相州愛甲郡の鋳物師と飯山氏

(問い)「飯山氏」ですが、満快流伊奈氏庶流で信濃国水内郡飯山(現、飯山市)より起るというのは系譜としてわかります。事典では相模国愛甲郡飯山より起るものも源姓、とありますが、こちらはどのような系譜なのでしょうか。


 (樹童からのお答え)

1 飯山氏について

 (1) 飯山氏について、まず管見に入ったところを記します。
   全国の飯山氏の分布としては、上記の信濃及び相模のほか、飛騨に源姓と称する飯山氏がおり、現在の埼玉県八潮市辺りにも飯山を名乗る人々がおりますが、これらは系統不明です。
   このうち、信濃については、永禄五年以降と推定される上杉輝虎書状案(蔵田文書)によれば、飯山城は泉氏の居城であったことが見えますから、これを飯山氏とあげたものと思われます。
   次に、飛騨の飯山氏については、高山市千島町飯山にあった飯山城の城主であり、源氏の武者で平治の乱の時に飛騨に下り、戦国時代まで続いて、飛騨の制圧を目指す三木自綱によって攻められ城主飯山保貞は滅ぼされたと伝えます。
 
(2) 相模の飯山氏については、近世以降いくつかの地に飯山を名乗る者がおり、足柄上郡金子村(現大井町)・大住郡小嶺村(現平塚市)・高座郡新戸村(相模原市)などに存在が知られます(『神奈川県姓氏家系大辞典』)。これら飯山氏の系譜は不明も、愛甲郡飯山(現厚木市飯山)を苗字の地とするものとしてよさそうです。
  さて、太田亮博士は愛甲郡の飯山氏について二つあげて、@坂東霊場記に堂宇を建立したと見える建仁年間(1201〜04)の飯山権大夫、A新編相模風土記には武州神奈川宿の洲崎明神鐘銘に「応安元年戊戌九月、冶匠相州飯山源光弘」と見えること、を記しています。
  しかし、@とAとは系統を同じくする裏付けは全くありません。すなわち、@の飯山権大夫は姓氏・系統が不明であり、Aの応安元年(1370)の源光弘については、源姓を称したことは確かでも、実際に源氏であったのかは不明であり、飯山氏を名乗ったことすら分かりません。従って、この二つを同じ源姓飯山氏と一括することは、きわめて疑問な取扱いと考えられます。
 
(3) 愛甲郡飯山の地は相模川の支流小鮎川中流右岸にあり、印山・井山とも書かれて、平安後期から毛利(森)荘のなかにありました。同荘には、古くは八幡太郎源義家の六男の陸奥六郎義隆が居住して森冠者と号しましたが(『平家物語』など)、この子孫は森や若月(若槻とも書く信州水内郡起源の苗字)・多胡・押田・笠合などの苗字を名乗ったものの、その居住地は信濃であったとみられます。
次に、毛利荘飯山には大江広元の子・季光(法名西阿)が遅くとも嘉禄年間(1225〜27)以降居住して毛利蔵人大夫(森入道)と名乗りましたが、宝治合戦のとき(1247年)三浦泰村方につき子等とともに自害しています。越後国佐橋荘や安芸国吉田荘の毛利氏の始祖ですが、この子孫も毛利荘には見られません。
そうすると、飯山権大夫が鎌倉初期の建仁年間に飯山に在ったとしたら、おそらく当地土着の古族末裔ではないかと推されます。『東鑑』には建暦三年(1213)の和田合戦で毛利太郎景行が和田方についてその子の小太郎・同小次郎や近隣の住人愛甲小太郎(義久)らとともに討死しています。このとき、和田一族や横山党・土屋一族・山内一族・渋谷一族・鎌倉党とは別の一族として、「毛利の人々」と同書(同年五月六日条)に記載されるのは、毛利太郎以下毛利苗字が三人、森辺五郎以下森辺苗字が三人、渋河左衛門以下渋河苗字が四人の合計十人であり、これらの人々はみな同族ではなかったかと推されます。年代的に考えて、飯山氏もこの一族だったのではないかとみられます。
なお、愛甲郡には愛甲・荻野(荻野村)・本間(依智郷)など横山党の流れに属する武士が多く居住したのですが、毛利景行一族はこれらとは別族ではなかったかとみられるので、居住地などから姓氏不明も相模国造一族の末流ではないかと考えておきます。

 
2 相州愛甲郡の鋳物師とその起源

相州の鋳物師の系譜を解明するために、その由来などを検討していくこととしたいが、この鋳物師関係では様々な研究がされており、それらを基礎に考えていくこととします。とくに次の(1)〜(3)は個別に出典を記載しないものもありますが、そうした研究に依拠するものであることを最初にお断りしておきたい。
 
(1) 愛甲郡の鋳物師たち
中世から近代初期にかけて、愛甲郡の飯山及びその北隣の荻野の地に鋳物師たちの技術が伝承されていました。これについては、『神奈川県姓氏家系大辞典』の厚木市の項に良く整理されていますので、適宜引用させていただいて以下に記述することにします。
先に応安元年の飯山の冶匠(鋳物師、鋳工、大工)源光弘について記しましたが、これに先立つ嘉禄三年(1227)に座間市の星谷寺の鐘を鋳造した大工源吉国、弘長三年(1263)に河崎荘勝福寺の鐘を鋳造した鋳物師源有貞らが知られます。
室町期に入っても、森荘の鋳物師常盛は明徳三年(1392)伊豆の走湯権現の神像や走湯山東明寺の鐘の製作に当たりました。永享七年(1435)には飯山の鋳工森左衛門次郎国吉が上総国菅生の鋳物師藤原光吉を助けて鎌倉府政所の建造に従事したことが知られており(房総古文書)、嘉吉二年(1442)にはァ勝によって飯山観音堂が造られたといわれます。
戦国期に入ると、鋳工の活動地(=居住地か)は飯山から荻野へと次第に移動しており、天正十七年(1589)、小田原北条氏が大筒の製作を命じた朱印状写には、飯山の鋳工が山城一人であったに対し、荻野では森豊後・木村内匠・田村大炊助の三人の鋳物師が記載されています。近世の荻野の鋳物師としては、森・木村・野口・加藤の諸氏があり梵鐘鋳造に関わりますが、なかでも木村氏一族は重次・吉久など「重・吉」の字を含む名前を持ち、戦国期から明治初期に至る期間、神奈川中央部から県北、三浦半島にかけての広範囲で百余口に及ぶ寺社の梵鐘を作成したことが知られます。
 
また、相模国毛利荘には物部姓鋳物師も居たとされ、彼らは河内国丹南に本拠地をおいた鋳物師集団で、建長4年(1252)にはじまる鎌倉大仏の鋳造のため、北条氏に招かれて鎌倉に出職してきたものといわれています。大仏鋳造ののちは毛利荘に定着し、関東を代表する梵鐘鋳物師集団として、鎌倉時代から南北朝時代初期の百十余年にわたり、特に北条氏や有力鎌倉御家人に関係する寺院梵鐘を鋳造し、代表作には鎌倉建長寺や円覚寺の梵鐘があげられます
 
以上の毛利荘の鋳物師については、戦国期に小田原北條氏の関東支配が進むにつれ、鋳物の主たる生産地は飯山から北條氏の城下小田原に移ったともされます。
 
(2) 源姓鋳物師と佐々木一族
上記の鋳物師についての考察が、「星谷寺の梵鐘と源姓鋳物師」などの野火さんのHP「ルーツ座間」(http://www.ne.jp/asahi/zama/nobi/)でなされています。以下の本項記述は、そこに記載される内容を踏まえてのものです。
上記梵鐘のうち最も早い座間市の星谷寺の鐘の大工源吉国についてですが、その大檀那として見える源朝臣信綱とは、近江佐々木氏の惣領とみられます。その祖父秀義は渋谷重国の娘との間に五郎義清を生んでおり、この縁で佐々木一族は渋谷氏の所領の一部を預かったのが、和田合戦で渋谷一族が敗れて薩摩に移った後は、渋谷荘座間郷が佐々木氏の所領となったものと思われます。県下で現存する最も古い梵鐘(国の重要文化財に指定。関東では最初と思われるとのこと)の鋳造を行わせた信綱は、鋳物師源吉国らを近江から呼び寄せたと推測されています。
また、前記勝福寺(現宗三寺)も、信綱の叔父四郎高綱の菩提寺で、鐘の寄進者は信綱の三男泰綱でした(銘文に大檀那禅定比丘尼十阿并從五位上行壱岐守源朝臣泰綱と記)。
さらに、前掲の洲崎大明神は武州師岡保青木村(現神奈川区青木町)の土地神であり、青木は小机領でしたが、武相に残る佐々木一族の所領に小机領があるとされます。すなわち、『東鑑』延応元年(1239)二月十四日条に、「武蔵国小机郷鳥山等荒野可開発水田之由。被仰大夫尉泰綱。」と記されます。

武蔵の川越には鍛冶町があり、相州から平井某という者が来て鍛冶を伝えたといわれます(『武蔵三芳野名勝図会』中島孝昌)。「相模のどこからか不明だが、平井は星谷寺梵鐘の銘文にある大檀越沙弥西願(佐々木一族愛智四郎太夫家行の子平井権守家次の次男康家〔泰家〕は平井七郎、法名西願)の本姓であるので、もしかしたら、飯山の鋳物師は平井姓で、西願が故郷(近江平井、現愛知川町平居)から伴った鋳物師かもしれない」と、野火さんは考えられています(カッコ内は適宜補足しました)。
なお、三重県の多度観音堂の梵鐘には、宝永2年(1705)の加賀の鋳物師平井与兵衛の銘があるとのことです。
 
 (3) 近江の鋳物師とその起源本項も他の研究者の記述引用が基礎にあります
飯山村にも、天文三年(1534)没の佐々木下野が同村七軒百姓の一家として名をとどめており、荻野の里には源氏橋とか源氏河原とか源氏ゆかりの名が残るが、これも佐々木源氏であった可能性を捨てきれない、という見解も見られます。たしかに、近世の荻野の鋳物師として顕著な活動をした木村氏一族は、佐々木氏の初期分岐で源平争乱期以降近江での活動が見られる木村氏と関係がありそうです。また、飯山から荻野に遷ったとみられる森氏は、室町期の森左衛門次郎国吉の「吉」に着目すれば、森氏の先祖にあたるのかも知れません。
 
近江には、鋳物師の伝統があり、河内国丹南の鋳物師の技術を受け継いだものでした。何時の頃からかは不明ですが、栗太郡辻村(現栗東市)、愛知郡長村(現湖東町)、神崎郡三俣村(現五個荘町)、同郡八日市金屋村(現八日市市)などで、多くの鋳物師が見られており、これらの地は中世、佐々木一族の支配するところでした。岩手県の南部鉄器の歴史は古く約九百年前、平安後期に藤原清衡が当時活躍していた近江の鋳物師を招いて鍋釜を鋳させたのが起源とされるとのことで、この所伝が正しければ、近江鋳物師が鎌倉前期に守護佐々木一族の配下にあっても不思議ではないことになります。江戸中期の『和漢三才図会』(巻第七の「鋳冶」の項)には、「鍋釜の冶工は、河州我孫子村より始る、江州の辻村これに次ぐ」と記されています。また、奥州登米(宮城県)の里で鋳物を家業として氏が、先祖が近江国栗本郡佐野の住人であって、その子孫の江田掃部充源金家が下野国天命(天明)から登米に遷ってきたという所伝もあるとのことです。
 
辻村の鋳物師の活躍が具体的に知られるようになるのは、戦国期の天正年間(1573〜92)になってからで、千利休の釜師として著名な辻与次郎は近江辻村*1の田中家の出身と伝えられ、初期の鋳物師として国松源七や田中藤左衛門があげられるとのことです。田中家文書では、織田信長による主家近江源氏佐々木承禎の落城に及んで、江州栗田郡辻村へ住居を定め、当主佐治右衛門その嫡子助右衛門と共に鋳物師業に従事したと伝えますが、実際には辻村への移遷はもっと早い時期だと考えられます。なお、芭蕉の孫弟子に田中千梅(七左衛門知義。※下でさらに記述)がおり、世々辻村の豪族で鋳物師を業としたとされます。
越後長岡の鋳物師の元祖は、十四世紀中葉に近江国辻村からきた田中彦左衛門だと伝えられています。鋳物師発祥の地といわれるのが河内国丹南ですが、この職能集団の最も盛んな時期は十二〜十四世紀頃だったようで、鎌倉中期頃から供御人組織の対立によって、さらには南北朝動乱やその後の応仁の乱によって、河内国丹南の鋳物師が各地に分散し定着していくようになったといわれます。江戸時代における東海の主な鋳物師の一人として、美濃地方では笠松(羽島郡笠松町)の田中五兵衛などがあげられています。
江戸時代に、全国鋳物師を統括する真継家*2より河内国惣官鋳物師として独占的営業を許されていたのが同国茨田郡枚方村の田中氏でした。田中仁兵衛、田中氏大目藤原家成、田中仁右衛門尉家正などの人々がいたと伝えられます。この田中氏は枚方村の名族で、和銅年間より鍋釜鋳造を業としてきて、近衛天皇のときに藤原姓を賜ったと伝えます(『姓氏家系大辞典』3538頁)。田中家は古くから鋳物を業とし、江戸時代には独占的営業を許され、河内国の惣官鋳物師として、鋳物師を統率し、枚方上之町で梵鐘、鋤鍬、鍋釜などを造っていたといわれます*3。
 
*1 辻の地名も本来河内の地名が移されたものではなかろうか。楠木氏に従った武士に辻九郎が見え、永禄二年の交野郡総侍中連名帳にも藤坂村・芝村に辻氏があげられる。また、和泉国我孫子郷に辻村(現泉大津市我孫子のうち)があり、これも河内の地名配置を思わせる。

*2 真継家の系譜上の祖先は御蔵民部大丞紀朝臣元弘といい、領内の河内丹南鋳物師の「天命」に鉄灯籠を作らせ朝廷へ献上したが、その出来映えの良さに近衛天皇が御感の余り、「天明」と改めさせ、丹南の鋳物師のみ鋳物業を独占専業とさせたと伝える(真継家文書の「鋳物師由緒書写」)。
  しかし、真継家が偽牒・偽系譜を作成したことはよく知られており、仁安二年正月日付けの蔵人所牒写などから見て、紀元弘の年代や系譜には大きな疑問もあるが、いずれにせよ、真継家支配による全国鋳物師の統括が浸透する遠因を説明しようとする所伝である。同家は、天文年中に松木久直が紀姓を継いで真継を家号として斎部姓に改め、江戸末期まで続いている。
 なお、真継家が関与した偽文書については、網野善彦氏が『日本中世史料学の課題』
第二部第三章「鋳物師とその由緒書」で取り上げているので、参照されたい。

*3 HP「田中家鋳物工場・主屋」(http://www.oit.ac.jp/ij/hguide/tanakake.htm)。なお、天命氏と田中氏との関係は不明であるが、同じ近衛朝の伝承からみて「天命」が田中嫡系と考えておく。
上記*2とも関連して、鈴木真年翁は『日本事物原始』で、「天糠戸神ノ子石凝姥命ノ裔ナルモノ始テ鉄ヲ以テ鋳テ之(=鉄釜)ヲ作リ其神孫ナルヲ以テ天命ト称ス又支流武州川口ニ分ル又江州辻村摂州大坂等ニテ之ヲ鋳」と記している。石凝姥命の後裔としては一般に鏡作連があげられるが、倭田中直などの三上氏族も後裔に位置づけられる。
 
(4) 丹南鋳物師の諸氏
『和漢三才図会』に見える「河州我孫子村」とは戦国期の鋳物師の中心地で、丹南鋳物師に由来します。すなわち、丹南鋳物師は平安期、河内国丹南郡狭山郷内の日置荘(現大阪狭山市域)を中心として現在の堺市から南河内郡美原町にかけての地域に分布し、全国的規模で梵鐘をつくっていました。河内国丹比郡が三分割される十世紀後半から十一世紀前半は、丹南鋳物師が記録にあらわれ始める時期であるとされており、その有力鋳物師としては広階、草部、布忍、山川〔山河〕、平、河内、丹治、物部、大中臣、紀、橘、膳、氷などの諸姓があげられ、十二世紀中葉には蔵人所に燈呂御作手が設立されました。
この燈呂御作手は、日置荘から次第に同国八上郡金太・長曽根(ともに現堺市)へ進出しており、これら三個所のうち金太は中世から戦国期まで鋳物師の拠点として存続しましたが、永禄十二年(1569)、堺の豪商今井宗久による住吉郡我孫子村(現住吉区)への吹屋の集中政策の前に衰退したとのことです(『大阪府の地名』812頁)。従って、上記『和漢三才図会』の記述にはやや誤解を招きやすいものがあると考えられます。
 
江戸期に河内国惣官鋳物師であった田中氏の実際の姓氏は不明ですが、丹南鋳物師に由来するとみられます。近江辻村などの田中氏は藤原姓を称していたようで、一伝に八田知家の子の田中九郎左衛門尉知氏後裔の田中氏から出たともいわれますが、まず仮冒だと考えられます。もっとも自然なのは、古代の鍛冶部族たる三上氏族(太田亮博士のいわゆる凡河内氏族)に倭田中直の末流ではないかということです。
この姓氏は『古事記』神代段に天津日子根命の後裔で、凡川内国造・額田部湯坐連・高市県主などと同族と記されます。高市県主の具体的な系譜は、『姓氏録』和泉神別に「天津彦根命十二世孫建許呂命の後」と見え、『百家系図』『諸系譜』など鈴木真年翁収集関係の系図によると、建許呂命の子の筑波使主命が筑波国造・額田部連・倭田中直の祖と記されますから、この同族とみられます。
倭田中直は同族の高市県主の領域にあった大和国高市郡田中邑(現橿原市田中町)が起源の地とされますが(太田亮博士)、一方、鈴木真年翁は添下郡田中村と言っており*、後者は現在の大和郡山市の番匠田中町から田中町・西田中町にかけての地域に当たり、南方近隣の同市額田部北町・同南町には同族の額田部連が居住していました。額田部はその名の通り製鉄氏族です。そのいずれにせよ、河内国は同族の凡河内国造の領域であった事情から見て、田中氏は倭田中直の末流ではないかと私は推している次第です((4)の*3も参照のこと)。
 
『古事記正義』では、「大和国、添下郡、田中村アリ、コレナリ、筑波使主命ノ後ナリ、子孫田中氏ヲ称シ今モアリ」と記されているが、この田中氏の具体的な説明がないのが惜しまれる。
 
(5) とりあえずの結論
近江の佐々木氏は宇多源氏と称していますが、実際には古代佐々貴山君の後であり、佐々貴山君氏は孝元天皇の子の大彦命後裔の阿倍氏族とされていますが、その氏神社や本拠地八日市の周辺で巨石信仰*が顕著なことから実際には天孫族の出自ではないかと疑っていました。この鍛冶伝統から見ても、もともと丹南鋳物師の影響があったとはいえ、やはり鍛冶部族の伝統を伝えていたと思われます。そして、相模の源姓鋳物師が佐々木氏の同国領地で顕著な活動をしていた事情から考えて、その本拠近江から連れてこられた同氏の遠い一族で家人ではなかったかと考えられるところです。
河内丹南の鋳物師には源姓の人は管見に入っていません。こうした事情も、相模の源姓鋳物師の近江起源を裏付けるのではないでしょうか。
 
以上、丹南、近江及び相模の鋳物師を概観してきましたが、愛甲郡の源姓鋳物師は近江出自で佐々木氏の広い意味での同族で配下であったものと推され、また飯山という苗字は名乗らなかったということになります。

「岩石祭祀学」提唱者のHPでは、佐々木氏の氏神の沙沙貴神社(滋賀県蒲生郡安土町)に磐境・陰陽石などがあり、また、近隣の八日市市周辺の聖石群(滋賀県八日市市)でも神道と修験道の岩石信仰が見られるとされます。
 
  (03.12.7 掲上)


 ※俳人田中千梅の家系

1 千梅の子孫に当たる田中敦氏が、日本家系図学会の平成七年度大会において、「釜七と江戸深川釜屋」というテーマで研究発表されたので、それに拠り千梅の家系について記述しておきます。席上では、同氏による同題の著作(『歴史と旅』95年10月号に掲載)も配布されました。
  
(1) 江州辻村の鋳物師田中家は、七右衛門知次が江戸深川に金屋を開き、通称「釜屋」として、二百七十年余にわたり江戸町民に鍋釜を供給し続けた。
田中家に伝わる系図と田中千梅の筆による『深川金屋之興並芝店之由緒』によって、釜七草創とその変遷を記すと、次の通り。
(2) 江州辻村の田中家は、鎌倉前期に常陸守護の八田知家の七男知氏が同国筑波郡田中荘(現つくば市田中)の地頭に補任されたことから、地名に因り田中を号した。常陸田中氏は弘安八年(1285)の霜月騒動で安達方について衰退し、南北朝時代には南朝方として常陸小田城に拠ったがこれまた滅びて、南朝の残党として全国へ離散し、そのうち一部は田中荘がかって八条院御領であった地縁で京都へ出た。
京都での田中宗総(むねふさ)は赤松満祐の家臣となったが、主君満祐は将軍足利義教を自邸で謀殺した嘉吉の乱(1441年)を起こして滅亡し、浪々の身となった宗総は、江州辻村の豪族で鋳物師の定経の女婿として迎えられたと伝える。
 
(3) 田中家では、その所持する通行並びに営業の許可証(暦応の御牒)を背景に、各地へ鋳物師として出職したが、江戸の釜屋七右衛門もそうした一人であった。
江戸へ出たのは、田中七右衛門(初め与五郎)知次で、元和二年(1616)に鋳物師田中定次の三男として生まれ、寛永十七年(1640)であり、これが初代釜七となった。知次の兄には、浜松に出職した与三左衛門や美濃に出た佐次兵衛家信がいたが、次兄の家信はのち江戸で知次と合流し、兄弟して鍋釜の鋳造に励んだ。その後、明暦三年(1657)の振袖火事などを経て、金屋を芝から深川に移し、発展していった。その従兄弟が興した釜六も深川の地にあり、谷崎潤一郎の祖父久右衛門は深川釜六の総番頭であった。
 
(4) 千梅田中七左衛門知義(1686生〜1769没)は、初代釜七の次男であり、父が興した深川の釜屋を継ぎ、郷里と江戸を往還しながら、俳諧を芭蕉門下で芭蕉十哲に数えられる三上千那(近江堅田本福寺住職)に師事して『常総紀行』『若葉の奥』、などの紀行文や『鎌倉海道』『ちどりの恩』などの著作を残した。
田中千梅には長男五松、次男花仙などの子がおり、敦氏はその後裔に当たる、とのことです。
 
2 常陸田中氏の系図について、若干の考察を加えておきます。
田中九郎左衛門尉知氏は鎌倉初期の人で、文治元年雑色に補任されており、その系は「田中知氏−知継−時綱−宗継−隆継」まで『尊卑分脈』に記されております。世代的に考えて、最後の隆継は鎌倉末期〜南北朝初期の人とみられます。この隆継の兄弟(一説に「子」)とされる継政は院雑色院隠岐守となり、雑色田中氏の祖であって『地下家伝』にその家系が記されます。
ところが、田中宗総なる者は系図にはまったく見えず、しかも嘉吉の赤松満祐の家臣なら年代的に南北朝期の隆継の子とする所伝も世代に欠落があります。従って、江州辻村の豪族の家に八田氏系の田中氏が養嗣に入ったという所伝も疑問となります。やはり、江州の田中氏は古代からの田中姓であったとみるのが自然です。辻、藤田、富士の諸氏の祖となったという所伝もありますが、これら諸氏が江州辻村の田中分岐ならとくに問題はないと考えられます。 

 (04.1.2 掲上)
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