駿河郡人」とありますが、仁杉氏についてこれ以外にわかっている事があったらお教え願いたいと思います。
  なお、これまでの調査結果を「仁杉氏・一杉氏出自考」(http://hitosugi.hp.infoseek.co.jp/
に公開しています。
 (横浜市在住の一杉勝様より) 

 

 (樹童からのお答え)

1 貴HPを初めて拝見しましたが、多くの点でたいへん丁寧に調べられておられ、感服しました。これまでご研究の過程で多くのご苦労があったものと推されます。そのため、私としてはあまり参考になることは提示できませんが、以下に感触だけ記すことにします。
 (蛇足的にいいますと、系図記事の読取りにやや難があって、HP上で■となったり若干の誤記が見られるのは惜しまれます。いずれ時間ができれば、■の解消にご協力できるかも知れません。
 
2 私は長い間、多くの系図関係史料を見てきましたが、仁杉氏の系図について管見に入ったのは、鈴木真年翁の『諸氏本系帳』(東大史料編纂所所蔵)だけでした。ご質問を受けて、真年翁が他の著作において関係する系図を掲載していないかを当たってみましたが、見当たりませんでした。
 
3 仁杉という苗字は、鮎沢川中流左岸の駿河国駿東郡仁杉(現御殿場市仁杉で、御殿場市街地の西北)に起こりますが、苗字発生の時期が相当遅く、鎌倉・南北朝期までの史料には見られません。この地名自体が史料で確認できるのは、江戸期以降のようです(『角川日本地名大辞典』)。
  鮎沢荘から黄瀬川流域のかけての大沼鮎沢御厨を中心に繁衍した大森・葛山一族の苗字のなかにも、仁杉は見えません。貴HPに見えるように、応永の頃の伊東治郎左衛門朝光が実質的な祖先とみられますが、戦国後期に北条氏康に仕えた幸通の代になって始めて仁杉六郎(伊賀守)と名乗ったようであり、系図探究にあっては、それまでの苗字「伊東」とその一族を調べたほうがよさそうです。
  なお、貴HPで比較されている2つの系図のうち、『諸氏本系帳』のほうは世代数が実際より少ないようで、所伝から見ても、『本朝武家諸姓分脈系図』のほうに優れた内容があると考えられます。
 
4 伊豆国の東海岸北部の葛見(久須美、楠美)荘に起った伊東氏についても、その発生段階(平安後期・鎌倉前期)については良本の系図がありません。もともと工藤氏とは別族であったという背景事情からしてやむを得ないとも考えられ、伊東も工藤も、藤原南家為憲流というのは系図仮冒だとみられます。『曾我物語』の記述が『尊卑分脈』などの系図史料と符合しないのも、こうした系図の混乱の現れですが、前者にも既に疑問点があります。
 
5 伊東氏の系図については、手元に具体的なメモはありませんので極めて不確かで恐縮ですが、次の系図史料を当たられると、あるいは何らかの収穫があるかもしれません。
  国会図書館に同名の『本朝武家諸姓分脈系図』という系図集(B)があります。これは、貴HPに引用される史料編纂所所蔵のもの(A)との異同を詳しくできませんが、Aが五冊の系図集であるに対し、Bは多数の冊数(全体が何冊あったかメモにありませんが、300冊ほどか)があり、昭和八年八月十日根岸信輔氏寄贈と記されます。このBのほうの系図集にいくつか伊東氏関係の系図が記載されており、少なくともその第170冊に伊東(伊東祐清後裔)、第254冊に伊藤、第273冊に河津(伊東祐信後裔)といった系図があったとメモに残っております。

  そのほかで、何か分かることが出てきましたら、またHPのほうに掲上したいと考えています。

  (03.11.27 掲上)
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